「直感」「直観」と瞑想の関係 | 自然治癒力研究所のブログ

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心と体の癒しのブログです。

本当の日本を取り戻すメール新聞の中の明光武道の神田真澄氏の記事です。

 

「直感」と「直観」についてお話ししましょう。

読者の皆さんは意外にこの言葉を混同して普段は使用していると思います。
無意識的に使い分けていた方もいるかもしれませんが。

改めて、この違いが分かりますか?
広辞苑にはこのように書かれています。

・直感
〔勘などの働きによって〕物事をただちに心にとらえること。瞬間的に感じとること。
・直観
一般に、判断・推理などの思惟作用の結果ではなく、精神が対象を直接に知的に把握する作用。


なんだか難しいこと書いてますね。
もう少しわかりやすい言葉で書いてみますと

・直感
感覚的に物事を瞬時に感じ取ること。(インスピレーション)
・直観
過去の経験に基づいて、直接的に対象やその本質を捉える即時的な認識能力。(第六感)

これだとなんとなく理解できそうですね。
感覚的に言ってみれば、直感は降りてくる、
直観は湧いてくる感じというと何となくピンときますでしょうか。
いやいや正直微妙かな。

そもそも直観力は仏教用語としても使われており、「観自在」の言葉などは聞かれた方も多いのではないでしょうか。
すべての事物を自由自在に観ることができるという意味があります。

つまり直観は理屈で考えるのではなく、先入観なしにありのままを観ることから考えをイメージして”本質”(核)を掴むということを言います。

でも人はなかなか直観で物事を観ることは難しいようです。

ではここで、大脳生理学(脳科学)などを引用して、瞑想はよく科学されてますが(私はあまり信用している分野ではありませんので、参考程度に利用する程度ですが)、直感と直観について「大脳新皮質」と「大脳辺縁系」の分野で考察してみましょう。

人間の頭(脳)には表層にある大脳新皮質と中心部にある大脳辺縁系があります。
この大脳新皮質は、簡単に言えば人が現在まで生きてきた間に学習した知識、記憶などがPCのデータベースのように蓄積されています。
そうして皮質はどんどん発達して大きくなっていきます。
いわゆる常識や既成概念(固定概念)、欲望などがそうです。       

一方、大脳辺縁系はいわば本能、感覚(イメージ)、認知に繋がる分野で人本来の自然な姿(潜在意識)といえるでしょう。
皆さんがよく耳にするアルツハイマーに関係し、認知力を司る”海馬”もこの大脳辺縁系にあります。

例えば
ビジネスシーンを例に脳の働きを観ると、新入社員の面接時にマニュアル的な対応をする際に使われるのが、知識としてのデータバンクである大脳新皮質。
定番の質問に定番(既成概念的な)で無難な回答をするといったシーンですね。

一方、その既成概念に囚われずに自身の直感、感覚で捉えてマニュアル通りではないオリジナルな回答(発案)をする際に使われているのが大脳辺縁系といわれます。

知識が増えればそれだけ大脳新皮質の分野は発達、蓄積されるデータが増え大きくなりますが、それだけ既成概念(固定観念)に囚われやすくもなります。
一般常識や、ひいては洗脳された現代意識なんかもそうですね。
 
それに対して、感覚的に物事を捉え、自由な発想を産するのが大脳辺縁系の分野です。
事象をイメージとして捉える分野といわれていて、この分野を活性化する代表的なものは”芸術”と言われています。

例えば、ここで自由に興味深い発想をしても、自身の大脳新皮質が既成概念を基にその発案を潰してしまうといった現象が、脳内で何度も行われてしまってます。
このような似た経験ないですか?
 
このような背景から、脳科学の観点から言うのであれば”直観力”は大脳辺縁系を中心に、この両者の脳の繋がりから来る、つまり直感的に感じた事柄を、経験とイメージを基にした”観る”ことで、その本質を把握すること、
それを瞬時に行える力と考えています。

そして、今回のテーマ元である「瞑想」が、この大脳辺縁系を中心に活性化させる、つまりは”直観力”を鍛えるのに
効果絶大とされており、1970年代頃から世界の各大学や各研究機関で行われています。

瞑想を継続し、上達(精進)していくことでこの大脳新皮質の働きを抑制(コントロール)できるようになり、さらに大脳辺縁系を直接刺激し活性化することで、普段使われていない人の持つ本来の力(潜在能力)に導かれていくとも考えられています。

よく瞑想はそのルーツである仏陀(釈迦)の”解脱”の話などがありますが、
その状態は大脳新皮質の働きを抑制し(自我を無の状態へ)、大脳辺縁系がまさに活発に活動している、人が何にも囚われていない本来の自然状態をいいます。

つまり自我を超えた仏状態とでも言いましょうか。
寂滅為楽(ジャクメツイラク)という仏教用語も納得できるかと思います。

わかりやすく言うと、修行で大脳新皮質の分野を取っ払って、大脳辺縁系の分野だけで捉えてる状態、極端にいうとそんな状態ですね。
釈迦やイエスらはそのような状態であったと思われます。

ではさらに当道場にご縁が深い、日本古来から伝わる神道(古神道)ではどう考えられてるでしょうか。

古神道では、人には本来内在する霊魂として、天から直接内流を受けたる本守護神(本霊・直霊)があって、それぞれ正守護神と副守護神があります。

正守護神は人類愛、道徳心など愛が司られ、公平無私なる活動の精霊をいい、副守護神は自身の肉体のための欲望、
自我にあたり優勝劣敗、弱肉強食的な活動の精霊をいいます。

わかりやすく言うと、正守護神は善の心、副守護神は悪の心です。
正邪一如、人には意味があってこれらの心が在るのです。

そしてこれを大脳生理学で表してみるならば、それぞれ大脳辺縁系(本能)と大脳新皮質(自我)に近いですかね。

そして直感は天(神)から人への”内流”をいい、正守護神の姿ですが、その上で本質を把握した直観力は”智慧証覚”に繋っていくと考えます。

なんとなく理解できますか?
古神道でいう、神界では意思・想念の世界であり、いちいち理論づけて言葉を多く使って話さなくとも、一を言えば十を、そしてそれ以上を悟る如く伝わり、瞬時に理解(諒解)できると云われています。

つまり直感は勘が頭に思い浮かぶインスピレーションの如く、自然と人に降りてくるもの、天からの内流が人へと入ったことを指し、直観力は人として生きてきた今の自分自身の状態や経験を基に、その直感をもって本質を即諒解できる力であると考えるのです。

元々日本には頭(理屈)で考えるのではなく、肚(直観力)で考えるという言葉がありますが、正にそれです。

そろそろ難しくなってきましたか?
できるだけ宗教的にならないように瞑想を説明する際は言葉を選んでますが、表現が難しいですね。
でも安心してください。

私自身、オカルトティックなことは大嫌いですし、今回のテーマである瞑想は決して新興宗教のようなものではなく、れっきとした武道のメソッドです。

だからこそ否定的な分野もしっかりと学び、知っておかないといけないですし、その上で正しく実践することが大事なのです。

だから当道場で伝える瞑想(鎮座)は純粋に自分自身を高めるために伝わってきたメソッドとして、まずは伝えています。
 
私自身は5歳より武道を学び始め、10代最初までは密教(仏教)、後半は古神道を学ぶ環境で育ちました。

日本古来から実践されていたであろう「瞑想」は(実際はそのような言葉は使わず、状態をさす)「鎮魂(御霊鎮めの御術・ミタマシズメノミワザ)」を指し、私自身も貴重な経験を通して、その古来の瞑想やその意義を伝え残したいと研鑽してきた背景があります。

この鎮魂は、世間でいう鎮魂祭などで使われる言葉とは違って、自身の魂を体内に鎮める行法(瞑想法)を言います。

合氣道でも植芝盛平翁が伝えた頃の修行法にはこの鎮魂や魂振り(自身の氣、エネルギーを活性化させる)などがありました。

そもそもこの合氣武道と古来からの神道は密接な繋がりがありましたが、もう今はその真意は失われて形としてのみ残ってるだけで、真を伝えたり実践する人も少なくなったようですがね。
(ちなみに明光武道と植芝翁とは核の部分で深い関係があります。大東流から合氣武道を創始した植芝翁、同じく意拳から明光武道を創始したその過程など。生き証人に聞いた数々の裏話もありますが、それはまたの機会に。)

本来、鎮魂は鎮魂帰神法(チンコンキシンホウ)として、神道では明治以前にはよく行われていた行法であり、独特の方法で手を合わせ組み、自身の体内に己の魂を沈め、神(天)と繋がる(帰神)状態を作る法です。

昔は幽斎修行として行われていたといわれており、様々な神様が懸かる(神懸かり)状態で託宣などを宣べることなど、聞いたことある方もいるかと思います。

その時に重要なのが、正しくその懸かった神様を審判する者(審神者・サニワ)であり、低俗な悪神(狐狸や邪霊)が懸かったのか、正神系の神様が懸かったのかを見極めることが必要で、それによって狂言なのか、御宣託なのかを判断するのです。

現代ではそれをできる人はもういないですし、実践もされていません。
詳しく知りたい方は、鎮魂帰神や言霊などの研究で著名な本田親徳氏の著書など調べてみてはいかがでしょうか。

まだまだ瞑想に関して鎮魂についてもっとお話ししたい事項が多々ありますが、ちょっとテーマから違う方向に
なりつつあるので、字数も限られてますから簡単な内容で留めておきます。
で本題に戻します。

瞑想はこの直観力を鍛えることに格好のメソッドなのです。
前回にも書いた、瞑想は本来、単なる集中力を鍛えるメソッドやその効果のみを求めて行うメソッドではなく、もっと純粋に自分自身と向き合う、そしてもっと突っ込むのなら、この大自然・大宇宙(天)と繋がる時間を持つことが、瞑想の核であると書いたと思います。

先の内容を絡めて、その大自然・大宇宙と繋がっている状態から天より内流が入り、それを自身の肚で直観的に捉え、本質を掴む。

その訓練によって、人は常に様々な場面で瞑想状態を保ち、頭で理詰に損得で考えるのではなく、肚で物事を捉え
本質を見抜くといった力を持つことが可能になると確信しています。

そうした過程で副次的に、いろいろな効果が見られるのは確かでもあります。
勘違いして欲しくないのは、目標を持って瞑想するのはもちろん大事なのですが、その効果のみに固執した考えで行うのは非常に危険でもあるのです。

現代の方に是非、瞑想を実践する習慣を付けて欲しいのですが、必ず守ってもらいたい事項をここに今回初掲載しておきます。
(あまりにも○○瞑想やら、怪しい瞑想団体やら多いので)

改めて、瞑想を実践する上で、必ず守っていただきたい事項(ルール)を書きます。 

まず禅病(氣功では偏差、ヨーガではクンダリーニ症候群ともいう)について少しお話ししておきたいのです。

瞑想を実践するにあたり、正しく学んでもないのに勝手な解釈からアレンジしたり、欲望をひたすら求めて行う(その成果に囚われて実践する)ことや、そこから慢心した状態となると、本人は気づかずに禅病を起こすことがしばしば見られます。

これをキチンと注意事項として指導する団体や坐禅会などは殆どと言っていいほど存在しないのが現状です。

ですが、これは学ぶ上で、そして実践する上で、しっかりと心に留めてもらいたい重要事項なのです。

現代では瞑想をメソッド化したマインドフルネス瞑想はじめ様々な瞑想が今は存在します。
トランス状態をわざと作って行う瞑想などなど。

どれが優劣あるなどの批判はしませんが、必ず瞑想の基本ルールを守った上で、行ってもらいたく思います。

意外と鈍感な方は結構何をやってもどうもならなかったり平気な方もいますが、稀に敏感な方や神経質な方などが
間違った方法で実践してしまうと、氣が上に滞ってしまい偏差(禅病)を起こして、その氣の偏った状態から来る、心のひどい不安定な状態や心身一如で身体自体の体調を崩してしまう方など、リアルにいます。

ただ、これが禅病になってるとは中々本人は気づかないことが多いですし、本人は認めようともしないのです。
何なら慢心して俺は凄いと思い込んでいたり。
といって、殆どの団体でこの状態を正せるところもないのが現状です。

実際に私の生徒で、以前某団体の瞑想スタジオに通ってた方は、その禅病の症状を起こして体調を崩したことから、
ご自身でそれを認識して指導者へ相談したところ、その指導者は「大丈夫、大丈夫、そのまま放っておけば戻るよ」との答えで、何もされずに放置されたと。

これを聞いた時は呆れ返りましたが、瞑想を伝える現状は意外にこれがリアルな状態です。
その方は、当道場へ来られてから氣を下に降ろして改善し、今は元気に過ごしておられます。

取り違いして欲しくないのは、変に怖がらせているのではなく、瞑想をご自身のライフスタイルにして実践していきたいのなら、きちんとその瞑想の意義やルールを守ってくださいねと言うシンプルなことだけなのです。

でも世の中には、つい合理的にアレンジをしたり、限られた科学の範囲で解釈しようとして体系を変更してしまい結果重視で実践したりすると、こういうことを起こしがちです。

そのような努力について全面否定はしませんが、危険も知ってもらいたいですし、その上で責任持って実践してねって話です。

これはプロとして何十年と指導してきた立場から、大事な注意として伝えています。

偏差の状態になると、なかなか元の(健常な)状態に戻せる指導者は、先も言ったように現在ではあまりいないでしょう。

瞑想は、現代ではメソッド化して、科学されてるのもあって身近に感じ、誰でも簡単に行えると思いガチですし、それは間違いではありませんが、本来実践する際は個々によっては瞑想の方法を変える(立って行う、運動と瞑想の同時メソッド:站椿功・武禅についてはまたの機会に)など、きちんとした指導が必要です。

自分ができたから(できてるつもりかも)他人も大丈夫とは単純には言えないのです。
私は万人の方に瞑想を実践してもらいたく思っているが故に、正しく実践して!と言いたいのです。

ここまで書いたので、実証も兼ね某団体の一例(本当にあった裏話)を挙げておきましょう。

私が明光武道の源流となる意拳を修行中時代のことです。
道場で、この偏差の状態の方々を実際に観て、呆れるというか、ある意味では恐怖をも感じて、教訓にも良い経験・勉強になったものです。

例えば、偏差を起こしている本人は普通に振舞ってる(自分が禅病とは思ってなく、より優れてると)つもりなんですが、明らかに異様な怪しい状態で、練習中に急に奇声をあげたり、挙動不審で何かに怯えたり、敏感というよりは
何かに囚われているような感じでと、正直気っ色悪かったです。

これは○野流という団体(あるバレリーナが気功の団体を立ち上げ、飛んだり摩訶不思議な力にフォーカスを当て、それを気功と称した宗教団体のような気功団体)のことで、実際にその偏差の人から聞くと、そこの指導員が生徒を飛ばすということを最高の状態としてるので、生徒が飛ばない時などは指導員から往復ビンタを喰らいながら、力を抜いてなど言われてグニャグニャの状態で、飛んだら上達した的なことで褒められるのだそうです。

気を上(頭)に上げた状態を意図的に保たせる、だからエネルギーの状態上、気が上部に停滞しているから、簡単に何をされても飛んでしまうといった現象が起こる、これを摩訶不思議的に”売り”にしていた団体です。

そんなことを続けていると、敏感でない人でも偏差を起こしてしまいます。

単純に氣が上に滞った状態、例えば緊張してる状態を”上がってる”と昔から言いますが、その状態でずっと日常居たら、頭おかしくなりそうですよね?

そういった偏差になった人たちが、私が修行当時の道場へ駆け込み寺の如く何人もいたのです。
私が覚えてるだけでも当時軽く10数人以上は、程度の差はあれ見られましたね。

ほんま狐でもついてるのでは?
と思うくらい、目はイってるし、奇声を挙げてクルクルと自ら回り続けたり、四つん這いになって這ったりと
ホンマ動物園かと思うくらいでした。

先ほどの古神道で話すならば、悪いエネルギー(邪霊や動物霊)と自我(副守護神)が繋がってしまった状態ですね。
氣をつけないといけないことです。

裏話はこれくらいにして、氣を学ぶ、瞑想を実践する上で、そのメソッドの本質をしっかりと理解した上で、正しく学び実践してもらいたいと思うばかりです。

では再度”直観力”に話を戻して、まとめの話をしたいと思います。


先ほど紹介しましたが、日本で古来より”肚でものを考える”と言う言葉があります。

これは脳でいう、大脳新皮質のみで考えるのではなく、大脳辺縁系を中心とした連携で本質を捉え考える、

つまり頭で理屈的に考えるのではなく、経験を基に直感(アイデア・イメージ)を立てて、まさに”直観的”に本質を捉える方が結果的には正解が多いとの、言い伝えです。

瞑想は、脳の整理術や活性術というよりも(それはあくまで副次的効果であって)、肚の直接鍛錬法であり心(脳幹)のエクササイズであると言えるでしょう。

少なくとも当道場の瞑想で核としているのは、肚の鍛錬、つまり臍下丹田の直接的な鍛錬を主としています。

瞑想の意義については間違いないよう、何度でも同じ文言を繰り返します! 瞑想は、自分を見つめ直すこと。

立ち止まって、自分自身を観る時間を持つことです。
そんなに突っ走って生き急がずに、一度立ち止まってみることです。

本当の自分は、何ができて何ができないのか。人に良くみて欲しい承認欲求から無理して、自分を実力以上に過大化していないですか。

自分は本当は何がしたくて、実際は今何をしているのか。
そして人生のどこに立ってるのか。

間違ったことは意地張らず、素直に改めて(自我・副守の改心)、正しい道を選べているか。

そしてこれからどう生きていくのか、生きていくべきなのか。

全ては自分の中に答えはあります。

自分自身で心と向き合い、答えを出していくしかないのです。
本当はわかっているのかもしれません。
ただそれを自我が邪魔しているから、観えないだけなのかもです。

それは日本古来の氣の考えであり、そして、人と大自然・大宇宙とがつながる大事な時間なのです。

日本人には、古より大自然・大宇宙を、神として畏敬し、またその下で宇宙・森羅万象の法則に則り大自然と共存し、秩序を守り力強く生きていた背景があります。

つまり現代の怪しい既成宗教の考えとは全く異なり、仏教伝来以前の古から国教であった神道は大自然・大宇宙の摂理であり、日本では古来より素直にその恩恵への感謝と祈願の意から手を合わせ、神に祈る姿があったのです。

これは神、すなわち大宇宙、大自然と繋がる時間であり、究極の瞑想の時間ともいえるでしょう。

武道の極も”神人合一(天人一致)”なのです。   

その元で、自分と向き合い、そして見直し、そして閃き(内流が入り)、開眼(直観で本質を認知)していく。

それがいろいろな意図的行為により”科学”という宗教が、この誰もが持っていた”氣の考え”や”瞑想”の時間から遠ざけさせてきた歴史的背景があります。

そうしてこれらは今では専門分野の人(坊主や各マスターら)がするものとさえ認識されていることに、大和民族、日本人としても寂しさを感じざるを得ません。

日々内省し、自らを正し、そして自分自身を知り、自分軸(肚)を確立して生きていく。

何が起ころうとも腹帯を締めてドシっと構えて前に進む。

その日々の力が身近なソサイエティ、国、そして地球の一つの力と大きくなり、時代が前に進んでいく。

私が伝えたい氣の武道や瞑想は、上に書いたことが重要な意義と確信しています。


少なくとも、当道場で伝えている明光武道式の瞑想である”鎮坐”はそれを核として行うのです。

その過程を経て、得られる副次的な結果(以前の投稿を読んでください)を目的にするのではないのです。

自我、我欲を強く持して行う瞑想などの行為は、必ずや慢心や固執心に囚われてしまうことで、最初はよい状態と思っていても、いずれ自ら地の底に落ちていってしまいます。

まずは何事にもとらわれないで、あるがままに座るのです。

だから、こうなるとかこうしなさいとかの余計な導きは必要ありません。
答えは自分の中にあるのだから。

自分自身と向き合い、見つめ直す。
シンプルにそれが瞑想です。

そうして培った”直観力”(肚で捉える)で、表面的なもの(既成概念)ではなく、物事の本質を把握して、人生を力強く前に進んでいただければと思います。

今回は瞑想の力について、
直観力から核の部分と注意点を
簡略にまとめてお話ししました。

 

 

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