「面舵(おもかじ)いっぱーい!」
をネットで検索すると、次のような内容が出てくる。
船の操縦のときに使われる言葉で、「舵を右に一杯にきりなさい」という意。左に曲がりたいときは、「取舵(とりかじ)」という。
これは十二支に由来するもので、船首を十二時の子(ねずみ)の方向に向けて時計回りに十二支を配置すると、右側の三時の方向は卯(うさぎ)、左側の九時の方向が酉(とり)になる。
そこで右側を卯面(うも)、左側を酉と呼ぶようになった。それにより、卯面(右)に舵をきることを「面舵」、酉(左)に舵をきることを「取舵」という。「一杯」というのは、最大舵角(だかく)の三十度(軍艦は三十五度)まで舵をきることをいう。
実は私、つい最近まで、この「おもかじいっぱい」を「重舵一杯」だと思っていた。舵を左右に大きくきるのは、けっこう力のいることで、舵が重いに違いない。だから「重舵」だと勝手に解釈していたのだ。
この「面舵」「取舵」はさほどでもないが、思い込みによる誤認で恥ずかしい思いをすることがある。
「『赤い靴はいてた女の子 異人さんに連れられて行っちゃった』ってあるやろ。うちな『異人さん』のこと『いい爺さん』やとずっと思うててん。笑うやろ」
「そんなん言わはったら、うちなんか『兎追いしかの山』なぁ、なんも考えへんで『ウサギ美味しい』思うてたわ」
京都で過ごした学生時代、同じアパートにいた女の子同士の会話である。誰もが一つや二つ、思い当たる節があるに違いない。いまだ気づかず、潜(ひそ)んでいるものも、まだまだあるはずだ。
先日、そんな大鉱脈を、偶然にも掘り当ててしまった。
「袖振(ふ)り合うも多生(たしょう)の縁」である。「道行く他人と袖が触れ合うことさえ前世からの因縁による」という意味合いである。
私は長年、袖が触れ合うのは「多少、縁がある」という意味で「多少」だと思っていた。そうではないと知ったのは、十年ほど前のことである。拙作(エッセイ)に「他生の縁」という作品がある。それを書いているときにいき当たった。「たしょうのえん」が「他生の縁」と変換された。ネットで検索して、目から鱗(うろこ)が落ちた。その後、ずっと「他生」を使用していた。
実は、その鉱脈の下に、もう一つ隠れていたのである。その第二弾が今回の発見だった。たまたま「たしょうのえん」を変換すると「多生の縁」と出てきたのだ。改めてネットで検索すると、「多生」と「他生」が混在しており、どちらが正しいのか判然としない。いずれも仏教用語だという。こうなると、ネット検索ではどうにもならない。辞書に頼ることになる。
『新明解国語辞典』には、「袖触(ふ)り合うも多生の縁」とあった。念のため『広辞苑』で確認してみると、「袖振り合うも多生の縁」とある。「多生の縁」であることがわかった。「他生」は間違いではないが、辞書的にいうと「俗に『他生』とも書く」と記されるレベル、つまり、正統派ではないということなのである。愕然(がくぜん)とした。
拙作「他生の縁」は、元禄赤穂事件に関する作品で、原稿用紙三枚にまとめたものだった。地方紙に掲載するために書いたもので、その後、同人誌にも転載していた。それを読まれた作家の佐藤愛子先生から、簡潔で一切の無駄のない、いい作品です、と珍しく褒めていただいていた作品だった。愕然としたのは、そんな理由からである。やむなく、手元に保存しているワードの原本を、「他生の縁」から「多生の縁」へと改題した。
そこでもう一つ疑問が浮かび上がった。『新明解国語辞典』では「袖触り合う」とあるのに対し、『広辞苑』では「袖振り合う」になっていた。私はずっと「袖擦(す)りあう」だと思っていたのだ。こちらもネットで検索したが、まったく要領を得ない。「触り合う」、「触れ合う」、「振り合う」、「擦り合う」、「摺(す)り合う」と、百花繚乱(りょうらん)である。
そこで『三省堂国語辞典』と『明鏡国語辞典』の加勢を得、「振り合う」がスタンダードであることがわかった。そういわれると「……君が袖振る」というのが万葉歌にあったことを思い出す。
「辞書は引くものではなく、読むものだ。辞書を読め」と言っていた人がいた。この類の誤認を探し当てる近道は、やはり辞書を読むことなのだろう。だが、たやすいことではない。
さて、次はどんな鉱脈を探し当てることになるか。
2024年4月 初出 近藤 健(こんけんどう)
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