日蓮正宗 正林寺 掲示板

法華講正林寺支部 正林編集部

一水四見(いっすいしけん)

2019-11-03 | 御住職指導

正林寺御住職指導(R1.11月 第190号)  

 

 一水四見とは、万物の構成要素となり、五大である地水火風空の一つの「水」に着目した見方であります。

 また、唯識のものの見方でもあり、水の存在を通して、認識の主体が変われば、認識の対象も変化することの例えとして表現されます。

 一水四見の「四見」は、涅槃経の結経に説かれる像法決疑経に、沙羅の四見としてあります。釈尊が涅槃される時の沙羅林について、人々が機根に従って四種の異なった国土として見たことを言います。
 一番目の人は、世の中を草木・瓦礫等が充満する汚れた国土と見ます。
 二番目の人は、金銀財宝によって荘厳されたような立派な清浄の国土と見ます。
 三番目の人は、諸仏が種々の深い境界において正しい法を悟り、修行している立派な国土と見ます。
 四番目の人は、尊い諸仏の実相があり、世の中そのものを諸仏の自在な妙徳により、最高真実の幸せが充満する国土として見ます。
 人の果報と境界により同居土(一番目の人)・方便土(二番目の人)・実報土(三番目の人)・寂光土(四番目の人)という見方が四見であります。

 日蓮大聖人は『船守弥三郎殿許御書』に、
「迷悟(めいご)の不同は沙羅(しゃら)の四見の如し。(中略)肉眼(にくげん)はしらず、仏眼は此をみる。」(御書262)
と仰せであります。 

 四季を通じて「水」に対する認識も当然変わります。これから迎える冬には、水が気温の変化により雪や氷になります。また春には、草木や作物を生長させるための大事な栄養となります。さらに夏には、水分補給に欠かせない人間が活きるための必要不可欠な源となります。しかし、秋には時として大切な水も、台風により生活基盤をも破壊する災害へと豹変します。
 この度の台風十九号(ハギビス)等は、まさに水が脅威となり恐ろしい一面を見せた姿です。被災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。一刻も早い復興をお祈りいたします。

 台風等の災害に影響されずに、安心して生活するための方途を日蓮大聖人は『如説修行抄』に、
「法華折伏破権門理の金言なれば、終に権教権門の輩を一人もなくせ(攻)めを(落)として法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗と成りて妙法独りはむ(繁)昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだ(砕)かず、代はぎのう(義農)の世となりて、今生には不祥の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理(ことわり)顕はれん時を各々御らん(覧)ぜよ、現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり。」(御書671)
と仰せであります。つまり、「妙の一字の徳」である日蓮正宗の御本尊と縁を結び、万民一同が信仰の寸心を改めて三大秘法である戒壇の大御本尊を信じ本門の題目を唱えることで、災を消し難を止むるの術を得て実現することになります。

 御法主日如上人猊下は、
「天変地夭も、悲惨な事件や事故も、戦争や飢餓も、混迷する政治や経済も、その混乱と破壊の根本原因は一にかかって、思想の乱れ、信仰の乱れ、すなわち正法を信ぜず悪法を信じているからであります。
 故に大聖人様は、
『早く天下の静謐を思はゞ須く国中の謗法を断つべし』(御書247)
と厳しく仰せられているのであります。」(大日蓮 第884号 R1.10)
と御指南です。 


 去る、令和元年(2019)十月十一日、御法主日如上人猊下大導師のもと、第六十七世日顯上人の御本葬の儀が総本山にて厳粛に奉修されました。
 本門戒壇の大御本尊在す奉安堂東側の御本葬場にて、竹矢来で四方を囲い、四隅には発心・修行・菩提・涅槃の四門が構えられた御本葬場では、古式に則った四門行道が、昭和54年(大日蓮 第403号)から四十年経過した令和時代、日達上人の御遷化以来行われました。四門行道の後、御霊棺が御安置されてから御本葬の読経がはじまりました。

 厳粛な読経中には、御密葬の御出棺後と同じように、丁度、雨が降ってまいりました。日蓮正宗の僧俗にとって、その雨は意義深く、大聖人が『法華初心成仏抄』に、
「法雨を雨らす」(御書1311)
と仰せの「法雨」と拝します。それは五眼の上から、法眼の眼から見える雨と拝し奉ります。
 御本葬に参列させていただいた代表の日蓮正宗僧俗に対して、有り難くも本門戒壇の大御本尊から賜る尊い法雨となり、また日蓮大聖人の大慈大悲を頂くところの六根清浄功徳を積むために、参列者の身口意三業にわたる無始以来の罪障消滅を頂戴したことと拝し奉ります。まさに、常楽我浄の四徳の一分、浄徳の現証と拝します。

 さらに大聖人が『生死一大事血脈抄』に、
「臨終只今にありと解りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱ふる人を『是人命終為千仏授手(ぜにんみょうじゅういせんぶつじゅしゅ)、令不恐怖不堕悪趣(りょうふくふだあくしゅ)』と説かれて候。悦ばしいかな一仏二仏に非ず、百仏二百仏に非ず、千仏まで来迎(らいごう)し手を取り給はん事、歓喜の感涙押へ難し。」(御書513)
と仰せであります。特に、身口意の三業を改めて敬虔に拝させて頂く時に「歓喜の感涙押へ難し」とは、誠に畏れ多いことでありますが、その尊い感涙とは、御法主日如上人猊下大導師のもと御本葬時に、御本仏日蓮大聖人をはじめ諸仏が来迎された御姿に触れて、諸天をはじめ、御遷化あそばされた日顯上人の感涙との意義深くも有難い雨と拝し奉ります。

 さらに、その雨は有難いことに日顯上人の御生前中、お世話になられたすべての方々への感謝の涙、法雨の涙との尊い現証とも拝し奉ります。
 そして、日蓮正宗僧俗の最期臨終による僧侶を中心とした葬儀には、この度の御本葬の現証を通して、日顯上人は生死の死の一大事を血脈法水の上から『生死一大事血脈抄』の御書の極意を御教示下さった、今世最期の勿体なくも貴重な御教導と拝し奉ります。
 有り難くも台風十九号による甚大な影響を受けることなく、日顯上人の御本葬の儀は無事に奉修された次第であります。

 

 日顯上人は「一水四見」について、『観心本尊抄』の御説法の折に、
「『一水四見』という言葉がありますけれども、恒河の水を餓鬼は火と見る、人間は水と見る、天人は甘露と見る、菩薩は無量の法門と見るということで、一つの水でもその境界果報によって受け方、感じ方が違うことを言います。」(大日蓮 第511号 S63.9)
と御教示でありました。
 雨も、四見の上から各々の境界と果報により受け方、感じ方が違うということは当然あります。それはまた、水に関わらず、万物の構成要素である他の地火風空にも同じことが言えるでしょう。

 そして、大事な御書においても境界と果報により受け方、感じ方が違う場合が大いにあります。特に、御書においては『日興遺誡置文』の、
「当門流に於ては御抄を心肝に染め極理(ごくり)を師伝して」(御書1884)
との御教示を心得て拝することが大事であります。反面、師弟相対しない極理を師伝しない御書の拝し方は、正しく御書を拝している姿とはいえません。十二因縁が深く関わる過去世の習気と逆縁が起因しての「我賢しと思はん僻人等」(御書583)の異流義化した御書の拝し方には用心しましょう。
 大聖人は『唱法華題目抄』に、
「何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か。」(御書225)
と御指南であります。

 さらに、大聖人は『寿量品文底大事』に、

「他門徒に於ては、平(ひら)文面には様々の料簡を為すと雖も、聖人の御本懐に於ては全く知らざる者なり。(中略)余行を交へばゆゝしき僻事なり」(御書1707・富要1-43)

と仰せであります。日蓮正宗以外の他門徒において御書の文証に思いをめぐらすことは異流義となり、師弟相対せず極理を師伝しない御書の拝し方は、大聖人の御本懐を知ることはできません。師弟相対せずに極理を師伝しない御書の拝し方は、厳密に、余行を交えることとなり、御書根本と主張しても、大聖人の御本懐に通じる肝要な道理に合わない計我・浅識となります。御書は「極理を師伝して」拝することが大切であります。

 最後に、第六十四世日昇上人は、『日蓮正宗聖典』の刊行に当たる「序」に、
「由来法門上の異説異見は何によって起こるかといえば機根が猶お未だ熟さないうちに自らを省みず直ちに御書の一文一義に執して妄断するからである。即ち我見に任せて己義を立つるからである。古来仏法に於いて相承を尊び師伝を重んずるのは一に此の弊をなからしむるためである。聖祖は『法華経は相伝に非ずんば知り難し』と仰せられている。蓋し仏法の奥底は相伝によって正しく理解することができるのである。」(聖典4)
との御言葉を賜りました。

 

宗祖日蓮大聖人『兵衛志殿御返事』に曰く、
「しを(潮)のひ(干)るとみ(満)つと、月の出づるといると、夏と秋と、冬と春とのさかひには必ず相違する事あり。凡夫の仏になる又かくのごとし。必ず三障四魔と申す障(さわ)りいできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり。」(御書1184)

 

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