bow's Design(ボウズデザイン)

秋の街路樹 写真

日記「秋の境界線を通り過ぎる冬の風」

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足がきんきんに冷たくなってかなわんです。
この数日間で秋との境目を通り越し、冬が到来したと実感した次第であります。
鼻水がとめどなく垂れてくるのを啜り続けないといけないのは、大変鬱陶しいものです。
厄介なのが、これは伝染し、ある時、盛大な合唱のように時の中を奏でるほどである。
謂わば、一種のパンデミックである。
そんな折、汚く、鉛のように重たい声で、あーさぶ、と私の生まれ年より少し古い80年代からタイムスリップしてきたような人間がそれらを打ち消していくのである。

きんきんに冷たくなった足先とは裏腹に、心地よい時間を歩いている。
特別な良い出来事があった訳ではない。
いつも通り、寝て、起きて、仕事して、趣味をして、また寝る。
そんな平凡な一日である。
しかし何かをトリガーにして、心地よき時間が乱れることもある。
特に苛立つ時間は労力を使うものだ。
自身の感情に疲れさせられる。
気付いたら無かったことだったかのように忘れているものなのにね。

時にだらだらと。
何もせず布団の上でごろごろと。
気が済むまでごろごろと。
こんな至福の時間は、どんな長く過ごしていてもおさまる訳はないだろう、なんて思っていても、不思議なもので、このままで良いのか、などと考え始め、良いはずがあるまいと、結局は忙しく何かをはじめているものだ。

そうしていたら、また疲れて、まただらだらしたくなる。
まったく自分の体というのは自分の体を熟知しているようで、これまでの経験の観測値から現在において的確な解を見出しコントロールしようとする。
ああ、川の流れのように。
緩やかな流れが激流になり危険が及ぼうなら、抗い抜け出そうとする、飽きようものならば泳いだりして楽しみ方を見出す、違和感を予期することもできる。
よくできているではないか。

人それぞれ、バイオリズムは違うものだ。
時間の檻で過ごし続けるのはそもそも難しいものなのだ。
檻の出入りが自由であれば良いのだが。
気まぐれとは檻や規則にとっては厄介と感じるよな。

今日の作業BGM

Bill Withers – Just the two of us

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