世界文学登攀行

世界文学登攀行

世界文学の最高峰を登攀したいという気概でこんなブログのタイトルにしましたが、最近、本当の壁ものぼるようになりました。


第116回~第120回(P543-651終)

読みはじめは2022年7月のことであったらしい。
お風呂でコツコツ読み進めて、およそ2年の歳月をかけて読み終わった。

幼いころ、吉川英治を通じて読んだ三国志だったが、今回はじめて読む種本の「三国志演義」には、ほとんど幻滅に近い感想しか抱けなかった。
三国の英雄退場後の物語はさらに顕著に、断片的で、場当たり的で、物語作者も結末に向けて惰性で書いているようにしか思えなかった。

「三国志演義」を何のために読むのかという動機を思い返すと、途中からは面白いから読むのではなくて、この大作を読み切るチャンスは今しかないという思いと、疲れ果ててお風呂に入りながら、ぼーっとした頭で読むにはちょうどよかったという極めて消極的な理由による。
それでも「これ(晋の太康元年。(西暦)280(年))以降、三国はすべて晋の皇帝司馬炎の手に帰し、天下は一つの王朝のもとに統一された」(P646)という一文を読んだときは、読み切ったという感動に震えたものである。

「三国志演義」が三国の歴史を、物語としてうまくすくいあげられていなかったとしても、物語の土台になった陳寿の「三国志」、その舞台となった三国のスケールの大きな歴史のうねりに身をゆだねる心地よさがあったからこそ、最後まで読めたのだと思う。

僕の会社は、専門家という一匹狼の集まりなので、割とみんな好き勝手行動するような組織だと思っていたのだが、気がつけば会議などのいろんな人が意見を言い合う場というものが増えたような気がする。
こういう時に場の取り仕切りをとてもうまくやる人がいて、たぶんどこかでやり方を学んできたのだろうと思うようになった。
僕の仕事の最近のテーマはチーム力向上なので、会議一つとっても、有意義なものにするために何か学んでみようという気になった。

ちなみにファシリテーションて、会議の仕切り方、というぼんやりしたイメージしかなかった。
本書で示される定義は「一般的には『会議の場で話し合いを円滑に進めていくこと』」(P15)だそうだ。もっとも、続けて「私は、ファシリテーションとは、人生をよりよく生きる方法であると思っています」(P15)と、なにかよくわからない方向に行くのだけど。

本書を要約すると、様々な役職や立場の人が集まっている中で、どのようにすれば役職や立場を越えていろんな人から意見を引き出すことができ、集約して、結論や合意を導き出すことができるのか、そのノウハウや考え方について語られている。
正直に言うと、この本が想定しているような会議が、あまりイメージできなかった感じはある。
相手が委縮せずに自由に発言できる空気づくり、という観点から、会議の運営ノウハウとしてとらえてもいいけれど、対人関係で、やわらかい態度で受け止めて、相手が話しやすくするためのコツ、という文脈でとらえ直すした方が僕にとってしっくりくる内容の本であった。

とはいえ、いくつか覚えておきたいポイントはあったので、書き残したいと思う。

話がかみ合わない原因には次の5つがあり、チェックポイントとすることで交通整理ができる。
①論点がずれている②論理が飛躍している③表現があいまいで具体性がない④事実と感想が混在している⑤根拠がない
大事なのは、話がかみ合わない時は議論をクリアにすることが目的で、相手を論破することではないのだから、優しい言葉を使いましょう、だそうである(P44ー47趣意)

会議には次の種類がある。
①伝達のための会議②調整のための会議③検討のための会議④解決のための会議(P60)
この会議は何を目的とした会議なのか、その意識があるだけで全然違うなと思った。

会議のはじめに、会議の目的を明確にすることが大事、とあった。
これはなんの会議なのかという最初の共有事項を飛ばして会議をはじめてはいけないに決まっているのに、いつものやつで、というテイストではじめてしまっていたのではないかという反省があった。意識しようと思う(P80趣意)

ここからは、本書を読んだ後日譚。
実は、僕は、翌日に会議を控えていたので、この本を大急ぎで読んだ、という経緯がある。
反対意見も、優しく受け止めて穏やかに話そう、相手の意見も尊重することが大切だ、という意気込みで臨んだわけだけど、僕がよく対立する上司格の会議の主催者から、名指しで「他の人にも発言してもらいたいからあなたは控えてくれ」と冒頭に言われたので、全然やる気がなくなって、会議の間は別の仕事をしていた、というオチはあったよ。

ともあれ、本書の冒頭で、アル・ゴア元副大統領が演説に引用したというアフリカのことわざ
「早く行きたければ一人で行け、遠くへ行きたければみんなで行け」(P2)という言葉を引いて

「今まで、リーダーシップといえば『強い言葉やふるまいで、人々を説得する』、早く、力強くものごとを進めるイメージがありました。
 しかし、多様な価値観が混在するこれからの時代に求められるのは、一人でぐいぐい引っ張る強いリーダーだけではなく、より多くの人たちと協調できる調整型リーダーです」(P2)

という言葉を読んで、確かに、リーダーは決断して力強く遂行できることだけではなくて、みんなの意見を集約することも大事な資質なんだよなと改めて感じた。

 

 

 

中国農村の現在
――「14億分の10億」のリアル

サブタイトルや「まえがき」でも言及されているが、現在急速に都市化が進んでいる中国は「わずか40年前まで、人口の8割程度を農民が占める、文字どおりの農民国家で、正真正銘の『発展途上国』であった」(「まえがき」Pⅰ-ⅱ)とある通り、中国を支えている10億人の農民たちや、かつて農民だった人々が、どのような価値観を持って生活していて、時代の変化に立ち向かっているかというところに焦点をあてている。

本書は、中国農村の研究者である筆者が、閉鎖的な中国でわずかな人のつながりを頼りに滞在先を確保しながら、長年にわたって行われた現地調査を元にした1冊である。
実は本書に出てくるものの大部分は、名もない農村の人々のありきたりなエピソードである。
通常、こういう、エピソードを連ねた本というのは、単に体験の羅列だったり、結論ありきの論を修飾するためだけにエピソードが使われることが多い気がする。
本書はそういった薄っぺらい内容のものではなく、エピソードという個別的具体的な事象を、豊富に採取し、配置することによって、中国の平均的な農民の像を浮かび上がらせている。
サブタイトルの「リアル」という言葉は、誇張ではなかった。

エピソードの説得力には、実は種があり、そのことが「あとがき」で書かれている。
著者は本書の前に社会科学の研究書である『草の根』という本を上梓している。『草の根』では、中国の農村生活の底流にある基本的なロジックや公共生活のメカニズムを解明することが目標だった。そのため、行論上、直接的に意味をもたない断片的なディテールの数々はいったん保留にせざるを得なかった。
本書で著者が企図したのは、著者が農村の現場で五感を通じて感じ取った肌感覚を、『客観的でない』と切り捨てるのではなく、むしろ信じることであり、そこから出発して、等身大の中国農村をわかりやすく論じてみるということだった。(P278-279)
僕ら日本人から見ると、中国の勃興というものは、最先端の都市にのみ視点が行ってしまうが、社会主義国家である中国、その大部分の人々が住んでいた農村を考慮することなしに、中国を語ることはできないのであろう。

名もない人々が紡ぐエピソードは、本当にミクロな話に過ぎないけれど、事例研究を通じて「その時点での大多数の社会的現実、平均的で平凡な暮らしの様相をリアルに提示」(P229)しており、中国を丸ごと理解するためのイメージを抱くことができる。
中国に、何度も何度も滞在したかのような、親戚の家に定期的に訪れるような気持ちになりながら読書をした。素晴らしい1冊だったと思う。

著者が中国で長年農村調査を行った結果、自身がどのような方法を好むのか、ということをまとめている。

現地に何度も足を運び、その村を知るためにとにかく足を使った著者の研究哲学というべきものが興味深かった。
「現場を好む」「単独を好む」「平凡を好む」「散歩を好む」「出来事を好む」「反復を好む」「比較を好む」(P225ー236趣意)
ここまで読んできた内容とも照らし合わせて、研究活動とは、必ずしも書斎の本に埋もれることだけを意味するわけではないのだなと思った。

最後に、中国人の発想ということでなるほどと思ったこと。
中国は血縁というものを大変重んずる。なので、地縁をより重視する日本等とは、例えば結婚した後の姓についての考え方も変わってくる。
中国では結婚しても、血液の流れが変わるわけではないから、姓が変わらないのだそうだ。「姓は嫁ぎ先という『場』ではなく、あくまで自らのオリジンである血の流れを表している」(P26)また「女性は、男児の母親となり、血の流れの継承に貢献することで、初めて家庭内での地位を獲得する」(P26)
この文章だけ読むと、中国という国はいかにも女性蔑視という印象も受けるが、そういう発想が昔からあるというのは、日本だって大差ないような気もする。強調したいのは、あくまでも中国の血縁重視の考え方の部分だ。
著者の推測では、中国では紀元前の昔から絶えず大きな戦乱が起きており、そのため、いつコミュニティがばらばらになってもおかしくなかったから、より血縁が重視されたのだろうと記しているが、そういう歴史的な背景も含めて興味深いなと思った。

 

 

 

「桜の園」
作者:アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ
場所:ロシア
時期:1903年(チェーホフ43歳)

「可愛い女」「犬を連れた奥さん」に続く3作品目。
前2つの作品が小説だったのに対して、「桜の園」は戯曲である。

チェーホフの小説作品は、独特の、という形容を使いたいが、戯曲である「桜の園」は、本格的な、という形容を使いたい。
没落しつつある地主と新興商人の交代、がメインのストーリーであるが、限られた空間、限られた時間の中を、実に多くの人が歩き回り、しゃべっている。
その混雑ぶりにも関わらず、舞台は整然としており、かつ、濃度の高い場を醸成している。
完成度の高い戯曲なのだろうと思う。

僕も今まで、いくつか、傑作と呼ばれる戯曲作品を読んできた。
ストーリーがばちっと決まるような作品もあったし、主張が印象的に込められた作品もあった。
「桜の園」はそれとはまた、違う次元の面白さがある。

ストーリーを追っかけたり、主張を探しながら読むと、見失ってしまうような気がする。
これは、そうね、大きく言えば、当時のロシアの空気をそのまま持ってきたような、人間や社会の関係をまるまる描くような、そういう意欲作のような気がする。

没落する人を描くのだから、最後は大逆転が起きてハッピーエンドか、何も起こらないバッドエンドしかないはずなのだが、別に何も起こらず、ただ没落していくだけなのに、そんなにバッドでもないエンドになっているという。
社会は変化していくもので、その変化の中で人々は小舟のように浮かんだり沈んだりするものだけど、そういうものを受け入れながら人々は生きていくんだなあという気持ちで本書を閉じた。

形状しがたい感情が、じーんと胸の奥底で揺れ動くような読書だった。

そんなことを思いながら本書を閉じる直前、ある老人がこうつぶやく。
「人の一生、過ぎれば、まこと生きておらなんだも同然じゃ……」(P131)
楽しいこと、つらいこと、いろいろあるけれども、過ぎ去ってしまえば、人の一生なんか、生きてたって生きてなかったのと同じようなものだ、という風に読んだ。
ま、ありきたりなことを書くようだけれど、どんなにつらく悲しいことが目の前にあっても、今ここで自分は生きている、という感覚はとても大事なのだなと思った。

人生は短く、あっという間なのだから。

 

 

 

去年の12月に試験を受けた話をブログに書きました。受かってると思ってたし、4ヶ月も先のことだったので発表日のこと忘れてたのですが、寝たり起きたり寝たり起きたりしてるうちにその日が来てしまいました。


受かってると思ってる分、逆に落ちてたらどうしようと、前の日とか、発表1時間前は心臓がどきどきしすぎて誇張ではなく死んでしまうかと思いながら発表を迎えました。


結果は合格。

成績表が同時に開示されるのですが、Bランク以上で合格のところ、総得点が+10%以上のAランクでの合格だったので、余裕の合格でした。


大した試験ではないのですが、若い受験者層と戦って合格できたのは、やっぱり書く力が維持できたことに尽きると思います。2日で12時間の試験の半分は計算問題、半分は論述問題なので、理解できてても書けないと話にならないのです。

ブログで、コメントいただいたり、いいねもらえたり、記事を読んでいただけるという意識があるので、記事の内容がつたないのは仕方ないとしても、読んで意味のわかる日本語を書くことだけは心がけていたので、それは自然と文章を書くトレーニングになっていたし、書きたいことを文章として記す力になっていたと思います。

ということで、ほんと、読者の皆様にも大いに感謝しております。ありがとうございます。


仕事の実利の点から見ても、趣味で文章を綴るという点から見ても、出発点はどちらも自分自身なので、勉強や読書したことはどちらの充実にもつながるからとてもコスパがいいなと思っています。

書くことは本当に大変なことで、いつか慣れると思ってたけど、書く技術に際限はないなと10年かかってようやく気づきはじめたところなので、これからも四苦八苦しながら楽しくブログを書きたいと思います。


私事ではありますが、皆様に喜びの報告ができることがこんなにうれしいことだとは知りませんでした。

これからもたくさんいい本を読んで書いていきたいと思いますのでよろしくお願いします。