SSブログ

太平記 第11回 楠木立つ

(1991日)

元弘元年(1331)9月、笠置山に籠る後醍醐天皇に六波羅軍が敗れたとの報が鎌倉に届いた。


taihei1.jpg

(長崎高資 、 、 、覚海尼、北条高時)

内管領の長崎高資は、軍の陣容案を第14代執権だった高時に報告に来た。
高時は高資の父長崎円喜への暗殺に失敗していたが、
執権職を退き、母のいる寺に籠ったこともあり手打ちがなされたのでしょう。

高資の案には、父が亡くなったばかりで喪中の足利高氏も含めていた。


taihei2.jpg

第16代執権の北条守時は妹婿である足利高氏宅を訪ね、
何もできなかったことを詫びた。


taihei2b.jpg

弟の直義が登子に「何故、兄は断らなかったのか」と聞いてきたと報告。
高氏は、行くだけで矢を放つこともなく帰ってくると答えた。


taihei3.jpg

その頃、後醍醐天皇の側近千種忠顕が、諸将が来ないと報告。


taihei4.jpg

(後醍醐天皇、万里小路藤房)

3日で来れるのに来ない楠木正成に藤房はキレていた。


taihei5.jpg

天皇は万里小路藤房に勅使として楠木正成を呼んでまいれと命じた。が、正成は断った。
藤房はわざわざ勅使で正成を頼った帝のお気持ちを想い涙で説得する。
それでも、正成は引き受けず、とりあえず近くの寺で泊まってもらうことにした。


taihei7.jpg
TSUTAYA 太平記 完全版 


その晩、妻の久子は、「名誉なことではありませんか、引き受けなされ」と
嫁ぐ際に植えた思い入れのある柿の木を斧で切ろうとし、正成の決断を促した。
久子にすれば、すでに正成の弟の正季や郎党200名が向かっており、無駄死にさせたくもなかった。

ここにきて、楠木正成は立つことを決断した。







(2019/12/7 0:46)
コメント(0) 

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。