東京発みちのく行き高速バス慕情 第4章~平成元年・八戸行きシリウス号と青森行きラフォーレ号~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

最北端へ行きたくなった。
 
最果てとは、人の心をくすぐる何かを持っているようで、本土最北端の宗谷岬や最東端の納沙布岬は、その立地だけで多くの観光客を集めている。
僕も、北海道を訪れた際に、手始めとして道南だけを回った初回はともかく、2度目の訪問では、迷わず2つの岬を目指した。
別の機会には、本土最西端である長崎県神崎鼻と、最南端の鹿児島県佐多岬にも足跡を印し、沖縄本島でも、せっかく南の島に出掛けて来たのにわざわざ最北端の辺戸岬への往復で丸1日を費やすという、我ながら阿呆らしい行為に出ている。
 
 
平成2年2月という厳冬期に、大学生だった僕が行こうと決めたのは、本州の最北端である下北半島の大間岬で、北海道に比べれば少しばかり地味かもしれない
旅に出ようと思い立てば、どこであろうと心が浮き立つ性格で、最北端という目標を定めれば、日本のそれではなく本州に限定されていようと、高名な観光地であろうとなかろうと、動機とすれば充分で、モチベーションが大いに高まるという単純で得な性格である。
 
「ここ本州最北端の地」と刻まれた碑が立つという地果つる岬で、厳しい寒さの中に身を置いてみたかった。
 
 
土曜日の夜に、僕は、乾いた木枯らしが吹きすさぶ東京駅八重洲南口の高速バスターミナルにやって来た。
旅の第1走者として、前年の7月に開業したばかりの八戸行き夜行高速バス「シリウス」号を選んだのである。
高速バスに乗りに行くとなれば、発車駅までの混雑した通勤電車も苦にはならないし、発車時刻の10分程前に乗り場に姿を現したJRバス関東のスーパーハイデッカーを目にすれば、この豪華なバスが北東北まで僕を導いてくれるのか、と嬉しくなる。
 
東京-八戸間夜行高速バス開業の報を小耳に挟んだ時には、なぜ愛称が「シリウス」なのか、と訝しく感じたものだった。
おおいぬ座を成す1等星の1つで、オリオン座のベテルギウス、こいぬ座のプロキオンともに冬の大三角形を構成している恒星と、八戸の関係が分からなかったのである。
 
 
「シリウス」号はJRバス関東、国際興業、南部バス、十和田観光電鉄の4社が共同運行している。
最初はJRバス関東と南部バス、そして国際興業と十和田観光電鉄が、前者は東京駅、後者は池袋駅を発着する路線を計画し、運輸省が調整して4社が共同運行することになったと聞いた。
東京側の2社は東京-盛岡間高速バス「らくちん」号と共通で、東京駅と池袋駅の両方をターミナルにしていることまで一緒である。
 
複数の事業者が関わる高速バスの愛称をどのように決めているのかは知らないけれども、国際興業が運行する夜行高速バスの1つに、「シリウス」号と同じ年に開業した、池袋と能代を結ぶ「ジュピター」号があり、こちらも木星と秋田県の北部地域との関係は全く不明なのだが、おそらく、夜行高速バスであることから星に関連した愛称にしたい、という命名者の感性だけなのかもしれない。
強いて共通点を探すならば、「シリウス」は、太陽を除けば地上から見える最も明るい恒星、「ジュピター」は、太陽を除けば太陽系で最も大きな星、という点であろうか。
 
大阪-熊本線「サンライズ」号や横浜-新潟線「サンセット」号、大分-長崎線「サンライト」号、はたまた岡山-広島線「サンサンライナー」号など、太陽を用いた高速バスの愛称は多く、大阪-宮崎間には「おひさま」号、福岡-宮崎間には「たいよう」号などという直接的な愛称の路線も存在したが、「シリウス」号も「ジュピター」号も、太陽を除けば1番、という星の名を選ぶとは、少しばかり奥ゆかしく、なかなか斬新な発想と言えるのかもしれない。
 
 
定刻に東京駅を発車して、眠ることを知らない殷賑な都心を走り抜け、「らくちん」号に乗車した2年前から池袋駅との位置関係がよく飲み込めない三越前停留所で乗車扱いをした「シリウス」号の経路は、荒川を渡る鹿浜橋のランプで首都高速道路川口線に乗るまで、昼と夜の違いはあるものの、2年前に乗車した「らくちん」号と全く同じである。
 
東北自動車道と八戸自動車道を時速100kmで走り込む「シリウス」号は、運転手さんの交替以外には停車せず、乗客が降りられる休憩は設けられていない。
快適な横3列独立シートに身を任せて熟睡したのであろう、東京から八戸まで665.7km、9時間を過ごした車内の記憶は、あまり残っていない。
 
 
目を覚ませば、バスは払暁の八戸ICで流出路の急な曲線をぐるぐる回っているところだった。
 
寝起きで頭がよく回らないのだけれど、この時点で確かめておかねばならぬことがあった。
八戸の街は、東北本線の列車で通過したことはあっても、訪れるのは初めてである。
当時、高速道路を降りてからの「シリウス」号の降車停留所は、馬場、八日町、小中野バスセンターの3ヶ所であった。
僕は八戸駅から東北本線に乗り換える計画を立てているのだが、八戸駅どころか、鉄道の駅名をつけた停留所は1つもない。
スマホで簡単に地図を確かめられる時代ではなかったから、あらかじめ書店で市街図を購入するか、せめて立ち読みで停留所の位置を下調べしておく必要があったのだが、すっかり失念していた。
いったい、僕はどこで降りれば良いのか。
 
バスが信号待ちで停車するのを見計らって、席を離れて運転席に近づき、
 
「八戸駅に行きたいんですけど、どこで降りればいいでしょうか」
 
と、乗降口のガイド席に座っている交替運転手さんに聞いてみた。
交替運転手さんは、ハンドルを握っている運転手さんと顔を見合わせて、少しばかり考え込んだ挙げ句に、
 
「馬場、ですね」
 
と、何となく頼りなげな面持ちで答えた。
考えてみれば、東京の事業者であるJRバス関東の運転手さんが、どこまで八戸の地理を把握しているのか、不安は残る。
馬場、という地名も、そのような名前のバス停に「シリウス」号が停まるのだっけ、と虚を突かれるほど、また幹線鉄道の駅の最寄りとはとても思えないほど、鄙びた響きである。
 
 
平安時代の奥州藤原氏の時代より、今の青森県東部から岩手県北部にかけての地域を指していた糠部郡には、「九ヵ部四門の制」が敷かれていた。
糠部郡を一から九までの「戸」に分け、1つの戸ごとに7つの村を所属させた行政区分であるが、この地域は「糠部の駿馬」と呼ばれた名馬の産地で、「戸」とは牧場を意味するとも言われている。
馬が何処の「戸」の産であるかを示す「戸立」という言葉も伝わっており、「吾妻鏡」には、源頼朝に馬を献上された後白河法皇が「戸立」に非常に興味を示したと記されている。
 
岩手県北部から青森県東部の、いわゆる南部地方を旅すると、誰もが一戸、二戸、三戸……と数字が並ぶ地名に興味を抱くことと思う。
現在でも、岩手県二戸郡一戸町、同県二戸郡二戸市、青森県三戸郡三戸町、同県三戸郡五戸町、同県上北郡六戸町、同県上北郡七戸町、同県三戸郡八戸市、岩手県九戸郡九戸村と、四戸を除く一から九までの「戸」が揃って現存している。
「九ヵ部四門の制」では、戸制が敷かれた地域の四方の辺地を東門、西門、南門、北門と呼び、青森県上北郡と下北郡の名は、その名残りなのだという。
僕が向かっている下北半島も、戸制と関連した由緒ある地名だったのである。
 
ちなみに、四戸については、八戸市の櫛引の地に存在していたと言う説と、五戸町の浅水付近であったとの説がある。
前者は櫛引八幡宮の別名が四戸八幡宮であったこと、後者については、四戸の地名が消えた理由として四が死を連想するためであったことを前提として、浅水の語源が「朝を見ず」すなわち死を意味していることを根拠としているらしい。
 
 
つまり、名馬の産地として知られた糠部郡では、馬場という地名が必ずしも僻地を意味しているとは限らず、幹線の駅に近い停留所名であってもおかしくないのだが、いざ降ろされて驚いた。
なぜ、このように辺鄙な場所に東京からの夜行高速バスが停車するのかと首を傾げたくなる、背の高い杉木立ちの中だったのである。
今、google mapで馬場停留所の写真を見ると、幅の広い道路が通っている開けた土地に見える。
だが、この二十数年で様変わりしたのか、それとも僕の記憶違いなのか、この時は、昇ったばかりの太陽の光に照らされた常緑樹の葉が目にしみるだけの、人家などは一切見当たらない場所だった覚えがある。
 
運転手さんに尋ねようと振り返れば、「シリウス」号はちょうど扉を閉め終わるところで、バスの後ろ姿を呆然と見送りながら、どうすれば八戸駅にたどり着くことができるのか、途方に暮れた。
 
馬場では他にも数人の降車客がいて、
 
「駅はこっちかや」
「ああ、すぐそごだあ」
 
などと錆びた大声で喋りながら歩き出したのだが、後をついて行って良いものなのか、大いに迷った。
 
 
気を取り直して停留所の時刻表を見直せば、数分後に八戸行きの路線バスが来るようである。
見知らぬ停留所で1人バスを待つ身にとって、数分間とは大変に長く感じるもので、ようやく現れた南部バスの古びた路線車が「八戸駅」と表示を掲げているのを目にした時には、安堵感で全身の力が抜けた。
 
たとえ停留所1個分で降りることになって、運転手さんに笑われても構うものか、と意を決して乗り込んだのだが、「すぐそごだあ」と言う割には、馬淵川を渡り、八戸赤十字病院など数ヶ所の停留所を経て、八戸駅東口まで10分以上もかかったから、バスの経路が大回りなのかもしれないけれど、見知らぬおじさんたちにふらふらとついて行かなくて良かった、と胸をなで下ろした。
 
 
新幹線が開通する前の八戸駅舎は、トタン屋根の平屋建てで、まるで民家のような外見だった。
江戸時代に、幕府の命で南部氏の領地が八戸藩2万石と盛岡藩10万石に分割されたことで、地域の中核都市になったものの、平成14年に東北新幹線が八戸駅止まりで延伸した時には、県庁所在地でもない街を新幹線の起終点としたことが意外だった。
調べてみれば、八戸の商圏は隣接する岩手県北東部まで及ぶ60万人もの人口を擁し、人口密度も青森県で第1位で、昭和36年には新産業都市に指定されるという、なかなか侮れない都市なのである。
 
東北本線八戸駅は八戸の市街地から少しばかり外れていて、市の中心部はJR八戸線本八戸駅のあたりであ
る。
 
 
「シリウス」号は、平成13年に起終点を小中野バスセンターから八戸ラピアバスターミナルに変更し、平成17年には1日2往復に増便、国際興業と十和田観光電鉄が担当する便が八戸から十和田市三本木営業所への連絡バスとして運行されるようになった。
平成18年には本八戸駅を経由するようになり、八戸市街地における停留所を、下り便は八日町から三日町に、上り便は十一日町から八日町へ移し、平成20年には十和田市への連絡が正式に路線として組み込まれ、「シリウス」号は十和田市行きの高速バスとなったのである。
 
ここも数字が羅列された地名ばかりであるが、こちらは市が立った日付が由来だという。
城下町らしく狭い街路は一方通行が多く、上りと下りで停留所が異なるのはそのためである。
 
 
平成21年にはJRバス関東が、平成22年には南部バスが「シリウス」号の運行から撤退し、1往復に減便されたものの、東北新幹線新青森延伸を期に七戸十和田駅まで足を伸ばすようになり、八戸駅東口にも停留所が新設されて、東北本線が第3セクターとなった青い森鉄道への乗り継ぎの便が図られている。
八戸側で鉄道駅を全く無視していた「シリウス」号が、複数の鉄道駅で停車するようになって便利になったとは思うけれど、一方で、馬場での乗降が廃止され、僕の「シリウス」号乗車において最も印象深い停留所であっただけに、ちょっぴり寂しい気もする。
 
 
八戸駅から僕が乗り換えたのは、7時48分発の東北本線下り525列車で、昔ながらの客車列車にのんびり揺られながら、8時41分に野辺地駅に到着した。
 
野辺地駅では東北本線から大湊線へ乗り換えただけであるが、冬の北国の寂しさを湛えた駅の佇まいには心を打たれた。
ホームの西側に連なる黒松の林は、我が国の鉄道防風林の元祖と言われており、当時はまだ健在だった南部縦貫鉄道の小さなホームも、構内の一隅にひっそりと置かれている。
このささやかな私鉄は、レールバスを走らせていたことで知られていたが、この日の南部縦貫鉄道のホームに入線している列車はなく、人影も全く見えないから、まるで廃線跡のように見える。
 
 
野辺地からは、青森からやって来た9時33分発の快速列車「うそり」に乗り換えて、10時26分着の下北まで1時間足らずである。
車窓は、緩やかに起伏する砂丘がどこまでも続いているだけの単調さで、人家も耕地も殆ど目にすることがない。
防風柵は砂に埋もれ、風にひれ伏した這松が砂地に枝を伸ばして、これが日本なのかと目を疑うほど荒涼とした光景である。
砂丘の頂点に上がれば、なだらかな海岸線に囲まれた陸奥湾を望むことができる。
 
野辺地から3駅目の有戸を過ぎてから陸奥横浜までは、遮るもののない不毛の地に線路が一直線に敷設されて、たった1両のディーゼルカーは粉雪を巻き上げながら疾走する。

 
大湊の町の背後にそびえる標高897mの釜臥山が、鎌状火山独特のもっこりした山容を正面に見せる頃には、俄かに人家が増え、駅の間隔も短くなって、下北駅に到着する。
 
快速「うそり」は終点の大湊に向けて発車し、僕は10時50分発の下北交通大畑線大畑行き7D列車に乗り継ぐために下車した。
どれくらいの乗り換え客がいるのだろうと思ったが、「うそり」を降りた客の大半は改札口を出て、瞬く間に姿を消してしまい、ホームに残っているのは数人だった。
どうして乗り換えの待ち時間が30分近くもあるのだろう、と思う。
10時30分に、大畑からの上り6D列車が肌色に鮮やかな赤いラインが入った1両で到着し、僅かな客を降ろす。
この単行ディーゼルカーが10時50分発の下り7D列車になるようで、僕は早々に車内に入り、ボックス席を1人占めしてくつろいだ。
 
10時48分に「うそり」が青森行きの上り列車として折り返して来て、数人がこちらに乗り換えたから、7D列車は大湊からの乗り継ぎ客を待っていたことを了解した。

 
10人にも満たない客を乗せた大畑行きディーゼルカーは、雪をまとったヒバの林の中を走る。
これまでは陸奥湾に沿って半島の西岸を北へ遡ってきたのだけれど、下北交通線は、まさかりの形をした下北半島の刃の付け根を縦断して、太平洋岸に出る。
 
津軽海峡に面する下北半島は国防上でも重要な拠点で、帝国海軍の基地が設けられた大湊までの鉄道が開業したのは、大正10年のことであった。
大間に設けられた海軍の要塞を目指して、昭和14年に下北-大畑間で部分開通したのが、大畑線である。
引き続き大畑以北にも鉄道の建設が進められたが、太平洋戦争の戦局悪化に伴って、昭和18年に工事が中止されてしまう。
戦後の大畑線は、海産物や木材の輸送で活況を呈したこともあったと聞くが、乗客数は次第に減少し、昭和55年に廃止を前提とする第1次特定地方交通線に指定された。


地元のバス会社である下北バスが大畑線の受け皿として名乗りを上げたのは、南部縦貫鉄道が大湊線ともども引き受けたいという意向を明らかにしたため、自社のバス路線を防衛するためであったと言われているが、そのような経緯はともかく、昭和60年に大畑線は下北交通線として存続することとなったのである。
特定地方交通線が、第三セクターではなく民間資本のバス事業者に引き継がれたのは、全国でも唯一の例である。
 
鉄道ファンの1人として応援したいのはやまやまであるのだが、よくぞこのような土地に鉄道を建設したものだと思うほど、人跡稀な車窓と、閑散とした車内を見る限り、独立採算でこの鉄道を維持していくのは至難の業と言わざるを得ない。
事実、国鉄から受け継いだまま老朽化した車両や施設を更新することも出来ず、下北交通大畑線は、この旅から10年後の平成13年に廃止された。
大畑線の運行事業者になったかもしれない南部縦貫鉄道は、下北交通より早い平成9年に、また、「シリウス」号の起終点である十和田市と三沢を結んでいた十和田観光電鉄は平成24年に、それぞれが廃止され、青森県北東部から私鉄路線は全て姿を消したのである。
 
 
波が大きくうねる沖合を眺めながら、11時21分に大畑へ着いた。
簡素な駅舎を出ると、いきなり雪混じりの寒風に吹きつけられ、思わず襟を掻き合わせながら、駅前で待機していた11時25分発の佐井営業所行き路線バスに駆け込んだ。
 
下北交通の古びたバスは、数人の乗客を乗せて、国道279号線を北に向かう。
この国道は、野辺地町内の国道4号線との交差点から、函館市内の国道5号線との交差点まで、東北と北海道の2つの幹線国道を紡ぐ総延長159.7kmの道路で、大間から函館までが海上国道となっている。
これまで通ってきたJR大湊線と下北交通大畑線も、この国道279号線に沿って来たのであって、かつては田名部街道とも呼ばれ、北海道に渡る経路や恐山への参詣に利用されていたという。
 
 
大畑から大間までは、冬の津軽海峡を眺めながら、終始波打ち際を走る。
なだらかな砂浜だった陸奥湾とは異なり、荒々しい岩礁が続き、打ちつける波が飛沫を上げている。
低く雲が垂れ込めた暗い空を、ウミネコが舞う。
思い出したように、厳しい自然に耐えるかのように家々が寄り添う集落が現れるが、人影は皆無である。
 
緩やかな坂で台地を登ると、強風に晒されて草木が育たない雪原が、一面に広がった。
唸りを上げて、吹きさらしの平原を巻く強風がバスを揺さぶる。
正午になるかならないかという時間でありながら、あたりは降りしきる雪で幕が張られたように薄暗く、行き交う車がヘッドライトを点けている。
センターラインどころか、路肩の境界も分からない。
 
 
『飛行機で、さっと北海道へ飛んでしまう人にはわからないことだが、鉄道と船で東京と北海道を往復していると、北へ行くにつれて、しだいに風景が北国らしく寒々としてくる、といった単純なものではないことに気がつく。たしかに、東京から青森までは北へ行くほど段階的に淋しくなる。
しかし、函館まで行くと、その傾向が逆になり、札幌に至れば、仙台より賑やかで、東京に戻ったような錯覚さえおぼえる。
とっくに通り過ぎた青森県の、あの寂しさに匹敵するのは、札幌からさらに北か東へ5時間以上乗って稚内か釧路、網走に近づくまで待たねばならない。
青森県とは、そんなところなのだ(「旅は自由席」所収「下北半島コースの勧め」)』
 
と、紀行作家の宮脇俊三氏が記していた一節を思い出す。
 
青森と北海道を比べてみたことはなかったけれども、さすが旅の達人は目のつけどころが違うと思う。
津軽海峡に細長い三角を成して突き出している大間岬の根元を横断し、大間の停留所には12時28分に到着した。

 
国道沿いのバス停に降りると、粉雪のカーテンの彼方にぽつぽつと土産物店や飲食店が並び、その奥に、フェリーが着岸している桟橋とターミナルビルが見え隠れしている。
昼から明かりを灯している店は、開いているのか閉まっているのか、ひっそりと静まり返っている。
 
小さく見えたのは、離れているばかりではなく、船や建物がこぢんまりとしているためでもあった。
国鉄時代から青函連絡船は何回か利用したことがあったが、それ以外の航路で津軽海峡を渡るのは初めてのことだった。
青函連絡船に投入されていたのは、昭和39年に就航した「津軽丸」型が排水量5319トン、全長132mという大型船であったが、大間と函館を結ぶ大函航路を行き来しているのは東日本フェリーの「ばあゆ」で、排水量は連絡船の3分の1にも満たない1529トン、全長も83.4mしかない。

 
東日本フェリーは自社の船に世界各地の神の名を平仮名でつける慣習があり、この船名の由来はインドの神話に登場する風の神「VAYU」である。
小柄でも、トラック23台もしくは乗用車58台を収容できる立派なフェリーであるが、この日に乗車した車は僅か十数台だった。
空きが目立つ車載甲板では、重心を調整するためなのか、乗用車やトラックが中央に集められ、船員が誘導や固定に忙しく走り回っている様子を横目に見ながら、僕は、数人の徒歩客と共に、ガッシャーン、と搭載口に渡された金属板の派手な音を立てて乗用車やトラックが乗りこんでいく通路の片隅を通って乗船した。
 
大間と函館の間に、我が国初の外洋フェリーとなる航路が開設されたのは、昭和39年のことである。
翌年には、津軽半島の三厩と渡島半島の福島の間にもフェリー航路が開業し、この旅の当時には三福航路は休業、大函航路も1日2往復と寂れてしまっているけれど、初期には自動車運搬型貨物船が運航されていた青函航路にフェリーが就航したのは昭和42年のことで、下北・津軽両半島から渡道する航路の方が、フェリーとしては津軽海峡における先輩なのだ。


函館行き「ばあゆ」の出航は、13時50分である。
平戸間に荷物を置いて甲板に出ると、間もなく長声一発が港内にとどろき、機関の振動が少しずつ高まっていくのが、握り締めている手すりごしに伝わってくる。
防波堤の中に、裸電球をずらりとぶら下げたイカ釣り漁船がひしめいて波に揺られている。
雪の底に沈んでいるかのような大間の町並みが、海面に白く伸びた航跡の向こうに遠ざかっていく。
 
 
青函航路は、青森港を出てからも2つの半島に挟まれているために穏やかな航海で始まることが多いが、大函航路は、いきなり吹きっさらしの外洋である津軽海峡の洗礼を受けることになる。
「ばあゆ」は、出港後間もなく、大きく揺れ始めた。
吹きすさぶ烈風の冷たさに耐え切れなくなって船室に戻り、船窓から舳先を眺めると、波を乗り越えて船首が空を向いたかと思えば、ぐぐっと大きく沈み込み、船首に大波が被さっては砕けていく。
周囲の海原も波が高く、暗い海面のあちこちに白い波頭が立っている。
自分の乗っている船の甲板が波に洗われるといった経験は初めてだったから、なかなか肝を冷やす光景である。
 
「函館までは多少の揺れが予想されますので、船内を移動する際には必ず手すりなどにおつかまり下さい」
 
と案内放送があったのを思い出しながら、「ばあゆ」が風の神ならば、少しは手加減してこの波を鎮めてくれよ、と祈りたくなる。
 
 
海を眺めていれば心配になるだけだから、平戸間に寝転びながら、どうとでもなれ、と船窓に映る暗い空を眺めているうちに眠くなってきた。
 
雲に覆われた空と陸影の区別がつかないような、見通しの利かない航海がどれくらい続いたのであろうか。
うとうとしているうちに、ふと気づけば、横たわった身体を突き上げるようなそれまでの揺れが、いつの間にか治まっている。
身を起こして外を覗くと、正面に黒々とした函館山が姿を現していた。
 
海峡での荒れ模様が嘘のように、穏やかに凪いだ七重浜の函館フェリーターミナルに接岸したのは、定刻15時50分より少しばかり遅れた頃合いであった。
フェリーターミナルの駐車場には雪が残り、函館駅への連絡バスからは見れば、あちこちに積み上げられた雪の塊が積み上げられているものの、道路や家並みは乾き切っていて、埃を巻き上げて車や路面電車が行き交う函館の街は、雪の下北半島と僅か2時間の航海で結ばれているとはとても思えなかった。

 
函館駅で遅くなった昼食をしたため、17時19分発の快速「海峡」14号で青函トンネルをくぐり、津軽半島を南下して、19時41分に青森駅に着いた。
 
駅舎を出ると、すっかり暗くなった青森の市街地は、深々と雪に埋もれていた。
風は優しく、下北ほどの寒さは感じられない。
駅前通りには、まだ開いている店も少なからず見受けられ、明かりが煌々と眩しく眼を射る屋根付きの歩道を酔客が闊歩し、チェーンが雪を噛む鈍い音を響かせながら車が行き交う様子を目にすれば、ようやく人里に戻ってきたという安堵感がこみ上げてくる。
 
 
旅の締めとして、僕は、青森駅を21時30分に発つ東京行き夜行高速バス「ラフォーレ」号を予約していた。
 
2時間程度の待ち時間を持て余し、踏みしめる雪の感触を楽しみながら当てもなく彷徨っていると、
 
「ね、お兄さん、飲んでかない?」
 
と、割烹着の上にコートを羽織ったおばさんに声をかけられた。
 
「9時半の夜行に乗る予定なんだけど」
「大丈夫、お店はすぐそこだから。夕飯は食べたの?まだ?だったら、料理もたくさん作るからさ、夕食代わりに1杯だけでもやってってよ、ね」
 
と笑顔で腕を組まれ、薄暗い裏通りに連れ込まれた。
 
暖簾をくぐったのは、おばさんが経営しているという飲み屋である。
他に店員はいない。
たった1人の店長が客引きに出るくらいだから、どのような店であるのか想像はつくというものだが、灯りの下でよく見ればなかなかの美人でお喋り好きなおばさんと、狭い店内のカウンターを挟んで2人っきり、下ネタも含めた他愛もない無駄話を交わしながら、出されるがままに肴をつまみ、酒杯を傾けた時間は、楽しくないこともなかった。
普段ならば、決して客引きの誘いなどには見向きもしないのだが、胸が締めつけられるようなうら淋しい最果ての土地を回って来た直後で、人恋しくなっていたのかもしれない。
 
 
すっかりほろ酔い気分になって、発車時刻ぎりぎりに「ラフォーレ」号の横3列独立シートに転がり込んだ。
 
フランス語で森を意味する「ラフォーレ」号は、JRバス関東とJRバス東北、京浜急行と弘南バスの4社により「シリウス」号と同じく平成元年7月に開業したばかりだった。
1つの路線に4社が参入するのはどこかに無理が生じるようで、「シリウス」号もそうであったが、「ラフォーレ」号も平成22年にJRバス関東と京浜急行バスが手を引いてしまい、弘南バスは「津軽」号と名付けた別路線を開業、「ラフォーレ」号はJRバス東北の単独運行となっている。
この旅の数年後、僕は再び「ラフォーレ」号で青森に着き、東日本フェリーの青函航路で北海道へ渡ることになるのだが、その時に乗車した京浜急行バスは品川-弘前線「ノクターン」号と共通の塗装だったから、おやおや、と思ったものだった。
 


そのような先のことを知るはずもなく、「ラフォーレ」号は21時30分に青森駅前を発車すれば、東北道を完走して、翌朝7時ちょうどに到着する東京駅までの719.9kmをノンストップ、時刻表にも起終点の2段しか記載のないシンプルさである。
 
程良い疲労感と酔いのために、すぐ眠りに引きずり込まれてもおかしくなかったけれども、走り出したバスの車内で備えつけの毛布をかぶり、リクライニングをいっぱいに倒して目を瞑れば、ローカル鉄道と路線バスで縦走した下北半島の、寒々とした海と純白の雪原が織りなす美しい車窓が、いつまでも脳裏に浮かんだまま消えなかった。
 
 
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