僕の高速バス初体験記②~小田急箱根高速バス元箱根系統の思い出~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

 
初めての高速バス体験で「東名ハイウェイバス」東京-静岡線の旅に魅了された僕は、それからも、気持ちが煮詰まると、元気を貰うために高速バスに乗りに出掛けるようになった。
受験勉強の合間であるから、試しに乗ってみたのは、新宿と甲府を結ぶ「中央高速バス」や、新宿から御殿場駅を経由して箱根桃源台へ向かう「箱根高速バス」などの、比較的近距離の高速バス路線であったが、いずれも座席がきっちりと指定されてしまい、運転席と車窓を楽しめる前方の席に当たることはなく、結局は座席の自由度が高い「東名ハイウェイバス」に繰り返し乗ることが多かった。
 
 
日曜日の朝に、予備校へ行く振りをして寮を飛び出すことに変わりはなかったけれど、秋風が東京の街に吹き渡る季節になると、「あさぎり」や「東名ハイウェイバス」に乗車した春先とは異なって、少しばかり後ろ髪を引かれる気分だった。
勉強に行かない後ろめたさではない。
 
予備校の寮は、朝食と夕食付きだった。
平日のお昼は、もちろん予備校で済ませる。
休日は、寮で昼食が出た。
メニューはカレーライスと決まっていて、別にお金を取られたから、外へ食べに行く者も少なくなかった。
隣り駅の西台の近くには、今で言えば家系の美味しいラーメン屋さんがあり、床が脂でぬるぬる滑るような小汚い店だったけれども、仲間と連れ立ってよく出掛けたものだった。
こってりしたラーメンを初めて食べたものだから、病みつきになった。
 
さすがに毎週ラーメンという訳にもいかず、カレーライスにも飽き足らなかった僕らのお気に入りは、歩いて数分の弁当屋だった。
ホカホカ弁当そのものが、まだ珍しかった時代であるが、それにも増して、店番の女性が可憐で、人気があった。
ちょっぴりふっくらした外見だったけれども、整った顔立ちで、話し方や立ち居振舞いには温かい人柄を感じた。
そのうち、僕は、仲間と時間をずらして弁当を買いにいくようになった。
僅かな時間だったけれども、店先で、2人きりで話をするのが、休日の密かな楽しみになっていた。
どんな話をしたのかは覚えていない。
志望校とか、将来の夢とか、その娘の気を惹くために生意気で偉そうなことを言ったのだろうと思う。
いつもニコニコして、聞き上手な娘だった。
 
日曜日に気晴らしの旅に出てしまうと、その娘と会えないことが残念だったが、バスに乗ってしまえば念頭から消えていた。
 
 
数ヶ月後、僕は、新宿駅西口の「箱根高速バス」乗り場に立っていた。
共通一次試験を翌月に控え、実家に帰省する余裕もなかった年末のことだったと記憶している。
高速バスに乗っている場合じゃない、と思いながらも、どうしても気晴らしが必要だったので、土曜日の午後だけ出掛けることにしたのである。
 
「箱根高速バス」は、新宿と箱根湯本を結ぶ特急ロマンスカーを補う目的で、小田急電鉄バスが昭和44年6月から運行している。
同時期に開業した国鉄「東名ハイウェイバス」、そして民間事業者の合弁会社で、渋谷・御殿場・沼津・静岡・浜松・名古屋といった沿線諸都市を結ぶ数多くの系統を運行しながら、わずか6年で消えてしまった「東名急行バス」とともに、黎明期の東名高速におけるバス輸送を担った路線なのである。
 
 
ロマンスカーに乗ると、箱根湯本からは箱根登山鉄道、ケーブルカー、ロープウェイを乗り継がないと芦ノ湖にたどり着かないのだが、高速バスならば乗り換えることも無く、湖畔の桃源台まで直行することが出来るために、乗車率も極めて好調に推移していると聞く。
 
その前に「箱根高速バス」箱根桃源台系統は乗車を済ませていたが、紅白のツートンカラーに銀色の疾走する犬のマークが付けられた小田急電鉄バスを目にした時には、懐かしさが込み上げてきた。
 
 
小田急電鉄バスがマスコットに犬を選んだ理由は、
 
「愛犬として人に愛され可愛がられる、盲導犬として人の安全を確保・誘導する、猟犬として手足となって働く、あるいは番犬として人の生命・財産を守るなど、犬の性格がバスの使命と一致しているからです。
この犬マークは、常に前進し、スピード感に溢れ、スマートで躍動的な姿であり、銀色に輝いて忠実と清潔とを表しています(同社のHPより)」
 
と説明されており、長年に渡って「わんわんバス」の愛称で親しまれてきたのだという。
米国の長距離バス「グレイハウンド」のような精悍さはないけれど、国鉄のツバメマークに匹敵する優れたデザインだと思う。
 
 
僕が乗車したのは、元箱根へ向かう、週末だけに運行されていた別系統のバスであった。
 
定刻13時30分に新宿駅西口を発車した元箱根行き「箱根高速バス」は、甲州街道を西へ進み、立体交差となっている初台の交差点を左折して、山手通りを南下する。
今では山手通りの地下に首都高速中央環状線の地下トンネルが建設され、新宿を発着する高速バスが初台ランプを出入りするために甲州街道を通る光景は珍しくなくなったが、中央環状線が開通していなかった当時は、新宿や池袋から西へ向かう高速バスが、甲州街道と山手通りの渋滞を避けて中央自動車道を経由することが少なくなかった。
この頃の山手通りは中央環状線建設の真っ最中で、あちこちに工事箇所があって流れが滞ることも多く、新宿駅西口から首都高速3号線の池尻ランプまで、30分近くを要することもあった。
中央道ならば、新宿から国立府中ICや日野バスストップのあたりまで進んでいる時間である。
 
 
新宿を発着しながら東名高速を利用する「箱根高速バス」は、当時では珍しい存在で、箱根桃源台行きに乗車した時には、代々木公園やNHK放送センター裏手の住宅地、高級住宅街として知られる松濤など、初めて目にする東京の山手の景観に、目を奪われっぱなしだった。
幸いこの日は車の流れがスムーズで、旧山手通りと交差する右カーブの立体交差をジェットコースターのように上り下りして、淡島通りの交差点を過ぎたかと思うと、山手通り・国道246号線・首都高速3号線が3段重ねに交差している大橋交差点の最下部に潜り込む。
急傾斜の進入路で国道246号線に合流し、更に大橋ランプで首都高速の高架に駆け上がるという、躍動感溢れる経路には心が踊った。
 
 
首都高速3号線に入れば、「東名ハイウェイバス」で何回か通ったことのある道のりである。
この日の元箱根行き「箱根高速バス」は、ほぼ満席という盛況であったが、直前に乗車券を購入したにも関わらず、運良く最前列の席が指定されていた。
車両も、桃源台系統に乗車した時のハイデッカータイプとは異なり、客室が嵩上げされたスーパーハイデッカーに変わっていて、ツイている、とは思ったものの、座席から運転席を見下ろす構造では、自分が運転しているような気分にはならなかった。
 
けれども、東名向ヶ丘、東名江田、東名綾瀬といった高速道路上の停留所にこまめに立ち寄って行くうちに、いつしか僕は、「東名ハイウェイバス」や「箱根高速バス」を初体験している時のような新鮮さに酔い痴れていた。
受験勉強を放ったらかしにして出掛けて来た行為の言い訳に過ぎないかもしれないが、どうしようもなく煮詰まった時、僕には高速バスでの気分転換が絶対に必要なのだ、と確信した。
 
 
箱根桃源台行きの系統ならば、東名高速で御殿場ICまで足を伸ばし、御殿場駅に停車してから、国道134号線で乙女峠を越え、仙石原、桃源台へと進んでいく。
人気路線だけあって、夏頃に初乗りした箱根桃源台行きは満席で、好きな席を選べず通路側に座らされたから、それっきり、リピーターにはならなかったのだが、木漏れ日が車内に影を伸ばす箱根裏街道の車窓は、強く印象に残っていた。
 
元箱根系統も、てっきり同じ道を通るものと思い込んでいたのだが、バスは厚木ICで東名高速を離れ、小田原厚木道路を走り始めたではないか。
この道を走るのは初めての経験で、伊勢原、平塚といった街々を抜けていく前半は、田園の中に家々や工場などが散在する相模平野が、坦々と眠気を誘う。
 
大磯を過ぎて二宮、小田原へと歩を進める後半ともなれば、相模湾に近づきながらも、起伏の激しい山がちな地形に一変する。
「箱根高速バス」元箱根系統は、小田原厚木道路を経由する唯一の高速バスだった。
東名高速とはひと味もふた味も異なる新鮮な道筋に、このような道路があったのかと目を見張った。
このバスに乗って良かったと思う。
 
 
相模平野では目に入らなかったが、山間部に差し掛かると、折り重なる山裾の隙間から、場違いのように立派な高架がところどころに姿を現す。
山影やトンネルに遮られて、お互いに隠れん坊をしているかのような位置関係であるけれど、小田原厚木道路は、ほぼ東海道新幹線に沿っている。
 
戦前に構想された弾丸列車計画で用地が取得済みであり、早期着工が可能であったことと、直線・カーブ・トンネル・鉄橋と、データ収集に必要な線形がひと通り揃っていることから、昭和37年に、綾瀬から小田原にかけての区間がモデル線として先に建設され、小田原市内の鴨宮駅付近に車両基地と管理施設が置かれた。
時速256kmの最高速度を達成した新幹線の試験運転は、この鴨宮実験線で行われたのである。
ただし、冬でも比較的温暖な鴨宮では、降雪時の高速運転を想定した試験データを充分に得ることが出来ず、昭和39年に開業した東海道新幹線は、現在に至るまで関ヶ原付近の雪に悩まされることになる。
 
煤けた弁天山トンネルを抜けると、不意に視界が開けて、左右に小田原の街並みが広がる。
鴨宮基地は、小田原ICの左手に新幹線の高架を望むあたりに置かれていた。
 
 
「箱根高速バス」は、西湘バイパスと真鶴道路が交差する小田原西JCTを通過して、箱根口ICで国道1号線に下り、早川の清流を遡りながら、狭い道路の両側に旅館や土産物店が並ぶ箱根湯本駅前で、最初の降車扱いを行う。
新宿からここまで1時間40分あまり、小田急ロマンスカーの方が速くて便利なのだが、意外なことに、バスを降りる客は少なくなかった。
 
このまま塔ノ沢、大平台、宮ノ下、小涌谷と、国道1号線の九十九折りの坂道を登ってくれれば楽しいのに、と思うのだが、高速バスともなれば、そのように呑気な経路は使わない。
国道1号線の登り口から左へ逸れて、おいおい何処へ行くのか、と心配になるような細い脇道に巨体を乗り入れ、早川とその支流の須雲川を渡って対岸の旧東海道を進み、須雲川ICから箱根新道に入っていく。
 
僕にとって、厚木から箱根湯本までの行程があまりに鮮烈であったためなのか、ラストの箱根越えの印象は乏しい。
難所と言われた旧東海道に沿い、峻険な山中でありながら、箱根新道とはなかなかいい道ではないか、と感じた記憶だけが残っている。
ところどころで雄大な眺望が楽しめる箱根ターンパイクや、沿道に点在する温泉街の風情が溢れる旧道に比べれば、あまりに機能的に過ぎて、平凡に感じてしまったのかもしれない。
 
 
30分足らずで箱根の山を登り切り、定刻15時41分に到着した元箱根停留所は、箱根関所に近い芦ノ湖の南岸にあって、「箱根高速バス」桃源台系統の終点の対岸になる。
穏やかに水を湛える芦ノ湖の青さと、湖を囲む山々を覆う木々の緑とが織り成す、目も眩むような色彩の鮮やかさに心を奪われながら、どうしてもっと早く乗っておかなかったのか、と残念に感じても、時計の針を巻き戻すことは出来ない。
 
どうして「東名ハイウェイバス」のように繰り返し乗りに来なかったのか、不思議でならないのだが、週末だけの運行であることと、座席指定と言う敷居の高さが億劫に感じられたのだろうか。
初体験が、たまたま最前列の席に当たったので、それを超える経験は難しいだろう、と自分で一線を引いてしまったという理由もある。
結局は再乗車の機会に恵まれないまま、「箱根高速バス」元箱根系統は、平成16年3月に廃止された。
 
 
共通一次試験が終わり、国立大学の二次試験の準備に打ち込んでいた2月のことである。
さすがにバスに乗りに行く余裕はなく、日曜日ともなれば寮の1室に籠もることが多くなって、唯一の慰めは弁当を買いに行く昼下がりだった。
 
「もうすぐ、ここともお別れかな」
「でも、もう1年お世話になったりしてね」
「勘弁してくれよ」
 
などと他愛もない会話を交わしながら、店番の娘から出来立てのホカホカ弁当を受け取ると、ピンク色の可愛らしい包みが添えられていた。
 
「あれ?これは?」
「だって、今日は2月14日だもの」
 
はにかむようなその娘の笑顔は、数年が経過しても、鮮明に思い出すことが出来た。
その笑顔を、とってもまぶしく感じたのだが、
 
ああ、客に配るサービス品なんだな──
 
本当にそう思いこんでしまったのだ。
 
程なく、あちこちの受験に忙殺されて、寮で過ごす日も少なくなっていった。
 
3月末の退寮の日のことである。
僕は東京の大学に進学が決まったが、教養部は地方に置かれていたため、いったん実家に荷物を送る必要があった。
 
「よう、進んでるか?」
 
荷造りの最中に、数人の仲間が部屋に入ってきた。
 
「おう、もう一息かな」
 
仲間たちと喋りながら本棚を片付けていると、ピンク色の包みがカサッと床に落ちた。
あけてみると、中から現れたのは、ハート型のチョコレートだった。
 
「うおっ、誰からだよ?」
「え?──ああ、ほら、あの弁当屋さん。バレンタインデーにお店が配ってたじゃん」
 
あの日、サービス品と思い込んで、甘いものが苦手な僕は、口にしないまま放っていたのだ。
 
「ええ?あの日、俺も弁当買ったけど、チョコなんかくれなかったぜ。なあ、お前も一緒だったよな」
「ああ。チョコレートちょうだいって言ってみたけど、貰えなかった」
 
僕は部屋を飛び出して、慌てて弁当屋へ走った。
しかし、店のシャッターは固く閉ざされて、定休日の札がぶら下がっていた。
僕は、その日のうちに、東京を離れなければならなかった。
 
故郷へ向かう特急列車の中でかじったチョコレートのほろ苦さは、昨日のことのように思い浮かぶ。
どうして、あの時気づかなかったのかと、自分の鈍感さを悔やんでも、後戻りが出来ないのが人生である。
 
数年前に、所用で板橋を訪れた際のこと、30年ぶりに蓮根に立ち寄ってみたが、1年間を過ごした寮の建物はそのまま残されていたものの、所有者が変わったのか、屋上に大きく掲げられていた塾の看板は撤去されていた。
弁当屋は、全国チェーンの牛丼店に置き換わっていて、僕は、容赦ない時の流れを噛み締めたのである。
 
 
 
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