Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

準備完了

2024年04月19日 21時22分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の議案書作成、会場設営作業は予定より早く無事に終了。明日の本番を待つばかりとなった。ただし私は引き続き今晩も退職者会ニュースの作成作業を行ってから就寝予定。
 明日は家を8時半前にでる必要があり、寝坊しないように早寝をしないとまずい。8時半はいつもの起床時間である。7時に起床したいものである。

 妻は本日は暑いくらいの天気のなか、久しぶりに一人で買い物に出かけたという。特に体調は悪くならなかったようだ。これで回復となればありがたい。

 朝から強風注意報で風が強かったが、夕方になり風はおさまり、注意報は解除となった。明日の気温は本日並みか少し高くなる予報である。雨が降る予報ではないのが嬉しいが、明日も読書はお預けなのが悲しい。


退職者会ニュースの作成

2024年04月19日 12時46分27秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 強風注意報の日。天気はよいのだが、とても強い北風である。最大瞬間風速は18m越え。

 午前中からA3版の両面の退職者会ニュースの作成。面積的には全体の5割の記事は出来た。しかし割付は大幅に動かさなくてはならない。おもて面は明日の総会の記事なので日曜日でないとできない。裏面の割付は今晩には確定したいとは思っている。

 いつもながら、愚痴の独り言を言いながらそれなりに楽しく作成している。ひとつひとつの行動などを思い浮かべながらの報告記事の作成は充実感がある。

 夕方からは明日の総会の議案書の印刷・製本作業。45頁で120部作成。時間がかかる。

 


本日も雨

2024年04月18日 19時21分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 愛媛・高知の地震、家屋被害・道路の法面崩壊等の被害などが報道されている。被害もそれなりに出ている。
 伊方原発の方はどうなのだろうか。私にはなかなか全容がつかめないように思えるが、杞憂であることを願っている。また山間部では道路の崩壊や通行止めが地震で発生する。これでは原発避難計画も絵にかいた餅でしかないと思われる。
 インドネシアの火山噴火、特に影響はなかったようだ。これについては安堵した。しかし噴煙の拡散、火山ガスの拡散にともなう被害はこれから全地球的に広がると思われる。

 さて、本日は妻の代わりにて横浜駅まで。といっても筍をひとつ買い求めるのと、親と妻が読んでいる月刊雑誌の年間購読料の払込に郵便局へ。妻の食欲はだいぶ戻り、体調もかなり回復したように見える。
 筍は高い。税込みで1000円を超える。ごく短い期間だけのものだから、止むを得ないし、好物だからやはりこの時期、数回は購入する。
 筍ご飯、昆布との煮物、蕗と油揚げとの煮物、味噌汁、天ぷら・・・どのような料理にしても妻と私の好みである。

 帰りは昨日のように雨が降り出した。強風・雷注意報も昨日と同様に出ている。昨日と違うのは、小雨で長く降り続ける気配であること。雨の区域は北北東から南南西に移動している。


愛媛・高知で震度6弱

2024年04月18日 00時27分34秒 | 天気と自然災害

 震度6弱が発生したとのニュースを見た。余震も続いている。この震度では家屋被害や土砂崩れ等々の被害も出ているはずである。深夜なので明るくなってから被害が分かることも多い。またSNSなどで不安を煽る誤情報や偽情報を垂れ流す行為もまた怖い。
 被害が無いことを願う。
 伊方原発も川内原発もある。電力会社の原発についての発表は、能登半島地震でも多くの批判が寄せられた。人に不安を与えないためには、隠さずに正確で確かな情報が的確に発せられることである。それを切に願っている。

地震情報(震源・震度情報)
令和6年4月17日23時19分 気象庁発表
17日23時14分ころ、地震がありました。
震源地は、豊後水道(北緯33.2度、東経132.4度)で、震源の深さは約50km、地震の規模(マグニチュード)は6.4と推定されます。
この地震による津波の心配はありません。
この地震について、緊急地震速報を発表しています。
*印は気象庁以外の震度観測点についての情報です。
この地震により観測された最大震度は震度6弱です。
[震度5以上が観測された地域]
震度6弱 愛媛県愛南町    高知県宿毛市
震度5強 愛媛県宇和島市    大分県佐伯市 津久見市
震度5弱    愛媛県八幡浜市 大洲市 西予市 内子町 愛媛鬼北町


 これより前に、インドネシアのルアング火山の大規模噴火に伴う津波について報道発表が気象庁からあった。

〇 日本への津波の有無については現在調査中です。
〇 令和6年4月17日21時00分頃(日本時間)にルアング火山で大規模な噴火が発生しました(ダーウィン航空路火山灰情報センター(VAAC)による)。
この噴火に伴って津波が発生して日本へ到達する場合、到達予想時刻は早いところ(沖縄県地方)で、17日23時00分頃です。予想される津波の最大波の高さは不明です。
気象衛星ひまわりの画像から、噴火に伴う気圧波に対応すると考えられる明瞭な変化は見られていません。
海外の検潮所では、23時20分現在、有意な潮位変化は観測されていません。今後の津波の観測状況については、随時お知らせします。
今後の情報に注意してください。

 この発表以降の発表は無いようだ。


買い出し&採血・採尿

2024年04月17日 20時19分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昼食は抜きのまま、午後からは妻の食材の買い物の付き添い。リュックに重いものを詰めて、バスにていったん帰宅。買い物というよりも買い出しという言葉が近い。17時近くになってから一人でかかりつけ医に向かい、採血と採尿。本日は診察はなし。

 昼食を食べなかったので、コンビのイートインコーナーで牛乳と野菜ジュースを各1合ほど。牛乳を飲んでいるうちに風が強くなり、宣伝用の幟旗が音を立てていた。店を出たとたんに雨が降り出した。空は暗く曇り、雷が鳴っていたらコンビニにとどまってやり過ごしたと思うほどの雨になった。雷は鳴らなかったので、濡れながら自宅まで急いだ。自宅にたどり着いた頃にはかなり濡れてしまった。
 しかし今度は家に着いて15分もしないうちに雨の音がしなくなり、雨は上がった。

 これより退職者会のニュース作成作業を少々行ってから、本日の作業は終了。


予習・復習、学ぶ姿勢

2024年04月17日 11時57分06秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 昼前にいつものかかりつけの内科に行く予定にしていた。本日は採血・採尿の予定があり、食事抜きで来院するように言われていた。しかしそれを忘れて朝食を食べてしまった。半分ほど食べたときに思い出したが、もう遅い。やむなく昼食抜きで夕方に病院に行くことにした。
 昨日に続いての失態である。実は昨日にはすでに朝食抜きと云うこと自体の記憶が無くなっていた。情けないものである。今朝服用する薬の袋を見てようやく思い出した。

 明日はオンラインの美術鑑賞講座。「室町時代の美術」の35頁分の資料を打ち出して、目をとおした。一応「予習」のつもり。
 中学・高校の時は「復習よりも予習」を身上にしていた。しかし予習が進むのは得意科目のみ。苦手な科目は復習ばかり。もっとも大学生になって授業の予習も復習もしなくなった。予習のほうが性に合っているようだった。「人と対話をしながら教わる」ということが中・高の6年間で不得手になったのかもしれない。
 「人から学ぶ」ということは就職し結婚して定年まで勤めるということの意味が理解できるようになってからではないだろうか。そんな気がする。

 


付き添い2件と失態

2024年04月16日 22時06分10秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日の午前中は妻の通院と買い物の付き添い。昼は近くの喫茶店でランチ。ランチを一つだけ注文し、妻は二口ほどを口にしたのみ。
 午後からは親の通院とコンビニでの買い物の付き添い。少し遠い病院までタクシーで往復。

 夕方からは、横浜駅まで陽射しを受けて歩いた。といってもバスを利用し、横浜駅の4つほど手前から歩いた。いつもの喫茶店で30分ほどの読書タイムののち、喫茶店を出た。その時点で頼まれていたスイーツのことをすっかり忘れてしまっていた。喫茶店に入る前に購入すれば間違いはなかった。失態であった。強い風の中をバスにて帰宅。玄関を開けたとたんに思い出した。
 しかし夕食時には妻は食欲がだいぶ戻ってきたようだ。少しずつ回復している。

 明日は本日購入し忘れたスイーツを求めて再度横浜駅まで出向かないといけない。

 


「魔女狩りのヨーロッパ史」 その1

2024年04月16日 19時45分32秒 | 読書

   

 横浜駅近くのいつもの喫茶店に入り、久しぶりに「魔女狩りのヨーロッパ史」(池上俊一)に目をとおした。「はじめに」と第1章「魔女の定義と時間的・空間的広がり」を読み終え、第2章「告発・裁判・処刑のプロセス」に入ったところで時間も遅くなり、喫茶店を出た。

“魔女”は古代から減退まで、ヨーロッパだけでなくアジアにもアフリカにもアメリカ大陸にもずっといたし今でもいる、というように人類学的に広く捉えることもできよう。(この書では)少し狭く捉えて、「魔女」というのは、キリスト教的ヨーロッパにおいて、15世紀から18世紀に「魔女狩り」の対象となった人たちのことと定義しよう」(はじめに)

魔女は、悪魔によって幻惑された迷信家ではなく、自らの意志でその悪の力と結託して、周囲の人や家畜に害悪をなすと考えられるに至る」(第1章)

魔女というのは、養う替わりにそこなう「悪しき母」なのであり・・・より広く、宇宙大の生命流、生命周期の疎外と捉えてもよい。広く人間と自然の母性・豊穣性への攻撃とみなせよう。」(第1章)

 

 


意志薄弱

2024年04月15日 23時00分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は朝から退職者会の役員会、幹事会、会計監査等々の会議が続いた。今週土曜日の総会に向けてようやく体制が整った。前日の金曜日に議案書を印刷・製本して準備完了の予定。
 今年は総会後の講演会がないが、総会の次第だけでなく、昼食会や懇談会の準備など80名を超える参加者の応接は多くの人の協力がないとできない。

 本日の会議終了後、いつものとおり懇談会を組合の会館で開催。とうとう三次会までつき合ってしまった。一次会で抜け出すための意志薄弱の誹りは甘んじて受けざるを得ない。

 ということで本日はこの記事をアップして終了。

 


読了「幻想美術館」

2024年04月14日 22時20分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

         

      

 本日「幻想美術館」を読み終えた。少しペースが早すぎたかもしれない。各作品ごとにもう少し自分なりの想像力を働かせて物語を紡いでみてから、著者の物語に目をとおしたほうが、楽しかったかもしれない。私には少々甘く切ない物語になりすぎている、という感想も無きにしも非ず。それでもいい刺激を与えてもらったと感謝である。
 全体51作品のうち、7作品は私も以前に感銘を受けたり、楽しいと思った作品である。この外に佐伯祐三の《モラン風景》(1928)や、ベルト・モリゾの《ベランダにて》(1884)などは以前に見たかもしれないが、残念ながら特に記憶に残っていなかった。
 またどこかで見たものの違和感を抱いていた作品もある。今回あらためて自分の想像力の貧困に気づいた作品もあった。
 少なくとも作品を掲載した7作品については、あらためて自分なりの想像力を試してみたいと思った作品である。


シャクナゲ満開

2024年04月14日 19時15分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

   

 本日は妻に頼まれて食材の買い出しを少々。昨日と同じスーパーへ。夕食は妻が作り始めた。まだ回復下とは言えないが、多少気力が回復してきたようである。
 途中のフラワー緑道ではシャクナゲが満開。ソメイヨシノはほとんど散り、沿道の家屋に住む人が、花びらを参加に箒で掃いていた。桜は見るだけならば嬉しいのだが、沿道の人にとってはなかなか大変である。毛虫の時期などはなおさら苦労が偲ばれる。
 昨日よりも気温は高くなっている。長袖の上にメッシュのベストで歩いたがかなり汗ばんだ。一足伸ばして喫茶店に入ったがクーラーがきつく、寒いくらいなので逃げるようにわずか20分ほどで店を出た。読書は結局できなかった。こういう時期は難しい。

 往復で9千歩近くになった。

 


ワンタンスープとお粥

2024年04月13日 20時23分43秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 妻は昨日から体調が悪く、食欲がまったくないという。熱はない。原因はよくわからない。私もお付き合いで本日は夕方まで家に引きこもり。昨日の天気予報では暖かく穏やかな予報であったので、ブラブラと付近を散歩するつもりであった。しかし具合の悪い妻を一人家に置いて出かけるわけにもいかない。
 朝・昼とも食事は私一人分だけなので適当に済ませた。冷蔵庫をあさって適当に見繕った。
 夕方近くになって、買い物を頼まれた。食材以外のもので無くなりそうなものがあるとのこと。少し遠回りで歩いて30分ほどの距離のスーパーまで往復歩いた。
 暖かい陽射しと微風のもと、気持ちよく8千歩ほど歩くことが出来た。

 夕食はごく薄く作ったお粥と、レタスをたっぷりと入れたワンタンスープ。私は総菜店で購入したメンチカツを追加した。ワンタンスープも手抜きで作成。即席のワンタンのカップスープを3倍に薄めてごま油と一つまみの塩・胡椒で軽く炒めたレタスと卵を放り込んだだけ。
 カップにお湯を注ぐだけのスープの味がいかに濃い目に作られているか、実感できる。3倍のお湯で薄めても満足できる味になる。
 妻はワンタンスープのスープとお粥と梅干。一応食欲がわずかだが戻った。明日は日曜日なので病院も休み。もう1日様子をみるしかない。


マティス《肘掛椅子の女性》

2024年04月13日 14時32分33秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 読み始めた「魔女狩りのヨーロッパ史」は目をとおさず、「幻想美術館」(太田治子)から6編ほど読んだ。家に籠っている時は短くて完結する文章のほうがいい。
 昨日読んだ中で印象に残ったのは、アンリ・マティスの《肘掛椅子の女性》(1933-34)を取り上げた一編。
 私はこの作品、というかマティスの作品は色彩の妙味ばかりに目を取られて、作品から物語を紡ぐということがまったく出来ていなかった。そしてマティスの作品はどちらかというと「苦手」であった。
 太田治子は母と娘の物語を紡いでいる。「白地に青い花柄のワンピース姿の女性は、肘掛椅子にふんぞり返っていた。思い切り吊り上がった眼は、暗く光っているように思われた。」と記している。
 私はこれまでマティスの描く人物から表情を読み取ったことがなかった。表情は消されるようにぼかされている作品が多く、人物はあくまでも点景として、あるいは服装による色彩の配置の一環でしかないと感じていた。この作品でも女性の顔にはうすらと影のようなものが塗られて表情が読み取りにくい。これを私はマティスがあえて表情を消すように描いたものだと勝手に考えていた。この作品から上記のようにふんぞり返り、吊り上がった目、を見つける鑑賞はできなかった。まして太田治子のように母と娘が見つめる相互の意識に踏み込むことはできなかった。
 これを気にマティスの作品の見方を変えてみることにした。少しは年齢と共にますますギスギスとしてきた想像力、感受性にいい刺激になるかもしれない。


「幻想美術館」(太田治子)

2024年04月12日 21時32分08秒 | 読書

 本日は2件の喫茶店を梯子した。久しぶりに妻と昼の外食を横浜駅の喫茶店でパスタとコーヒー。買い物後にいつものとおり別行動で、私は書店、妻は食料品の買い物。
 書店をうろついて5冊ほどを購入。私は再び喫茶店で読書タイム。いつもとは違い繁華街の真ん中にあるチェーン店のコーヒーを注文。コーヒー代は席料のようなもの。一口も飲まなかった。

 書店で購入したのは、「朝のあかり(石垣りんエッセイ集)」(中公文庫)、「西行」(寺澤行忠、新潮選書)、「湘南幻想美術館(湘南の名画から紡ぐストーリー)」(太田治子、かまくら春秋社)、「幻想美術館(名画から紡ぐストーリー)」(太田治子、かまくら春秋社)、「予告された殺人の記録」(ガルシア=マルケス、新潮文庫)の5冊。

   


 2軒目の喫茶店では、「幻想美術館」から16編を読んだ。私などは絵画作品を目にしたとき、つい構図や色彩の配置、形態のあり様など分析的に見ようとしてしまう。気持ちの上では、絵画作品から紡ぎ出される「物語」を読み取ろうとするのだが、どうしてもそれが後回しになる。どちらの見方が正しいのか、ということはない。しかし後者の見方のほうがより印象に残るし、奥行の深い見方だと、思っている。
 著者の太田治子は、太宰治の娘。現在76歳。日曜美術館の初代アシスタントを1976年から3年続けていた。多分私も見ていたはずだが、あまり印象はない。
 この本におさめられているのは70歳から76歳までの連載を収録している。収録された物語はどれもが短い。わずか原稿用紙2枚に満たない掌編である。しかしこんな物語を紡いだのか、という新鮮な驚きがあることも事実である。私とは違う感性に基づく物語に出会うのもまた楽しい。新しい視点に敬服する。同じような物語を紡いでいてもまったく同じということがないのがまた楽しい。
 またこれまで注目していなかった絵画作品に新たな視点を得ることができたものもあった。
 年齢から判断すると、ずいぶん若い感性を持ち続けられていることに脱帽する。同時に私のほうが4歳年下なのに、どうしてこうも私の頭が硬くなってしまったのか、とがっかりする。

 疲れた頭を癒してくれる感じがしている。
 


「都市空間の怪異」 その6

2024年04月12日 20時11分12秒 | 読書

   

現状維持を望みながら、他方大きな変革をも必要としている。悲観的ともいえるが、それはまだそれほど極端なものになっていない。危機意識については、一応現状の生活に満足しているせいもあるのか、深刻な状況とはうけとめられていない。こうした傾向がこの数年間変わっていないという認識がある。これは現代社会の生活文化をとらえる場合にも特筆すべき指標ではあるまいか。現実に曖昧な不安を漠然として感じながら、一挙に終末を招くという危機感が明確でない。こうした行き詰った感覚が、社会の深層部から痛低音としてひびいてくるのです。・・この現象をさらにもう一歩突っ込んでいくと、何か説明できないだろうか。一種の時代の移り変わる時期に生じている慣習化された無意識として、「世の終わり」そういうものが反映したフォークロアが、時代が転換しそうな時に浮上してくるのではないか、と考えました。現代世相を示す三面新聞記事の具体的な事実と、古代日本人の心意とが何か結びつかないかと思っています。

現代の多様なメディアの情報が生活文化化するという現象が都市生活の中に生じています。伝統的な民俗文化が脚色されたり、演出されて、新たな都市の民俗文化に変容することによって、事実とフィクションの関係がますますあいまいとなってしまったことが、若者の幻想を妄想へと駆り立てていったのでした。」(附 「都市とフォークロア」)

 この結論部分については、まだ私にはスッキリしないこともあるので、しばらくは考え続けないといけないようだ。