信濃路を十文字に貫く高速バスの旅(4)~中央高速バス新宿-高山線で信州を横断して飛騨高山へ~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昭和31年10月に、新宿と河口湖・山中湖を結んで国道20号線を走り始めた急行バスは、現在の「中央高速バス」の祖として、記念碑のような存在と言えるだろう。
最初は4~5月と7~9月の土休日だけ運行される季節便で、136kmの距離を所要4時間30分、1日2往復というスタートであった。

昭和34年7月には、笹子峠を越える国道20号線新笹子トンネルの開通に伴って、新宿と甲府・昇仙峡を結ぶ急行バス「甲斐」号が、3~11月の休日のみ、所要5時間で運行を開始する。


僕の故郷・信州を基準にして時代を遡ってみるならば、東京と長野を結ぶ特急バスが国道17号線と18号線を経由して走り始めたのが昭和36年であるから、山梨県はそれより5年も早く長距離バスの恩恵を受けたことになる。
どのような恩恵なのか、と推測するに、この頃の長距離バスは速さや所要時間では鉄道に敵うはずもなかったけれど、鉄道は指定席を除けば坐ることが覚束ない殺人的な混雑を呈している時代である。
仮に坐れたとしても、運行区間が限られ、かつ本数が極めて少なかった特急列車以外は4人向かい合わせの硬いボックス席という状況で、一方のバスは全席指定、リクライニングシート装備、という車両を用意していた。


平成になってからのことであるが、僕は、バイクや車で国道20号線を大月から都内まで走り通したことが何回かある。
休日の午後ともなれば、中央自動車道の上り線は笹子トンネルや小仏トンネル、調布ICの手前で大渋滞が起きることが当たり前になっていて、何とか抜け道がないものかと、国道20号線に下りてみたり、御殿場を回ってみたり、道志道を試してみたりしたものだった。

中央道では何気なく通り過ぎてしまう峠や山々に挟まれた町を、丹念にたどっていく国道20号線の沿道風景は、それなりに新鮮だった。
急勾配やカーブが多く、しかも往復2車線の狭い道路で山襞を巻くように登り下りしていくと、埃を被っている古びた家々の佇まいに、このあたりでも高速道路をちょっと外れれば、これほど鄙びているのか、と目を見開かされた。
結論を言えば、中央道が混雑している時は下道も流れが悪くなる、ということを身を以て体感しただけに過ぎなかったのだけれど、滞りがちな車の流れにがっかりしながらも、昭和30年代の急行バスに乗って、この道を走ってみたかったな、と思った。


その渇望を少しでも満たすべく、八王子駅と相模湖駅を結ぶ路線バスに乗ってみたことがある。

国道20号線の東京都内の区間は、沿道の人口が早くから密集していたためであろうか、交通量に比して道幅が狭く、両側に家々がぎっしりとひしめいているから拡張もままならないのは一目瞭然であるけれど、これほど無理して1車線あたりの幅を狭隘にしてまで、往復4車線を維持するのですか、と苦笑いしたくなるような箇所が目立つ。
国道における1車線の幅は3.0~3.5mという基準があるらしいが、車幅2.5m以下と法令で定められている大型車が、平気で車線をはみ出して走っていることも少なくないのである。

杉並区の高井戸から世田谷区の烏山にかけて、また調布から府中の間の東京スタジアム(現・味の素スタジアム)付近、立川市内の谷保近辺などでは、銀杏や桜の並木に旧街道の面影がそのまま残っていて、江戸時代の甲州街道の造りをどうすることも出来ずに車社会を迎えてしまったのですね、と、通行する車や沿道に住む人々に同情したくなる。


多摩地区ではそれほど狭隘な道路は見当たらず、八王子駅前を発車した神奈川中央交通の路線バスは、何の変哲もない街路を走り始める。
高尾駅前を過ぎれば行き交う車の数が減り、往復2車線に減ってしまう。
道幅の狭さに加えて、昼でもなお暗い鬱蒼たる杉林の中を、連続する急カーブで高尾山を越えていく道筋に、ここが本当に東京なのか、と強く心を打たれた。


その後、新宿-河口湖・山中湖線も甲府線も、毎日運行される定期便となって増発され、昭和42年7月には新宿-富士山五合目線と新宿-本栖湖線の運行が始まる。

昭和43年の中央道調布IC-八王子ICの開通により、急行バスはこの区間を高速道路に乗せ換え、新宿-山中湖間の所要時間は3時間50分になる。
昭和43年に八王子IC-相模湖IC、昭和44年に相模湖IC-河口湖IC、昭和51年に高井戸IC-調布IC、昭和53年に大月IC-勝沼IC、と中央道が順次延伸されるに従って、急行バスも高速道路の走行区間を伸ばし、今や新宿-山中湖間の所要時間は1時間40分、新宿-甲府間は2時間14分と、開業当初の3分の1近くに短縮されている。


中央道の甲府以遠と長野県内区間も、昭和50年の駒ヶ根IC-中津川ICの開通を皮切りに、昭和51年に伊北IC-駒ヶ根ICと韮崎IC-小淵沢IC、昭和55年に甲府昭和IC-韮崎IC、そして昭和57年に勝沼IC-甲府昭和ICが開通することで全線開通となり、昭和59年12月の東京発着信州方面路線として初の高速バス路線となる新宿-伊那・飯田線の開業を迎える。
昭和61年11月に新宿-茅野線が登場し、翌年7月に新宿-諏訪・岡谷線へと発展、平成元年4月に新宿-松本線、同年12月に八王子-沼津線、平成10年3月に新宿-高山線、平成12年10月に新宿-下呂温泉線、平成13年7月に新宿-白馬線、平成14年12月に新宿-名古屋線、平成15年4月に新宿-木曽福島線、平成16年8月に新宿-南アルプス線と新宿-身延線、平成22年10月に新宿-北杜・白州線、平成23年3月に多摩-河口湖線、平成25年10月に新宿-塩山線、同年11月に立川-飯田線と、山梨・長野・愛知・岐阜の各地域に向けて、膨大な系統と本数を誇る高速バス路線網が怒涛の如く展開されたのである。

甲州から信州にかけての中部山岳地帯の自然豊かな車窓を存分に堪能できる路線ばかりで、僕は、故郷への行き来などで大いに利用したものである。

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平成10年の新宿-高山線の開業には、驚かされたものだった。

今や夜行便も含めた1日7往復の路線に発展しているけれども、開業当初は、奇しくも新宿-山中湖間の急行バスの黎明期と同じく、僅か2往復のスタートであった。
中央道を岡谷JCTで長野自動車道に折れ、松本ICで国道158号線に下り、北アルプスを越えて飛騨高山に向かう、故郷信州を文字通り東西に横断する経路に、そのような行き方があったのか、と蒙を啓かれた。
乗らずに済ませられる路線ではない。

午前8時発の高山行き「中央高速バス」の座席を電話で予約して、新宿西口高速バスターミナルにいそいそと足を運んだのは、開業3ヶ月後の平成10年6月、梅雨の切れ間で雨こそ降ってはいないものの、溜息をつきたくなるほど蒸し暑い日曜日のことだった。
乗り場に現れたのは、白地に爽やかな緑のラインが入った濃飛バスのハイデッカーで、京王帝都、富士急行、山梨交通、諏訪、松本電鉄、川中島、伊那、信南交通といった常連の「中央高速バス」運行各社のバスとひと味異なるデザインは、なかなか新鮮だった。

この日は続行便を従えた2台編成の運行だった。
東海道新幹線と高山本線の特急列車を名古屋経由で乗り継いで4時間程度の行程を、高速バスならば5時間半もかかるけれども、新しい直行便の人気は上々のようである。
飛騨高山を訪れるのは、僕にとって生まれて初めてのことで、新路線に乗れるという嬉しさばかりではなく、未知の土地に対する期待が、嫌が応にも胸を高鳴らせる。

†ごんたのつれづれ旅日記†

新宿駅前のロータリーから高層ビル街を通り抜け、甲州街道で山手通りとの立体交差をくぐると、バスは初台ランプから首都高速道路4号線に駆け上がる。
高架よりも背の高いビル群が切れ目なく両側に並んでいるが、いつしか周囲の景観が開けて、見晴らしが利くようになる。
ところが、高井戸ICのあたりに差し掛かると、防音壁が高くそそり立って圧迫感があり、路肩の狭い首都高速独特の構造が、尚更せせこましく感じられる。
どこか無理のある道路だな、と、いつも感じてしまうのだ。

東名高速や東北自動車道、常磐自動車道などでは、首都高速との境界を過ぎれば、路肩や車線の幅に余裕が生まれて、一種の解放感を感じることが多いのだが、高井戸で「ここより別料金」という標識を過ぎ、中央道に足を踏み入れても、道路の窮屈さは相変わらずで、高速自動車道路に相応しく道幅が広がるのは、高井戸ICの先の烏山シェルターを抜け、三鷹料金所を過ぎたあたりからである。


高井戸ICは中央道の起点でありながら、首都高速上り線の出入口と下り線出口だけとなっていて、一般道から下り線への入口が存在しない。
付近の住民が「中央道の入口が設置されると道路が混雑して環境が悪化する」と激しい反対運動を展開した結果であり、高井戸ICの建設に関しては、当時の日本道路公団、東京都、杉並区、高井戸IC建設予定地付近の小学校とPTAの5者で協議することを定めた覚書が交わされたと聞いている。
中央道の下り方面を利用するためには、都心側の首都高速永福ランプから入るか、数km先の調布ICを利用するより他に方法はなく、運輸業界や商工会議所、杉並区は下り線入口の建設を強く要望していて、杉並区民に対するアンケートでも設置を求める回答が少なくなかったと言われているが、僕自身は高速道路の沿線やインター付近に住むという経験がないので、利用者として不便を感じながらも、反対運動を非難する立場にはないと諦めている。

高井戸ICの先の急カーブに覆い被さっている全長240mの烏山シェルターも、山や丘がある訳でもないのに、どうしてトンネルを設けたのだろう、と訝しく感じていたのだが、騒音や粉塵を防ぐシェルターの設置が高速道路を建設する条件とされた推移があるらしい。
国道20号線と言い中央道と言い、甲州街道を近代化するには、他の路線に比して、ひとかたならぬ苦労が伴うようである。


三鷹料金所を過ぎれば、バスは水を得た魚のように、ぐいぐいスピードを上げていく。
八王子ICから高尾と小仏の峠を越え、桂川が山あいに刻む渓谷を左手に見下ろしながら大月JCTを過ぎ、笹子峠を全長4717mのトンネルで越えれば、長い下り勾配が始まる。
このあたりは下り坂をいいことにスピードを出す車が多く、サーキットのように感じてしまう区間である。

斜面に広がるブドウ畑を眺めながら甲府盆地に降り立つと、冷房が効いた車内にいながらも、じわりと額に汗が浮かぶような、ぎらぎらした車窓になる。
それまでの山中に比べれば緑が少ない盆地の佇まいがそのように感じさせるのか、それとも舗装された路面の照り返しなのか、甲府盆地を通り抜けるたびに、暑そうな土地だな、と思う。


ほっとひと息つくのは、双葉SAで10分間の休憩をとり、だらだらと冗長な登り坂が始まって、カーブを曲がるたびに容姿を変える八ヶ岳連峰の麓に広がる木々の緑が、少しずつ色褪せて来る頃である。
杉林が主体の温暖な地域から、赤松や白樺、すすきなどが多い高地の植物相へと移り変わるためであろうか、信州に近づいていることが実感される車窓である。

僕には久しぶりの「中央高速バス」の旅だったけれども、やっぱり中央道はいいな、と思う。


この旅の2年後、平成12年に開通した東海北陸自動車道松の木峠の標高1085mに抜かれてしまったものの、長野県境を過ぎた157.3kmポスト付近に、我が国の高速道路で最も高い標高1015mの標識が立てられていた。
その後も、先程の標識の場所が本当に最高地点だったのですか、と首を傾げたくなるような、山襞を縫う登り勾配が断続する。

一段ときつい坂道を登り詰めると、行く手に諏訪盆地が一望の下に広がる。
櫛の歯を引くように窓外を流れ去る木々の合間から諏訪湖を見下ろし、岡谷JCTで長野道に針路を変えると、長さ1488m・高さ50mの岡谷高架橋が現れる。
眼下に隙間なく建物がひしめく岡谷市街の上空に架けられたアーチ橋で、こちらは中空に飛び出した飛行機のような感覚にさせられるが、このような橋を頭上に設けられた住民にしてみれば、どのような心地がするのだろう、と思う。


1450mの岡谷トンネルや1800mの塩嶺トンネルなどの長大トンネルが続く塩尻峠を越えて、安曇野に出れば、間もなく松本ICである。

地方の高速道路のインターの周辺は、何となく落ち着かない気分にさせられる。
新開地であるためなのか、賑々しい看板を林立させて道の両側に並ぶ飲食店やコンビニといった郊外店舗は、殆どが画一的な造りの全国チェーン店で、どうしても街並みが荒削りである印象が拭い切れない。

国道158号線・野麦街道で松本ICから離れるに従って、車窓は落ち着きを取り戻し、リンゴ畑や水田が坦々と広がる鄙びた風景の中を、バスはのんびりと西へ向かう。
新宿駅西口から松本ICまでは220km、松本ICから飛騨高山までは80kmで、行程の3分の2以上を過ぎたことになるが、松本ICまでの所要時間は3時間あまり、高山の到着予定時刻までは2時間半が残されているから、「中央高速バス」新宿-高山線の道のりはまだ半ばに過ぎず、処女地へ足を踏み入れた僕にとっても、見所はこれからである。

野麦街道は信州松本から野麦峠を越えて飛騨高山へ通じ、能登で獲れた鰤をはじめとする日本海の海の幸を信州へ運ぶ交易路でもあった。
現在の国道158号線は松本から奈川渡まで野麦街道に沿っているが、奈川渡から野麦峠の北に位置する安房峠に向かうため、寄合渡、高根とたどっていく南回りの野麦街道は県道となっている。


野麦とは峠に生い繁るクマザサのことで、10年に1度、麦の穂に似た実をつけることが名前の由来とされているが、野麦峠と言えば、山本茂美が十数年に渡って飛騨・信州一円を取材し、数百人の女工や工場関係者から聞き取りを行った上で、昭和43年に執筆した「あゝ野麦峠」を忘れてはならない。

明治から大正にかけて、我が国の富国強兵政策を支える重要な輸出産業であった紡績工場が置かれた諏訪・岡谷地方へ、飛騨の貧しい農家の娘たちが出稼ぎに出た時代があった。
10代の少女たちが100人単位でまとまって峠を越えるのは、工場が休みになる1月前後であることが多く、雪は氷の刃と化して少女たちの足を切り裂き、峠の雪は赤く染まったと記されている。
足を踏み外して谷底に滑落する者や、峠に置かれた避難小屋である「お助け茶屋」に入り切らず、吹雪の中で一夜を過ごす者もいて、飛騨と信州の行き来で命を落とす女性は少なくなかった。

過酷な環境で働き続けた女工が、病気のために工場を辞めさせられ、肉親に背負われて故郷に帰る途中に、野麦峠で、

「あゝ飛騨が見える」

と言い残して死ぬ場面は、切ないと言うよりも、後ろめたさを感じたものだった。
子供の頃に「女工哀史」という言葉で両親から女工の話を聞かされるたびに、自分の故郷が、劣悪な労働条件で飛騨の人々を酷使する側であったことに、戸惑いを覚えたのである。

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「中央高速バス」新宿-高山線が走る現代の野麦街道は、そのような悲劇の歴史を微塵も感じさせない長閑な道行きで始まった。
道路の脇には単線の線路が敷かれ、2両編成の松本電鉄の電車が質素なホームだけの駅に停車している。
バスの歩みはのんびりとして、高速道路よりもこちらの方が落ち着くな、とくつろいだ心持ちになりながらも、これから、正面に屏風のように立ちはだかる飛弾山脈を越えていくのだと思えば、気持ちが引き締まる。

松本電鉄線の終点である新島々駅で、安曇野は尽きてしまう。
大正11年に松本から島々駅まで開通した松本電鉄線は、昭和58年の台風による土砂崩れのために赤松駅と島々駅の間1.3kmが不通となり、もともと乗客数が少なかったことと、島々駅前に上高地方面へ乗り継ぐバス乗り場を設ける用地に乏しかったことから、赤松駅を新島々駅と改称して、翌年に不通区間は廃止されたのである。


バスは、梓川が削る深い峡谷に沿って、切り立った山々の狭間を行く崖っぷちの道路に差し掛かる。
ダムが川を堰き止めた人造湖のほとりを刻んで造られた国道158号線は、すれ違いにも苦労する狭隘なトンネルや洞門が断続し、このような悪路を高速バスが走るのか、と度肝を抜かれた。
交通量は案外多く、こちらの図体も大きいから、乗用車とのすれ違いでは優越感にひたれるものの、バスやトラックが窓すれすれに離合する時などは、思わず手に汗を握る。

陽ざしが山々にさえぎられて、はっとするような暗がりが車窓を覆う。


上高地への駐車場が並ぶ沢渡まで登ってくれば、梓川は、白砂の河原の中を流れる清流に姿を変える。
川のせせらぎが木々や雑草に隠された沢の底に消える頃に、立ち塞がる山裾に穿たれたトンネルが現れ、「釜トンネル」と書かれた銘板が目に入った。

そうだったのか、と思う。
僕は上高地を訪れたことがなかったけれども、井上靖の「氷壁」や北杜夫の「神々の消えた土地」、そして何よりも僕が愛読してやまない新田次郎の「孤高の人」「栄光の岸壁」をはじめとする山岳小説シリーズに、上高地へ至る道筋と釜トンネルの描写が何度も登場している。
釜トンネルから先は自家用車の進入が規制されていることを知ってはいたものの、釜トンネルから河童橋までは6km程度で、上高地と安房峠がこれほど近いとは、「中央高速バス」新宿-高山線に乗車して初めて知った次第である。

釜トンネルの手前にある三差路で左に舵を切って梓川を渡ると、見上げれば首が痛くなるほど急傾斜の山肌に、張りついているかのような九十九折りの坂道を、バスはエンジンを轟かせながら登り始める。
これが安房峠だった。


センターラインに点々とポールが置かれて、自転車や歩行者の進入禁止という標識を過ぎると、内部の照明が多く、幾分明るく見えるトンネルが、ポッカリと口を開けている。
全長4370mの安房トンネルである。
地質調査から33年、着工から18年の歳月を経て、この旅の前年の平成9年12月に貫通したばかりであった。

焼岳火山群の活火山であるアカンダナ山の高温帯をくり抜くために、大変な難工事だったと聞く。
平成7年2月11日には、トンネルの取り付け口が設けられた中ノ湯温泉付近で火山性ガスを含む水蒸気爆発が起き、作業員4人が犠牲となった。
同時に大規模な土砂崩れと雪崩が発生し、梓川になだれ込んだ土砂は6000立方メートルにも及び、建設中だった陸橋も破壊されて、長野県側のトンネル口は位置の変更を余儀なくされている。

安房トンネルばかりではなく、平成3年には、安曇村において土砂が崩落し、仮設道路による応急措置の後、平成5年に三本松トンネルが開通することで復旧している。
平成5年にも沢渡で道路が崩落し、平成10年に現場を迂回する290mのうすゆき橋の建設が必要となるなど、国道158号線には、自然災害の歴史が積み重なっている。

巨大な自然に対して、日本人は逃げることなく真っ向から挑んだ。
この年の2月に開催された長野冬季五輪をきっかけとして、信州の交通網が数々の高規格道路の建設によって見違えるように便利になったのも、貧しく悲惨な生活に二度と戻りたくない、と考えた先人たちの必死の思いがあったからである。


当時の時刻表で、平成9年に開通した東京湾横断道路を使って東京・神奈川と房総半島を結ぶ高速バスや、平成10年に開通した明石海峡大橋を渡って関西と四国を直結した高速バスとともに、新宿と高山を結ぶ高速バスは、鉄道ではなし得なかった、バスならではの新しいルートを開拓したと持て囃されていた記憶が、今でも鮮明である。

国道20号線新笹子トンネルの完成で新宿-甲府間に急行バスが走り始めた時に、山梨県で発行されたパンフレットの記述も、同様に印象的だった。

『限られた狭い郷土で我々の祖先は幾代か血と汗の苦闘を続けてきたのですが、貧乏と言うレッテルは容易に取り去られませんでした』
『本県の主要市場であるべき京浜地帯との運輸手段が鉄道を主体としていた事こそ、今までの後進性を物語るものでした。
新笹子隧道は近代産業発展の必須条件である自動車輸送を可能なものとしました。
首都圏の一環として、近郊地域として、本県産業の発展していく途は大きく拓かれたのです』

この価値観は、今となれば、まるで異国のことのように感じてしまうけれど、僕は昭和30年代の人々を笑うことは出来ない。
それは、僕の父や母、祖父や祖母の物語でもあると思うからである。
信州でも、甲州でも、そして飛騨でも、我が国に暮らす人々は、どこへ行くにも、立ちはだかる山々を、歯を食いしばりながら越えていかなければならなかった。

高速バスに乗ればどこにでも行けるようになり、僕らは便利さを当たり前のように謳歌しているけれども、戦後70年間、日本人は、本当に頑張ってきたのだと改めて思う。


苦難の歴史を顧みる暇もなく、バスは、わずか5分で安房トンネルを走り抜けて、岐阜県に歩を進めていく。
武田四天王の1人である山県昌景が飛騨攻めの途上で、峠越えや硫黄岳のガスのために難儀していたところを、白猿に教えられた温泉に浸かって疲労を回復した、という開湯伝説が残る平湯温泉は、安房トンネルの出口のすぐそばにあり、我が国では別府温泉、由布院温泉に次ぐ毎分4万4000Lを超える豊富な湧出量を誇る奥飛騨温泉郷の一角である。

12時45分に平湯温泉バスターミナルに到着したバスは、しばし休憩をとり、僕も身体を伸ばしながらホッとひと息ついた。
松本から平湯まで、飛騨山脈を越える車窓の迫力に、ひたすら圧倒された2時間だった。
乗鞍岳や槍ヶ岳をはじめとする針のように鋭い峰々が連なる北アルプスの山並みを振り返れば、たった今、そこを越えて来たことが、未だに現実とは思えなかった。

平湯から先は、それまでの峻険な地形が嘘のように、森林に覆われた山あいを進む単調な田舎道に変わる。
居眠りでもしたのか、それとも長野県側のように目を見張らされる劇的な車窓の変化がなかっただけなのか、平湯から高山までの記憶はおぼろである。


定刻13時30分に高山バスセンターに到着し、観光客で賑わう古い町並みを散策した後に、僕は16時発の岐阜行き特急バス「グリーンライナー」号に乗りこんだ。
岐阜からはJRまたは名鉄電車で名古屋に出て、新幹線で東京への帰路につき、日帰り旅を終える心づもりだった。

現在の高山と岐阜・名古屋を結ぶ高速バスは、高山清見道路で飛騨清見ICに向かい、東海北陸道を利用しているが、当時の特急バスは、道路に枝を伸ばす木立ちをくぐり、幾つもの峠を越えながら、国道41号線をまっすぐに南下した。
山肌を覆う草木の鮮やかに染め上げられた緑は、どこまで進んでも、透き通るように清らかである。


野麦街道では、飛騨の人々に対して申し訳ないような心持ちになっていたのだけれど、「中央高速バス」新宿-高山線で目の当たりにした安房峠までの厳しい車窓とあまりに対照的な、岐阜県側の穏やかな風景には、心が和みながらも、何となく不公平さを感じてしまう。

「あゝ飛騨が見える」

野麦峠で生命を落とした女工の眼には、自分の身体を苛む工場があり、人の心すら蝕みかねない厳しい風土の信州に比べれば、飛騨の山河は、思い焦がれていた故郷と言うばかりでなく、母親の懐に抱かれているような、心安らぐ土地として映ったのではないだろうか。
奥深い飛騨の自然に包まれた特急バスの車中は、平凡だけれども、心が洗われるひとときだった。

「グリーンライナー」号は、濃尾平野への出口に当たる美濃加茂ICで、当時は部分開通だった東海環状自動車道に入って速度を上げる。

長良川のほとりの美濃関JCTで東海北陸道に乗り換え、岐阜各務原ICで高速道路を降りる寸前に、ゆるやかな弧を描く高架道路の周囲に岐阜の街並みが開けた瞬間のことである。
強い西日を浴びて色彩を失い、白っぽく抜けたような夕空を背景に、密集した建物の輪郭が黒々とうずくまっている。
それは、あたかも影絵を見ているかのように、幻想的な夕景だった。

これほど美しい黄昏を、僕は、これまで目にした記憶がなかったのである。


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