令和2年3月26日(木) 【旧 三月三日 大安】春分・桜始開(さくらはじめてさく)
梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや
~藥師張氏福子《くすしちょうしのふくし》 『万葉集』 巻5-0829 雑歌
梅の花が咲いて散ったら すぐに続いて桜の花が咲きそうになっているではないか。
Photo:京都御所の左近桜 ~PHOTOGRHPH.PRO
今日も引き続き桜のお話。京都御所紫宸殿の前に植えられている南殿の桜(左近の桜)について、鎌倉時代に記された説話集、『古事談』にこんな記事が載っています。(一部を引用)
南殿の桜の木は、もとはこれ梅の木なり。桓武天皇、遷都の時、植ゑらるるところなり。しかるに承和年中に及びて枯失す。よって仁明天皇、改めて植えらるるなり。その後天徳四年、内裏焼亡に焼失し了んぬ。仲の木のもとは吉野山の桜木云々。よって内裏を造る時、重明親王家の桜木を移し植ゑらる
平安京に遷都された当初は桓武天皇が梅の木を植えさせた。これが枯れてしまったため、4代後の仁明天皇が植え替えさせたのだが、これも天徳4(960)年に火事で焼失したため重明親王(醍醐天皇の皇子)家の桜の木を移し替えたということです。それ以後も戦乱などで幾度も焼失しましたが、常に桜が植えられています。奈良時代に花というと梅を指していたのが、平安時代には桜のことを指すようになったこととも大いに関連がありそうです。
いくとせの春に心をつくし來ぬあはれと思へみよし野の花
~藤原俊成 『千五百番歌合』0238 春歌二
幾年の春に心を尽くしてきたのだろうか。あわれと思え、吉野山の桜花よ。
ちなみにこの歌、正治二(1200)年の『千五百番歌合』において次の歌と対戦しています。題は「春歌」でした。
春風や梅のにほひをさそふらむ行方さだめぬ鶯の声
~源具親 『千五百番歌合』 0237 春歌二
春風よ梅の匂いを誘うのだろうか。行く先を定めぬうぐいすの声がする。
さながら梅と桜の対決のようでしたが、判者藤原忠良の裁定は勝負難決。すなわち両者引き分けとされています。
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