東京発四国行き夜行高速バス賛歌 第2章 ~高知線ブルーメッツ号と大阪-高知間よさこい号~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

新宿駅西口の小田急百貨店が入った駅ビルを背にして、広大なロータリーを見回せば、正面に路線バスが途切れることなく出入りする複数のホームが並び、右手の小田急ハルク前には小田急「箱根高速バス」が発着する乗り場、左手前の京王百貨店前には羽田や成田へ向かうリムジンバス乗り場、そして左手奥には「中央高速バス」などが出入りする新宿高速バスターミナルがある。


ロータリーの中央には地下駐車場への入口や円形のオブジェなどが並んでいるために、新宿高速バスターミナルまで見通すことは難しいけれども、「箱根高速バス」乗り場はいつも横目で眺められる位置である。
JRの改札口が地下1階に設けられていて、広大な地下街が形成されているため、駅周辺ならば地上に出ることなく大抵の場所に行くことが出来るのだが、入り組んだ通路がいつも大変な混雑を呈していて、案内表示を捜して迷いながら進むよりも、1階の出口に昇り、地上で目的地を見定めてから歩き出す方が、僕にとっては確実だった。
小田急デパートの地下には、世の中にこのように美味なものがあったのか、と、お上りさんの僕を驚かせたソフトクリームを売るスタンドがあったり、また新宿高速バスターミナルの近くには、高速バスを利用するたびに立ち寄るカレー店があって、地下街にも数々の魅力はあるのだが、電車を降りれば真っ直ぐ地上に向かうのが、僕の新宿駅での歩き方であった。

僕が初めて東京に出て来た昭和59年と比べても、正面に建つ高層ビルで幾つか真新しいものはあるけれど、ロータリーを囲む建物はこの30年間殆ど変わりがない。
ただ、平成28年にバスタ新宿が新宿駅南口に完成してからは、高速バスは全て西口ロータリーから姿を消してしまったことが、唯一の大きな変化と言えるのかも知れない。


「箱根高速バス」乗り場は滅多に利用する機会がなかったが、小田急ハルクの裏や新宿大ガードの近辺にも古くからの居酒屋や飲食店が軒を並べ、友人たちと飲みに出掛けることが少なくなかった。
駅を出て新宿の街並みを見渡せば、酒を飲む前に夜景に酔うこともあった。

僕は長いこと、新宿大ガードを、だいがーど、と発音していたのだが、実際は、おおがーど、と読むらしい。
大相撲、大喧嘩、大掃除、大風呂敷、大騒動、大道具、大御所、大舞台のように古来からの和語に大が付いた場合は、おお、と読み、大規模、大自然、大家族、大震災、大失敗、大成功、大車輪、そして大ジャンプ、大ホームラン、大ショック、大ニュースのように中国より伝わる漢語や外来語に付いた場合は、だい、と読むという法則があるらしいのだが、新宿大ガードは外来語でありながら唯一の例外なのだそうだ。
飲みに行くような時間帯ともなれば、「箱根高速バス」乗り場がある小田急ハルクの前は、出発するバスも終わり、駅前から青梅街道や小滝橋通りへ行き来する大勢の人の流れから外れて、閑散としているのが常であった。


この乗り場が、「箱根高速バス」ばかりではなく、小田急バスが運行する夜行高速バスの発着に使われるようになったのは、昭和63年2月に開業した新宿-秋田線「フローラ」号が最初である。
その後、続け様に、

平成元年3月:東京-三次・広島「ニューブリーズ」号
平成元年4月:新宿 - 福山・尾道・三原「エトワールセト」号
平成元年7月:新宿-岐阜「パピヨン」号
平成3年2月:新宿-津山・岡山・倉敷「ルミナス」号
平成3年5月:新宿-高知「ブルーメッツ」号
平成19年7月:新宿-中村・宿毛「しまんとエクスプレス」号(季節運行)

といった夜行路線が登場し、広島線「ニューブリーズ」号だけはJRバスとの共同運行であるためなのか東京駅発着となったが、その他の路線は、親会社の小田急電鉄のターミナルである新宿駅を出入りしている。



平成3年の夏休みを迎えた夕刻のこと、僕は小田急ハルク前のバス乗り場で、高知行き夜行高速バス「ブルーメッツ」号が現れるのを待っていた。
このバスは17時45分発の吉祥寺営業所を始発にして、延々と井の頭通りと青梅街道を走って来るため、18時20分の発車間際まで乗り場に横付けされないことは分かっていた。
小田急の夜行高速バスは、ホテルセンチュリーハイアット(現ハイアットリージェンシー)を始発にしている路線が多いのだが、どうして「ブルーメッツ」号は吉祥寺を起終点にしたのであろうか。
小田急バスの始まりは、昭和初期に前身の安全自動車が吉祥寺と調布の間に開設した路線バスであり、今でも井の頭通り沿いに大きな営業所がある。

吉祥寺は元々都心の本郷にあった寺の名称で、明暦の大火により門前町が焼失した際に大名屋敷として再建が図られたため、住民が移り住んだことが始まりであるという。
市場調査などによる住みたい街ランキング1位に選出されるようになったのは平成になってからのことと思うのだが、そのような市場調査が開示されるようになった時期というだけなのか、それとも昭和40年代から推進されてきた回遊性の高い街づくりが実ったのか、いずれにしろ人気の郊外都市に高知の人間をお連れしたいという小田急の戦略なのかもしれない。

どこが起終点であろうと、僕を高知までいざなってくれることは確かであり、その待ち時間は、前途への期待で気持ちが昂ぶってくるのを抑えきれない。
小田急ハルクも、箱根高速バスの窓口もまだ開いていて、帰宅を急ぐ通行人が群れを成して足早に通り過ぎていく。
このような早い時間に夜行高速バスを待ったのは、初めての経験だった。
高知に着くのは明朝7時30分、新宿からの929.5kmを13時間10分も費やして走り切るという、当時でも有数の長距離路線である。


待ち時間が過ぎて、跳ねる波飛沫をイメージした塗装を身に纏った小田急バスのスーパーハイデッカーが現れた。
瞬く間に乗降口には長い列ができ、運転手さんの改札を受けてバスのステップを上がっていく。
この日の乗客数は、29人乗りの座席が2~3席残るくらいの盛況だった。

東京と高知を結ぶ直通列車が運転された歴史はないから、乗り継ぎを嫌うのんびり派にはぴったりの交通機関なのかもしれない。
四国へ渡るためには、長いこと宇高連絡船での乗り継ぎを余儀なくされ、昭和62年に瀬戸大橋が開通した時には、在来線長距離列車の最盛期は既に終わりを告げていた。

紀行作家宮脇俊三氏の「線路のない時刻表」は、智頭線、北越北線、三陸縦貫線、樽見線、宿毛線、瀬戸大橋線、青函トンネルといった、昭和50年代に建設が開始されながら国鉄財政再建のために工事が中断されていた線区を実地に見聞した記録である。
この本に取り上げられた線区が後に全て開通したことには、意外性と若干の違和感を覚えてしまうのだが、どの章にも必ず宮脇氏お手製の架空時刻表が添えられているのが読者としては楽しみでもあり、また現実の時刻表と比べると、氏の予想より運転本数の多い新線もあって、以外と頑張っているじゃないか、と感心したりする。


瀬戸大橋線の架空時刻表には、東京発松山・高知行き寝台特急「彼岸」と、高松行き寝台特急「まんだら」、そして大阪発松山・高知行き夜行急行「坊っちゃん」「龍馬」が運転され、その列車名に宮脇氏独特のユーモアを感じて思わず吹き出してしまうのだが、実際には、東京と宇野の間を結んで宇高連絡船に接続していた寝台特急「瀬戸」が、高松まで延伸されただけであった。
奇しくも、平成4年に開業した岡山と高知を結ぶ高速バスと、平成6年に登場した高松と松山を結ぶ高速バスにそれぞれ「龍馬エクスプレス」号、「坊っちゃんエクスプレス」号の愛称が付けられたが、さすがに「彼岸」と「まんだら」は、どの交通機関も愛称に採用していない。

平成9年から平成11年8月までの多客期に、「瀬戸」の車両を更新した寝台特急電車「サンライズ瀬戸」が松山駅まで延長運転されていたことがあったものの、それ以降、高松以外へ東京からの列車が直通した記録はない。
東京を19時05分に発車した「彼岸」は、早朝5時35分着の多度津で松山行きの編成を分割し、高知には8時ちょうどに到着するという想定だった。
その所要12時間55分は、「ブルーメッツ」号とほぼ同じである。

時刻表やダイヤグラムに精通した宮脇氏のことであるから、作成した架空時刻表に齟齬はないものと思われるが、残念ながら寝台特急「彼岸」は紙上の遊びに過ぎず、「ブルーメッツ」号は、史上初の東京-高知間を直通する陸上交通機関の栄誉を担うこととなった。

ふと、同時に開業したJRグループの「ドリーム高知」号に思いを馳せた。
東京駅19時40分発・高知駅8時40分着予定という、「ブルーメッツ」号よりも少しばかり遅い時間帯で運行している「ドリーム高知」号の客の入り具合や運行は順調だろうか。
2年前に「ドリーム高松」号で高松から東京まで一夜を過ごしたことが懐かしく思い出される。


東名高速道路を経由する「ドリーム高知」号とは異なり、「ブルーメッツ」号は甲州街道を西へ進み、初台ランプから首都高速4号線の高架に駆け上って、中央自動車道に入っていく。
はるばる四国まで行くというのに、中央道を使うとはなかなか新鮮な行程だと思うけれども、平成元年に開業した新宿-高松線「ハローブリッジ」号、平成2年に開業した新宿-松山線「オレンジライナーえひめ」号、そして平成4年に登場した日本最長距離を走る新宿-福岡線「はかた」号など、どのような長距離であろうと、新宿発着路線は中央道に忠誠を尽くすという時代であった。

せっかく僕の故郷信州を通ると言うのに、「ブルーメッツ」号の一夜の記憶は殆ど残っていない。
ぐっすりと眠って、白河夜船だったのであろう。
13時間10分という当時最長の乗車時間でありながら、「ブルーメッツ」号には乗客が降りられる途中休憩が全く設けられていないけれど、トイレや、飲み物を調達できるサービスコーナーは完備しているし、何の差し障りもない。
途中休憩は、あれば楽しいけれども、無ければ無いで、かえって眠りを妨げられずに安眠できるというものである。


どれほど眠ったのであろうか、ふと眼を覚まして身体を起こすと、横揺れが大きい。
右に左にきついカーブが連続しているような気配である。
そっとカーテンの隅をめくって外を覗くと、荒削りの岩肌をくり抜いたトンネルや洞門が、次々とバスのヘッドライトに照らし出されている。

当時は高速道路が未完成である区間が多く、「ブルーメッツ」号は中央道・名神高速を走り抜けて吹田JCTで中国道に入り、福崎JCTで播但連絡自動車道で姫路に至り、国道2号線バイパスを瀬戸内海沿いに進んでから部分開通の山陽自動車道竜野西ICと備前ICの間だけ高速走行し、ブルーハイウェイで岡山県東部の入り組んだ海岸線を行く。
国道2号線岡山バイパスで瀬戸中央自動車道早島ICに向かい、深夜の瀬戸大橋を渡ってからも、坂出ICで国道11号線に降り、善通寺で国道319号線に折れて、琴平でようやく高知へ繋がる国道32号線に入っていく。

眼を覚ました時に、最初はブルーハイウェイのあたりでも走っているのか、と思ったけれども、そのうちに、「大歩危」と書かれた標識が一瞬だけヘッドライトに浮かび上がり、もう四国まで来ているのか、と、いっぺんに眠気が吹き飛んだ。
「ブルーメッツ」号は、阿波池田で四国三郎吉野川と出会い、JR土讃本線とともに、四国山地の奥深い山々を削る激流とからみながら、国道32号線を南下している最中だった。
僕が目を覚ましたのは、四国無双の難所と言われる大歩危小歩危の崖っぷちの区間だった。

車内は寂として、バスのエンジン音の他は物音1つしない。
バスを包み込む闇の深さと、黒々と生い繁る木立ちが覆う深夜の四国山中の雰囲気に、強く心を打たれた。
仄暗い月明かりが照らし出す森林は、より一層凄愴な奥深さを感じさせる。
太陽と海の国、というイメージが強かった四国で、このように寂しく険しい地形に触れることになろうとは意外であった。
これほど懐の深い島だったのかと目を見張る思いだった。


しばらくまどろみ、次に眠い目をこじ開けながらカーテンをめくると、バスは既に高知の市街地に差しかかっていた。
賑やかに人や車が行き交うはりまや橋で半分ほどの乗客が降り、続いて路面電車の停留所と、背の高いシュロの木が並ぶ高知駅舎が見えてくる。
古い駅舎に接するロータリーには、一足早い7時40分到着の「ドリーム高知」号が停まっているのが見えたが、「ブルーメッツ」号はロータリーには入らず、定刻8時10分に駅前の歩道で扉を開けた。
バスを降りると、太陽はすっかり高く昇っていて、真夏の強烈な陽の光が容赦なく僕を照らしつけた。

何度か高知に来たことはあるけれど、有名な桂浜を訪ねたことはなかったので、路線バスに乗り、緩やかな孤を描く砂浜に打ち寄せる波と戯れているうちに、タイミングを計り損なって大波をかぶり、服がずぶ濡れになってしまった。
これでは帰りのバスに乗れないではないか、と途方に暮れてしまう。
砂浜に立つ坂本龍馬の銅像に、

「おまさん、何をやっちゅーね」

と笑われているような惨めな気分であったが、駄目で元々、と試しに岩の上にシャツを広げてみたら、1時間も経たないうちにみるみる乾いてしまったではないか。
さすがにズボンは脱がなかったけれども、履いているだけで、帰りのバスの座席を濡らすような湿り気すらすっかり消えている。
さすが南国だと思う。


桂浜と言えば、坂本龍馬をはじめとする土佐藩出身の明治維新の志士が訪れるシーンを幾つもの映画やドラマで観たことが思い出されるが、月の名所でもあるらしく、

見よや見よ みな月のみの かつら浜
海のおもより いづる月かげ

という大町桂月の歌がある。

「小生の生国土佐の高知市と申す処は、三里の入海を控え居り候。其入口の処に桂浜あり。次に浦戸あり。その次に御畳瀬あり、桂浜は外洋に面し、観月の名所として、土佐中に鳴りひびき居り候。桂月は、即ち桂浜の月という意味に候」

と桂月自ら記しており、今でも中秋の名月の夜になると、月を愛でながら桂月を偲ぶ「名月酒供養」が催されるのだという。


せっかく土佐国まで出掛けて来たというのに、波を被っただけというのも情けない話であるけれど、これから東京までの長い道のりが待っている。
僕は、はりまや橋を14時きっかりに発車する大阪梅田行き高速バス「よさこい」号の座席を予約していた。
来た道を折り返すだけの行程になるが、「よさこい」号の魅力は何と言っても運行距離347.9kmの長距離昼行便で、四国を縦断して瀬戸大橋を渡り、大阪まで7時間半に及ぶ道中である。

「よさこい」号は高知駅を通らず、高知営業所を発ち、はりまや橋停留所で市内の客を乗せることになっている。
土佐電鉄の路面電車に乗ってはりまや橋を訪ねるのは初めてではないのだが、いつも、どこに橋があるのか、と周りを見回してしまう。
江戸時代に、高知の豪商である播磨屋と櫃屋の本店を隔てる堀川に架けられた橋が播磨屋橋である。
昭和3年の土佐電鉄桟橋線の建設に伴う街路整備で高知随一の目抜き通りとなり、昭和30年代になると製紙工場からの排水による水質汚染が顕著となったため、堀川は埋められてしまう。
この旅の時代には、長さ20m程度の赤い欄干の橋だけが川もない場所に架かっているという状態だったのであるが、平成10年に石造りの橋にリニューアルされ、橋の下には人工水路が設けられたという。


土佐の高知の はりまや橋で
坊さんかんざし 買うを見た
よさこい よさこい

御畳瀬見せましょ 浦戸を開けて
月の名所は 桂浜
よさこい よさこい

言うたちいかんちゃ おらんくの池にゃ
潮吹く魚が 泳ぎより
よさこい よさこい

大阪行き高速バスの愛称である「よさこい」とは、夜にいらっしゃいという意味の「夜さり来い」という古語が変化した言葉とされている。
よさこい節に登場する坊さんとは、江戸時代の末期に、高知市内にある竹林寺に出入りしていた17歳の鋳掛屋の娘お馬に心を奪われた、若い僧と伝えられている。
お馬の気を惹くためにはりまや橋で髪飾りを買い、それが噂として広まったことが歌われている訳だが、道ならぬ恋に駆け落ちを決意した僧とお馬は捕えられて、別々の場所へ追放される。
僧は、再びお馬を連れ出そうとするものの、捕縛されて伊予へ追放され、お馬は須崎の大工の元へ嫁ぎ、明治になって東京滝野川に移り住んで、60年の生涯を閉じたと伝えられている。
100年以上も前の悲恋に思いを馳せながら、はりまや橋から「よさこい」号に乗ることになろうとは、如何にも高知らしい演出である。

人や車がひっきりなしに行き交う停留所に現れたのは、阪急バスの見上げるようなスーパーハイデッカーで、勇んで乗り込めば、敢えて照明を落としているのか、薄暗く落ち着いた雰囲気の車内に、夜行便と共通の横3列独立シートが整然と並んでいる。
このように豪華な座席でくつろぎながら、「ブルーメッツ」号で深夜に通過してきた車窓をじっくりと楽しむことが出来るのだから、嬉しくならない方がおかしい。

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昭和62年の瀬戸大橋の完成を機に、大阪と四国各地を結ぶ高速バスが次々と登場した。

平成2年4月:梅田-松山・八幡浜「オレンジライナーえひめ」号
平成2年8月:堺・難波-松山「どっきん松山」号
平成2年8月:梅田-高知「よさこい」号
平成8年3月:難波・梅田-徳島「エディ」号・「サラダエクスプレス」号・「サザンクロス」号
平成8年4月:梅田-高松「さぬきエクスプレス」号
平成11年4月:梅田・三宮-宇和島「うわじまエクスプレス」号・「サラダエクスプレス」号
平成12年9月:梅田-今治「いしづちライナー」号
平成15年10月:京都・あべの橋-中村・宿毛「しまんとブルーライナー」号
平成23年2月:京都・あべの橋-安芸・奈半利「国虎」号

平成10年の明石海峡大橋開業後は、四国各地に関西からの昼行高速バスが頻回に運転されるようになっているが、初期の大阪-松山線は夜行便、大阪-高知線は昼行便と夜行便で、瀬戸大橋の開業後も接続する高速道路の整備が遅れたことから、関西と四国の間は、夜行高速バスの守備範囲だったのである。
平成8年に開業した大阪-徳島線は昼行便であったものの、フェリーでバスを航送する方式が採られ、同じく昼行便として開業した大阪-高松線に乗車した時も、4時間余りを要する瀬戸大橋経由の道中に、関西と四国とは案外遠いものなのだな、と感じ入ったものだった。


ちなみに、大阪伊丹空港と四国各地を結ぶ航空機の飛行距離を見てみれば、

大阪-松山:159マイル(254.4km)
大阪-高知:119マイル(190.4km)
大阪-高松:90マイル(144km)
大阪-徳島:65マイル(104km)

と、大した距離ではない。
短かろうが何だろうが、間を海で隔てられていれば飛行機か船で渡るより他に術はないことから、瀬戸大橋が開通した後も、僅か100km程度に過ぎない大阪と徳島の間に、かつてはYS-11型旅客機による所要30分の航空便が多数運航されていたのである。

明石海峡大橋の完成を受けて伊丹と徳島、高松を結ぶ航空路線が廃止されたのは平成14年のことで、今や関西と四国を結ぶ航空路線は高知と松山だけになっている。
大阪と高知を結ぶ航空便も、現在では1日7往復に過ぎず、21往復が運航されていた往事に比べれば3分の1に過ぎない。

明石海峡大橋開通後の大阪-四国間を移動する旅客のうち41%が高速バスを利用し、徳島県から関西方面へ出かける旅客のバスと鉄道のシェアは96:4、高知県で74:26、香川県で52:48、愛媛県で53:47となっている。
大阪と高知の間に、昼夜行1日10往復の「よさこい」号ばかりでなく、JRグループが運行する「高知エクスプレス」号が京都・大阪・神戸を結んで1日14往復している現状は、1日2往復に過ぎなかった「よさこい」号を僕が利用した平成の初頭と比べれば、隔世の観がある。

†ごんたのつれづれ旅日記†

高知市内を抜け出した「よさこい」号は、南国ICから高知自動車道に入っていく。
高知道で最も早い昭和62年に開通した南国ICと大豊ICの間は、平坦な地形だから早期開通が実現したのかと思いきや、1409mの平山トンネルを皮切りに、1380mの繁藤トンネル、1210mの馬瀬トンネル、3719mの明神トンネル、2547mの桧生トンネルと、僅か21kmの区間に長大トンネルが引きも切らずに連続する四国山地に分け入っていく。
重畳たる山裾が折り重なり、杉林にびっしりと覆われた急斜面をものともせずに、「よさこい」号はぐいぐい高度を稼いでいく。


樹齢3000年を数え、高さ60mにも及ぶ我が国最大の杉の巨木「杉の大杉」で知られる大豊町の大豊ICで、部分開通の高知道は尽き、減速を余儀なくされた「よさこい」号は、気を取り直したようにエンジンを吹かしながら国道32号線を走り出す。
ここから瀬戸大橋の袂の坂出ICまでの112kmほどは、一般道を使わざるを得ない。

千早振る 神代の昔 しのばれる
雲井にあおぐ 二本の杉

とは、杉の大杉について大町桂月が歌った和歌である。
幕末には山内容堂や坂本龍馬が「杉の大杉」を訪れ、また太平洋戦争中に「マレーの虎」と怖れられた大豊出身の陸軍軍人山下奉文は、この杉に因んで「巨杉」という雅号を使用していたと言う。
天空に向けて真っ直ぐにそびえ立つ巨樹とは、歴史を動かす力を人々に与えるのかもしれない。
 

大豊町では高知道と吉野川が十字に交わり、平成4年に瀬戸内沿岸まで延伸された高知道は、そのまま山中を北上して川之江JCTに至ることになるが、国道32号線は、吉野川の川べりに沿って東に大きく膨らんでいく。

大豊ICから30分ほどで大歩危・小歩危の景勝地に差し掛かる。
大歩危には、大股で歩くと危険、という意味がこめられていると言われているが、本来は渓流に接する断崖を意味する古語のホケが由来で、奇岩や怪石の多い土地を指す。
道端に繁る木々に隠れがちであるものの、その名の通り、ごつごつと露出した裸の変成岩に、渦を巻く奔流がぶつかり、弾けながら流れていく景観は圧巻で、目が釘付けになる。
並行するJR土讃本線は吉野川の東岸に留まって敷かれているけれど、国道32号線は吉野川を渡っては戻るという鉤状に造られているため、橋を渡る時には、鉄道よりもじっくりと渓谷を眺めることが出来る。

「ブルーメッツ」号では漆黒の闇に塗り潰された車窓に怖れを抱いたものだったが、日中に走れば、櫛の歯を引くように窓外を流れ去る木々の青葉と、川岸の変成岩の灰白色、そして澄み切った緑に染まった川面の対比が目に滲みる。

池田町に入ると、河口のある東へと流れを変える吉野川に釣られるかのように、国道32号線も土讃本線もいったん同じ方角へ行きかけるが、違う、こちらではない、と言わんばかりに180度Uターンして対岸へ渡り、北へ鼻先を向ける。


満濃池の西を抜ければ間もなく讃岐平野で、四国山地の横断を終えた「よさこい」号は、坂出ICから久しぶりの高速道路に入り、黄昏の瀬戸大橋を渡り始める。
それまでの山深い道中とは対照的な、眼下に広がる瀬戸内海の広さと青さが鮮やかである。

塩飽諸島の島々を伝う合計6本の橋梁から成る総延長13.1kmの備讃瀬戸大橋を、10分もかからずに渡り終えた「よさこい」号は、早島ICで高速を降り、ブルーハイウェイで片上湾を越え、備前ICから竜野西ICまで部分開通の山陽自動車道、国道2号線バイパス、そして姫路から北上する播但連絡自動車道と、複数の道路を忙しく渡り歩く。

長い時間を費やしたけれども、初期の「よさこい」号ほど豊かで変化に富んだ景色を楽しませてくれた高速バスも珍しい。
高知道、高松道、瀬戸中央道、山陽道と、全区間が高速道路を経由する現在では、5時間あまりに所要時間が短縮されているものの、失われた車窓風景は、今でもこよなく懐かしい。

福崎ICで中国自動車道に入る頃には、あたりはすっかり闇に包まれていた。
宝塚ICの付近の長い下り坂で、黒々と蹲る山あいの彼方に煌びやかな大阪の夜景が開ける頃には、長い旅が終わろうとしている安心感と寂しさが込み上げてくる。


定刻21時10分に到着した梅田三番街を当てもなく彷徨いながら、軽く夕食をしたため、僕は同じバスターミナルで、22時30分発の千葉行き夜行高速バスに乗り換えた。
千葉に何の用事もないけれど、千葉を発着する夜行高速バス路線を初体験してみたかったのである。

その夜の便を担当するのは、「よさこい」号と全く同じ車両の阪急バスだった。
平成元年12月に京成バス、阪急バス、阪神バスの3社が大阪と西船橋・東京ディズニーランド・千葉中央駅の間で夜行高速バスの運行を開始した時には、大阪と神戸の間の鉄道事業をはじめ何かと競い合う関係だった阪急と阪神が手を組んだことに、少しばかり驚いたものだった。
阪神電鉄の株式の46.82%を保有して敵対的買収を仕掛けた村上ファンドに対し、有効な対抗策を講じ得なかった阪神電鉄が、ホワイトナイトとして阪急ホールディングスに友好的な買収を提案、阪急が村上ファンドからの株式買収を含めて64.76%を保有することで戦後初の大手私鉄の経営統合を行ったのは、この旅の15年後の平成18年のことである。

定時に発車した千葉行き夜行高速バスは、続いてJR大阪駅の反対側に回り、ハービスOOSAKA阪神バスターミナルに22時40分に停車する。
どちらかで充分じゃないか、と、まどろっこしい思いに駆られてしまうのだが、共同運行であるから、参入する双方の事業者の顔を立てる必要があるのだろう。

夜間走行は快適で、途中休憩も設けられていなかったから、眠りを妨げるものは何もなかった。

「間もなく東京ディズニーランドに到着致します」

カーテンが開け放たれ、真夏の日差しが鋭く車内に射しこんできたのは、翌朝6時過ぎのことだった。
交替運転手さんが前方からひょっこりと顔を出して、マイクを持って挨拶する。
いつもの夜行高速バスの到着風景だが、続く言葉に僕は耳を疑った。

「この先、湾岸道路は渋滞がひどく、ディズニーランドより先の到着時刻が分かりません。西船橋、千葉方面へお越しのお客様は、ディズニーランドでお降り下さいますようお願い致します」


そもそも、このバスは、西船橋駅に6時30分、千葉中央駅に7時15分に立ち寄ってから、8時ちょうどに着く予定のTDLまで逆戻りするという経路のはずだから、最初にTDLに寄っていること自体、只事ではない。
千葉中央駅までの乗車券を持っていながら、夢の国のバスターミナルで放り出されてしまったのだ。

「このまま乗っていけませんか?」
「3時間以上かかりますよ」

と不機嫌そうな面持ちで答える運転手さんの言葉で、千葉へ行くのはさっぱりと諦めた。
内心では3時間かかっても千葉まで乗って行きたいと思ったけれど、これから千葉までバスを回送させなければならず、今夜の折り返し乗務に備えての仮眠時間も削られるに違いない運転手さんたちの胸中を慮れば、機嫌が悪くなるのも無理はないし、せめて客扱いのない気楽な時間を過ごさせてあげたいと考えた。
バスが乗せてくれないのであれば、千葉に行っても仕方が無いから、東京へ帰るしかない。

他の乗客も全員降ろされて、戸惑った様子でたむろしていたが、しばらくすると三々五々、TDLの入口や舞浜駅に歩き出している。

「お客さん、お願いがあるんやけど」

なかば呆然としながら、これがTDLのバス乗り場なのか、と周囲を物珍しげに見回していると、運転手さんが愛想笑いを浮かべながら近寄ってきた。

「このお嬢さんが、鹿島神宮まで行くらしいんやけど、行き方がわからんのですわ。御一緒にお願いできまへんか?」

千葉までの切符を持っている僕は、当然のことながら、千葉に行くと思われているらしい。
違う、と説明するのも面倒である。
運転手さんと並んで、中学生くらいの素朴そうな少女が、強い日差しに顔をしかめながら立っている。

TDLから鹿島神宮へは、行き方が少々ややこしい。
千葉駅から鹿島神宮駅へ直通する列車は、ただでさえ本数が少なくて、東京を発着して鹿島線内は各駅停車に変じる特急列車「あやめ」が1日5往復のみ、千葉駅を7時21分に発車する1号の次は、10時21分発の3号という間の抜けたダイヤである。
普通列車の直通運転はなく、成田もしくは佐原で乗り換えが必要になる。

「鹿島神宮駅には、誰か迎えに来るの?」
「うん、親戚の叔母さん」
「連絡とれるの?」
「着いたら、駅から電話することになってる」

まだ携帯が普及しておらず、旅先から気軽に連絡することも、ネットで行程を簡単に検索することも出来ない時代だった。
千葉に7時15分に着くバスから、7時21分発の特急に乗るつもりだったのだろうか。
バスが着く京成電鉄千葉中央駅とJR千葉駅は少しばかり離れているから、慣れていても難しい話である。
しかも、当時の京葉線は蘇我まで開通しておらず、千葉へ行くには西船橋で乗り換えなくてはならない。

子供を鹿島神宮に行かせるのに、同じ県だからって、千葉行きのバスに乗せるなよ、親御さん──

と思う。

この娘さんが、西船橋や千葉、成田、佐原で乗り換えながら、1人で鹿島神宮へ行くのは無理だよなあ──

眠気がいっぺんに吹き飛んで、僕の頭は目まぐるしく働き出した。

「ここから鹿島神宮は、行き方が難しいよ。必ず、確実な方法で、鹿島神宮へ行かせてあげるから、僕を信じるかい?」
「うん!」

少なからず不安そうな面持ちに見えたものの、少女は真っ直ぐ僕の顔を見て頷いた。

「よし。じゃあ行こう」

舞浜駅から京葉線の東京行き電車に乗った。

「いいかい、まず東京駅に戻るからね。そこから、鹿島神宮駅まで高速バスが出ているんだ。それなら、乗っているだけで、迷わずに鹿島神宮まで行ける。それに乗せてあげるから」
「うん……」

おそらく、僕が挙げた駅名や行程の位置関係を想像することは、余所から来た人間には難しい。
どうか、僕を人さらいなどと思いませんように、と思う。


賑やかな東京駅地下ホームから、八重洲南口の高速バス乗り場へ向かう。
鹿島神宮駅行きの高速バスは、1日60往復、15分から20分に1本という頻繁な運行を誇る人気路線である。
その反面、特急「あやめ」は減便を重ねて1日1往復まで運転本数を減らした後、平成27年に廃止に追い込まれている。

少女の乗車券を購入してから、叔母さんに電話をさせた。
高速バスで行くことをきちんと伝えるように言い聞かせたけれども、僕はこの路線を開業直後に乗りに行ったことがあり、バスの降り場はJR鹿島神宮前駅のロータリーだった記憶があるので、行き違いになることはないはずである。

「2時間かかるよ。いや、もっとかな。何か飲む?」
「オレンジジュース!」
「ようし、待ってて」

御希望のジュースを渡して、一緒に乗り場に並んでいると、程なくバスが乗り場に勢いよく滑り込んで来た。
おそらく、どの交通機関よりも確実に、乗り換えなしで、少女を鹿島神宮まで連れていってくれる、高速バス「かしま」号の登場である。
東関道の渋滞で時間はかかるかもしれないが、この場合は煩雑な乗り換えが不要であることが何よりも重要で、地元の運転手さんならば抜け道を知っているかもしれない。

ただ、この路線は、鹿島セントラルホテル、鹿島製鉄所、鹿島宇宙通信センター、鹿島市役所と、途中の降車停留所が多いことが、少しばかり心配になってきた。
特に、鹿島セントラルホテルでは、終点かと見紛うくらいに降りる客が多かった覚えがあり、後にそこを起終点にする系統も設けられたほどである。
いいね、必ず終点まで乗っていくんだよ、と何度も念を押しながら、少女を「かしま」号に乗せ、僕は乗客の列から離れた。

すぐにバスは動き出した。
左側の窓際に座った少女が、ホッとしたような笑顔を見せながら、僕に手を振ってくれた。
初めて目にする可愛らしい笑顔だった。

乗っていた夜行高速バスの途中での運行中止、そして旅程の変更を余儀なくされるという事態は、彼女にとって大冒険だったことであろう。
京葉線の切符代と高速バス代とオレンジジュース代を奢ったから、貧乏旅行中だった僕には痛い出費だったが、少女の笑顔を見た瞬間に、またバイトを頑張ればいいや、という気分になった。

数多くの高速バスに乗車してきたけれど、人を見送ったのは初めての経験である。
八重洲通りへと走り去っていく「かしま」号の後ろ姿を見送りながら、バトンを渡したリレー選手のような晴れ晴れとした心持ちになった。

頼むぞ「かしま」号。
きちんと彼女を送り届けてくれよ──


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