うらにしを旅する・番外編~大阪-金沢間高速バスの歩みと583系夜行急行列車きたぐにへの惜別~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成18年の師走のこと、大阪から小浜を回って金沢駅に降り立ち、湿り気を帯びた冬の北国の空気を胸一杯に吸い込んでいると、別のホームに滑り込んでくる大阪発札幌行き寝台特急列車「トワイライトエクスプレス」の姿が目に入った。
 
 
個室寝台を中心として編成された豪華寝台列車で、この日、15時40分発の金沢駅から乗り込む客は見受けられなかったが、僕は急ぎ足で地下道をくぐり、ホームを移動した。
日本海の夕景を愛でながら北海道に渡る汽車旅はとても魅力的で、乗ってみたい、と思いながらも、僕はかろじて思いとどまった。
 今回の旅の目玉として、鎌倉-大阪間夜行高速バスや「わかさライナー」号に加えて、乗車を企んでいる乗り物があった。
夜行急行列車「きたぐに」である。
 
 
「きたぐに」の歴史は、大正13年に神戸と青森の間で運転を開始した急行503・504列車に遡る。
太平洋戦争中はいったん運転を取り止めていたが、昭和22年に運転を再会、昭和25年に「日本海」と名付けられた。
昭和43年10月には、同じ区間に登場した寝台特急列車に愛称を譲って、急行列車は「きたぐに」へと改称、昭和57年に大阪-新潟間に区間を短縮した。
 
一方、寝台特急「日本海」は、北陸・信越・羽越・奥羽本線を走り抜く日本海縦貫線を長く行き来し、昭和63年の青函トンネル開通後に函館まで足を伸ばしたものの、平成24年に定期運行を休止した。

平成元年に登場した「トワイライトエクスプレス」は、当初はツアー列車として一般に乗車券が販売されなかったり、下りは月・水・金・土曜日、上りが火・木・土・日曜日に運行される臨時列車の扱いであったことから、同じ日本海縦貫線を行き来する夜行列車でありながら、純粋な「きたぐに」や「日本海」の系譜とは言えないのかも知れない。
それでも、大阪と札幌の間1495.7kmを約22時間で走り抜く、JR発足後では日本一の長距離列車であったことから、いつかは乗りたいと機会を窺っていたのだが、未乗のまま、平成27年に廃止されてしまった。
 
僕らの国から夜行列車が次々と消えた現状は、夜間に移動する旅客の減少で、やむを得ないことと理解はしていても、鉄道ファンとしては一抹の寂しさを禁じ得ない。


期を同じくして、JRから急行列車が消えたことも、また時代の流れなのであろうか。

僕が子供の頃の長距離移動の主役は急行列車で、大抵の線区では、特急より急行の方が本数が多かった。
学生時代になると、当時の周遊券が、周遊指定地域の入口まで、急行列車の自由席利用ならば料金が不要だったから、北海道や東北への旅では、特急列車や新幹線には目もくれずに、自由席が連結された夜行急行「八甲田」や「津軽」を重宝したものだった。


急行型車両の老朽化と、新幹線網の発展で在来線の特急車両が余剰になったという裏事情はあったにせよ、JRとしても急行料金より特急料金の方が実入りが良いのは一目瞭然であるし、利用者も、速達性や居住性の向上、もしくは廉価な移動手段を望んだ結果、急行は特急へ格上げされるか、急行料金が不要な快速・普通列車へ格下げされたのである。
急行列車が著しく数を減らしたのは昭和57年11月の国鉄ダイヤ改正が皮切りで、JRが発足してからもその趨勢は変わらず、JR四国からは平成11年に、JR九州では平成16年に、JR東海では平成20年に、JR西日本では平成24年に、JR東日本とJR北海道では平成28年に、全ての定期急行列車が姿を消すことになる。



座席などのアコモデーションは確かに良くなったけれども、停車駅の数や速度は往年の急行列車と大差がない特急列車も少なくない現状は、同じような商品の名前だけ変えて、体の良い値上げをしただけではないかとも思う。
 
昼行の急行列車は、平成21年に廃止された岡山と津山を結ぶ「つやま」が最後となり、夜行急行列車も、青森と札幌を結んでいた「はまなす」が平成28年3月に廃止されたことで、今や我が国における急行という列車種別は、私鉄の速達列車に残るだけになった。


この旅の当時に残っていた夜行急行列車は「きたぐに」と「はまなす」だけで、早めに乗っておかないと乗り損なうぞ、と危機感を抱いていたのだが、東京の人間が大阪と新潟を結ぶ列車を利用する機会などは、そうそう巡ってくるものではない。
大阪から小浜、敦賀を経て金沢に至る旅程を「きたぐに」に乗るチャンスと捉えるのは、我ながら飛躍しすぎであるけれど、問題は、どのようにして「きたぐに」に乗り込むか、である。
 
「きたぐに」は、大阪を23時27分に発車してから、新大阪、京都、大津、彦根、米原、長浜、敦賀、武生、福井、小松、金沢、高岡、富山、滑川、魚津、黒部、入善、泊、糸魚川、直江津、柿崎、柏崎、来迎寺、長岡、見附、東三条、加茂、新津、亀田と、深夜帯でも主要駅にこまめに停車する、古くからの夜行急行らしい運行形態を残し、終点の新潟には8時30分に到着する。
金沢にも午前3時52分に停車するのだが、最初で最後になるかも知れない「きたぐに」の一夜を、中途半端な乗り方で過ごしたくはない。
 
 
僕は、16時30分に金沢駅東口を発車する大阪行き高速バスに乗り込んだ。
 
大阪と北陸を行き来する旅客は多く、最高速度が時速130kmにも及ぶ俊足の特急列車が、北陸本線と湖西線を経由して、1日十数往復が行き交っている。
一方、平行する高速バスは、平成元年に南海バスと富山地方鉄道バスが運行するなんば-富山線、平成2年に南海バス・京福バス・福井鉄道バスが運行するなんば-福井線が登場したものの、鉄道より40kmほど遠回りの米原JCT経由であることと、名神高速の天王山トンネル付近における慢性的な渋滞のために定時運行が難しく、所要時間が鉄道の2倍近くを要したことから、後者が平成5年に、前者が平成13年に、それぞれ運休してしまう。

大阪と北陸を結ぶ高速バスは、一時、平成15年9月に登場した「わかさライナー」号が孤軍奮闘という有様だったのである。
 
 
金沢でも、隣県の富山と福井から大阪へ運行した高速バスの不振に怖れを成したのか、大阪への路線はなかなか開設されなかった。
昭和63年に、京都-金沢間で「北陸道特急バス」が運行を開始したものの、こちらも乗客数は伸び悩んでいたと聞く。


このように閉塞的な状況を打ち破ったのは、平成15年12月に西日本JRバスが運行を開始した、金沢と大阪を昼間に結ぶ「北陸道昼特急大阪」号3往復と、夜行の「北陸ドリーム大阪」号1往復であった。
バスにとっての大阪と金沢の間は、夜行にするほど遠くなってしまうのか、と驚いたものだったが、当時、東京-大阪間「東海道昼特急大阪」号や大阪-広島間「山陽道昼特急広島」号といった、それまでは考えられなかった長距離昼行高速バスが登場し、また、東京-静岡間や大阪-名古屋間などの短距離区間に夜行高速バスが運行されるという、速達性ばかりが移動の選択肢ではない時代が始まっていた。
 
大阪と金沢の間を5時間半から6時間もかけて運行する「北陸道昼特急大阪」号は、鉄道と所要時間を競う戦略を完全に放棄している。
それでも、横3列独立シートを備えた2階建てのダブルデッカーで運行されたこの路線は幸いにも好評を得て、翌年には富山まで延伸し、福井や京都の市街地を経由する系統も登場している。
今や昼夜行8往復に増便されて、週末の夜行便には常に続行便がつく盛況ぶりを見せ、昼行便でも乗車券が入手困難になる便が少なくないという。
 
僕も、平成16年の師走に大阪駅から金沢駅を経て富山駅に向かう「北陸道昼特急大阪」号を利用して、とうとう大阪と金沢が高速バスで結ばれたのか、と小躍りしたくなったものだった。
 
 
平成9年に瀬田東JCTと大山崎JCTを結ぶ京滋バイパスが完成し、名神高速京都南ICと吹田ICの間が往復6車線に拡張され、天王山トンネルは2車線の道路が上下線で2本ずつの合計8車線に生まれ変わったのは平成10年のことであり、渋滞の名所という汚名は返上されつつあった。
これならば太刀打ちできると踏んだのか、平成15年に阪急バスと富山地方鉄道バスによる大阪-富山線が復活、平成16年に阪急バスと北陸鉄道バスによる大阪-金沢線が、平成19年には阪急バスと京福バス・福井鉄道バスによる大阪-福井線が開業して、北陸3県の県都が揃って大阪と結ばれることになったのは、御同慶の至りである。
 
平成初頭からの関西-北陸間の交通史は、そのまま日本社会の変遷を如実に反映しているように思えてならない。
 
 
私的な興味としては、大阪側の事業者が、南海バスから阪急バスにそっくり入れ替わっていることに目が向きがちになる。
昭和63年には阪急バスと新潟交通バスが大阪と新潟を結ぶ夜行高速バス「おけさ」号を開業していたから、一時は北陸に向かう大阪発着路線を阪急バスが独占する状態が続いていたが、平成20年に南海バスと越後交通が大阪と柏崎・長岡・三条を結ぶ夜行高速バスを開業させ、「SOUTHERN CROSS」塗装の高速バスが再び北陸でも見られるようになった。


大阪行きの阪急バスは、壮麗な駅舎を背景にした金沢駅東口のバス乗り場を定時に発車し、武蔵ヶ辻、香林坊、片町といった繁華街の停留所に立ち寄ってから、金沢西ICで北陸自動車道に入った。
横3列独立シートの乗り心地は上々で、移りゆく車窓に目を向けているだけでも、のんびりとくつろいだ気分になる。
松任と小松付近の海岸線を走る区間で夕暮れの日本海を眺め、福井平野を過ぎてからの杉津越えでは、海抜200mの高みから、こんもりとした山々に囲まれる敦賀湾を眼下に望む。

数時間前に、僕は、その波打ち際を鉄道で逆方向に走ったばかりで、夜には「きたぐに」で三たび同じ区間を下っていくことになるのだから、幾ら乗り物好きではあっても、行ったり来たり、いったい自分は何をしておるのかと思う。
 
 
福井平野の南端に位置する今庄から敦賀にかけては地勢が険しく、9世紀に北国街道が開かれた木ノ芽峠は、北陸の入口に立ちはだかる有数の難所として、越前、越中、越後の「越」の名の由来にもなった。
明治29年に建設された北陸本線は険しい木ノ芽峠を避け、海側の山中峠を越えて杉津を経由するルートで建設されたが、昭和37年に、木ノ芽峠の直下に1万3870mの北陸トンネルが掘削された。
それでも、昭和47年には、北陸トンネルを通過中だった急行「きたぐに」で悲惨な火災事故が発生し、木ノ芽峠が現代でも安易に越えることが出来ない難所であり続けていることを、世に知らしめた。
 
昭和52年に建設された北陸道は、鉄道に倣って、杉津越えをルートに選んだ。
北陸本線有数の眺望を誇った杉津駅の跡には、現在、北陸道杉津PAが置かれて、かつての鉄道名所と同じ景観を見せてくれる。
 
 
敦賀を過ぎてからも険しい地形が続き、琵琶湖の北側にそびえる賤ヶ岳と柳ヶ瀬山の麓を右に左に身を捩るようにすり抜けてから、米原JCTで名神高速に合流する。
ハイウェイを埋め尽くす車の密度が急に高くなったが、流れは至ってスムーズだった。
 
米原のあたりで、とっぷりと冬の日が暮れた。
車窓が暗転し、窓に映るのは路端に並ぶ水銀灯と、車のライトだけになってしまう。
バスの走りっぷりに揺るぎはなく、いつしか山岳地帯を抜けて平坦な畿内に降りてきたことは乗り心地から察することができるのだが、琵琶湖の湖面も、彼方に連なる比良の山々も、墨に塗り潰されたような闇の彼方である。
 
大阪と北陸を結ぶ特急列車の韋駄天ぶりは、昭和49年に完成した高規格の湖西線で京都と敦賀の間をショートカットしている線形に負うところが大きい。
冬ともなれば、湖西線は比良おろしの強風のためにしばしば不通となり、金沢・富山行きの特急列車が米原経由を余儀なくされて、ダイヤを大きく乱すこともあるのだが、この日はそのような荒天ではなかった。


阪急バスと北陸鉄道バスの大阪-金沢線は、「北陸道昼特急大阪」号よりも速達性に重きを置いているようで、北陸道の南条SAと名神高速多賀SAで休憩を取り、名神高槻バスストップと、御堂筋沿いの千里ニュータウン停留所に停車する以外は、脇目も振らずに先を急ぐ。
バスが、終点の阪急三番街高速バスターミナルに滑り込んだのは、発車から4時間40分後の21時10分であった。
 
阪急梅田駅とJR大阪駅を繋ぐデッキの階段では、大道芸人が、火をつけたスタッフを用いたスイングジャグリングを披露して、取り囲む聴衆の喝采を浴びており、僕もしばし、夜空に火花を散らす火棒の演舞を楽しんだ。

 
大阪駅の周辺や構内のコンコースは、夜が更けるのも知らぬげに往来する人々で賑わっているが、改札を入って、奥まった位置にある11番線に向かうと、異世界のように忽然と人の気配が消え失せる。
ひと昔前であれば、このホームから各地への夜行列車が出発していったものだったが、今では、23時27分発の新潟行き「きたぐに」と、日付が変わった0時34分発の高松・出雲市発東京行き寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」だけになってしまった。


かつては大勢の利用客で賑わった時代の名残を窺わせる、どっしりとした造りの幅広な片面ホームを見渡せば、夜の寂しげな雰囲気は、そのまま我が国の夜行列車の衰退を物語っているかのようだった。
ひっきりなしに通勤電車が出入りする遠くのホームを眺めているうちに、自分が世の中から取り残されてしまったような、落ちぶれた気分になる。
 

このホームを初めて使ったのは、大学受験の帰りに長野行き夜行急行「ちくま」に乗車した30年近くも前のことで、その時も、先行き不透明な前途への不安と相まって、人影がなく暗いホームの侘しさがひときわ身に滲みた。

10年ほど前には、新潟行き寝台特急「つるぎ」に乗車したこともある筈なのだが、本当に乗ったっけ、と自信がなくなるほど、その時の大阪駅11番線の佇まいの記憶はない。
昭和36年に大阪と富山を結ぶ準急列車として登場した「つるぎ」は、昭和38年に急行列車となり、昭和47年に新潟まで延伸された上で特急列車に昇格した。
しばらくは「きたぐに」と並んで大阪と新潟の間を行き来していた「つるぎ」であったが、平成6年にあっけなく廃止されてしまう。

大阪と信州を結んでいた「ちくま」も、臨時列車に格下げされた後、平成17年に姿を消した。
 
 
時計の針が午後11時を回る頃、線路の彼方の闇の中にヘッドライトが煌めき、583系寝台電車の「きたぐに」が入線してきた。
北陸の地図を背景に佐渡おけさを躍る女性が描かれたヘッドマークが、前面に眩しく輝いている。
 
583系は、高度経済成長の真っ只中である昭和43年に開発され、昼は座席仕様、夜は寝台を組み立てて、昼夜を問わず運用できる世界初の車両として、全国各地を走り回っていた。
大阪と鹿児島を結ぶ夜行急行「きりしま」に投入されていた時には、営業運転中に寝台を組み立てる程の、寸刻を惜しむ働き者だったのである。
 

 
昼夜兼行とは言いながら、座席の構造は寝台への切り替えを前提としているため、昼間は4人向かい合わせのボックス席になり、寝台の仕切りとして使われる背もたれはリクライニングが出来なかった。
昼行専用特急車両の2人掛け回転クロスシートに比べて、その点が不評であったと言われているが、寝台の縦方向の長さを確保するために、座席の間隔は当時の一等車に匹敵する197cmにも及び、運用する国鉄としては、逆に定員が減ってしまうことが悩みの種であったらしい。
 
寝台のサイズは、B寝台の長さが上・中・下段とも193cmで統一され、幅については、上段と中段が70cmであったが、下段は、昼間に2人が並んで坐る座席に変じるために106cmもある。
幅が52cmしかなく「寝返りを打つと転げ落ちる」と言われていた旧型客車に比べれば、大幅な改良である。
問題は寝台の高さで、下段は座席空間をそのまま利用するために76cmであったのだが、上段と中段は、その分だけ上方に詰め込まれて68cmしかなかった。
 
このように、昼行または夜行専用の車両に比べれば、どうしても構造に無理が生じるのはやむを得ないことで、今や定期列車として用いられているのは「きたぐに」だけになってしまったのであるが、かつての僕らの国は、国鉄も利用客もお互いに少しずつ我慢しながら、昼夜を問わず走り続ける猛烈な時代があったことを、583系は後世に伝えている。
 
 
紀行作家の宮脇俊三氏は、「時刻表ひとり旅」の一節で、寝台特急「つるぎ」を大阪駅11番線で見送り、青森行き夜行急行「きたぐに」に乗車した昭和55年の光景を、次のように記している。
 
『寝台特急「つるぎ」の発車ぶりを普通急行「きたぐに」の客である私は、若干の妬みをこめて眺めたのだが、なぜか「つるぎ」の姿に精彩がない。
これから新潟まで夜を徹して走らなければならないのか、といった億劫さが漂っている。
「つるぎ」が人気のブルー・トレインでも何でもなく、ただの「夜汽車」に見えた。
私が感じたのは、夜行列車の醸し出す「古さ」のように思う。
夜行列車が初めて走り出したのは明治22年7月で、既に91年もたっている。
その間、日本と日本人は欧米に追いつけ追い越せで前へ前へと突進していった。
戦争に勝てばもちろん、致命的と思われる敗戦からも不死鳥のように甦生して夜も日もなく前進した。
夜行列車はそれに大いに貢献した。
しかし、時代は変わってきた。
夜を徹して走りまくってきた高度成長時代の働き蜂たちは衰えを見せはじめ、それに代わるべき次の世代は夜行列車よりもマイホームやホテルの夜を優先するようになった。
夜行列車の客は航空機へ移っていった』
 
この時代の「きたぐに」は、乗り合わせた車掌が、
 
「すみませんねえ、この列車のB寝台は古くて狭くて、なにしろ、いちばんわるい車両なんですよ」
 
と宮脇氏に向かって恐縮するような旧型の客車列車であったが、「夜も昼もなく前進した」とは、まるで583系そのものを思わせるではないか。
 



僕にとっても、583系は、懐かしい旅の場面に何回も登場している。
 
昭和59年に、寝台特急「はくつる」のグリーン車で、上野から盛岡まで初めての東北旅行に出掛けたのが、583系との出会いだった。
昼夜で見事な変身ぶりを見せる583系と言えども、リクライニングシートを備えたグリーン車だけは如何ともし難かったようで、寝台特急でもそのまま座席として連結されていたのである。

宮脇俊三氏の処女作「時刻表2万キロ」における、奥羽本線経由で首都圏と東北を結ぶ「出世列車」として名高い夜行急行「津軽」2号の、グリーン車での一節は印象深い。

『寝台はとれないし、夜行だからいくらかでも楽をしようとグリーン車にしたけれど、あれは私には扱いにくい。
背もたれが傾くからそれだけ尻にかかる重みは分散するが、なまじ仰向け気味になるから足を伸ばしたくなる。
するとかならず足がつかえる。
床の上に足を投げ出せば背中がずり落ちてくる。
思いきって前の席の背もたれの上に乗せると楽らしいが、前に客がいなくてもそれはやりかねる。
どうにも中途半端な構造である。
いっそ背を立ててきちんと坐り、「普通車よりいくらか楽だぞ」と自分に言いきかせているほうがむしろ楽なのだが、高い特別料金を払ったのに施設を十分に活用しないのは損な気がしてくる。
こうなると品性の問題になってきて、ますます扱いにくくなる。
それにしても隣の窓際のおじさんは、発車ぎりぎりに上野駅で乗ってくると、ワンカップの日本酒をぐいとのみ、上着を掛蒲団代りにして忽ち眠ってしまった。
疲れているのか旅なれているのか知らないが、よくもこんなに手際よく眠れるものだと感心した。
しかも、このおじさんはグリーン車がよく似合っている。
グリーン車は論ずるよりも似合うことが大切なのかもしれない。
孝行息子でもいるのか、、草履を脱いでグリーン車にちんまり坐ったおばあさんなど、もっともよく似合う』

この「津軽」は客車列車の時代であるが、すっぽりと尻を包み込むバケットシートの導入が遅かった国鉄では、グリーン車の座席はどれも共通仕様であったはずで、そうそう、あの頃の、座面がこんもりと盛り上がったシートの乗り心地は、確かにその通りだった、と懐かしさが込み上げてくる描写である。

数年後に友人と出掛けた北海道旅行では、往路に、東北新幹線に接続する特急「はつかり」の指定席に乗って盛岡から青森に向かい、帰路は、寝台特急「ゆうづる」のB寝台で青森から上野まで乗り通した。
583系を使用していた夜行急行「津軽」の指定席で、上野から山形までの一夜を過ごしたこともある。
「津軽」に583系が投入されたのは平成5年のことで、583系が急行に使われた最初の例ではなかったか。
昼夜兼行の車両を、寝台と座席で混成される夜行急行列車に仕立てることを思い付くとは、何という頭の良さだ、と膝を打つ思いだった。

夜行列車が数を減らし、583系車両が余剰になった昭和60年代に、乗降口を増設し窓を開閉可能とするなどの改造を受けた普通列車用の719系にも、海水浴で訪れた谷浜や能生近辺の北陸本線で乗り合わせた。
 
 
座席を利用した特急「はつかり」や急行「津軽」、そして719系の普通列車では、ボックス席でも向かい側に坐る人と膝が擦れ合うことがない、余裕のある座席間隔と、寝台用に嵩上げされた高さ2.7mにも及ぶ天井のために、不必要なほど広々と感じる客室を見回しながら、大いに感嘆したものだった。
 
それにしても、普通列車用にここまで徹底して改造を受けた特急用車両など、他にあるのだろうか。
あたかも、会社で管理職まで上り詰めた人物が、定年後にしがないアルバイトをしている姿を見てしまったようで、そこまで働かなければならないのかと、栄枯盛衰と共に、ものの哀れが身にしみる気がしたものだった。
 
 
「きたぐに」も、A寝台・B寝台・グリーン車ばかりでなく、寝台を組み立てない普通車自由席も備えた、堂々たる10両編成で運転されている。
 
今回の旅では、これまで利用したことがなかったA寝台を奮発した。
独特の折り戸の乗降口から車内に入れば、前後方向を向いた2段式寝台が狭隘な通路の両側にずらりと並び、荷物を片づけたり、浴衣に着替える乗客で混雑している。
この日、A寝台の下段は全て売り切れで、僕は上段を指定されていた。
金属製の梯子を登って寝台の中に身を収めてしまえば、さすがA寝台だけあって、内部は広々としている。
A寝台のサイズは、上段が長さ185cm・幅88cm・高さ92cmで、長さ193cm・幅93cm・高さ113cmの下段より若干小さいのだが、売り切れとあれば仕方がないことで、実際に潜り込んでみれば、上段でも占有空間の大きさに不足はない。
 
30年前に青森から上野まで利用した寝台特急「ゆうづる」では、B寝台の上段をあてがわれたので、起き上がったり身動きすることもままならず、身体をぴったり包み込む繭の中に閉じ込められたような窮屈さに辟易したもので、それに比べれば充分に贅沢である。


入線から発車まで30分近くも時間をとっているのは、早く眠って下さって構いませんよ、というサービスでもあるのだろう。
宮脇俊三氏が乗車した客車時代の「きたぐに」では、発車までの時間を利用して、鉄道小荷物の積み込みが行われていたという。

浴衣に着替えて身を横たえてから、成すこともなく外の気配を伺っているうちに、廊下のざわめきや衣擦れが少しずつ収まって、ひっそりと静まったところで、ゴトリ、と列車が動き始めた。
 
 
「きたぐに」は、新大阪と京都に停車した後に、他の北陸方面の列車とは異なって湖西線を通らずに、琵琶湖東岸の東海道本線を米原へ向かう、昔ながらの経路をたどる。
客車列車の時代には、直流電化の東海道本線から交流電化の北陸本線に移るために、米原駅で直流電気機関車を切り離して蒸気機関車やディーゼル機関車に付け替え、交流電化の起点となっていた隣りの田村駅から交流機関車が牽引する方式が採用されていた。
複々線の新大阪-京都間で快速列車に抜かれる急行列車として時刻表ファンに知られた存在だったし、583系車両に代替わりしても途中停車駅で10分や20分もの長時間停車を平然と繰り返すダイヤが維持されているから、「きたぐに」の存在は、急ぐばかりが旅ではないことを体現しているような気がする。
朝までに新潟に着けば構わないでしょう、と開き直っているかのような、夜行列車独特の風情は、悪いものではない。
宮脇氏が乗車した「きたぐに」は定時より20分ほど遅れたのだが、乗り合わせた人々は悠然として、後戻りさえしなければいい、と言った風であったという。
僕の旅も、終点の新潟からは、上越新幹線で東京に帰るばかりであるから、少しくらい遅れても構わない。


客車時代の「きたぐに」の大阪発車は22時10分、新潟着は8時55分であった。
583系「きたぐに」は、1時間20分も遅い出発であるにも関わらず、新潟への到着が25分も早いことは特筆すべきで、寝台特急として開発された車両の面目躍如である。
多くの駅に停まりながらも、途中ほぼノンストップの夜行高速バス「おけさ」号の所要9時間30分よりも速く、呑気なように見えて、かなり一生懸命走っているのだから、侮れない。


揺れる寝台に横たわり、列車が走る気配に身を任せているうちに眠りに落ちて、目を覚ましたのは、午前6時過ぎに到着した直江津だった。

途中、長いトンネルをくぐる風切り音に耳を澄ませて、30年前の「きたぐに」が火災事故を起こした北陸トンネルを通っているのか、と身を固くしたり、親不知あたりであろうか、枕元に設けられた小窓を開けて、真っ暗な海原を眺めた記憶が断片的に残っているものの、はっきりと覚えている訳ではない。
夜明けが早い季節ならば、富山を過ぎた辺りで立山連峰が見えると聞いていたが、冬至も近い師走では、漆黒の闇の中をひたすら突き進むだけで、直江津でようやく空がうっすらと白み始めていた。
 
直江津では10分ほどの停車予定だったので、ホームに降りて身体を伸ばした。
米原を起点とする北陸本線はここで終わり、「きたぐに」の歩みは、高崎から長野を経て新潟へ向かう信越本線に変わる。
向かいのホームには長野行の始発列車が待機している。
僕の故郷である長野と北陸を行き来するために何度も利用した懐かしい駅であるが、このような早朝に降り立ったのは初めての経験だった。
 
 
駅弁売りでもホームに出ていてくれれば有難いのに、と見回してみたけれど、物音1つ聞かれないホームばかりか、広大な構内や操車場にも人影はなく、「きたぐに」も、カーテンを閉め切った大柄な車体を連ねて、あたかもここが終点であるかのように、ひっそりと蹲っている。
停まってしまった列車というものは、バスのようにエンジンのアイドリングをしている訳でもなく、本当にこの先へ走ってくれるのですか、と心配になるほどの静寂に包まれてしまう。
 
ホームで一服しながら「きたぐに」の姿をぼんやりと眺めているうちに、ふと、583系電車に乗るのも、急行列車に乗るのも、今回の「きたぐに」の旅が最後になるような予感がした。
事実、6年後の平成24年3月のダイヤ改正で、急行「きたぐに」は姿を消す。
 
 
「きたぐに」どころか、大阪と新潟を結ぶ鉄路は昼間でも惨々たる有様である。
昭和44年10月に大阪と新潟を直通する臨時特急列車「北越」が運転を開始し、翌年には定期列車に昇格、昭和53年に、大阪-金沢・富山間で運行されていた「雷鳥」に統合されたのだが、平成13年には、大阪-新潟間に2往復残っていた「雷鳥」と、大阪から新潟を経て青森まで足を伸ばしていた「白鳥」が廃止され、大阪から新潟へ向かう昼行特急列車は全廃された。
 
航空機ならば1時間弱、東海道新幹線と上越新幹線を乗り継いでも4時間あまりで着いてしまうのだから、大阪から湖西線・北陸本線・信越本線・白新線経由で新潟まで581.2km、「北越」「雷鳥」「白鳥」を使って6時間半をかけて行く余裕がある人間は、少なくなっているのであろう。
 
 
発車ベルが鳴り始める頃に「きたぐに」のベッドへ潜り込み、新潟に向けて走り始めた列車が奏でる走行音に耳を傾けながら、僕は、1つの時代の終焉を感じ取っていた。
 
583系が昼も夜も走り続けたのは、働けば働くほど、未来も生活も良くなると信じることが出来る時代だった。
歳月と共に思い出の対象が消えていくのは寂しいことであるが、そのような感傷は別にして、時代の終わりとは、良き時代の幕開けであって欲しいと思う。

急行列車が姿を消し、夜行列車が役割を終えていく時代が、それまでに比べて進歩していると言えるのかどうか、僕には分からないのだけれど、こうして583系「きたぐに」の一夜を経験できただけでも、もって瞑すべしであろう。
 
 
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