東京発みちのく行き高速バス慕情 第9章~平成27年 むつ行き しもきた号、そして妻との心の旅~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

このブログを御訪問下さり、厚く御礼申し上げます。
今回の記事には、私的なつらい内容が含まれております。もし、御不快に感じる方がおられるといけないと思い、あらかじめ申し上げさせていただく次第です。
多くの方々の支えを得て、3年前のこの哀しみを、ようやく、書いて向き合うことが出来るようになりました。
 
── ◇ ── ◇ ── ◇ ──
 
新宿駅西口にある高速バスターミナルの雑踏は、相変わらずだった。
僕の視界に、次から次へと様々な人々が現れては消え、これだけ大勢の人間が集中して存在している空間は地上でも稀ではないかと思うのだけれど、大多数は互いに言葉を交わそうとせず、他人の視線を避けるように目を伏せ、もしくは一心にスマホの画面に見入りながら、足早に移動している。
そんなに人と関わりたくないのであれば、このような世界有数の繁華街などに出てこなければいいじゃないか、と思う。
 
30年前の大学時代に、教養学部があった富士吉田に「中央高速バス」富士五湖線で行き来して以来、故郷の信州や山梨県内の各地、名古屋、高山、下呂、京都、大阪、姫路、徳島、松山、そして我が国で最長距離を走る高速バスで福岡まで15時間かけて行ったのも、この新宿駅西口からであった。
数え切れないほど利用してきた、馴染みの深いバスターミナルであるけれど、みちのくへ旅立つために利用するのは初めてだった。
新宿駅西口高速バスターミナルを運営する京王バスの東北方面路線と言えば、平成18年に登場した仙台・石巻行き「広瀬ライナー」号だけで、他に、青森へ向かう弘南バスの「津軽」号や「えんぶり」号が平成22年から乗り入れるようになった程度である。


乗り場の向かいにある、家電量販店のどぎついネオンに照らされながら行き交う人々。
ターミナルの窓口で乗車券を求めて列をなす人々。
そして、階下の狭い待合室で、肩を寄せ合いながら、じっと発車を待つ人々──。
 
何十回と見慣れた光景でありながら、この夜ばかりは、自分がその中の1人であるという実感が湧かずに、どこか別の世界の出来事をテレビを通じて見ているような、ぼんやりとした感覚だった。
おそらく、僕の人生の中でも、我が家や学校、職場に次ぐ、と言っても良いくらいの頻度で足を踏み入れた場所であり、様々な思い出も少なくないのだが、どうしてこのタイミングで、ここに来てしまったのだろう、と思う。
 
『呆然と立ちつくすという感じだった』
 
俳優の仲代達矢氏が奥様を亡くした時の言葉である。
 
僕も、5日前に、最愛の妻を失ったばかりだった。
平成27年7月のことである。
妻の病気のことは承知で結婚してから、9年あまりの歳月が流れていた。
 
数ヶ月前までは、闘病生活を続けながらも、元気に過ごしていた。
病状が悪くなってからも、様々な苦しみに耐えながら頑張っていたのだが、最期はあっという間だった気がする。
僕たちに子供はなく、たった2人ではあるけれど、お互いの生き方や考え方を尊重し合い、時に好きな旅行や食事を一緒に楽しみながら、仲良く暮らしていた我が家に、もう妻はいない。
 
無我夢中で通夜と葬式を済ませ、また来るから元気を出してね、と心配顔で帰っていった弟や親戚を見送ると、するべきことが何もなくなっていることに、僕は愕然とした。
職場には、もう数日休むという届けを出している。
早く出勤しても何の差し障りもないのだが、人に声を掛けられることが煩わしく、また、何のために働けばいいのか、と虚無感が湧いてくる。
妻のために、そして、妻に支えられて生きてきたことを、今更ながら実感した。
外出に際して行き先を告げるべき相手も、帰りがいつになるのか心配してくれる人も、僕には誰もいなくなっていた。
 
深い喪失感に苛まれて途方にくれながらも、前年の平成26年8月に開業したばかりの、新宿発むつ行き夜行高速バス「しもきた」号の乗車券を手に入れ、ふらふらと夜の高速バスターミナルへ出掛けて来るとは、どのような心境だったのか、今もって理解できない。
妻のいない家で過ごすことが、耐えられなかったのかもしれない。
 
 
「しもきた」号が登場してからは、目覚めれば最果ての地に立てるというイメージに憧れて、乗りに行きたいものだと幾度となく心に浮かんでいたのは事実である。
おそらく東京発着の東北方面へ向かう高速バスとしては最長距離路線と思われるのだが、利用客の見込みが少ないのか、下り便は木曜日から土曜日、上り便は金曜日から日曜日、という週末運行に限定され、しかも開業3年後の平成29年には1月上旬から2月末まで長期運休するようになってしまった。
 
「しもきた」号を運行するのは国際興業バス1社であるが、池袋を拠点とする長距離路線を多数展開している同社が、どうして「しもきた」号だけを新宿発着にしたのか、その理由は分からない。
おかげで、僕は都内で最も殷賑な地に設けられたバスターミナルに来なければならなくなった。
その方が気が紛れるかもしれない、とも思ったのだが、そのように単純な心持ちである訳もなく、行き交う人々の姿を目にすればするほど、孤独感が募る。
 
地上にはこれほど人間が溢れているのに、なぜ、神は妻を選んで天に召してしまったのか。
妻さえ生きていれば、毎日が幸せなのに。
他の人とは代え難いのに──。
 
 
発車時刻の10分ほど前に乗り場へと横着けされた「しもきた」号で、僕が指定されていた座席は、最後列の左側だった。
座席は瞬く間に3分の2程度が埋まったが、最後列は僕1人だけであったから、周囲に気兼ねする必要がなく、この夜の僕にとっては幸いだった。
 
定刻20時15分に、窓外の夜景がゆっくりと後方へ流れ出した。
警備員が吹き鳴らすホイッスルが車内にも鋭く鳴り響き、人々が道を開けてこちらを見上げる中、バスは狭い路地をゆっくりと移動してロータリーに出る。
高層ビル街を通り抜けて山手通りに入り、中野長者橋ランプから首都高速中央環状線の山手トンネルに潜り込んで、熊野町JCTで首都高速5号線に合流し、バスは次の乗車停留所である大宮駅に向かう。
この経路をバスで走るのは初めてだったが、車窓は殆ど記憶に残っていない。

 
21時10分発の大宮駅東口に来たのも久しぶりで、思い起こせば、武蔵国一宮である氷川神社に、妻と初詣に来た時以来ではなかったか。
着飾った人々で賑わう氷川神社で、妻は大吉が出るまで何回も籤を引き、僕は内心苦笑しながらそれを眺めていたものだったが、今、妻のその時の心境を思い遣ると、胸が締めつけられる程にせつなくなる。
 
妻は初詣を口実に、あちこちの神社や寺に出掛けることが好きだった。
ドライブが大好きで、どこそこに行きたい、と妻が言い出せば、僕は喜び勇んで車を出したのである。
妻は僕の生き甲斐だった。
妻のためならば、何でも出来ると思っていた。
 
妻と初めてデートしたのは、師走で賑わう桜木町駅前だった。
駅舎は明るかったのだが、改札から離れた場所で待ち合わせたので、挨拶をかわした時は、逆光のためにお互いが影法師のようで、表情がよく見えなかった。
ランドマークタワーへ通じる連絡通路で、初めて顔を見合わせ、僕は、人生で初めてのひとめぼれを経験した。
最上階のレストランで、僕は偉そうにフランス料理を奢ったのだが、フルコースのフランス料理など、僕も初めての経験だった。
妻が緊張している様子がその仕草から窺えたから、場をほぐそうと、僕は次から次へと話題を繰り出し、喋っていたのは僕が8割、妻は2割にも満たなかったのではないか。
人見知りで恥ずかしがり屋だけれど、素敵な女性だとすぐに分かった。
守ってあげたいと、心から思った。
 
正月にまた会おうと約束して、2人で横浜の伊勢神宮にお参りに行った。
それからは、新横浜に住む妻のもとへ、仕事が終わると毎日会いに行く日々が続いた。
ぞっこんになった僕は、自分の好意を隠そうなどとはこれっぽっちも思わなかった。
奥手な性格で、女性に好きだなどと自ら告白したことは、40歳を超えるまで、いっさいなかったのであるが、妻には、何の恥ずかしさも躊躇いもなく、気持ちを素直に伝えることができた。
そのような自分が不思議でもあった。
妻の病気の話を聞いても、その想いが募りこそすれ、変わることはなかった。
 
妻が勤めていた会社から遠方への異動を言われた時、妻は会社を辞める決心をした。
父親から実家のある福岡に帰って来るよう勧められたと聞き、それならば一緒になろう、と、僕は思わず口にしていたのである。
 
「それなら、寿退社にしてもいいですか」
 
と答えてくれた妻の弾んだ声は、今でも忘れられない。
平成19年の4月を迎えたばかりの日の黄昏時のこと、当時、大田区に住んでいた僕は、買い物帰りの自転車を路端に停めて跨がったまま、携帯でのやりとりだった。
 
「結婚式は、父と母の結婚記念日の4月29日にしたいんです」
 
という妻の願いを叶えるため、4週間も残されていなかった結婚までの日々を、実に慌ただしく過ごすことになった。
式場を手配し、打ち合わせや衣装合わせの傍ら、2人で福岡まで挨拶に出向いたのが、結婚式の3週間前だった。
母がいる信州の実家に行ったのは、結婚の2週間前のことで、僕がもう結婚しないのでは、と案じていた母は、大層喜んだものだった。

 
大宮駅東口から乗車した客で「しもきた」号はほぼ満席に近くなり、最後列でも右の窓際席を若い男性が占めたが、僕の隣りには誰も来なかった。
車内設備や翌朝の降車停留所の案内を終え、交替運転手さんが「何か御不明なことはございませんか」と車内を回り、2~3列前に坐っている中年の男性客と何やら長いことやりとりしているのを横目に見ながら、僕は背もたれをいっぱいに倒して、各席を隔てるカーテンを閉めた。
殆ど眠れない日々が続いていたためなのか、あっと言う間に眠りに引きずり込まれたような気がする。
 
妻の夢を見た。
夢路に立つ妻が、どのような表情で、どのような振る舞いをしたのか、記憶は定かではない。
妻が傍にいてくれることが当たり前だった日々と同じく、安らかな心持ちだったことだけは、よく覚えている。

身体を揺さぶられてハッと目が覚めた時、漆黒の闇の中でエンジン音が低く鳴り響き、自宅のベッドではなく、リクライニングシートに身を任せている自分に気づいて、少しばかり混乱した。
下北へ向かう夜行高速バスの車内にいることを思い出し、妻を亡くした孤独な身である寂寥感が改めて胸に迫ってきて、涙が浮かんできた。

結婚してから9年間、仕事や所用がなければ1人で出掛けるようなことはなかったけれども、旅先でも、妻が家にいるという安心感に支えられていたことを、初めて思い知ったのである。
 
妻と過ごした日々は、幸せの一語に尽きた。
妻がとても繊細な女性であることは、すぐに察せられた。
他人のちょっとした言動にも敏感に反応して、常に、人が自分のことをどう考えているのか、ということを気にし続けていた。
人との付き合い方が不器用で、それでいて、人が幸せになるために自分は何をしてあげればいいのだろうと考え続け、人が喜ぶ姿を見たり聞いたりすることを幸せと感じるような女性だった。

「ありがとう」という言葉が1番好きだと、妻はよく言っていた。
妻との会話やメールには、いつも「ありがとう」の言葉が添えられていた。
 
結婚した当初は、僕にも心を許し切ってはいない様子が窺えた。
出逢ってから結婚するまで4ヶ月という短い付き合いであったのだから、無理もないと思った。
妻と過ごす時間では、妻が安心して生きていける居場所を作ること、妻の心の隙間を少しずつ埋めていくことを心掛けた。
妻が笑う時、妻が悲しむ時、その全てを受け止めたいと思っていた。
僕たちの合言葉は、「心はそばにいるよ」だったのである。
日が経つにつれ、妻が、僕のことを、信頼できる家族として認めてくれるようになったことが感じられて、天にも昇る心地だった。
 
それでも、時に、妻を襲う計り知れない哀しみを感じることがあった。
何かの拍子に、妻が、奈落の底に吸い込まれそうな暗い表情を浮かべる瞬間を目にして、心が凍りついた。
病が原因であったのか、それとも、僕と出逢う前の何らかの辛い記憶が蘇るのか。
その哀しみが、いつか、妻を遠くに連れ去ってしまうのではないかと、僕は身体が震えた。
そのような時、僕は、努めて明るく振る舞うか、一緒に寄り添うことしか出来なかった。
長い闘病生活の中で、僕は、妻の心を癒やすことが出来ていたのだろうか。
 
葬式の際に、妻の父親が、
 
「娘は、あなたと結婚できて、本当に幸せだったと思う」
 
と言って下さり、僕は思わず男泣きに泣いた。
妻の父親は、その分野では世界的に名を知られた、僕の職業上の大先輩であったが、微塵もそのような素振りを見せることのない謙虚な方で、奥様を病気で亡くした経験をお持ちだった。
妻は10歳という幼さで母親を失ったのである。
心から慕っていた母親のもとに行けたのだ、と思えるのは、せめてもの救いだった。
 
「とっても幸せなの」
 
生前に、妻は何度も、上気した表情で、そう言ってくれた。
その顔を見るために一生を捧げよう、と思っていた。
 
『もし残していくなら、たったひとり気がかりな人。
あなたといると私はいつも幸せです。
父より祖父より、誰より私はあなたを尊敬しているよ。
私の一番大切な家族であるあなた』
 
と書かれた手紙をくれたこともあった。
 
「思い残すことは何にもないの。本当にないの」
 
いつのことだったか、妻が呟いたことがある。
あれは、愛車の助手席に妻を乗せて甲州街道と十二社通りの交差点に差し掛かった時だった。
話の流れは覚えていないが、驚いて妻を振り返ると、この上なく穏やかな表情であったので、逆に心配になった。
 
振り返ってみれば、妻にとって、人生はいつも真剣勝負だったのだろう。
長い人生、マラソンや競歩のペース、いや、歩くだけでも良かったのに、妻は、最初から最後まで全力疾走をしてしまったのだと思う。
 妻の最期は、闘うことをふっと諦めてしまったようにも思えた。

その刹那に、妻は、僕の名を繰り返し呼んだのである。
妻の最後の、か細い声を、僕は一生忘れない。
生きたかったのだろう。
助けて欲しかったのだろう。
通常ならば、人は、そんなに早く死なない。
僕の弱さや甘さ故に、死なせてしまったと思う。
僕の妻だから、早く命を落としたのだ。
もっともっと、大切にすべきだった。
謝りたい。
逢いたい。
 
結婚する前の、1つの記憶の断片を、僕は忘れることが出来ない。
妻の家から帰る車の中で、ラジオから、ある曲が流れ始めたことがあった。
初めて聴くその旋律と歌詞に、不意に妻の顔が思い浮かんで、涙が止まらなくなったのである。
 
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています
 
秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る
 
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています
 
テノール歌手秋川雅史による「千の風になって」のシングルが発売されたのは、僕と妻が出会った平成18年のことだった。
ラジオのアナウンサーが、「発売と同時に、まずは東北で大ヒット!」と紹介していた記憶がある。
妻の病気のことを知る前だったのか、後だったのかは覚えていないけれど、何らかの予感があったのだろうか。
壊れやすいガラス細工のような脆さを、妻から感じ取っていたのかもしれない。

いつか、妻が風になってしまう日が来ることは、闘病中から心の奥底で覚悟していたけれども、愛する人を失うというのは、これほどしんどいものなのか。
 
前述した仲代達矢氏の言葉は、以下のように続く。
 
『後追いを考えた時期もあった。
それで仕事に没頭した。
しかし家に帰ると誰もいない。
なんと男はだらしないものかと……』
 
 
疾走する巨大なスーパーハイデッカーの片隅で、眠っているのか起きているのか定かではない時間を過ごすうちに、休憩のアナウンスがあり、「しもきた」号は、道の駅おがわら湖に滑り込んだ。
前方のカーテンが開け放たれると、眩暈がするような朝の光が車内に流れ込んでくる。
時計の針は午前6時半を指していた。
通過したのか、眠っていたのか、早暁5時25分着の八戸駅東口や、6時ちょうどに到着する三沢駅、6時10分着の三沢市役所は、とっくに過ぎたことになる。
 
どんよりとした曇り空だったが、バスを降りた僕を包む空気は清々しかった。
みちのくに来たな、と思う。
 

「しもきた」号は、野辺地中央に7時35分に停車し、いよいよ下北半島に足を踏み入れていく。

下北に向かう高速バスに乗車するのは、3度目だった。
1度目は、平成4年の盆に運行された、横浜と札幌を結ぶ相模鉄道の帰省バスが、下北半島の突端に近い大畑から室蘭へのフェリー航路を経由したのである。
東北自動車道を青森ICまで全線走り切ってから、国道4号線を野辺地に向かい、下北半島の西岸を遡る国道279号線に入る道のりである。
横浜を午前10時に出発し、下北に取りついたのは宵の口で、国道4号線を離れてから野辺地の狭い路地をぐるぐると回り、道を間違えたのではないかと不安に駆られるうちに、不意に「下北半島」と書かれた案内標識が現れた。
通常、案内標識には市町村の名前が書かれているものだが、随分と大雑把な標識だと思った。
国道279号線にはカーブが殆どなく、真っ直ぐに闇の彼方まで伸びているものの、起伏が激しい。
時折、対向車のヘッドライトが前方に見えると、何度も上下に消えたり現れたりする。

札幌行きの帰省バスのヘッドライトに映し出されるのは、2車線の道路を覆って鬱蒼と枝を伸ばした木々と、ところどころに凹みがある錆びたガードレールだけであった。
左に視線を転じれば、真っ暗な陸奥湾の遥か彼方に、青森の灯であろうか、金色の細い帯が、かすかに明滅しながら横に伸びている。
下北の夜は、あまりに寂しかった。
この先に、フェリーが発着するような街が本当に存在するのだろうか、僕たちは、このまま、死者の霊が必ず赴くという恐山の賽の河原に迷い込んでしまうのではないか、と心細くなった。
その時である。
 
「おう、来た来た! JRだ」
 
と、運転手さんが声を上げたのだ。
つばめマークの青いバスが、一瞬、ヘッドライトの光の輪の中に浮かび上がった。
開業したばかりの、仙台と田名部駅を結ぶ夜行高速バス「エクスノース」号上り便だったのである。
 
「エクスノース」号との邂逅で、それまでの不安感はいっぺんに吹き飛んだ。
夜行高速バスが走っているということは、この先にも、人間の営みがあるということである。
それだけで、死者の世界に思えた下北の地が、人間臭さを取り戻したように感じられたのだ。
 

その時から、無性に「エクスノース」号に乗りたくなり、平成7年の早春に実現することが出来た。

「エクスノース」号は東北道と八戸自動車道を走り、一戸ICから国道4号線を北上する経路をたどる。
そっとカーテンをめくると、夜露に濡れた窓の外を寝静まった家並みがかすめ去り、時折「二戸市○○町」などと書かれた標識がヘッドライトの光に浮かび上がった。
随分遠くまで来たと思ったものだった。
 
 
野辺地から国道279号線に入った「しもきた」号は、青々と草木が覆い尽くす朝の原野を坦々と走った。
人が住む痕跡が全く窺えない海岸線に、JR大湊線の2本の細いレールだけが伸びている。
ローソン横浜町道の駅前店を通過し、下北駅前に到着したのは定刻8時30分よりかなり早い時刻だった。
最初は大畑フェリーターミナル、2度目は田名部駅が終点だったから、下北駅に降りるのは初めてだった。
 
東京発の高速バスが立ち寄り、終点のむつ市役所まで所要5分と言うのだから、この駅がむつ市の中心なのであろうが、背の高い建物がほとんど見当たらない町並みはあっけらかんと明るく、登校する子供たちが次々と姿を現す。
 
 
終点に向けて走り去る「しもきた」号の後ろ姿を見送り、瀟洒な駅舎の前で、これからどうしようか、と思案した。
大間岬を経由して佐井に向かう路線バスに乗って本州最北端を目指すことも一案であったが、僕は、大湊線で野辺地へ戻り、青い森鉄道に乗り換えて八戸、そして八戸線で久慈まで行く乗車券を買い求めた。
 
「それならこっちの方が安いよ」
 
と、窓口の駅員さんは幾分得意げに、僕の知らないトクトク切符を差し出した。
何と言うことはない計らいなのであろうが、駅員さんの優しさが心に滲みた。
 
 
8時11分発の上り快速列車は、これまで乗って来た夜行高速バスと同じ愛称の「しもきた」である。
9時ちょうどに着く野辺地まで55.5kmを49分で走破する俊足ぶりで、そのまま青い森鉄道に直通して八戸には9時44分着、八戸線久慈行きの発車は10時07分と、順調な乗り継ぎであった。
 
八戸線は途中の本八戸駅まで利用したことがあるけれど、そこから先は初めて乗車する区間だった。
これを機会に、JR八戸線、三陸鉄道北リアス線、JR山田線、三陸鉄道南リアス線と、三陸地方を縦貫する鉄道に乗ってみようと思い立ったのだ。
 
大湊線や青い森鉄道と異なり、駅間距離が比較的短い八戸線のディーゼルカーの速度はなかなか上がらない。
ぶるんぶるんと車両を震わせるエンジン音だけは勇ましいが、時の流れはゆったりとしたものに変わった。
八戸市街を抜けると、左の車窓に太平洋の大海原が広がった。
列車が行くのは、山々が海端まで迫る起伏が激しい険しい地形で、木々が生い繁る崖っぷちをのんびりと上り下りする区間が殆どであるが、思い出したように入り江や海岸段丘の平地に差し掛かると、漁港や集落が姿を現す。
どんよりと垂れこめた雲と靄のために、水平線まで見通すことはできない。
沖合で雨でも降っているのだろうか。
 
八戸市の隣りの階上町を抜ければ、岩手県である。
八戸線には、陸奥湊、陸奥白浜、種差海岸、金浜、角の浜、侍浜と海にちなんだ駅名が多いのだが、所々で鮫だの大蛇だの、恐ろしげな名を冠した駅が見受けられる。
しかし、車窓に広がる海は、どこまでも穏やかだった。
 
 
固いボックス席に座って、ぼんやりと列車に揺られるがままの、長いような短いような2時間足らずが過ぎ、終点の久慈には11時46分に着いた。
この駅の主役は、JR八戸線よりも、久慈から南下する第3セクターの三陸鉄道北リアス線のようで、広い構内には三陸鉄道の車両が何台も留置されており、JRは1本のホームを肩身が狭そうに使用しているだけである。
 
駅舎の中に足を踏み入れると、放送を終えたばかりのNHK連続テレビ小説「あまちゃん」一色で、待合室の壁やパネルには出演者や名場面の写真などが、鉄道関係のポスターや案内板に混じって貼られていて、何やら取り留めもない印象である。
「あまちゃん」には、三陸鉄道が「北三陸鉄道」として何度も登場した。
僕は殆ど観る機会がなかったのだが、たまたまテレビを点けた時に放映していた、トンネルをくぐる列車内で登場人物が東日本大震災に遭遇する場面の緊迫感は、強く心に残っている。
 
 
間抜けなことに、久慈まで来て、三陸の鉄道が未だ寸断されていることを知った。

平成23年3月11日の東日本大震災による地震と津波は、三陸地方の鉄道に甚大な被害をもたらした。
路線の各所で駅舎や路盤が流出し、使用不能となった車両も少なくない。
しかし、地震発生から僅か5日後の3月16日には、三陸鉄道が久慈と陸中野田の間で運行を再開し、被災者を勇気づけた。
その他の区間についても、岩手県や国土交通省から復旧費用が拠出されて順次復旧工事が進み、3年後の平成26年4月には、三陸鉄道全線が復旧したのである。


一方、三陸鉄道の久慈-宮古間を結ぶ北リアス線と釜石-盛間の南リアス線に挟まれたJR山田線では、宮古-釜石間55.4kmのうち21.7kmが浸水、13駅のうち4駅、鉄橋など6か所と盛土10か所が損壊した。
JR東日本は、一般車両が立ち入れない専用道路にてバスを高速運行するBRTによる仮復旧を提案したものの、沿線自治体や岩手県との協議を重ねた結果、210億円と試算された復旧費用の3分の2をJR東日本が負担し、車両も無償譲渡、三陸鉄道と同等となる高規格の新しいレールや、木製だった枕木をコンクリート製への交換などといった鉄道施設の強化を行った上で、この区間の事業を三陸鉄道に無償で譲渡する案で、平成26年に決着したのである。
 
宮古-釜石間の移管区間の路線名は「三陸鉄道リアス線」となり、同時に現在は北リアス線と南リアス線に分かれていた区間も「リアス線」に統一、第3セクターとしては日本国内最長路線となる一方で、山田町を通らなくなるJR山田線の盛岡-宮古間の線名については、まだ白紙のようである。
平成30年7月に宮古-釜石間の建設工事は全て完了し、レールが全線で締結され、施設の強度確認等のために試運転が行われている状態で、三陸鉄道はこの区間の運行再開を平成31年3月と発表している。


この旅の時点で、三陸鉄道は動いているものの、山田線が復旧途上であることに気づいて、僕は、三陸縦走の旅をさっぱりと諦めた。
ならば、残された選択肢は多くない。
僕は久慈駅前に出て、バス乗り場で盛岡行きJRバス平庭高原線「白樺」号の発車時刻を確かめた。
 
駅前は古びたビルが多く、駅前のデパートなどは、いつ閉店したのか、窓も外壁の塗装も朽ち果てたまま放置されている。
他の建物も、昭和の高度成長期あたりで建築されたと覚しき年季を隠そうともせず、昼下がりと言うのに例外なくシャッターを閉め切っていた。
そのようなビルの屋上に掲げられた「祝・三陸鉄道再開」の派手な大看板だけが、セピア色の町並みの中で、唯一、背景から浮き出たような色彩を感じさせる。

 
東日本大震災における久慈市内の震度は5弱だったが、波高8.6m、遡上高27.0m、河川遡上kmを記録する巨大津波に襲われ、死者4名、行方不明者2名を出している。
建築物の被災として、全壊355棟、大規模半壊89棟、半壊410棟であり、小袖海岸の「小袖海女センター」や、久慈国家石油備蓄基地や久慈地下水族科学館といった海岸工業地帯の施設や工場が全半壊するという被害を受けた。
明治29年に発生した明治三陸津波、昭和8年の昭和三陸津波、昭和35年のチリ地震による津波など、久慈には過去にも巨大な津波が何度も襲来し、最大波高26mと記録されている明治三陸津波では800人近い死者を出している。
 
僕がJR八戸線で通過してきた、久慈市より北側の八戸市、階上町、洋野町といった太平洋沿岸地域も、東日本大震災のために甚大な被害を被っているものの、幸いなことに人的な被害は記録されていないと聞く。
しかし、久慈市より南側の岩手県から宮城、福島、茨城までの海岸地域では、建築物の全壊・半壊40万2704戸、津波による浸水面積561k㎡、被害を受けた農地は2万1476ha、被害を受けた漁港数319港、被害総額は自然災害による経済損失額として人類史上最大の16兆円~25兆円と試算され、何よりも、1万8432人という多くの尊い命が失われたのである。
 
それでも、三陸鉄道と山田線の物語を筆頭に、みちのくの地は、必死で立ち直ろうとしている。
寂れた田舎町にしか見えなくても、久慈をはじめとする三陸地域は、幾度となく襲いかかって来た災厄を乗り越えて復興する力強さを秘めている。
駅前を歩く人々の表情にも、どこか明るさが感じられるのは救いだった。
この地を踏んだだけで、生きていく強さをいただいた、と思った。
 
 
週刊文春に、読者の質問に作家の伊集院静氏が答える連載がある。
50歳代男性の『最愛の人を亡くした悲しみで生きる気力が全くありません。どのように乗り越えていけばよいでしょうか?』との問い掛けに対する伊集院氏の言葉は、心に浸みた。
 
『私も弟や妻を亡くした経験があるから言わせてもらうけど、生き続けていれば、これは時間が解決してくれる。
“時間がクスリ”という言葉は本当だ。
あなたはどうやって乗り越えたらいいのかと訊くが、人間の哀しみはひとつひとつ違っているから、誰かの言葉や差しのべた手ですぐに快復できるものとは違うと思うよ。
だから乗り越えようなんて思わないことだよ。
乗り越えようと思うと、そこに無理が出るものだ。
人の死は、その人と2度と逢えないことだけで、それ以上でもそれ以下でもないから、必要以上に哀しまないことだ。
君にいま言えるのは、哀しみにはいつか終わりが来る、ってことしかないな。
こう言っても信じられないだろうが。
耐えてくれ。
耐えてやれ。
そうじゃなきゃ、死んだ人までが不幸になる』
 
自分に向けられた言葉だと思った。
 
妻の死をきっかけに、否が応でも、死について考えることが多くなった。
そして、今、生きていることへの感謝を忘れてはならないと気づかされた。
愛する人が死なずに生きていてくれること以上の幸福はないけれども、夫婦が同時に死ぬことなどあり得ないのだから、どちらかが見送らなければならないことも宿命である。
 
伊集院氏の「乗り越えなくていい」という言葉は、救いだった。
自分だけがこの悲しみを乗り越えられないのではないか、自分だけが無気力な日々を過ごしているのではないか、このまま乗り越える術が見つからないまま残された人生を送るのではないか、という不安が、すっと消えていくのを感じた。
乗り越えるのではなく、耐えることならば、可能かもしれない。
 
こうして、大きな災厄に見舞われた土地を訪れてみれば、人間、いつ人生が終わるのか分からないものだとつくづく思う。
 
いつか、久慈の町を再訪してみたい、と思った。
三陸の鉄道が完全に復旧した時に。
無類の悲しみに耐えて、新たな人生を切り拓こうとする逞しい人々が住む町に。
この旅と同じ平成27年より、東京から盛岡を経由して久慈に至る夜行高速バス「岩手きずな」号も走り始めている。

妻を失ってから、未来のことを考えたのは、これが初めてだった。
 
 
盛岡行き「白樺」号が、久慈駅前を12時30分に発車する頃合いから、フロントガラスにぽつり、と雨が当たり始めた。
みるみる路面が濡れていき、タイヤが水を切る音が静まり返った車内に響く。
国道281号線を内陸に向かえば、程なく平地は尽き、平庭高原から葛巻高原にかけて、この路線の愛称に違わず、見事な白樺の森が続く。
白い幹と葉の緑が織りなす対比が鮮やかだった。
 
真夏とは思えないような冷たい雨が降りしきる中を、道の駅くずまき高原で幾許かのトイレ休憩を取ってから、バスは北上盆地に降りていく。
 
 
道の駅くずまき高原には国鉄時代からバス駅が設けられていて、JRバス平庭高原線は、昭和14年に葛巻と沼宮内駅を結ぶ沼宮内線がルーツである。
昭和18年には久慈まで運転区間が伸び、昭和27年に盛岡へ乗り入れる。
昭和46年に、バス急行券が必要な「白樺」号が運行を開始、平成11年から16年にかけて滝沢ICと盛岡ICの間で東北道を使用する「スーパー白樺」号が運転されたこともあったが、今では全便が終始一般道経由となっている。
東日本大震災では、3日後の3月14日から盛岡-葛巻間で運行が再開された。
70年もの長きに渡り人々の喜怒哀楽を乗せて走り続けた、伝統のバス路線なのである。
 
 
岩手町で国道4号線に左折し、東北新幹線の高架が寄り添ってきて、小高い山ぎわに設けられたいわて沼宮内駅を乗降客がいないままに通り過ぎると、右手に、雲を被った岩手山と、北上川の流れが姿を現した。
 
匂い優しい 白百合の
濡れているよな あの瞳
想い出すのは 想い出すのは
北上川原の 月の夜
 
宵の灯 点す頃
心ほのかな 初恋を
想い出すのは 想い出すのは
北上川原の せせらぎよ
 
銀河の流れ 仰ぎつつ
星を数えた 君と僕
想い出すのは 想い出すのは
北上川原の 星の夜
 
春のそよ風 吹く頃に
楽しい夜の 接吻を
想い出すのは 想い出すのは
北上川原の 愛の歌
 
雪のチラチラ 降る宵に
君は楽しい 天国へ
想い出すのは 想い出すのは
北上川原の 雪の夜
 
僕は生きるぞ 生きるんだ
君の面影 胸に秘め
想い出すのは 想い出すのは
北上川原の 初恋よ
 
「北上夜曲」の美しくも悲しげな旋律が、思わず口をついて出る。
岩手に生まれ育った当時16歳の菊池規氏が、亡き恋人を偲ぶ詩を作り、意気投合した17歳の安藤睦夫氏が曲をつけたのだという。
 

次々と車窓に現れる情景は暗くて薄寒い。
内田百閒が盛岡に泊まった際に、「東北の悲哀の様な天気である」と書いていた一節を思い出す。

沼宮内の盛岡寄りにある渋民には、

やはらかに 柳青める 北上の
岸辺目に見ゆ 泣けと如くに

と石川啄木の歌が彫られた碑があるという。

15時15分に着く予定の盛岡駅からの行程は決めていなかったけれど、みちのくの清らかな山河を「白樺」号から眺めながら、僕は、新幹線で真っ直ぐ東京に帰ろう、と決心した。
予定より早いけれども、明日から仕事に復帰しよう。
何のために、と思うと虚しさを禁じ得ないけれど、それでも、妻と旅した9年間の想い出を心の糧としながら、取り敢えず生きてみようと思った。
何があろうとも、仮に死ぬような危機に直面したとしても、妻が向こうにいるのだから、怖くはない。
 
僕の心の中で、妻は生きている。
風となった妻を、これからも大切に守っていくために、僕は強く生き続けなければならない。
 
 
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