東京発みちのく行き高速バス慕情 第7章~平成10年・郡山 福島行き あぶくま号~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

福島県において阿武隈山地と奥羽山脈に挟まれた地域を指す「中通り」という名称は、中山道に由来するのだという。
一般に中山道と言えば京から美濃国岐阜、信州塩尻、上野国高崎を経て江戸に至る街道を思い浮かべる人が多いと思われるが、この街道は古代では「東山道」と呼ばれて、京から美濃、信州、上野、そして下野国宇都宮から陸奥へ向かい、中山道という呼称は東山道の別称だったのである。
 
 
東京から中通りの福島市や郡山市へ向けて、昼夜十数往復の高速バスが運行されている。
昼行便である「あぶくま」号の所要は5時間前後で、中途で東北自動車道から離れて郡山駅などに寄っていくため、思いの外、時間がかかる。

東京といわきを結ぶ高速バス「いわき」号も同様であるが、「あぶくま」号にも、東日本大震災と切っても切れない思い出がある。
平成23年3月11日に発生した震災で甚大な被害を被り、加えて福島第一原子力発電所の事故のために、「フクシマ」の名は、チェルノブイリやスリーマイルと並んで世界中に知れ渡ってしまった。
もともと、福島県は、我が国でも7位の農業生産高を誇る実り多き土地である。
全国5位の産出額である米ばかりではなく、皇室に献上される福島盆地の桃をはじめ、梨やあんぽ柿、いわき市のイチゴやイチジク、会津の身不知柿などといった豊かな農産物のことを考えると、何という土地で原発事故を起こしてしまったのかと思う。
 
 
震災直後の一時期は、東北方面の高速バスもさすがに運休を余儀なくされている。
だが、震災後真っ先に復活した長距離交通機関も、高速バスだった。
 
震災から1週間後の日記で、僕は次のように記している。
 
『今日、何台も連なる高速バスのコンボイに出会った。
新宿南口バスターミナルから、各方面へ向かう高速バスが通る自宅近くの明治通りのことである。
満員の乗客を乗せて、隊列を組むバスの行き先は「福島」だった。
「仙台」や「会津若松」の行先標示を掲げたバスも見かけた。
原発事故に揺れるいわき市への高速バスも走り出したと聞く。
東北地域内を結ぶ高速バスや、首都圏から東北各地への夜行バスも運行を再開。
この数日で、東北道・常磐道・磐越道の通行規制が続々と解除され、一般車も通れるようになった。
通行止めの区間も部分的に残されてはいるものの、復旧が遅れる鉄道網よりも一足先んじた朗報である。
思わず目頭が熱くなった。
動脈が復活した!
支援物資を満載したトラックも、続々と、みちのくを目指して走り出していることだろう。
震災から1週間。
ようやく、人と物が活発に動き出したのだ。
数百㎞にも及ぶ道路の損傷を短期間で復旧させた、関係者の不眠不休の努力には敬意を表したい。
そして、今も懸命の鉄道復旧工事に携わる方々に、心からエールを送りたい。
花巻・山形・福島の3空港は、24時間運用で救援物資を受け入れ中である。
不通の新幹線に代わり、航空会社が臨時便を次々と飛ばし、旅客輸送を担っている。
津波に襲われた仙台空港も、自衛隊機や米軍機の物資輸送の拠点として運用されている。
仙台港には、21日から各種物資を積んだタンカーが入港した。
今日は、大型フェリーがトラック数十台を陸揚げしたという。
交通網の復活は、復興の第一歩だ。
深刻な燃料不足は、まだ完全には解決していない。
規制が解除された高速道路でも、目立つのは、ガソリンを求めてサービスエリアのスタンドに群がる乗用車である。
それでも、道が開ければ、未来も開ける。
被災地輸送の主役に躍り出たバスやトラックの運転手さんの方々には、心からお疲れ様と申し上げたい。
路面にはひび割れや凹凸が残り、夜の照明も乏しいことだろう。
目的地に着いても、停電や断水、または余震で、充分に休養できないかもしれない。
放射能汚染の可能性がある地域を通らなければならない場合もあるのだろうと思う。
それでも、あなた方がハンドルを握るその腕に、被災地の復興が、被災者の生命が、かかっている。
道のりが平穏であることを、心から祈りたい。
日本中が応援している。
僕らの善意の運び手として。
復興の息吹きを伝える聖火ランナーとして──』
 
 
「あぶくま」号が震災後に運行を再開したのは3月18日のことで、郡山発着便が3往復、福島発着便が3往復に便数を減らした臨時ダイヤだった。
東京駅といわき駅を常磐自動車道経由で結ぶ高速バス「いわき」号も、同じ日に運行を再開している。
 
首都圏と青森・岩手・宮城・福島の被災3県を結ぶ他の高速バス路線でも、3月16日に新宿-仙台間「仙台・新宿」号が運転を再開したのを皮切りに、3月17日には東京-盛岡間「らくちん」号、3月18日には品川-宮古間「ビーム1」号と東京-八戸間「シリウス」号、そして東京-仙台・山形間の東北急行バス、新越谷-郡山間の「あだたら」号、3月19日には新宿-仙台間「広瀬ライナー」号と千葉・上野-仙台間「ポーラスター」号、3月22日には新宿-会津若松間「夢街道会津」号、3月28日には横浜・東京-郡山・福島間「ドリームふくしま・横浜」号、4月1日には新宿-仙台間「ドリーム政宗」号、4月8日には池袋-気仙沼・盛・釜石間「けせんライナー」と池袋-遠野・釜石間「遠野・釜石」号が、続々と被災地に向けて走り出している。
新幹線をはじめとする鉄道網が壊滅状態のままであり、いずれの路線も利用者数が激増し、何台もの続行便を仕立てる路線が少なくなかった。
それぞれの路線を担当する事業者だけでは需要を賄い切れず、他社に応援を求めた路線もあったと聞いている。
 
 
震災当日から川口JCTと碇ヶ関ICの間で通行止めとなっていた東北道が、応急的な復旧工事を終えて全線開通したのは4月10日のことである。
また、那珂ICと水戸ICの間で本線部分が崩壊するなどの被害を受けた常磐道も、3月16日に三郷JCT-水戸IC間が開通し、3月21日に水戸IC-いわき中央IC、3月24日に山元IC-亘理IC、4月1日にいわき中央IC-いわき四倉IC、4月28日にいわき四倉IC-広野ICと順次復旧することで、原発事故の影響を受けている広野ICと常磐富岡ICの間を除く全線が通行可能となった。
 
高速バスが運行を再開した時点では、まだ高速道路の復旧が途上の区間もあった訳で、一部で一般道を使う場合もあったものと思われるが、それでも被災地への幹線交通を何とか確保したいと運行再開を決断した各地のバス事業者には、心からの拍手を送りたい。
 
 
東北新幹線は、走行中の列車に被害は生じなかったものの、470ヶ所の電柱損傷と架線の切断、100ヶ所の高架橋橋脚損傷、20ヶ所の線路の損傷など1200ヶ所にものぼる被害を受けた。
東京-那須塩原間は3月15日に、盛岡-新青森間は3月21日に運転を再開したものの、一ノ関-盛岡間は4月7日、那須塩原-福島間は4月12日、福島-仙台間は4月25日、最後に残された仙台-一ノ関間が開通して全線で運転を再開したのは、震災から1ヶ月半が経過した4月29日のことであった。
新幹線が部分開通した期間には、例えば、新幹線を受けて那須塩原-郡山間に高速バスが運行されるといったケースもあった。
 
 
あの時ほど、高速バスの勇姿が頼もしく見えたことはなかった。
止まっていた時が動き始めた、と感じた。
懸命に走り続けるマラソン選手のように、歩道から、または車の窓から、小旗を振って声援を送りたくなった。
 
「あぶくま」号をはじめとする福島のバスは、震災直後に「がんばろう福島」のロゴを車体に貼っていた。
浜通りを行く「いわき」号も、「がんばっぺいわき」のロゴを長いこと貼り続けていた。
JR東日本も、東北新幹線を含めた被災路線復興を推進するために、「つなげよう、日本」をスローガンとしたキャンペーンを続けていた。

震災の被害は計り知れないけれども、僕らの国は1つなんだ、必ずこの災厄を乗り越えられる力を持っているはずだ、と、心が高揚したことを覚えている。
 
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あの震災から8年が経つ。

福島へ向かう高速バスが「がんばろう福島」の代わりに、「よらっしゃい、こらっしゃい福島」「福島の味覚を召し上がれ」などと、福島の名産品や名勝などを大々的にラッピングし、広告塔の役割を果たしている様を目にするたびに、複雑な気分が込み上げてくる。
震災のことを、原発事故のことを、私たちのことを忘れてはいませんか、と問われているような気がする。
中通りですら、未だに、放射能汚染が残っている地域が厳然と存在している事実を、どうしても思い浮かべてしまう。
東京に電力を送るための原発が原因であるだけに、胸が痛む。
乗車している福島在住の方々は、いったい、どのような思いで生活しておられるのか。
震災や原発事故のことなど知らぬ顔で繁栄を誇っている東京の街並みを、どのような気持ちで見つめておられるのか。
 
明治通りを行き来する高速バスの窓に並ぶ乗客の顔を、じっと見つめてしまうことも少なくない今日この頃である。
 
 
振り返ってみれば、福島県の中通りには、東京からの直通高速バスがなかなか開業しなかった。
 
浜通りのいわき市には昭和63年に東京駅発着の路線が開業し、より遠方の宮城や山形以遠への高速バスも早くから運行されているというのに、中通りの福島や郡山は、いつまでたっても高速バス網が空白のままであることが不思議でならなかった。
福島にバスファンがいるならば、切歯扼腕の思いだったことであろう。
 
 
僕の故郷長野市も、長い間、同様の状況に置かれていた。
 
信州方面へ向かう首都圏発着路線としては、昭和59年に開業した新宿-駒ヶ根・飯田線、昭和 61年に開業した新宿-茅野線(翌年に新宿-諏訪・岡谷線に延伸)、平成元年に開業した新宿・東京-松本線、平成2年に開業した池袋-小諸線などと、着実に高速バス路線が発展したのだが、県都長野市にはなかなか到達するに至らず、平成4年の東京-長野・湯田中線「ドリーム志賀」号と新宿-長野線「中央高速バス長野線」の開業まで待たなくてはならなかった。
長野市の場合は、長野自動車道の開通が平成5年、上信越自動車道の開通が平成8年と、中信や南信、東信地域に比べて高速道路の建設が遅かったことが理由で、開業当初の「ドリーム志賀」号や「中央高速バス長野線」は、遠回りの中央自動車道を経由し、しかも部分開業だった長野道の終点、明科ICから長野市内まで一般道を使い、前者は夜行便という状況だったから、故郷は東京からそれほど遠いのか、と驚いたものだった。
 
 
上信越自動車道を経由する高速バスが新宿や池袋と長野の間を1日十数往復も運転されている今となっては、隔世の感があるけれども、しかし、福島県は事情が異なる。
昭和62年には東北自動車道が通じていて、距離も、東京と郡山の間は東京-長野間とほぼ同じであるから、高速バスが活躍する余地は充分に残されていたはずである。
東北新幹線とは競争にならないと、バス事業者が判断していたのかもしれない。
 
「あぶくま」号の登場は平成10年7月のことで、初期は、JRバス関東の便が2往復、JRバス東北便が1往復、福島交通便が1往復の1日4往復であった。
1年後には1日6往復に、平成13年には1日9往復に、平成17年には1日12往復と、瞬く間に増便を重ねる人気路線に育っている。
 
 
僕が初めて福島にバスで降り立ったのは、「あぶくま」号ではなく、平成3年冬の週末に、東北急行バスの山形行き夜行便に乗車した時だった(「最長距離バスの系譜(1)~昭和37年 東北急行バス「東京-山形線」384km~」)。
昭和37年から走り続けている老舗の長距離バスである。
 
当時使われていた車両は、旧型の普通の観光バスタイプだった。
指定されたのは前から2番目の席で、足元にはタイヤハウスが盛り上がって窮屈この上なく、座席の幅も狭い。
僕の隣りに座ったおっさんは、舌打ちして別の座席に移ってしまった。
座席を好き勝手に選べるほど、すいていたのである。
 
浜松町バスターミナルを出てからも、一向に高速道路に乗る気配を見せず、一般道ばかりを選びながら、東京駅、上野駅、東武浅草駅、北千住駅、新越谷駅、岩槻駅と丹念に停車していく。
昭和30~40年代の高速道路がなかった時代に、沿線の街々に小まめに停車していた運行形態を頑なに守り、もどかしい程にレトロな味わいを残すバスだった。
夜は長い、のんびり行きましょうや、とでも言いたげな、浮き世と懸け離れた風情が漂う。
 
岩槻ICからようやく東北道に入ったが、福島県に入って間もなく、須賀川ICで降りてしまい、須賀川と郡山駅に停車する。
郡山ICから再び高速に戻るものの、1時間足らずで福島西ICを降りて福島駅に寄る。
バスは国道13号線で米沢、上山、赤湯を経て山形へ向かうため、福島駅への寄り道はそれほど遠回りではない。
浅草駅より先のことを全く覚えていないから、よく眠ったのだろう。
 
 
ふと目覚めると、バスが停車しているのに気づいて、席を立った。
暖房のせいか、無性に喉が乾いて、飲み物を手に入れたかったのである。
どこかのサービスエリアかと思ったら、そこが福島駅だった。
 
時計の針は、深夜の3時過ぎを指している。
休憩扱いをしているのかどうか定かではなかったけれど、運転席に運転手さんの姿はなく、乗降扉が開け放たれている。
バスから離れなければ置いてきぼりにされることはないだろう、と思ったのだが、深夜の福島駅の様子は全く記憶に残っていない。
降りた客がいたのかどうかも分からない。
バスは公衆トイレの真ん前に停車していたから、用足しを済ますことは出来た。
目を凝らせば、暗闇の彼方に、照明がいっさい落とされた福島駅舎がかすかに見えたのだが、煌々と輝いていた自販機の方が印象に強い。

わずか数分の滞在時間だったとは言え、東北急行バスが、僕を、生まれて初めての福島の地に連れてきてくれたのは確かである。
 
 
平成20年に、東北急行バス山形系統の夜行便における福島駅の停車は廃止されてしまう。
郡山での乗降は継続されているのに、なぜだろうか、と訝しく感じていたのだが、郡山を通過していた仙台系統の夜行便が福島に停車していたので、福島駅の利用客は仙台・山形2系統の双方が停車する程にはいないのだろうと思うことにした。
平成29年には東北急行バス仙台系統が福島駅を通過することになり、代替措置として山形系統の福島停車が再開されている。
 
平成18年に横浜駅と東京駅から須賀川、郡山、福島に向かう夜行専用の高速バス「ドリームふくしま・横浜」号が登場した時には、やはり、東京と福島の間を夜間に行き来する人間はいるのだ、と1人頷いたことである(「原発事故に揺れる街へ~ドリームふくしま・横浜号と福島-相馬特急バス、相馬-東京直通高速バス~」)。
 
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東北急行バスで福島に降り立った日から10年近くが経ち、僕が「あぶくま」号で福島を再訪したのは、平成11年の秋の週末だった。
新宿駅南口のJR高速バスターミナルを14時10分に発車する「あぶくま」9号である。
 
周囲をぎっしりと取り囲む車の流れのままに、走ったり止まったりを繰り返しながら、明治通りを延々と北上して環状7号線に折れ、荒川にかかる鹿浜橋を渡ると、ようやく首都高速道路川口線の高架に駆け昇る。
ここまで1時間近くを費やしているから、ちょっぴりもどかしい旅の前奏曲であるが、もっとのんびりとした東北急行バス夜行便を経験している僕は動じない。

明治通りの新宿3丁目付近から池袋東口にかけての渋滞はひどく、高島屋の脇にあるバスターミナルの出口から、わずか数百メートル先の伊勢丹に面する新宿通りとの交差点まで、20分以上もかかることがあるため、乗客の中にはけしからん、と思う御仁もおられるかもしれない。
土曜日の午後だからであろうか、伊勢丹の駐車場が空くのを待つ乗用車の列が、ただでさえ少ない車線を丸々1本占拠している。
 
それでも、バスの座席の高い視点から眺めれば、乱雑に密集した都心の佇まいが、別の街のように新鮮に見えるから楽しい。
都心を抜けて首都高速道路に入れば、広大な荒川の河川敷で視界がいっぺんに開ける。
川口JCTで東北道に入り、関東平野の田園風景をぼんやりと眺めているうちに、左手の遠方に霞んでいた脊梁山脈が、少しずつこちらへ近づいてくる。
緑一色だった山々が、北へ進むにつれて、紅葉でほのかに色づき始める。
 
 
那須高原SAで一憩してから、バスは白河ICの手前でいよいよ福島県に足を踏み入れた。
 
「あぶくま」号は、須賀川ICで高速を降り、福島交通須賀川営業所と郡山駅前に立ち寄ってから、本宮ICで再び東北道に戻り、福島に向かう。
「あぶくま」号のこの区間の行程は、奇しくも東北急行バス山形系統夜行便と全く同じであった。
 
東北急行バスも「あぶくま」号も、どうして郡山ではなく、手前の須賀川で高速道路を降りるのかと思っていたのだが、須賀川市の歴史は古く、旧石器時代の乙字ケ滝遺跡をはじめ、奈良時代から平安時代にかけて造られた上人壇廃寺址など、市内には古代からみちのくの要衝であったことを示す史跡が少なくない。
日本三大火祭りの1つである「松明あかし」は、天正年間に伊達政宗に攻められて落城した須賀川城の主の二階堂氏の霊を弔うために始められたと伝えられている。
 
東日本大震災で須賀川は震度6の激震に見舞われ、市内西側の山中にある藤沼ダムでは、100秒間も持続した最大442ガルという激しい震動のために、高さ18m、長さ133mの堤が決壊、約150万トンの水が流出して多くの樹木を巻き込む鉄砲水と化し、下流の長沼地区と滝地区で死者7人、行方不明者1人、流失もしくは全壊した家屋19棟、浸水家屋55棟という被害を出した。
地震による農業用ダムと貯水池の決壊で死傷者が出たのは、世界でも報告例が無く、極めて稀な災害であったと言われている。
 
17時42分着の福島交通須賀川営業所で、ふと周囲を見渡せば、山々は遠くに後退して居並ぶ建物の陰に隠れ、黄昏に溶けてしまいそうな長閑さであった。
 

 
「あぶくま」号は、沿道に工場や郊外店が途切れることなく続く国道4号線を北上し、そのまま郡山市域へと進んでいく。
郡山市は、経済規模が仙台市に次いで東北地方で2番目、人口では仙台市、いわき市に次ぐ3番目を誇り、「あぶくま」号の半数を終点にしてしまう程の大きな街である。
「あぶくま」号には、平成13年に郡山を通過する福島直行便が設けられていたが、4年後に廃止されてしまい、現在では全便が郡山を経由していることからも、この街の存在感の大きさが窺える。
明治時代に開削された安積疎水による農業開拓が進み、猪苗代湖と安積疏水の落差を利用した沼上発電所は我が国で初めて高圧長距離送電が郡山市内に向けて行われたことで紡績繊維産業の発展に貢献、戦後の高度経済成長期には、京浜工業地帯の企業が数多く進出して来たのである。

いわきと新潟を結ぶ磐越東西線と磐越自動車道が、東北本線・新幹線及び東北自動車道と交差する交通の要所でもあり、夕闇が迫る18時07分に到着予定だった郡山駅前は大層な混雑を呈している。
駅舎を目の前にしながら、通りやロータリーを埋め尽くした路線バスやタクシーに阻まれて、「あぶくま」号は一向に乗降場へ入ることが出来ない。
福島へ向かう乗客にとっては、須賀川と郡山への寄り道は大いにもどかしいことだろうと思うのだが、ひしめく建物の煌びやかな照明と、ヘッドライトが錯綜する道路の賑わいや、乗客の3分の2が降りてしまう郡山の利用状況を目の当たりにすれば、やむを得ないことと諦めるしかない。
 
 
再び国道4号線に復帰して郡山市街を抜ける頃、陽はとっぷりと暮れていた。
 
今でも「あぶくま」号の旅を思い浮かべると、ほの暗くなった山ぎわを曲がっていくカーブの路傍に、古びて傾いた廃屋を見掛けて、何と淋しい光景なのか、と心を打たれた記憶が合わせて蘇るのだが、地図を見直しても、国道4号線は郡山盆地の中央を南北に貫いているだけで、須賀川ICと本宮ICの間に山がちな地形は見当たらない。
「あぶくま」号が僕の記憶に合致するような山の中を走るとすれば、郡山盆地と福島盆地を隔てている安達太良山に連なる山地である。
平成20年に廃止されてしまったものの、「あぶくま」号には、二本松ICで再び東北道を降り、二本松市役所と福島蓬莱停留所に停車していく系統が存在し、当時の時刻表を見直してみると、「あぶくま」9号は、まさにその経路をたどっていた。
福島県内の大半で一般道を使ったことになり、福島駅への到着は19時40分、新宿駅から5時間30分も要している。
新宿発仙台行きの高速バス「政宗」号ならば仙台駅まで走ってしまう所要時間であるが、折角バスに乗りたくて出て来たのだから、乗車時間が長いことを厭うのであれば、最初から出掛けて来ない方が良い。
 
二本松から福島への国道4号線には街灯がほとんどなく、深い闇をついて走り続ける「あぶくま」9号の車内は郡山で閑散としてしまっているから、切ないほどの心細さが胸を締め付ける。
早く福島に着いてほしいと思う。
 
 
二本松市は「智恵子抄」に登場する高村光太郎の妻の出身地で、その生家が記念館として残されている。
 
智恵子は東京に空が無いといふ、ほんとの空が見たいといふ
私は驚いて空を見る
桜若葉の間に在るのは、切つても切れないむかしなじみのきれいな空だ
どんよりけむる地平のぼかしはうすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ
阿多多羅山の山の上に毎日出てゐる青い空が智恵子のほんとの空だといふ
あどけない空の話である
 
この詩を思い浮かべると、東京からわざわざ出掛けてきた身としては、「あぶくま」号から安達太良山を眺めてみたかったと思うのだが、車窓は墨に塗り潰されたような闇が続くだけである。
もっと早い便にすれば良かったと後悔しても、午前中は仕事をしていたのだから、如何ともし難い。
 
 
戦後の混乱期に起きた松川事件の舞台である松川駅付近で、東北本線と東北新幹線が寄り添って来る国道4号線をたどりながら、「あぶくま」号は福島市内へと歩を進める。
 
ほぼ定刻通りに到着した福島駅東口は、賑々しかった郡山より、ずっと落ち着いた雰囲気だった。
整然とした駅前広場は、人通りは少ないものの、駅ビルの灯と街灯により煌々と照らし出されている。
20年前の東北急行バスでの記憶をまさぐってみても、あまりに明と暗の差が異なり過ぎて、同じ場所を踏み締めているという実感が、どうしても湧いて来なかった。
 
 

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