北海道の廃線の息吹を伝える代替バスの旅 第1章 松前線 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

上野駅を18時40分に発車した東北新幹線「やまびこ」23号は、宇都宮、福島、仙台だけに停車して、21時26分にすっかり日が暮れた盛岡駅へと滑り込んだ。
 
昭和63年2月の週末、東北新幹線は上野駅が起終点、盛岡止まりの時代の話である。
所要2時間46分とは、現在ならば上野から新青森に着いてしまう時間であるが、当時としては最速列車の部類に入っていた。
 
 
そのまま、煌びやかな新幹線の高架ホームとは対照的な、薄暗く古びた地平の在来線ホームに下りて、既に入線していた21時36分発の特急列車「はつかり」23号に乗り継ぐ。
 
みちのくの汽車旅はここからが長い。
一戸、北福岡、金田一、八戸、三沢、野辺地に停まりながら、終点の青森到着は日付を跨いだ0時09分、2時間33分を要する。
定刻にごとごとと走り出した特急列車の速度は、決して遅くはないのだろうが、それまでの新幹線に比べればもどかしい程のんびりしていて、まだ始発駅を出たばかりというのに、青森は遠いなあ、と思う。
 
 
「この電車、広くていいけれど、鈍行みたいだな」
 
と、連れのN君が周りを見回しながら呟いている。
 
東北本線の特急列車は、新幹線の開業前から我が国の在来線でも有数の俊足ぶりを誇っていた歴史があり、それは線路の改良工事を重ねた北東北の区間でも変わりはない筈なのだが、N君の言わんとすることは分かる。
「はつかり」23号に用いられているのは583系寝台特急用車両で、昭和43年に登場した時には、世界で初めての昼夜行を兼用できる電車として名を馳せた。
昼夜兼用と言いながら、座席の構造は寝台への切り替えを前提としているため、昼間は4人向かい合わせのボックス席になり、寝台の仕切りとして使われる背もたれは、リクライニングが出来なかった。
昼行専用特急車両の2人掛けクロスシートに比べて、その点が不評だったようで、583系の普通車に乗り込むと、ボックスシートが並んでいる様は、確かに各駅停車の鈍行列車に見えないこともない。
 
ただ、寝台の縦方向の長さを確保するために、座席の間隔は当時の一等車に匹敵する197cmにも及び、大層広く感じられる。
向かい側に坐る人と膝が擦れ合うことがない、余裕のある座席間隔と、3段設けられる寝台のために嵩上げされた高さ2.7mに及ぶ天井によって、不必要なほど広々と感じる客室に、僕などは大いに感嘆してしまうのだが、N君は背もたれが倒れないことが不服らしい。
 
 
当時の国鉄や後身のJRは、リクライニングにそれほど拘りがなかったようで、昭和39年に開業した東海道新幹線0系車両の普通車は、青の濃淡に塗られた幅の広い横3列席の方向転換が難しかったのであろうか、背もたれ部分を座面の上で前後に動かして向きを変える転換式クロスシートであったため、リクライニング機能が備わっていなかった。
昭和40年代に製造された特急用車両の普通車でも、回転クロスシートであるにも関わらず、横2列席の背もたれが一体化して倒せない構造のシートの車両があった記憶がある。
 
昭和57年に東北新幹線が大宮と盛岡の間で暫定開業した際に登場した200系車両の普通車は、リクライニングが可能になった代わりに、座席の回転機能をいとも簡単に諦めてしまい、座席は車室中央から両車端を向いて固定されていた。
200系車両のオレンジ色の座席を初めて見た時には、その発想のあまりの意外性に、思わず仰け反ったものだった。
何を優先するかという価値観は人それぞれなのであろうが、僕にとっては、0系のようにリクライニングよりも進行方向を向く姿勢が好みだったのである。
 
だから、当時の東北新幹線では指定席には乗らなかった。
後方の座席を指定された場合には、目的地までずっと後ろ向きに座っていなければならない。
この日も、上野駅で乗車前から並んで自由席を選んだ気がする。
リクライニング機能を備え、かつ背もたれをあらかじめ前に傾斜させることで3列席を回転させられるように計らったシートが新幹線に登場するのは先の話であるが、初めてお目に掛かった時には、やっと出たのか、それにしても何という頭の良さだ、と、その構造を考案した人への賞賛の思いを禁じ得なかった。
 
 
新幹線の開業前は、583系と、座席専用の485系特急用車両が投入された東北本線の特急「はつかり」が、上野と青森の間を9時間かけて結んでいた。
つまり、僕らが乗っているボックス席で、長時間を過ごした人々がいた訳である。
かつての僕らの国には、利用客がお互いに少しずつ我慢しながら、昼夜を問わず走り続ける猛烈な時代があったことを、高度経済成長期に登場した583系は後世に伝えている。
 
そのような話をされれば、N君は、
 
「なるほどね」
 
と、それ以上の文句の言い様がない。
 
「はつかり」23号は下り最終列車で、車室内には数えるほどの客しか見受けられず、駅に停車するたびに、その人数が減っていく。
僕とN君も4人掛けの席を2人で占めている。
語り合ったり、本を読んだり、思い思いの時間を過ごしているうちに、N君がもぞもぞと身体を動かして、向かいの席とくっつけるように座面を前に引き出してしまったではないか。
夜間はベッドに化ける座席であるから、こうなるのは当たり前であるが、こうも簡単に座面を引き出せるとは知らなかった。
 
「うわ、こいつは楽だぜ」
 
僕も試しに座面を引き出して向かいの席に足を投げ出すと、大いにくつろげる。
さすがに横にはならなかったけど、やってはいけないことなのかもしれない、と多少の気兼ねがある。
車掌さんが通りかかった時に思わず腰を浮かしかけたが、車掌さんはちらりと僕らの方を一瞥しただけで、何も言わずに通り過ぎた。
 
 
「はつかり」23号は北上川に沿って右に左に身をくねらせながら、南部地方の山あいの平地をたどり、県境付近の分水嶺を越えれば、馬淵川に沿って太平洋岸の八戸平野に降りていく。
闇に染まった窓を通して車内の照明が淡く照らし出すのは、線路際に積もった雪ばかりで、人家の灯りなどは殆ど見えない。
時間はかかるけれども、鄙びた乗り心地に最果ての旅情がつのる。
新幹線よりこちらの方がすっかりくつろいでいる自分に気づく。
 
下北半島の袂を横切り、青森駅に降り立つと、身体を容赦なく突き刺す厳しい寒さに、思わず震え上がった。
そのまま0時30分出港の青函連絡船1便に乗り継ぐ予定であるが、車内で車掌さんから配られた乗船名簿を手にして、凍てついたホームを連絡船乗り場に向かう客はそれほど多くなかった。
 
 
青函トンネルがほぼ完成し、入れ替わりに連絡船が廃止されるまで残り2ヶ月を切っていた時期だったから、惜別のために鉄道ファンが大勢押しかけているぞ、とN君を脅かしながら真っ先に列車を降り、早足で歩き出した身としては、拍子抜けするような光景だった。
 
「なんだよ、大したことないじゃん」
 
とN君も驚いている。
僅か3時間50分の航海であるから、少しでも身体を休めようと、僕らはあらかじめグリーン船室の切符を手に入れていたのだが、不要だったかも知れない。
 
 
今夜の1便は八甲田丸の担当だった。
 
「いらっしゃいませ。ようこそお出で下さいました」
 
深々と最敬礼するパーサーに慇懃に出迎えられながらタラップを渡り、人影が少ない広い船内を迷いながら移動して、取り敢えず自席に荷物を置いた僕らは、どちらからともなく誘い合って甲板に出た。
強い風が瞬く間に体温を奪うように襲いかかってくる。
出港してからの船内放送で、
 
『今夜の津軽海峡の天気は雪、西の風が風速10mから20m、本船は多少の揺れが予想されます』
 
と案内する生憎の天候であったが、それもまた北海道へ渡る真冬の船旅に相応しい。
貨車を積んでいるのだろうか、船尾の方から鈍い金属音が響いてくる。
 
 
青森湾の暗い波間と、灯りが少なくなった下北半島に連なる海岸線を眺めているうちに、銅鑼が鳴り、スピーカーから蛍の光のメロディが流れ、長声一発を物悲しく轟かせた八甲田丸は、ゆっくりと桟橋を離れた。
 
青函連絡船が横切る津軽海峡は、北海道と本州の間に東西約130km、最大水深約450mで、中央部は我が国の排他的経済水域であるものの、外国船舶が自由に通行できる公海である。
その年の3月に開業する青函トンネルの内部は日本の領土とされているが、青函連絡船はいったん領海外に出て本州と北海道を結んでいたことになるから、スケールの大きな話である。
 
 
青函航路の起源は、江戸時代末期の1861年に、青森の滝屋喜蔵が5日に1回運航する帆船の定期航路を開設したことに遡る。
明治6年に、開拓使が月に3往復する汽船・弘明丸を就航させ、同じ年に長州出身の小田藤吉が汽船・青開丸を青函航路に投入、明治12年に三菱郵船が引き継いで後に日本郵船の航路になる。
 
鉄道連絡船としては、明治41年に、帝国鉄道庁が我が国初の蒸気タービン船である1480tの比羅夫丸を就航させたのが最初である。
この旅の当時、青函連絡船の歴史はちょうど80周年を迎えていた訳で、しかもその幕が降ろされようとしている時期に乗船したのは、お別れをすることが目的ではなく、たまたま僕らが北海道に行きたいと思い立った時と重なっただけであるが、今となってみれば、何かの縁だったのかも知れない。
見慣れた船内を見回しながら、これが青函連絡船に乗る最後かもしれないと思う。
 
 
僕は何度か青函連絡船を利用したことがあり、その旅情にすっかり魅入られていたのだが、N君は北海道に渡ること自体が初めてだった。
 
青森の街の灯が、船尾から伸びる航跡の彼方に遠ざかっても、しばらく揺れなかったのは、下北と津軽の2つの半島に抱かれた陸奥湾内の航行が続くためである。
津軽海峡で最も陸地の距離が近いのは、東側の下北半島大間崎と亀田半島汐首岬に挟まれた18.7kmで、西側の津軽半島竜飛崎と松前半島白神岬との間は19.5kmとやや離れている。
水深が比較的浅いことから、青函トンネルが建設されたのは後者である。
青函連絡船の運航距離は113kmで、3分の2は陸奥湾と函館湾の内海区間であり、悪天候であっても、出港と入港の前後1時間程度は、さほど揺れないことが多い。
 
深夜便だから、どれほど目を凝らしても左右に陸地は見えず、かすかな灯りが幾つか明滅しているだけである。
陸地の家々や街灯なのか、それとも、漁船でも出ているのだろうか。
 
 
「竜飛岬って、まだ先なのか。これじゃ見えそうもないけど」
 
とN君が呟く。
あまりに人口に膾炙して月並みも極まれりという感はあるけれど、こうして青函連絡船に乗れば、あの名曲が知らず知らず口を突いて出てくる。
 
上野発の夜行列車降りた時から
青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れは誰も無口で
海鳴りだけを聞いている
私もひとり連絡船に乗り
凍えそうな鴎見つめ泣いていました
ああ津軽海峡冬景色
 
御覧あれが竜飛岬
北のはずれと
見知らぬ人が指を指す
息でくもる窓のガラス拭いてみたけど
遥かにかすみ見えるだけ
さよならあなた
私は帰ります
風の音が胸を揺する
泣けとばかりに
ああ津軽海峡冬景色
 
この歌を思い浮かべると、明るいうちに青函連絡船に乗る旅程にするべきだったかと思ってしまうけど、深夜便独特のまったりした雰囲気も悪くない。
 
 
いつまでも舷側に佇んで海峡の闇と対峙していてもしょうがないので、船内に踵を返して、指定された席に収まり、少し眠った。
全長132.0m、幅17.9m、比羅夫丸の3倍の5382.6tの排水量を誇る津軽丸型連絡船八甲田丸の安定感は比類なく、船内に入ってしまえば、外が極寒の海であることを忘れそうになる。
 
身体を突き上げるように持ち上げられた気がして、ふと目を覚ますと、次の瞬間、横に傾きながら捻るように沈んでいく。
平舘海峡を抜け、海峡の中央部に差し掛かって、波が荒くなったのであろう。
 
隣りの席のN君の姿が見えない。
竜飛岬でも見に行ったのか、と思っていると、間もなく、あちこちの柱や座席の背もたれにつかまりながら、よたよたと、手にハンカチを握りしめて戻ってきたので、用足しだったのかと思う。
 
「土間みたいなところで、みんな、よく寝てた。よく眠れるよな、こんなに揺れるのに」
 
二等船室を覗いて来たようである。
 
「そうだな、すまん」
 
どうして謝らなければならないのか分からないけれど、頭の中に膜が張られているような眠気に耐え切れず、僕は毛布を顔まで引き上げて再び目を瞑った。
 
 
『おはようございます。長らくの御乗船お疲れ様でした。本船は間もなく函館港に到着致します』
 
との船内放送で目を開けるまで、一瞬だったような気がするほど熟睡したものの、寝不足の感は否めない。
時計の針は午前4時を回っている。
いつの間にか揺れは収まっていた。
 
「おい、函館だぞ」
 
とN君に声を掛けてみたが、ううん、と顔をしかめてそっぽを向いただけだったので、1人で甲板に出てみた。
 
数人の乗船客が手すりにもたれて、まだ暗闇の底に沈んでいる函館の街を眺めている。
昼間ならば函館山が見え、函館ドックのクレーンなどが姿を現すところであるが、いくら夜明けの早い北海道でも、冬の日が明けるにはまだ間があるようだった。
 
「やっと着いたか。遠かったなあ」
 
と声がしたので振り返ると、N君がいつの間にか横に立っている。
東京を出て12時間が経っていた。
 
「大丈夫か。少しは眠れたのか?」
「うーん、あんまり。出来れば、このまま青森までもう1往復して眠りたい」
 
真面目な表情をしたN君の答えに、僕は思わず笑い出した。
 
 
僕は幾度か北海道旅行の経験があるので、今回の旅では、全てN君の行きたい所に的を絞っている。
N君が挙げたのは、松前、五稜郭、室蘭に近い地球岬、クラーク博士で有名な札幌農学校跡のある北海道大学、石狩川河口などと渋い選択ばかりで、僕も訪れたことがないから異論はないけれど、初めての北海道旅行で洞爺湖も阿寒湖も宗谷岬も候補に挙がらないあたりは、歴史派であるN君の面目躍如である。
 
最初に訪れる予定にしている松前の歴史は、室町時代に甲斐武田氏の末裔が渡島半島の南部に渡り、15世紀にアイヌが和人に闘いを仕掛けたコシャマインの乱を武田氏が中心となって鎮圧することで、後の松前藩の基礎を築いたことに遡る。
松前藩は通称1万石とされるが、当時の北海道で稲作はできず、ニシンなどの漁業やアイヌとの通商で栄え、19世紀に松前の人口は1万人を超えていたのである。
日蓮に師事し、新潟から秋田、青森、函館、松前と北上しながら、海外布教を目指して樺太に渡った日持上人の、日本人離れした足跡なども伝わっていて、早くから松前が北海道開拓の拠点であったことが窺える。
 
 
4時20分に接岸した連絡船を降りた僕らは、函館駅でいきなり手持ち無沙汰になってしまった。
まずは7時05分発の江差線の始発列車721Dに乗ろうと思っているのだが、夜明け前の函館駅で2時間半以上もどのように過ごそうかと思う。
 
薄く粉雪が積もるホームには、4時42分発の札幌行き特急「北斗」1号が発車を待っている。
2人とも道南ワイド周遊券を購入しているから、北海道に上陸すれば、いちいち乗車券を購入しなくても特急列車の自由席から普通列車まで乗り放題である。
 
「これに乗って、車内で居眠りして、どこか途中で函館に引き返しても、金はかからないよ」
「やめとく。絶対に起きられない自信があるし、気づいたら札幌ってことになる予感がする」
 
ホームには濛々と湯気を上げている立ち食い蕎麦屋が店を開け、そこだけ人だかりが出来ている。
僕とN君は、これだ、と目配せして、その一群に加わった。
熱々の丼を抱えているだけで冷え切った身体が温まるような心地になったが、立ち食い蕎麦では大して時間が潰せる訳がない。
ゆっくり食べようと思っても、寒くて空腹だから、つるつる、つるつると、麺が勢いよく喉に吸い込まれてしまう。
 
 
一緒に蕎麦を啜っていた客たちは、発車ベルが鳴り終わるまでに慌ただしく「北斗」1号の車内に消え、ディーゼル特急がエンジンの唸りを上げながら線路の彼方に走り去った後には、森閑としたホームに、軽油のほのかな匂いと僕らだけが取り残された。
 
「どこさ行ぐだ?」
 
丼を洗いながら、蕎麦屋のおじさんが津軽弁に似た函館弁混じりで僕らに声をかけた。
 
「江差線の始発で松前に行こうと思ってます」
 
とN君が律儀に答えたが、おじさんの次の言葉に僕らは耳を疑った。
 
「せば、まだ時間がようけあるなあ。あそごもいいとこだけんど、松前線が無くなっちまったで、うだで不便になったべさ」
 
松前線が消えた?──
 
函館本線の五稜郭駅から分かれて、渡島半島の海岸線に沿って西へ向かう江差線は、木古内駅で松前線を分岐していた。
僕らが乗る721Dは、木古内で列車の一部を分割して6821Dに仕立て、松前線に乗り入れるものとばかり思っていたのである。
 
 
松前線の歴史は、木古内と渡島知内の間8.2kmが開通した昭和12年に始まる。
最初は国鉄福山線と命名され、太平洋戦争を挟んで順次延伸を重ね、渡島大沢と松前の間を最後に50.8kmの全線が開通して、松前線と改称されたのは昭和28年のことであった。
 
昭和55年に施行された国鉄再建法により、輸送密度が基準に達していないとの選定を受けて廃止対象になったことは知っていた。
一方で、松前線の利用者は函館と行き来することが多く、直通列車が乗り入れる江差線と併せて基準に該当するか否かを検討すべきであり、木古内以西で比較すれば、廃止対象から外れた江差線より松前線の方が旅客量が多いではないか、と反対する意見が地元に湧き起こっていることも、小耳に挟んでいた。
 
紀行作家宮脇俊三氏は、著書「汽車との散歩」の一節「線名恐るべし」で、この矛盾を取り上げている。
 
『国鉄再建法に伴う政令は、線区別の輸送密度をもって絶対的基準としている。
いくつかの例外条項はあるが、基礎となるのは線区別の輸送密度であり、これがローカル赤字線存廃を決める尺度となっている。
輸送密度、つまり客が多いか少ないかによって存廃を決定するのは当然である。
数字を楯に無機的に処理しなければ、何もできなくなるだろうこともわかる。
けれども、その対象となった線区名を眺めると、おおいに問題がある。
たとえば、函館本線の砂川から2本の盲腸線が出ている。
歌志内までの14.5キロと上砂川までの7.3キロの2本である。
いずれも寂れた炭鉱線で、運転本数も共に1日8往復、似たような線区である。
ところが前者は、歌志内線という独立した線区であるために、キロ当たり1日平均1020人との輸送密度が算出され、廃止対象路線になっている。
一方、後者については輸送密度は算出されない。
算出されてはいるのだろうが、この線は函館本線に含有されている「名無し線」なので、どんなに悪い数字を出そうと函館本線の中に埋没する仕掛けになっている。
従って函館本線が廃線にならないかぎり安泰という恰好である。
寄らば大樹の蔭、名前がなかったおかげで死刑を免れている。
「線名」恐るべしである。
久慈線は八戸線の延長線である。
線路図を見れば1本の線で、なぜ途中から久慈線に線名が変わるのか不審に思われる人が多いだろう。
久慈線は三陸縦貫鉄道の工事のための名称にすぎなかったのだが、久慈から普代までの26.0キロが完成して部分開業した際、工事線名を流用してこの区間を久慈線と名づけたのであった。
長い八戸線の先っぽであるから、当然、輸送密度は低い。
わずか762人、もちろん廃止対象路線になった。
久慈線とはいい名前だが、独立した線名などつけず、八戸線の延長線に甘んじていれば廃線候補にはならなかったはずである』
 
宮脇氏の文は、以下のように続く。
 
『もちろん、運輸省も国鉄も、こうした実情や不公平について承知しているに決まっている。
とにかく機械的にパッと網をかぶせないことには先へ進めないので、無理を承知でやったのであろう。
したがって地元との話し合いが始まれば、これらの不公平についての苦情が続出するだろう。
その場合、公平を期すために、廃止の対象から免れた線区を廃止の側に巻き込むことはないだろうから、救済の道が開けてくると思われる』
 
宮脇氏は、この章を次のような楽観的な一文で結んだ。
 
『廃止対象にされた77線区のほとんどが生き残りそうな気がしてならないのである』
 
 
僕もそのように願っていたのだが、残念なことに、氏の予想は甘かったとしか言い様がない。
 
松前線を廃止予定に追い込んだ昭和52年~54年度における3年平均の輸送密度は、基準を下回っていたものの、昭和54年度と55年度単独では廃止を除外される基準を満たし、昭和58年~60年度、昭和59年~61年度の3年平均でも同様であったにも関わらず、存廃は線区単位で一律という杓子定規の決定は覆らなかった。
第3セクター鉄道かバス転換かを迫られた松前線は、並行する国道228号線の整備が良好であったために鉄道として存続することは断念、僕らが北海道に渡る直前の昭和63年2月1日をもって廃止されていたのである。
 
宮脇氏が挙げた久慈線は第3セクター三陸鉄道として生まれ変わったが、函館本線の名無し支線、通称上砂川支線も分割民営化後の平成6年に消え、江差線は、木古内から東の区間が青函トンネルと接続する幹線へと発展したものの、木古内以西の区間は平成26年に廃止された。
 
 
北海道の廃線一覧を見れば、この地はこれだけの鉄路を失ってしまったのかと溜息が出る。
北海道の人口は日本の総人口の5%にも満たないところに、最盛期には国鉄全線の18%に及ぶ3900kmあまりの鉄道が敷かれていたのである。
人口希薄のこの土地に、よくぞこれだけの鉄道を敷いたものだと思うのだが、明らかに北海道開発という国策の現れなのだろう。
ならば、需要や乗車率の多寡で鉄道の存続や廃止を議論する現在の風潮は、明らかに北海道にはそぐわない。
役目を終えたのだ、と言われればそれまでだが、ならば血の滲む思いで北の大地の開拓に携わり、歳をとって取り残された人々はどうなるのか。
北海道の交通政策は、地域格差や福祉の一環として考え直されるべきではないかと、僕は首を傾げたくなるのだ。
 
しかも、北海道新幹線が函館北斗まで開通した平成28年に開かれたJR北海道の記者会見で、道内の全路線2500kmの半分にも及ぶ1236kmの線区について、同社単独で維持することが難しいという見解が発表された。
国鉄時代よりも更に厳しい北の鉄路の現状が浮き彫りとなっている。
 
そのような未来のことはともかく、喫緊の危機は松前線である。
僕らが旅の計画を立てた時に使ったのは数ヶ月前の時刻表であったから、松前線が消え失せるとは夢にも思っていなかった。
呆然と箸を止めてしまったN君を横目に、僕は立ち食い蕎麦屋のおじさんに慌てて聞いた。
 
「松前に行く代替バスはあるんですよね?」
「もちろんあるさ。木古内から出てるベ」
 
 
明るくなってから乗り込んだ江差線の始発列車は、2両編成の気動車で、松前と行先表示を掲げている車両は確かに見当たらない。
早朝の下り列車であるから客は数えるほどだった。
固いボックス席に向かい合って足を投げ出していると、数分で五稜郭駅に停車する。
 
「五稜郭に行くなら、帰りはここで降りよう」
 
と確認し合っているうちに、列車は江差線に乗り入れ、乗り心地が鄙びたなと思う間もなく、続けて七重浜駅に停まる。
 
「この沖で、洞爺丸が沈んだんだよなあ」
「そうなのか。船が揺れた時にそのことを考えていたけど、ここだったのか」
 
 
昭和29年に函館を襲った台風15号によって、青函連絡船洞爺丸が沈没し、1155名の犠牲者を出した遭難事件はあまりにも痛ましい。
洞爺丸ばかりが注目されている事件であるが、この台風では 第十一青函丸、北見丸、日高丸、十勝丸と4隻の連絡船も沈没し、乗員90名が誰1人助からなかった第十一青函丸をはじめ、それぞれ50~70名が殉職した全ての遭難を合計すれば、犠牲者の総数は1430名と、タイタニック号に匹敵する我が国最大の海難事故なのである。
 
江差線の沿線は案外に家々が建て込んでいて、車窓はなかなか海を映してくれない。
七重浜駅の西を流れる久根別川の短い鉄橋を渡る時に、60年前の悲劇の砂浜と、湾の彼方に函館山に抱かれた函館市街が一瞬、かすかに見えるだけである。
 
 
渡島当別駅を過ぎると江差線は津軽海峡の波打ち際に出て、木古内駅まで、寒々とうねる冬の海原を眺めながらの車中となる。
 
木古内の駅前には、「松前」と行き先を掲げた函館バスが待っていた。
前に1扉だけを備えた観光用にも使えそうな新車で、列車から乗り換えた客も多く、座席の3分の2程度は埋まっている。
僕らが乗り込んだのは8時42分発のバスで、内陸に折れて半島を横断する江差線と分かれて、引き続き海沿いの国道228号線を走り始める。
すれ違う車は案外に多い。
 
「みんな車なんだな。車の人たちを全部拾えれば、松前線も廃止されなかっただろうに」
 
N君は鉄道ファンではなかったはずである。
それでも、最前列席に陣取ってぽつりと呟いたN君の顔に、どこかやるせない表情が浮かんでいるように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
 
 
雪に染まったエゾマツやトドマツばかりの車窓が続くが、木古内本町、森越、知内出張所、上雷神社、湯の里第一、福島、吉岡、白神下町など、かつての鉄道駅の合間にも小まめに設けられた停留所を伝っていくうちに、津軽半島に多いヒバの林も姿を現した。
乗ってくる客は殆ど見受けられず、函館との往来が多いのか、降りていく一方である。
平日であれば通勤、通学客が途中で乗り降りするのかもしれない。
 
廃止された駅舎はどれも固く扉を閉ざし、古びた木造の建物も少なくないけれど、その佇まいに荒れた感じはなく、廃止されて日が短いことを示している。
ところどころに線路が見えたが、大半が雪に埋もれ、たまにレールが露出していても、早くも赤錆が浮いていて、この地域は半世紀続いた鉄路を本当に失ったのか、と胸が締めつけられる。
 
 
渡島福島の駅名には聞き覚えがあった。
福島から津軽半島の三厩までカーフェリーが出ているはずで、時刻表にも掲載されているのだが、駅を囲む町の規模は決して大きくはなく、人影も全く見受けられない。
 
次の吉岡駅も寂しい集落の駅である。
 
「この下を青函トンネルが通っているんだぜ。吉岡海底駅ってのが出来たはず」
「へえ、じゃあ便利になるじゃん。松前線、ここまで残しときゃ良かったのに」
「いや、吉岡海底駅は客が乗り降りするんじゃなくて、万が一の事故に備えて、乗客が避難するために造られたんだって」
「ふうん。まあ、どえらいもんをこしらえたもんだよな。世界一長いトンネルなんだろ」
 
 
乗り換えようにも、吉岡海底駅は海面から150mもの深い地下に設けられていて、津軽海峡線が地表に出るのは海岸から5kmも内陸に入った山中であるから、住民には全く関係のない路線である。
我が国が世界に誇れる世紀の建造物があと1ヶ月で日の目を見ようとしている陰で、その地元でありながら、ひっそりと松前線は消えてしまったんだな、と思う。
 
20km彼方の龍飛岬が見えないものかと沖合に目を凝らしてみたけれど、海上は靄っていて見通しが悪く、垂れ込めた雲と水平線の境すら定かではない。
 
 
終点の松前に着いたのは、定刻10時17分、木古内から30分も掛からなかった鉄道に比べれば、倍以上の時間が過ぎていた。
バスの終点は旧松前駅ではなく、町の中心部に近い松前出張所である。
 
この旅の後に、天北線、深名線、名寄本線、岩内線、羽幌線、標津線、広尾線など、北海道内の幾つかの廃線跡をバスでたどる機会を得たのだが、殆どのバスがかつての駅跡を起終点としていたことを考えれば、松前は例外と言っても良い。
どうして駅前に行かないのかと思うけれど、失ったものを悔やんでいるだけでは始まらない、鉄道と訣別して新たな未来を切り拓いて行こう、という町の人々の決意なのかも知れない。
 
現在、松前駅舎は跡形もなく消え、駅舎に接して立てられていた「北海道最南端の町 松前駅」の石碑だけが残されているのだと聞く。
 
対馬海流の影響を受けるため、松前地方は北海道で最も温暖と言われ、気候区分も本州と同じ温暖湿潤気候に分類されている。
この日、一面の雪に覆われているものの、いつしか空は真っ青に晴れ上がって陽が射し始め、バスを降りても、身体を包み込む空気はそれほど冷たさを感じなかった。
 
 
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