東京発みちのく行き高速バス慕情 第8章~平成11年・会津若松行き 夢街道会津号~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成11年の秋を迎えた日曜日、新宿駅南口のJR高速バスターミナルを定刻9時きっかりに発車した会津若松駅行き「夢街道会津」号は、高島屋の壮麗なビルの横手にある三差路から明治通りに乗り入れた。
 
 
平日ならば、ここから甲州街道と交差する新宿4丁目交差点、伊勢丹に面した新宿3丁目交差点、靖国通りと交わる新宿5丁目交差点のあたりまでぎっしりと車で埋め尽くされ、下手をすると僅か数百mの距離を10~20分も要する場合があるのだが、この日の車の流れは比較的スムーズで、職安通りと交差する新宿7丁目交差点、大久保通りと交差する大久保2丁目交差点、早稲田通りと交差する馬場口交差点、新目白通りと交差する高戸橋交差点まで、それほどつっかえることなく進むことが出来た。
高戸橋は神田川を渡る短い橋で、春ともなれば、川の両岸に並ぶ桜並木を見物する人々が足を止めている姿が見られる。
 
神田川から、我が国でも初期の立体交差として知られる千登世橋の古風なアーチをくぐり抜ける坂道までは、繁華街に挟まれたオアシスのように潤いのある風景である。
 
 
右手の早稲田通りから都電荒川線が寄り添ってきて、運が良ければ、チンチン電車と一緒に緩やかな曲線を描きながら目白台地に向けて勾配を昇っていくことになる。
 
僕が東京に出て来た昭和60年代に、都電は白地に緑の画一的な車両ばかりだったが、最近はオレンジ色に紅色のラインを入れた路面電車最盛期の塗装を施された車両も見受けられるようになった。
僕はその時代の都電を知らない世代なので、どうもピンと来ないのだが、決して少なくないであろう費用をかけて昔の塗装を再現するという風潮が、都電ばかりではなく、バスや鉄道、航空機などあらゆる乗り物で見られるようになっているのは、どのような心理なのだろうと思う。
 
 
鉄道ファンの間では、今や数少なくなった「国鉄型塗装」を持て囃す人間は少なくない。
「夢街道会津」号でも、JRバス関東が国鉄カラーを復刻したバスを平成25年に登場させている。
 
車両の種類までを昔に戻す訳にもいかないので、その時代より遥かに洗練された今風のデザインの新型車両が、昔風の塗装を身に纏った姿はどこかユーモラスで、僕は、口元がむず痒くなるような違和感を禁じ得ないのだけれど、人間とは、歴史や思い出なしには生きていけないということであろうか。
昇り龍のような勢いのあった我が国の高度経済成長期、猛烈に働きさえすれば坂の上の雲を掴むことが出来た時代への懐古なのだろうか。
世の中の進歩に伴い、非効率的、非経済的と評された様々なモノが少なからず切り捨てられてきたのであるが、今や、人間すら使い捨てにされかねない現代の趨勢を、僕らは怖れ始めたのかもしれない、とも思ったりする。

 

 
坂を登り詰めると、再び、看板をぎっしりと掲げた雑居ビルが道路の両側を埋め尽くす。
「夢街道会津」号は身を細めるように池袋駅東口の雑踏を掻き分けて進み、そのまま明治通りを北上して王子駅前を過ぎ、鹿浜橋ランプから首途高速道路川口線に入っていく。
 
昭和の終わりから平成の初頭における都心部の高速バスターミナルは、所要時間の長短をそれほど問われない夜行便は別として、東名高速道路と常磐自動車道、東関東自動車道方面へ向かう昼行便は首都高速都心環状線宝町ランプに程近い東京駅、中央自動車道へ向かう昼行便は首都高速4号線に沿った新宿駅、関越自動車道へ向かう昼行便は新目白通りに近い池袋駅と言ったように、幾つかの例外はあるものの、経路となる高速道路に最も近い駅を起終点として、ほぼ行き先別に分けられていたように思う。
 
 
昭和41年から同50年まで東名高速沿線を結んでいた「東名急行バス」も、東京駅より更に首都高速3号線へのアプローチがたやすい渋谷駅を発着していた。
東名高速を使い箱根桃源台へ向かう「箱根高速バス」は、例外的に新宿をターミナルとしていたが、首都高速3号線池尻ランプに至るまでがもどかしく感じたものだった。
 
昭和45年から、新宿と富士五湖を結ぶ「中央高速バス」富士五湖線が浜松町バスターミナルまで乗り入れていた時期があったが、他系統の「中央高速バス」が浜松町に延伸されることはなく、平成8年に富士五湖線も浜松町に行くことをやめた。
 
 
平成元年には新宿と松本を結ぶ「中央高速バス」松本線と競合する路線として、東京駅と松本駅を結ぶ「松本」号が運転されていたが、「中央高速バス」が1日十数往復の盛況ぶりを呈しているのと対照的に、「松本」号は平成4年に廃止されてしまう。
「中央高速バス」松本線と「松本」号の所要時間には40分もの差があり、乗客の目はそれだけ厳しかったということなのだろう。
当時の雑誌におけるインタビュー記事で、「松本」号を運行する事業者の担当者が、
 
「東京の中心は新宿ではなく東京駅なんです」
 
と悔しそうに答えていたことが思い出されるが、これは若干時代遅れの解釈と言うべきで、東京における人の流れはどんどん西方へ移り、また高速道路に乗るまでの所要時間は、利用者数を決定する侮れない要因のようである。
 
†ごんたのつれづれ旅日記†
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東京を発着して東北自動車道を使う昼行便は、他の高速道路に比してなかなか現れなかったのだが、昭和63年に登場した盛岡行き「らくちん」号は東京発池袋経由、平成元年に登場した仙台・山形行き東北急行バスは浜松町発東京駅経由、平成7年に登場した日光・鬼怒川温泉行きは新宿駅発着、平成13年に登場した茂木行きは浜松町、平成14年に登場した弘前行き「スカイターン」号は品川発浜松町経由、平成17年に登場した青森行き「青森上野」号は上野駅、同じ年に登場した足利行き「足利わたらせ」号と下妻行き高速バスは東京駅発着と雑多な印象であったが、どれも始発地から東北道までが冗長な印象だった。
 
平成元年に新宿駅南口高速バスターミナルが完成すると、平成3年に仙台行き「政宗」号、平成10年に福島行き「あぶくま」号、平成11年に会津若松行き「夢街道会津」号、平成13年に宇都宮行き「マロニエ新宿」号と塩原温泉行き「もみじ」号と、相次いで東北道を使用する昼行高速バス路線が開業し、今でも佐野へ向かう「マロニエ」号が頻回に新宿を発着していることを考えれば、東北道への玄関は新宿で決まり、という感がある。
それでも新宿から東北道までが遠いことに変わりはなく、これらの高速バスも、後に池袋駅や王子駅にも停車するようになった。
 
 
今、新宿から東北道へ向かうならば、甲州街道で山手通りに出て、首都高速中央環状線中野長者橋ランプから山手トンネルに潜り込み、板橋本町、王子を経て江北JCTで首都高速川口線に合流するのが最短経路と思われるが、僕が「夢街道会津」号に乗車した時にはそのようなことを考えるはずもなく、なぜならば中央環状線板橋JCT-江北JCTの間が完成したのは平成14年、西新宿JCT-熊野町JCT間が開通したのは平成19年と、遥かに先の話だったからである。
中央環状線が新宿まで延伸してからも、新宿発着の東北道方面の高速バスは開業当初のまま明治通りを使い続け、せいぜい王子駅前に停車した後に王子北ランプから首都高速に乗る程度である。
中央環状線新宿線と王子線は、それだけ使い勝手が良くないのかもしれない。
 
当時、中央環状線新宿線と王子線が完成すれば、都心環状線や、その合流付近から発生する3号線と4号線の渋滞が約6割、 環七や明治通りの渋滞も約1割減少すると首都高速道路公団は予測し、渋滞の減少により、代々木公園の14倍もの面積の照葉樹林が1年間に吸収する量に相当する2万5000トンも二酸化炭素の排出量を減少させる効果や、経済的利益や環境改善効果などを合計すると40年間で約4兆8000億円にのぼる、などと大々的に宣伝されていた。
実際、中央環状線の開通によって都心環状線の渋滞は約3割減少したと言われているのだが、中央環状線は、熊野町JCTと板橋JCTの間で首都高速5号池袋線と重複し、新宿・池袋から江北JCT方面へは左車線から右車線へ横断しなければならない構造と相まって、山手トンネル内から渋滞するようになり、また首都高速3号線との大橋JCTや首都高速4号線との初台JCT付近の流れも滞るようになったため、利用者としては別の場所で渋滞に巻き込まれているだけじゃないか、と感じてしまう結果になっていることは否めない。
 
 
荒川の広大な河川敷に沿う首都高速川口線の高架に駆け上がれば、いっぺんに視界が開けて爽快な気分になり、都心のターミナルや首都高速の渋滞のことなどは、文字通り彼岸のこととなる。
つい先程までどっぷりと浸かっていた日常が瞬く間に遠ざかって、心地良い解放感に浸る瞬間である。
どんよりと雲が垂れ込めている生憎の空模様ではあるけれど、東北道を進めば、関東平野の雄大な車窓や那須付近の高原の爽やかさに変わりはなく、出掛けてきて良かったと思う。
 
羽生PAと阿武隈PAで休憩をとり、「夢街道会津」号は、安達太良山を横目に見ながら郡山JCTで磐越自動車道新潟方面へと舵を切る。
 
 
郡山と新潟を結ぶ道筋は、古くは越後街道と呼ばれ、今では国道49号線として猪苗代、会津若松、阿賀野、を経て、本州の脊梁山脈を横断している。
山中を行く街道筋は、川に沿って形成される例が多い。
越後街道を導くのは五百川で、奥羽山脈の東麓に源を発し、磐梯熱海温泉を流れ下って、郡山盆地で阿武隈川に合流する。
 
昔、京都に住む萩姫が病にかかった際に「京から北に500番目の川を上りなさい」と言われ、500番目の川である五百川のほとりの磐梯熱海温泉に入ると、たちまち病が治ったという伝説がある。
 
 
磐越自動車道は国道49号線よりも北寄りの山腹に設けられており、猪苗代湖までは安達太良山系と磐梯山系に挟まれて、少しずつ秋の気配が深まっていく。
磐梯熱海ICを過ぎると地形はますます険しくなり、猪苗代磐梯高原ICまでの間に、長さ1120mの高玉東トンネル、990mの高玉西トンネル、1820mの新中山トンネル、1670mの鞍手山トンネル、1490mの関都トンネルといった長大トンネルが続く。
 
この山並みから標高514mの猪苗代湖のあたりが分水嶺で、福島県南会津町と栃木県日光市の境にそびえる荒海山に端を発する荒海川や、猪苗代湖から流れ出る日橋川などの支流を集めた阿賀川が、新潟県内で阿賀野川と名を変えて、日本海へと注いでいく。
 
トンネル群を抜け終わると車窓が明るく開けて、会津盆地に差し掛かった気配が窺えるのだが、琵琶湖、霞ケ浦、サロマ湖に次ぐ我が国で第4位の面積を持つという猪苗代湖は、道端のこんもりとした丘陵や生い繁る木々に隠されてしまい、ちらり、ちらりと垣間見えるだけである。
猪苗代磐梯高原IC付近で磐越道は猪苗代湖に最も近づくが、同じ地平に降りてしまったためなのか、湖面は全く見えなくなってしまう。
それでも、前方に磐梯山を望む周辺の風景は、清冽な高原の趣がある。
 
 
会津磐梯山は宝の山よ
笹に黄金がなりさがる
 
何故に磐梯あの様に若い
湖水鏡で化粧する
 
北は磐梯 南は湖水
中に浮き立つ翁島
 
主は笛吹く私は踊る
櫓太鼓の上と下
 
小原庄助さん 何で身上潰した
朝寝 朝酒 朝湯が大好きで それで身上潰した
ハア もっともだ もっともだ
 
知らぬ間に口をついて出るのは古い民謡で、思わず赤面して周りの乗客の顔をこっそり見回してしまったのだが、快調に走るバスのエンジン音に掻き消されたのは幸いだった。
お囃子に登場する小原庄助の部分は、父が好きでよく口ずさんでいたことを思い出す。
幼少時から、朝起こされるのだけは早かったな、と甘酸っぱい記憶が蘇ってくる。
 
 
猪苗代湖には、活火山である安達太良山に水源を持つ長瀬川から強い酸性の水が流れ込むため、水中の有機物の量を表すCODは0.5mg/Lと低く、日本一の水質を誇る湖と言われているから、化粧に使う鏡と歌われるのももっともである。
明治時代には降水量が少ない郡山盆地に向けて猪苗代湖から安積疏水が拓かれ、湖の東側の山地はトンネルで越えるという大事業であったが、そのおかげで郡山近辺は我が国でも有数の米の生産地に姿を変えたのである。
後に猪苗代に立ち寄る系統も設けられたが、僕が乗車した頃の「夢街道会津」号は会津若松ICまで直行していた。
 
 
それでも、猪苗代付近の鄙びた風景に懐かしさを覚えるのは、子供の頃に読んだ野口英世の伝記の影響が大きい。
 
3歳の時に囲炉裏で手に大火傷を負い、後にそれを手術した猪苗代在住の医師の姿に感動して医師を志したこと、それでも残った手の後遺症のために臨床医になることを断念して細菌との闘いに一生を捧げ、自らも黄熱病のために一生を終えるという、野口英世の偉大にして波瀾万丈の人生を読み進めながら、幼心に強く刻まれたのは、母親であるシカの献身的な愛情と、明治期の猪苗代の情景であった。
 
蛇毒による溶血性変化についての病理学的分析、末期神経梅毒患者の脳標本における梅毒スピロヘータの発見、サシチョウバエにより媒介されるオロヤ熱が南米におけるバルトネラ症であることの証明をはじめ、黄熱病、小児麻痺を来す急性灰白髄炎、狂犬病の病原体の特定など、後に否定される研究も一部あるものの、多岐に渡る輝かしい業績の一方で、アメリカへの留学前に支援者から貰った大金を遊興で使い切ってしまうという金遣いの荒さなど、小原庄助を彷彿とさせる人間味にも惹かれる。
猪苗代を出て上京する際に「志を得ざれば再び此の地を踏まず」と実家の柱に彫ったという逸話をはじめ、
 
「障害者であることは、学問においては問題にならない」
「努力だ、勉強だ、それが天才だ。誰よりも、3倍、4倍、5倍勉強する者、それが天才だ」
「私はこの世界に、何事かをなさんがために生まれてきた」
「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。人生で変えることができるのは、自分と未来だけだ」
「自分のやりたいことを一所懸命にやり、それで人を助けることができれば幸せだ」
「模倣から出発して独創にまで伸びてゆくのが、日本人の優れた性質である。それは逞しい能力でもある」
 
などといった彼の語録は、どれも心を打つ。
 
夜遅くまで勉強を続けてなかなか寝ようとしない彼を心配する同室の学友に、
 
「ナポレオンは3時間しか寝なかったと言うぜ」
 
と平然と答える伝記の一節は、今でもよく覚えている。
 
大学時代に、友人と代わる代わる運転を交替しながら会津までドライブし、猪苗代町の野口英世記念館を訪れたこともあった。
 
 
僕らが学生だった頃には、医学者を描くドラマとして、山崎豊子原作で田宮二郎主演による映画化やテレビドラマ化された「白い巨塔」や、遠藤周作の原作で渡辺謙・奥田瑛二が主演した映画にもなった「海と毒薬」など、医学界の負の側面を取り上げた題材が少なくなかった。
 
友人と「白い巨塔」を観て、正義派として描かれる内科医よりも、医師としての姿勢が大いに問題視される一方で腕の立つ外科医である主人公に憧れ、
 
「やっぱり里見先生よりも財前教授だよなあ」
 
と肯き合ったり、「海と毒薬」で患者を死なせてしまった手術の後に、主人公の若き医師2人が廊下で呆然と煙草をくゆらせながら、
 
「コメディやったな」
 
と呟くシーンが渋くて格好いい、などと語り合うような、すれっからしで生意気だった僕ら医学生も、野口英世記念館で目の当たりにした大先輩の足跡には、素直に感動を覚え、頭を垂れたのである。
 
 
「白い巨塔」の主人公である財前五郎は、どのような汚い手段も厭わず教授になることを目指し、そのためには重症の患者を放置してしまうような医師として描かれているが、一方で、貧しい医学生時代にはひもじさを紛らわすために勉学に打ち込み、また母親への仕送りを欠かさないという場面も挿入されていた。
野口英世を彷彿とさせるその描写ゆえに、彼を根っからの悪人と思えないのは、僕だけであろうか。
 
 
終点の会津若松駅前には、定刻13時29分に到着した。
 
戊辰戦争において政府軍の熾烈な攻撃を受け、若松城ともども灰燼に帰したと伝えられる会津の街並みは、あっけらかんと明るく、鶴ヶ城も綺麗に再建されていて、飯盛山における白虎隊の自刃などといった悲劇の舞台となったことが信じられないほど、静かな佇まいだった。
観光客らしい装いの人々が、思い思いに散策している。
この街もまた、昔を偲びながら、歴史とともに息づいていることを感じた。
 
しかし、それは懐古と呼ぶような生易しい類いのものではない。
昭和61年に、戊辰戦争で会津藩と戦った長州藩の本拠地である山口県萩市から友好都市提携を申し入れられた際に、市民から「我々は戊辰戦争の恨みを忘れていない」との声が上がって拒絶した、というエピソードがある。
司馬遼太郎の中編小説「王城の護衛者」を読み、幕末の争乱下にある京を鎮守する守護職に選ばれたというだけで倒幕派の恨みを買って、将軍徳川慶喜が小狡く逃げ回っているのと対照的に、藩主松平容保をはじめ会津の朴訥で実直な人々が、結果として革命の血祭りに挙げられた、という解釈には、蒙を啓かれた思いがした。
 
 
司馬氏は、以下のように書いている。
 
『「王城の護衛者」を書いた直後、会津のひとびとから多くの手紙をいただいた。
とりわけ、会津松平家の御当主から御礼の電話を頂いたことが私にとってたれに読んでもらったよりもうれしかった。
うれしいというより、玄妙な思いがした。
右の御当主は、おなじくこの作品の主人公からいえば孫にあたる秩父宮妃殿下から「すぐお礼のお電話をするように」と、そういわれたということを電話のなかで申しのべられた。
本来、小説はそういう機能をはたすべく書かれるものではないが、結果として歴史のなかに生きさせられたひとの鎮魂のことばたりうることも、稀有な例としてあるのかもしれない。
その稀有な経験をもったことを、私はなまの人間として深く感じ入っている。
会津はやはり怨念の地なのであろう』
 
薩長側の史観で描かれることの多い明治維新であるが、見方を変えれば、会津は近代日本建設の犠牲になった訳で、平和な今の街並みや穏やかな人々の表情からは窺い知ることすら難しいけれど、1世紀以上が経過しても、理不尽だ、という感情が根強く残されていても無理はないと思う。
 
 
会津若松は交通の要所でもあり、鉄道では、郡山や新潟へ抜ける磐越西線、上越線の小出へ向かう只見線、そして野岩鉄道と東武鉄道に乗り入れて鬼怒川・浅草方面へ足を伸ばす会津鉄道があり、また高速バスも郡山・いわき方面、福島方面、仙台方面への路線がある。
 
さて、これからどこへ行こうかと思う。
 
平成2年に東武鉄道・野岩鉄道・会津鉄道が直通運転を始めた直後に乗りに来たのが、僕の初めての会津訪問で、私鉄だけで東京から福島県まで行けるようになったと驚いたものだった。
もう1度、上り列車で自然豊かな車窓を楽しんでも良い。
 
 
バスターミナルを出入りする各方面へのバスを眺めていれば、会津若松から郡山を経ていわきに向かう高速バスも魅力的であるし、仙台や福島に向かうのも一案である。
友人と野口英世記念館を訪れた後に喜多方まで足を伸ばし、名物のラーメンを啜ったことを思い起こして、思わず駅舎に足が向きかけたが、越後街道に沿って会津まで来たからには、阿賀川を下って日本海に出てみたくなった。
 
 
おあつらえ向きの高速バスがある。
磐越道が全通した平成9年に運行を始めた、会津若松-新潟間高速バスである。
 
14時35分に会津若松駅前バスターミナルを発車した新潟行きの会津バスは、「夢街道会津」号に比べれば古びていたものの、初めての奥会津と飯豊山地越えに胸を躍らせていた僕は、全く気にしなかった。
 
十数人の客を乗せたバスが会津若松ICから磐越道に乗ると、会津盆地が尽きる西会津PAのあたりで、北方の朝日山地と合わせて東北アルプスの異名を持つほど峻険な飯豊山地が、前方から右手にかけて峰を連ねているのが見える。
「山容飯を豊かに盛るが如き」と称されるこの山地の最高峰は、標高2128mの大日岳で、隣りの飯豊山や北股岳、烏帽子岳、御西岳といった2000m級の山々がひしめいている。
万年雪も残るという厳しい山岳地帯であり、沿道に雪こそ見られないものの、一足先に冬を迎えたような寒々とした車窓となった。
 
 
飯豊山は、7世紀に役小角が開山したとされる飯豊大権現を祀る古い山岳信仰の場で、「御山駆け」と呼ばれる成人儀式が伝わり、15歳までに登頂しなかった者は一人前と認めて貰えなかったという。
飯豊山の付近は新潟県と山形県に挟まれているものの、飯豊本山の一宮が置かれている喜多方市一ノ木地区が表参道の入口で、南麓から山頂に至る登山道が細長く福島県喜多方市域として認められ、新潟県と山形県は飯豊山において数mの間隔で離れているのだという。
 
磐越道も会津若松ICから新潟県阿賀野市の安田ICまで片側1車線ずつの対面通行となり、1330mの束松トンネル、2660mの鳥屋山トンネル、1020mの西会津トンネル、3660mの龍ヶ嶽トンネル、2760mの黒森山トンネル、1120mの小出トンネル、2990mの焼山トンネル、2400mの西山トンネルなどといった長大トンネルが次々と現れる。
越後街道・国道49号線やJR磐越西線が阿賀川に沿って北へ大きく膨らむように迂回しているのと対照的に、磐越道は、どのような地形であろうと関係ありません、と言うように、新潟県の津川町まで一直線に短絡している。
 
大波の如く押し寄せる山々を越えて新潟県に入っていくと、それまで離れていた阿賀川は阿賀野川となり、越後街道から若松街道へと名を変えた国道49号線と一緒に寄り添ってくる。
 
 
バスは、かつて会津藩領でありながら、明治の廃藩置県で新潟県に組み込まれた津川町に差し掛かる。
 
この町にある麒麟山は、戦国時代に設けられていた城が狐戻城と呼ばれた程の険しい山で、狐火の出現率が世界一とも言われているらしい。
山頂の展望台は白狐と名付けられ、野口雨情が狐伝説にまつわる童謡を創作したことが由来であるという。
 
急ぎやれ急ぎやれ
この道は
こんこん狐の
出る道ぢや 出る道ぢや
さアさ急いで
通とほりやんせ
おお こわ こわや
狐はこわや
こんこん狐が出りやこわや
 
かつて、津川の嫁入りは夕方から夜にかけて行われ、提灯を下げた花嫁の一行が麒麟山を越えていく際に、堤灯の明りと狐火が平行して見えたことから、今でも狐の嫁入り行列と呼ばれる祭が開かれている。
現在では、山間部から平野部にかけての扇状地などで見られる光の異常屈折によって、狐火現象はほぼ説明できるとされ、他にも天然の石油の発火、球電現象などをその正体とする説もあるが、正体不明の部分も少なくないと言われている。
山間に開けた津川の町は磐越道の北側に位置し、阿賀野川のほとりにある麒麟山の特異な山容が見えるかもしれないと目を凝らしてみたけれど、彼方に居並ぶ嶺々のどれであるのか、それとも磐越道からは見えないのか、判然としなかった。
 
 
大きく蛇行を繰り返す阿賀野川と絡み合いながら三川町を過ぎ、再び幾つかのトンネルをくぐり抜けると、不意に周囲の景観が明るく輝き、山々が後退して、バスは新潟平野に飛び出した。
それほどの急勾配には感じなかったから、いつの間にここまで高度を下げていたのかと驚いてしまう。
磐越道は再び往復4車線に戻り、阿賀野川からも地を削って流れ下って来た激しさは影を潜め、川幅が大きく広がって、悠然たる大河の風格が醸し出されている。
 
地平線の彼方まで広がっている水田を見渡せば、郡山も会津も決して貧しい土地ではなかったけれども、新潟平野の豊かさは群を抜いていると思う。
奥深い山々を必死に越えてきた昔の旅人も、きっと、同じ感慨を抱いたことであろう。
 
終点の新潟万代シティバスセンターの到着予定時刻16時39分まで、あと半時間程度だった。
東京から会津までおよそ290km、そして会津から新潟まで120kmもの距離を走り抜け、日本海へと足を伸ばした今回のバス旅も、どうやら終わりが近づいたようである。
 
 
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