オウム事件が残した3つの課題



一連のオウム事件で死刑が確定してた13人の死刑囚のうち、教組の麻原彰晃(本名:松本智津夫)を含む7人の死刑が執行されました。

松本智津夫死刑囚らの刑執行…オウム真理教事件まとめ

法務省は6日午前、1989年の坂本堤弁護士一家殺害や94~95年の松本、地下鉄両サリンなど一連のオウム真理教事件で殺人罪などに問われ、死刑が確定した教祖の麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚(63)(東京拘置所)ら教団元幹部の死刑囚7人の刑を執行しました。

地下鉄サリン事件が起きた当時、ぼくは東京の会社に勤めており、通勤にはまさにあの時刻のあの路線を使っていました。事件が起きた1995年3月20日は代休を取っていて難を逃れました。事件の一報に触れたときは「一体何が起きたのか」という疑問で頭がいっぱいでしたが、次第に事件の全容が分かっていくに従い、何度も背筋がぞっとしたことを忘れません。代休を取っていなければ、最悪の場合、死んでいたかもしれません。

オウム真理教が起こした一連の事件は、3つの課題を残したとぼくは思っています。

課題の1つ目は、宗教の怖さです。むろん、宗教の全てが犯罪を犯すというわけでありません。宗教が暴走したときの怖さを、この事件が示しているのです。宗教を暴走させないためにはどうしたらいいか、ということが1つ目の課題です。

宗教は何かを信じるところからスタートします。例えば、神の存在を信じる、悪魔の存在を信じる、死後の世界の存在を信じる・・・などです。その「信じる」という行為は非論理的なものです。何か論理的な理由があるわけではありません。数学の証明問題のように、神の存在を論理的に証明できるわけではありません。とにかく信じるだけです。

しかし、そのスタート地点以外では、論理的に考えるのが人間なのです。例えば、死後の世界の存在はただ信じるだけですが、「死後の世界の存在するのだから、この出来事の背後はこういう理屈がある」というふうに論理を展開していくのです。宗教の教義というものは、こうして成立していくわけです。

オウム真理教の場合、麻原が常人ではなく人知を越えた存在であるというところからスタートしているので、麻原が言うことは全て正しいという前提で論理展開してしまいます。殺人でさえ、麻原が「殺される人はそれで救済される」と語れば、その論理で正当化されます。

このような論理展開は、どんな宗教でも同じです。むろん、普通の宗教は殺人などを正当化することはないですが、スタート地点の「非論理的に信ずる部分」が崩れない限り、暴走していく危険性は常に有しているものです。これは歴史が証明していると言えるでしょう。過去の大きな戦争の多くは宗教が背後にありました。キリスト教の十字軍の遠征で行われた行為などは、知れば知るほど残虐なものです。

課題の2つ目は、異質なものをどう扱うべきかということです。自分たちと違った集団とどう向き合うかということです。

オウム真理教とて、設立当初から殺人集団であったわけではありません。しかし、教団が拡大していく中で、彼らを取り巻く住民たちがコミュニティーから排除しようと激しく攻撃しています。例えば、教団が熊本県波野村へ進出しようとしたときには、村役場が信者450人の転入届を受理しませんでした。結局、村は裁判で負けて、約9億円の賠償金を教団に支払っています。要は、役場のほうに「法的な非」があったわけです。

信者を脱会させようとする家族が、入信したわが子を拉致・監禁に近い方法で教団から引き離すこともありました。これも、法的に見たらいけないことでしょう。拉致も監禁もれっきとした刑法犯です。そもそも信教の自由は憲法で保障されているので、親といえども子どもの信仰を強制的に捨てさせることは憲法違反です。

自分たちと考え方が違う異質なものを排除するということは、昔からある人間の悪しき性質の1つです。法に抵触しても、異質なものを排除したくなるのです。オウム真理教が殺人集団と化してしまった今となっては、これらの行動は緊急避難のように思われ、正当化されてしまうことすらあります。でも、周囲のこうした行動が、オウム信者を過激な思想・行動へ走らせる一助になってしまったことも否めません。

「われらは正しいのだから、国家や世界がわれらを迫害していることになる。だから戦う」という彼らの考えは、当然の論理的帰着でした。こういう結論に至らせないために、異質なものとどう向き合うかということも、もう一度考えてみる必要があるでしょう。

課題の3つ目は、死刑制度の是非です。被害者感情としては、死刑は当然と思うでしょう。ぼくも、もし家族が同じような目に遭ったら、加害者に死刑を望むかもしれません。しかし、世界を見ると死刑制度を採用している国は少数派です。心配なのは冤罪でしょう。

もしも死刑囚が冤罪であったのに、死刑が執行されてしまったら、もはや取り返しがつきません。まさに国家による理由なき殺人になってしまいます。特に近年は科学技術が急速に進歩しているので、過去に押収された証拠からは分からなかったことが、後年に分かる場合があります。そういう意味で、終身刑を最高刑にしている国が多いです。

他にも、死刑制度廃止論者は加害者の人権を主張する場合もありますが、これはどうでしょうか。そもそも、被害者の人権を踏みにじったから、自分の人権も踏みにじられるわけです。終身刑だって懲役刑だって、人権を制約していることについては変わりません。加害者の人権をどの程度制約するかということであって、死刑制度廃止を人権問題に集約するのも首をかしげます。

「とにかく、どんな理由であっても命を奪うことは許されない」と死刑廃止を訴えるかもしれませんが、それは殺人を犯した人間に対しても言えることです。そういう殺人者を死ぬまで「国民から徴収した税金」で養っていくことが正しいのかと思うと、ぼくも悩んでしまいます。

いずれにせよ、世界的には死刑廃止に向かっている中で、ぼくら日本人が死刑についてどう考えていくかということも大切な問題です。


“オウム事件が残した3つの課題” への2件の返信

  1. オウム真理教の一連の事件を通して、自分や自分のコミュニティ、我が社会が何を教訓とすべきかと内にベクトルが向けばいいのでしょうが、全てはオウム真理教が極悪だったから起こった事、という結論だけでは何の教訓にもならないですね。
    「あの惨事を忘れてはならない」なんて言葉と共に事件の羅列がマスコミ等で盛んですが、事件そのものを思い出す事も必要かも知れませんが、私達がなにを教訓とすべきなのか、その事をより考える契機が必要だと感じました。何を忘れてはならないことなのか、そこを考えてみたいです。
    ありがとうございました。

    • コメントありがとうございます。

      >私達がなにを教訓とすべきなのか

      そのとおりだと思います。まず、自分や自分が属しているコミュニティーが、あの事件から何を教訓としているかということです。もし何も教訓にしていなかったら、今からでも考えるべきでしょうね。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

*