北海道の廃線の息吹を伝える代替バスの旅 第5章 羽幌線 | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

時々、身がしばれるような、厳しい真冬の旅に憧れることがある。
最近、雪国に行く機会がとんとなくなってしまったが、冬になると、北へ旅をしたくなる。
雪深い町を、あてもなく歩いてみたい、と思う。
無垢で純白の世界に、我が身を置きたくなる。

これは、そのような思い出深い1人旅の記憶である。

 
†ごんたのつれづれ旅日記†

平成18年2月の週末、羽田空港からAIR DOで新千歳空港に降り立ち、リムジンバスで向かった札幌市内で1泊した。
平成4年に移転したJR新千歳空港駅への新線が開業してから、札幌を結ぶエアポートライナーばかりではなく、旭川からの特急列車や小樽からの快速列車が乗り入れてくるようになり、札幌までバスを利用する客はそれほど多くないようである。
この日、僕は札幌に泊まるだけで他に予定はなく、時間に余裕があるから、1回は乗っておこうと思ったまでである。
道南自動車道を走り抜けて札幌に入ると、全く雪は見られなかったが、札幌駅の近くの路地でバスを降りると、襟元や足先から容赦なく忍び込んでくる厳しい冷気に、僕の日常はすっかり吹き飛んでしまった。
 
†ごんたのつれづれ旅日記†

翌日の午後、特急列車「スーパーホワイトアロー」で旭川へ足を伸ばした。
札幌と旭川の間は何度か行き来したことがあるのだが、昭和61年に登場した、俊足を誇るこの特急電車に乗るのは初めてのことだった。
その前にこの区間で特急列車を利用したのはいつのことだったっけ、と思う。

2時間にも満たない距離であるにもかかわらず、乾いた札幌市内とは一変して、旭川の街は一面の雪景色だった。
 
†ごんたのつれづれ旅日記†

旭川を16時30分に発車する鬼志別行き長距離バス「天北」号に乗るのが、この旅の最初の目的だった。
昭和60年に、宗谷バスが札幌から美深、音威子府、歌登、枝幸を結ぶ系統と、旭川から枝幸へ向かう系統の2路線を「えさし」号と名付けて開業、それより遅れて平成3年4月に旭川と音威子府、浜頓別、鬼志別を結ぶ運行距離223kmの長距離特急バスが走り始めたのである。
 
 
この旅から十数年前の師走のこと、長距離バスだけで真冬の道内をめぐったことがある。
札幌からの稚内行き特急バス「わっかない」号は、鉄道と少しばかり経路が異なり、道央自動車を北進し、深川から日本海に出て、海岸沿いを走る「オロロンライン」でサロベツ原野へと抜けた。
折り返しで乗車した旭川行き特急バス「すずらん」号は経路が異なり、天塩山地と北見山地に挟まれた内陸部の国道40号線で真っ直ぐに南下したのである。
 
見る者の心まで凍らせるように渺々と広がる、往路の陰鬱な日本海の眺めは、いかにも北海道らしく印象的だった。
復路の、白き湖の底に沈んだような山間の町や村をたどる雪深い山道も、手に汗を握るスリルと相まって、5時間もの乗車時間の間中、僕の心を捉えて離さなかった。
いつか再訪してみたいものだ、と願っていたのである。
 
 
 
平成元年に廃止された、稚内と鬼志別、浜頓別、中頓別、音威子府を結ぶ天北線の転換バスや、稚内から浜頓別を経て枝幸に向かう流氷観光バス「ポールスター」号に乗車した体験も鮮烈で、「天北」号は、思い出深い曾遊の地を訪ねるのに恰好のバスだった。
天北線を経由して札幌と稚内を結んでいた急行列車の名を受け継いだ愛称も、如何にも日本の最果てを行く旅情を醸し出していて好ましい。

ただし、幾つか、もどかしいことがある。
時刻表を眺めながら、「天北」号に乗車する機会を何年も窺っていたのだが、「天北」号は、同じ宗谷バスが運行する札幌-稚内線「わっかない」号や札幌-枝幸線「えさし」号のような札幌発着系統をどうして設けないのだろう、ということが1つ。
札幌発着の「えさし」号と接続して音威子府で乗り換えることが出来るとは聞いていたが、どうせならば「天北」号は起終点で乗り降りしたかった。
開業当初のチラシを見ると、「音威子府~旭川間はえさし号の続行便で運行しますが、ご利用人数が少ない日は音威子府で乗換えすることがあります」と書かれていて、運行事業者も利用客数をそれほど期待できなかったのかもしれない、と推察される。
 
もう1点として、「天北」号は徹底した地方側の利用客を指向した路線になっていて、鬼志別発6時05分・旭川着10時45分の上り便と、旭川発16時30分・鬼志別着20時58分の1往復しか運行されていないことであった。
地元の人が道央を往復するためのダイヤであり、他の地方でも時々見受けられる運行形態であるが、僕のようなよそ者が利用する時には、どうしても地方側での1泊を余儀なくされる。
 
 
鬼志別は稚内の手前のオホーツク海沿岸にある猿払村の中心ではあるけれど、旅館やホテルなどといったものが存在しているようには思えず、現に、「じゃらん」で検索しても鬼志別の宿泊施設はヒットしなかった。
目立った観光地がある訳でもなく、現地に宿泊するような需要は殆ど皆無と言っていいのであろう。
それでも、「天北」号に乗るには、鬼志別で泊まるしかない。
冬に行くのを諦めて、夏休みあたりにテントを担いで出掛けるか、とまで思い詰めたところで、「楽天トラベル」で鬼志別の旅館が検索された時には、小躍りする思いだった。
 
 
旭川の街並みを後にした「天北」号は、国道40号線に乗って、漆黒の闇の中をひたすら走り込む。
冬の北海道の日没は早い。
もう暮れなずんでしまうのか、と驚いている間もなく、瞬く間に、窓外は明かりの乏しい漆黒の闇に包まれてしまった。
進むほどに、雪は深まっていく。


十数年前の「はまなす」号の旅では、稚内を15時に出て、旭川に20時半頃に着いたから、短い冬の日が暮れてからの寂しげな夜の航海であることに変わりはない。
景色も見えず、何のために東京から来たのかと思われそうであるが、凍てついた道路の走行にヒヤヒヤし、運転手さんのハンドルさばきに感心することで、厳冬期の道北の厳しい自然の雰囲気に触れられるならば、僕にとっては充分なのである。
ところどころ、このあたりの道は良くなったのではないか、と察せられる区間もあったけれど、豪雪に埋もれた沿道の佇まいには見覚えがあり、懐かしさに胸がつまりそうになった。
絶え間なく降りしきる大粒の雪を、街路灯や家々の灯が鮮やかなオレンジ色に染め上げて、水滴に濡れて曇った窓ガラスを彩っている。
 
士別大通り6丁目 17時30分。
名寄駅前 18時10分。
音威子府バスターミナル 19時10分。

「天北」号は、音威子府から国道275号線に折れて東へ向かい、天北峠を越え、オホーツク沿岸へ出て行く。
平成元年の真夏に天北線転換バスに揺られてこの地を通った時には、小頓別や中頓別は山あいに開けた小さな集落、浜頓別は緑の原野の真っ只中だったと記憶しているけれど、この夜は、真っ白な雪の帳に覆われているだけであった。
 
 
天北線が健在だった昭和63年の時刻表を見ると、1日1往復だった急行「天北」の下り列車は、札幌を11時30分に発車し、旭川を13時26分、和寒14時03分、士別14時19分、名寄14時47分、美深15時10分、音威子府15時42分、小頓別16時02分、中頓別16時32分、浜頓別16時51分、鬼志別17時22分、南稚内18時20分、終点の稚内着は18時25分と、旭川から鬼志別まで3時間56分の行程であった。
 
特急バス「天北」号の時刻表を見ると、音威子府から鬼志別の間の停留所は次の3ヶ所だけである。
 
小頓別 19時26分
中頓別ターミナル 19時55分
浜頓別ターミナル 20時17分
 
特急バスの、旧天北線沿線地域における停車駅は急行「天北」と同じで、旭川から鬼志別までの所要時間は4時間半、高速道路をいっさい使わないバスにしては健闘していると言うべきか。
 
 
ただし、この旅の記憶では、もっと多くの停留所があったような気がしてならない。
初期の時刻表には、浜鬼志別、浜猿払、浅茅野、下頓別、敏音知でも乗降できます、と小さく書かれているが、現在の宗谷バスのHPではこれらの停留所には触れられていない。
何よりも、あまりの豪雪と深い闇のため、自分が走っている土地の様相などさっぱり分からず、バスが停車しても、そこが信号待ちなのか、それとも乗降客のない停留所なのかすら、定かではなかったのである。
 
唯一、浜頓別バスターミナルだけは、はっきりと区別できた。
雪にすっかり埋もれてはいるものの、瀟洒なガラス張りの建物と、整備されたロータリーが車内からでも見ることができ、まばゆい街灯が車内を明るく照らし出したのである。
天北線で走っていた気動車も保存されている。
ただ、その周辺に、家々らしき明かりを目にすることは出来なかった。
 
†ごんたのつれづれ旅日記†
 
このバスに音威子府から先で乗車してくる客はいない。
クローズド・ドア・システムと呼ばれ、起点付近では乗車のみ、終点側では降車だけ、と長距離高速バスでよく見られる乗降方式である。
このバスに乗るのは旭川や札幌を行き来する人だけですよ、と制限されている訳であるから、車内は人が減る一方である。
どっと乗客が降りてしまった浜頓別で、もしや、と思いながら車内を見回すと、案の定、残っているのは僕1人だけだった。
巨大な車体のバスを1人占めできるとはこの上ない贅沢であるものの、寂しい雪の夜では心細さが胸を締めつける。
 
鬼志別にたどり着いたのは、定刻20時58分よりも少しばかり遅れた21時過ぎであった。
長距離バスの終点が村というのも、珍しいのではないだろうか。
ここから稚内までの間にめぼしい集落はないし、稚内まで行ってもしょうがないから、ここで勘弁して下さい、といった風である。
 
鬼志別に用があるわけではない。
乗りたかったバスの終点だったから、という理由だけでやって来たのだ。
 
†ごんたのつれづれ旅日記†

バスが走り去ると、僕は1人、ぽつんと取り残された。
集落の中で唯一、灯りで照らし出されている無人のターミナルである。
運転手さんは、何処までバスを回送して、何処に泊まるのだろう、と思う。

このような時間にたった1人で置き去りにされてしまうと、鬼志別とは何やら恐ろしげな地名として感じられてしまうのだが、アイヌ語で河口付近に木が群生している川を意味するオ・ニ・ウシ・ペッ、または河口が良い漁場の川という意味のオ・ヌ・ウシ・ペッが元になっているという。
ここは、明治期から我が国随一のホタテの漁獲高を誇っている村として知られている。
なぜ、鬼、などという漢字を当てたのだろうと思う。
 
街灯だけが点々と連なる広い通りにも人影は全く見られず、雪に埋もれた家々がひっそりと軒を並べているだけだった。
見上げれば、途切れることなく、真っ暗な天空から無数の大粒の雪が舞い降りて来る。

このバスターミナルは、かつての鉄道の駅の跡地に設けられたと聞いている。
天北線の鬼志別駅である。
利用者が少なく採算が合わない、という理由で、いとも簡単に鉄路は断たれてしまった。
いわば、ここは、現代が造り上げた遺跡なのである。
そのような眼で見直してみれば、鬼志別のターミナルは、古代遺跡に併設された博物館のような佇まいに見えないこともない。
実際、内部には、天北線を偲ぶ写真や鉄道資料が飾られている。
ここに来るまでに立ち寄ってきた小頓別や中頓別、浜頓別のバスターミナルも、かつての天北線の駅だったのだろう。
 

いいのか、僕らの国は、このままで。
過疎の地域を放置し、寂れていくままにして──。

ふと、そのような思いが胸中をよぎる。
鬼志別に住む方々には余計なお世話かもしれないが、北海道に来るといつも込み上げてくる、やるせない思いである。
 
我が国は、大都市以外の地域に、果たして優しいのだろうか?
民主主義は大切だけれど、多数決で全てを決めたら、人口の少ない地域は取り残されてしまう一方なのではないだろうか?
多数決で起こる不均衡に配慮し是正するのが、政治の役目であるはずであるのに、結果を産み出せていない。
もしくは、道路の整備や路線バスへの補助金の拠出だけが地方振興策であるとの古い観念から抜け出せていないのかもしれない。
北海道の鉄道廃線と平行する道路はどれも立派であったけれども、過疎化を押し止める決定打にはなり得ていない。
地域の人々は、若い世代を中心に都会へと出て行き、鉄道もバスも故郷を離れて行く人々を運ぶだけで、過疎地と共倒れになっていく。

松前線が廃止された松前でも、同じ事を感じた。
深名線沿線の幌加内や朱鞠内でも、興浜北線を失った枝幸でも、名寄本線が消えた紋別でも、標津線沿線の標津や別海でも、広尾線沿線でも、そして天北線沿線でも──

それは、通りすがりの旅行者の、単なる感傷に過ぎないのだろうか。
 
†ごんたのつれづれ旅日記†
 
雪が降る音を、久しぶりに聞いた。
しんしん、というのは擬態語ではない。
本当に静かな場所ならば、雪は、シン、シンと、衣擦れのように柔らかな音を立てて降り積もる。

さて、これから予約した旅館をどのように探そうか、と人っ子1人通らない家並みに眼をやりながら若干途方に暮れていると、宿の人が車で迎えに来て下さった。

「バスだと思ったよ。他にここに来る手段はないからねえ」

と笑いながら、おかみさんはハンドルを回す。
助手席に乗らせて貰うと、ターミナルから、たった数軒先に行くだけだった。
おかみさんは、宿の前で、勢いよく車をUターンさせた。
え?こんな近くなのに車で来てくれたのか、と驚く間もなく、横滑りするのではないかと仰け反りそうになった。
北海道の人は、雪道の見切りが凄い。
絶対にスリップする、と息を呑むような速度で、滑らせずに車を操る。
「天北」号の運転手さんも、そうだった。

その夜の宿泊客は僕1人だった。
一見、普通の民家と変わらないような外見である。
しかし、この宿がなかったら、朝の上り便と夜の下り便の1往復しかない「天北」号に乗ることなどかなわなかった。
鬼志別のもう1つの公共交通機関である天北線転換バスは、とっくに終バスの時間を過ぎているのだ。
 
 
狭い食堂には、このような遅い時間にも関わらず温かい心尽くしの夕食が用意され、あてがわれた部屋もストーブで暖まっていた。
食堂の大机に1人で坐り、小さなコンロで鍋料理を温めながら、何となく幸せな気分になった。
さりげなく気配りが行き届いた、北国の人々の温かさを感じたのだ。
数歩先の外付けのトイレに行く途中ですら凍死することがあると言う、凄まじい自然の厳しさを知り尽くしているからこそ、手の差しのべ方を熟知しているもてなしだった。
だからこそ、僅か数十メートルでも車に乗せてくれる。
そのような優しさが身にしみるから、北国の冬の旅は魅力的なのだと思う。

窓の軒下にぶら下がるつららの、大きかったこと。
 
†ごんたのつれづれ旅日記†

翌日は、一面の銀世界が輝く快晴だった。
僕は、天北線転換バスで雪の宗谷丘陵を越えて稚内へ向かい、特急列車「サロベツ」で豊富へ向かった。 
なぜなら、オロロンラインを走る札幌行き高速バスの始発が、豊富だからである。
 
前夜の鬱々とした闇の車窓とは対照的な、明るさに溢れた汽車旅になった。
サロベツ原野の真っ白な雪原に、燦々と陽の光が降り注ぐ様を眺めているだけで、爽快な気分になる。
「サロベツ」はディーゼルエンジンの唸りも高らかに、雪煙を巻き上げて快走する。
南稚内と抜海の間では、宗谷富士と呼ばれる利尻山が海の彼方に浮かんでいるのを眺めることも出来た。
 

 

†ごんたのつれづれ旅日記†
 
 
†ごんたのつれづれ旅日記†
 
 

 
雪深い豊富の町並みにも、殆んど人影はなかった。
初めて訪れた町を、雪を踏みしめながら歩くのは、楽しかった。
夕べの鬼志別と全く違う気分だったのは、明るい真っ昼間だったからであろうか。

駅から少しばかり離れた国道沿いの営業所から発車する札幌行き長距離バスは、15時05分発の「はぼろ」号である。
残念ながら、黒いお湯の温泉として知られる豊富温泉につかる時間はない。
バスは豊富温泉にも寄ったのだが、見上げるような雪の壁に視界を遮られて、温泉街の風情を感じるどころではなかった。
 
†ごんたのつれづれ旅日記†

十数年前に乗った「わっかない」号とは逆にたどっていく日本海沿岸の町々には、昭和62年まで、国鉄羽幌線が通じていた。
羽幌線は、もともと道北西海岸の炭鉱開発と石炭・ニシンの輸送を目的として、宗谷本線と交差する幌延駅と羽幌駅、そして羽幌駅と留萌本線留萠駅を結ぶ2つの区間が、それぞれ南北両端から建設が進められた。
 
前者は、改正鉄道敷設法に「天塩国羽幌ヨリ天塩ヲ経テ下沙流別付近ニ至ル鉄道」と定められ、昭和7年に工事が開始され、昭和10年に天塩線として幌延と天塩の間が、昭和11年には天塩と遠別の間が開業している。
後者は軽便鉄道法により計画され、国鉄留萠線の支線として、北端部分より早い昭和2年に留萠と大椴の間が開業したのを皮切りに、昭和3年に大椴-鬼鹿間が、昭和6年に鬼鹿-古丹別間が、昭和7年に古丹別-羽幌間が、昭和16年に羽幌-築別間が順次延伸された。
太平洋戦争により建設工事が中断したものの、昭和32年に築別-初山別間が、昭和33年に初山別と遠別の間が開通することで、足かけ20年にも及ぶ羽幌線の建設は、幌延-留萠間141.1 kmの全線開業という形で完了する。
 
しかし、昭和40年代から50年代にかけて、我が国のエネルギー政策の転換による炭鉱の相次ぐ閉山とニシン漁の不振、そして沿線人口の過疎化による貨物・旅客の輸送量が減少し、並行する国道232号線の整備が進んだことで、昭和59年の国鉄再建法で廃止対象路線に選定され、国鉄分割民営化を2日後に控えた昭和62年3月30日に廃止された。
羽幌線は、日本国有鉄道最後の廃止路線となったのである。
 
 
天北線の急行「天北」と同様、羽幌線にも急行列車が運転されていた。
昭和36年に小樽駅から札幌駅を経由して築別駅までの準急「るもい」が単行で走り始め、昭和37年には、札幌駅-幌延駅の間を結ぶ留萠本線・羽幌線経由の急行「はぼろ」が1往復で運行を開始した。
その後急行に昇格した「るもい」は、旭川発留萠行きの下り列車のみの運転となって羽幌線への乗り入れを取り止めてしまい、昭和61年には急行「るもい」と「はぼろ」は共に廃止されたのである。

 
その2年前の昭和59年12月に、札幌を起終点として天塩発着1往復、豊富発着2往復で運行開始した長距離高速バスは、羽幌線の急行列車と同じ名称を受け継ぎ、1日5往復に増便されながら、今でも走り続けている。
まるで急行「天北」と特急バス「天北」の縁を思わせて、長距離バスが、鉄路を失った地域の人々の期待を一身に受け継いでいるように感じられるから、胸が熱くなる。
 
往年の急行「はぼろ」は、廃止間際の昭和55年の時刻表によれば、幌延を6時20分に発車して、天塩、遠別、初山別、羽幌、苫前、古丹別、鬼鹿、小平、留萠と停車し、札幌には12時34分着という6時間余りの行程であった。
 

特急バス「はぼろ」号の朝の上り初便はどうかと言えば、豊富営業所を5時35分に発ち、幌延十字街発が5時53分、天塩新栄通り6丁目、遠別営業所、豊岬、初山別営業所、羽幌本社ターミナル、羽幌ターミナル、苫前上町、上平、力昼、鬼鹿3区、小平中央、留萠春日町、留萠元川町、留萠東橋と急行列車よりもやや小まめに停車して、札幌駅前バスターミナルには10時45分着と、幌延と札幌の間は所要5時間を切る俊足ぶりである。
開業当初は急行列車と大して変わらない5時間50分を要していたようであるが、高速道路の延伸などで大幅にスピードアップが出来たようである。
 
加えて、最初は女性添乗員が乗務しておしぼりや弁当、飲み物を配ったり、毛布を乗客に勧めたり、航空機並みの様々な車内サービスが行われていたという記録を読んだこともある。
僕が乗車した「わっかない」号や「すずらん」号にも同様のサービスがあり、平成初頭の道北の長距離バスでは豪華さを売りにする競演が見られたのである。
 
 
国道より山ぎわに、一段と高い盛り土が、線路の痕跡らしく平行して伸びている。
線路が残っている訳はないと思われるが、今にも列車が現れそうな景観が残されている。
天北線でもそうだったが、このように真新しい現代の遺跡は、建設した人々の苦労や、沿線の人々の期待を担っていた時代に思いを馳せると、胸がつまる。
容赦のない時の流れを実感する。
 
 
唯一の慰めは、鉄道代替バスが今でも元気に走っていることであろうか。
羽幌線の廃止代替バスは沿岸バスが運行し、令和元年8月現在で、運行区間は細分化されているものの、幌延留萌線、初山別留萌線、羽幌留萌線、上平古丹別線など7系統が運行され、一部は小回りを利かせて留萌市立病院や豊富駅まで乗り入れて、廃線の代替バスとしてはかなりの運行本数を維持しているのは、嬉しいことである。
 
幌延と留萠の間141.6kmにおける区間ごとの代替バスの運行本数は以下の通りである。
 
留萌駅前-留萌十字街;下り10本・上り11本
留萌十字街-上平;下り11本・上り12本、1往復は快速
古丹別-上平:下り10本・上り11本
上平-羽幌ターミナル:下り12本、1往復は快速
羽幌ターミナル-初山別北原野:下り9本、上り10本、1往復は快速
初山別北原野-幌延駅;上下9往復、1往復は快速
 
 
全区間を通しで運転する便もあり、快速便は幌延から旭川まで足を伸ばして運行距離が223.4kmと、一般道経由の路線バスとしては日本一の長さを誇っていた。
平成13年に幌延-留萠間と留萠-旭川間に系統が分割されたため、我が国の路線バスで最長を誇る大和八木-新宮線168kmや、次点の釧路-羅臼線166.2km、稚内-音威子府線「天北線転換バス」164.6kmよりも公式には短い路線とされているが、実質は1台のバスがそのまま直通しているというネットでの報告もあり、また豊富と留萠を結ぶ系統は159.8kmという我が国有数の長距離運行なのである。
 
僕が豊富で「はぼろ」号に乗る前に見掛けた留萌行きに乗っている客数は、決して多くはなかった。
内情は決して楽ではないのかも知れないけれど、天北線や深名線とは異なり、羽幌線は廃止路線の中では旅客数が比較的多い部類であったのかも知れない。
 
バスよ頑張れ、と祈るような思いで応援したくなる。
 
†ごんたのつれづれ旅日記†

うら寂れた海岸に沿って数十㎞を走るオロロンラインで、とっぷりと日が暮れた。
この道をもう1度走りたくて、僕は「はぼろ」号を選んだのである。
羽幌線の廃止は、僕が一人旅を始めるより早い時期だったから、どのように足掻いても間に合わなかったけれども、「わっかない」号や「はぼろ」号のような特急バスが残っていることに感謝すべきであろう。
いつか、羽幌線転換バスに乗りがてら、この地を三たび訪れてみたいと思う。

オロロンとは、天売島に繁殖するウミガラスの別名である。
ニシン漁に携わる男たちを目当てに、この地にやって来た女性たちのことを、オロロンと呼んだこともあると聞く。
行き交う車の他には動くものとて見えないこの地域にも、様々な人間が繰り広げてきた人生や歴史があるのだと思う。

波が荒く、暗転していく日本海では波頭だけが白く浮き上がり、砂浜に次々と押し寄せてくる様を映し出す車窓に、僕の目は釘付けだった。
時が流れ、人々の生き様や社会情勢がどうなろうとも、寒々としたその光景は、十数年前と何ら変わりがなかった。

オロロンラインを過ぎ、18時頃に留萌市内を通過すれば、留萠自動車道と道央自動車道で20時15分着の札幌まで2時間あまりである。
「はぼろ」号を包む深い暗闇の中で、再び、雪が激しく降り始めていた。
 
†ごんたのつれづれ旅日記†
 
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