北海道の廃線の息吹を伝える代替バスの旅 第2章 天北線 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

上野駅を21時35分に発車した急行「八甲田」は、深夜の東北本線をひた走って、翌朝9時08分に終点の青森駅のホームに滑り込んだ。
 
 
14系客車の簡易リクライニングシートで過ごした12時間に及ぶ一夜は、長かったような短かったような、あっと言う間だったような退屈だったような、乗り終わっても評価が難しいけれど、ほのかな疲労感と寝不足感を伴う余韻は心身に残っている。
 
簡易リクライニングとは、何を簡易的にしたのかと言えば、背もたれのロックである。
背もたれがどの角度でも固定できるフリーストップ方式ではなく、およそ120度くらいの角度にしか倒れない背もたれは、身体を起こすと、バタン、と背もたれまで一緒に戻ってしまうという不可思議な代物であった。
当時でも特急列車の普通車やグリーン車などではフリーストップ、もしくは一定の角度に限定でもきちんと固定されるリクライニングシートが採用されていたから、技術がない訳ではないだろうに、どうしてロックを省略するという発想に至ったのか、と首を傾げてしまう。
 
 
僕が持っているのは北海道ワイド周遊券であるため、北海道内は特急・急行列車共に特急券や急行券は不要、ただし北海道に入るまでは急行列車は急行券は不要だが、新幹線と特急列車は特急券が別途必要となる規則であった。
東北本線に急行列車など「八甲田」や奥羽本線回りの「津軽」しか残っていないじゃないか、と若干腹立たしくなるけれど、国鉄が急行全盛時代のまま制度を据え置いているのだからやむを得ない。
急行列車と言えば、その少し前までは4人向かい合わせのボックス席が主流で、それを回転式クロスシートにしたのだから、背もたれくらい我慢して下さい、急行を特急と同程度の座席にする訳にはいきませんと、国鉄が官僚的に差別化を図ったような気がしてならないのである。
 
そんな急行「八甲田」であるものの、周遊券利用の鉄道ファンと覚しき若い旅人たちでほぼ満席で、僕も、平成元年の夏休みを利用したこの旅では、宗谷岬や納沙布岬を目指して北の大地を縦横に鉄道旅行しようという趣向であったから、周遊券で乗れる道内の特急も急行も、自由席はいっぱいだった。
 
 
青森からは9時17分発の快速「海峡」に乗り換えて、青函トンネルを走り抜ければ、函館には昼前の11時57分に着く。
この旅の1年前までは青函連絡船が3時間50分で結んでいた津軽海峡を渡るのに2時間40分、船が鉄道に代わってもそんなものか、と思ってしまう。
もちろん、東北新幹線に接続して盛岡から函館まで足を伸ばす特急列車「はつかり」ならば最速で所要1時間58分であるから、世紀の大建造物を体感することと相まって、時代の進歩に感嘆しない訳ではないけれど、懐古趣味とは始末に負えない代物で、1~2時間の時間短縮のために、情緒ある船旅を僕らは失ってしまったのかと、誠に身勝手な感想が込み上げてくる。
青函連絡船の時代には、東京と札幌を行き来する旅客の95%が航空機を利用し、鉄道は僅か5%にも満たない比率であったと聞いたことがあるが、青函トンネル開通後に、鉄道は少しは挽回したのであろうか。
 
それでも、旧態依然としたままの津軽線で津軽半島を遡り、ヒバの森林に覆われた重畳たる山々が裾を重ねている車窓は、北の最果てに向かう汽車旅に相応しい。
新線区間に入ると見違えるような高速ぶりを発揮して、30分程度で青函トンネルを抜ければ、車窓が忽然と明るく開ける。
内地よりは少しばかり色褪せた木々の緑に眼をしばたたきながら、これで本当に北海道に渡って来たのか、という戸惑いは、連絡船とは全く異なる新鮮な演出である。
 
函館からは、12時20分発の特急列車「北斗」7号に乗り換えた。
自由席を求めてホームを小走りに移動する慌ただしさは、連絡船時代とさほど変わっていない。
駒ヶ岳を愛でつつ大沼の水際を走って渡島半島を抜け、長万部で函館本線から室蘭本線に分岐して噴火湾に沿って東へ進み、東室蘭、苫小牧で千歳線に乗りいれれば、少しずつ車窓が賑やかになって、15時56分着の札幌まで3時間半の行程である。
 
 
北海道旅行は僕にとって4度目であるが、これまでは道南ワイド周遊券を駆使して札幌まで来ただけであった。
最初は1人旅、2度目と3度目は友人と一緒に、洞爺湖に寄ったり室蘭市内に足を伸ばしたり、中途で路線バスを挟んだりしながらのんびりと道南を巡ったものだったが、今回はひたすら真っ直ぐに札幌を目指したにも関わらず、札幌の街では、長い夏の日も西に傾き始める頃合いを迎えている。
東京から19時間半、鉄道で来る北海道は遠いとつくづく思い知った。
 
ラーメン横丁の味噌ラーメンに舌鼓を打ち、汗を拭いながら店の外に出れば、殷賑なネオンが繁華街を彩る時間になっている。
僕は更に北へ向かうつもりだった。
21時20分発の稚内行き夜行急行列車「利尻」が入線する札幌駅のホームに早くから出掛けて、1時間以上は並んだ覚えがある。
周遊券は自由席しか利用できない決まりであるから、翌朝6時ちょうどに着く稚内までの9時間近くを座れなければ大ごとである。
 
 
その翌日に、札幌に戻ってから乗り込んだ釧路行き夜行急行列車「まりも」では、稚内からの列車がぎりぎりの到着だったために、とっくに入線して扉を開けている自由席車両に足を踏み入れてみると、大層ごった返していた。
座席はほぼ埋まっているようで、通路をうろうろしている客も多く、あいている席を捜しているのか、網棚に荷物を上げたりしているのかも判然としない。
隣りの車両が豪華な新型シートを備えた指定席「ドリームカー」であるのを見て取った僕は、差額を支払ってもいいから乗ってみたいと思い、通りがかった車掌さんに申し出た。
 
「周遊券を持ってるの?勿体ないよ。自由席はまだあいてるよ」
 
と、親切心なのか、周遊券の客なんぞに貴重な収入源の新型座席を使われたくなかったのか、わざわざ自由席に連れ戻されて、結局は通路側の席で隣りの客と詰め合いながら一夜を過ごす羽目になった。
それでも、翌朝に釧路から根室までの普通列車へと乗り継ぎ、更に路線バスで足を伸ばした納沙布岬の魅力が減じるということはなく、逆に、苦労して遥々来たという感慨は格別だった。
 
 
このように「まりも」の車中の記憶は30年後の今でも鮮やかなのだが、「利尻」の記憶がそれほど残っていないのは、それほど苦労せずに窓際席を確保でき、大した混み様ではなかったのかもしれない。
 
この列車に乗っていれば、いよいよ未踏の道北に行けるのだ、という興奮が抑え切れず、発車してからしばらくは、真っ暗な窓外を時たま過ぎ去る灯りに目を向け、列車がひた走る石狩平野の広大さを感じ取るだけでも楽しかった。
夜行であるから景色を見ることは無理であるけれど、札幌から稚内まで396.2km、東海道本線に置き換えれば東京と岐阜の間に匹敵する距離である。
北海道は広いなあ、道内だけで夜行列車が走ってしまうのだから、などと改めて驚嘆の念が湧いてきて、「利尻」に乗っているだけで、憧れていた北の大地を旅している喜びは充分に湧いてくる。
 
さすがに2晩目の夜行で疲れも溜まっていたのか、いつの間にかリズミカルなレールの響きを夢枕にぐっすりと眠り込んでしまい、0時17分発の旭川のことを全く覚えていない。
 
 
目を覚ますと、「利尻」は高い海蝕崖の上から日本海を一望する場所を走っていた。
旭川から名寄、美深、音威子府と、北見山地と天塩山地に挟まれた中央盆地列の山中をたどってきた宗谷本線が、海と出会うのは、抜海駅を過ぎたあたりからである。
風に揺れる緑の草原の向こうの真っ青な海に、利尻島が浮かんでいる。
見るからに雄大かつ爽やかな光景で、思わず窓を開けたくなるが、まだ周囲の乗客は眠りの中にあり、かろうじて思い止まった。
 
抜海は終点の稚内から2つ手前の駅である。
ついに最果てまで来たな、と思う。
 
抜海駅は、後に、社会人になってから痛烈な思い出を僕に残すことになる。
複数の同僚や先輩と申し合わせて万歩計を購入したのだが、携帯ゲーム形式の機械で、日本を縦断する6路線653駅が登場、歩いた歩数を列車の移動距離に換算して、宗谷本線から鹿児島本線まで日本縦断を目指すというものであった。
平成8年に登場した人気ゲーム「電車でGO!」をベースにした万歩計で、名称は「電車でPO!」だったと思う。
みんなで事あるごとに集まっては、
 
「もう○○駅まで来たぞ」
 
などと自慢し合っていたものだったが、僕は稚内から2.7kmの南稚内駅は簡単に走破したものの、南稚内から11.7kmの抜海駅になかなか到達せず、そのまま装着するのをやめてしまった。
初っぱなから12km近くも駅間距離があることが悪いのだ、山手線ならばもっとやる気が持続したはず、などと言い訳は幾らでも浮かぶのだけれど、今でも抜海の名を目にすれば、3日坊主のヘタレだった自分のことを思い出して、何だか情けない心持ちに陥ってしまうのである。
同僚もいつの間にか「電車でPO!」のことを口にしなくなり、北海道を抜け出した人がいたのかどうかも定かではない。
 
 
「日本最北端 稚内驛」という看板が壁に掲げられた稚内駅からは、8時10分発の大岬行きの宗谷バスで宗谷岬を往復した。
なだらかな丘陵地帯を1時間ほどバスに揺られてたどり着いた日本最北端の地は、あっけらかんと明るく、多くの観光客がたむろしている。
 
30年も前のことであるから、僕の記憶は、翌日に夜行急行「まりも」から釧路で普通列車に乗り換え、根室から路線バスで訪れた最東端の納沙布岬と対で心に刻まれている。
北方領土返還を訴える看板が林立する納沙布岬の重苦しい雰囲気とは対照的に、宗谷岬は、何のしがらみも感じられない無邪気な観光地として思い出されるのだ。
 
 
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス咲いて カモメも鳴いて
はるか沖行く 外国船の
煙も嬉し 宗谷の岬
 
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
吹雪が晴れて 凍れがゆるみ
渚の貝も 眠りが覚めた
人の心の 扉を開き
海鳴り響く 宗谷の岬
 
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
幸せ求め 最果ての地に
それぞれ人は 明日を祈る
波もピリカも 子守のように
想い出残る 宗谷の岬
 
流氷とけて 春風吹いて
ハマナス揺れる 宗谷の岬
 
昭和49年に稚内に住む吉田弘が「宗谷岬」を作詞するにあたって、
 
「歌にありがちな嘘はやめよう。地元の人の感情を逆なでしては息の長い歌にならない」
 
と意図し、曲を付けた船村徹も、宗谷岬を幾度も訪れたという。
どうやら作詞家の念頭には、同じ年に岡本おさみが作詞し吉田拓郎が作曲した「襟裳岬」で、「何もない春です」の歌詞が、地元の人々の疳に障ったと伝えられた件があったらしく、ひたすら明るく最果ての旅情を歌い上げているのだが、実際に訪れてみれば、その感覚はよく理解できる。
 
 
稚内駅に戻った僕は、周遊券の範疇から外れて別料金が必要になるけれども、この旅の3か月前の平成元年5月に廃止されたばかりの天北線代替バスで、音威子府まで戻ってみようと思い立った。
 
天北線の歴史は、音威子府と小頓別の間が開業した大正3年まで遡る。
大正5年に中頓別、大正7年に浜頓別、大正8年に浅茅野、大正9年に鬼志別と小刻みに延伸を重ね、稚内に達する初めての鉄道として、宗谷本線の名で149.9kmに及ぶ全線が開通したのは、大正11年のことである。
当時は我が国が統治していた南樺太への連絡鉄道としても活躍し、稚内から樺太南端の大泊まで稚泊航路も運航されていた。
大正15年に距離の短い幌延経由の線路が開通すると、宗谷本線の名をそちらに譲り、天北線と改称されている。
 
天北線の名は北見と天塩を結ぶという意味と聞いているが、如何にも北の果て、言わば日本のてっぺんを行くような響きに、強く心を惹かれていた。
この旅の直前に廃止されてしまったのは誠に残念なことだったけれど、せめて代替バスでその跡をたどってみたくなった。
 
 
天北線転換バスは駅前ロータリーを北に外れた宗谷バスターミナルから出て、次の発車は11時30分である。
宗谷岬まで往復したバスと同じ乗り場なのだが、初めての町でバス乗り場を探すのはなかなか至難の技であることも多い。
僕は駅員さんに聞いてそれほど迷うこともなく宗谷岬行きのバスに乗ることが出来たし、大して離れてもいないのだけれど、宗谷岬からのバスを降りても駅舎に戻ることなく、そのままバスターミナルの窓口で周遊券とは別料金で音威子府までの切符を購入すると、天北線はJRの全国ネットワークから外れてしまったのだな、と痛感する。
 
昭和60年に国鉄再建法が成立すると、第2次特定地方交通線として天北線は廃止対象に指定されたものの、冬季の代替輸送に問題があるとして、北海道内では名寄本線、池北線、標津線とともに、廃止の承認がいったん見送られた経緯がある。
本州でも飯山線や只見線など同様の理由で廃止を免れた例があるが、天北線は、国鉄分割民営化後の平成元年に全線が廃止された。
 
無論、反対運動が起きたのであろうし、沿線町村が対策協議会を何回も開催した記録も残されており、音威子府以北の区間だけで比較すれば、宗谷本線幌延ルートよりも利用率が高いという数字も示されたらしい。
稚内と札幌を天北線経由の急行列車「天北」も運行される重要線区に見えたのだが、片や宗谷本線は稚内から旭川までの利用者数がカウントされ、天北線は南稚内と音威子府の間だけで乗降客が評価されたことで、まさに路線名称が命運を決したのであり、しかも松前線のように大々的な議論として取り上げられることもなく、呆気なく舞台から消えてしまった印象がある。
 
 
稚内駅は、北へ突き出したノシャップ岬の半ばに設けられた行き止まりの駅で、かつての天北線は、岬の袂にある南稚内駅で宗谷本線から分岐していた。
天北線転換バスは、雑然とした町なかを貫く交通量が多い大通りを走り抜けて、南稚内駅前に立ち寄り、幾許かの客を加えてから、潮見の三差路で国道238号線に左折する。
 
宗谷湾に沿って宗谷岬を回る国道238号線は、先程路線バスで往復した道であるが、天北線転換バスは、声問駅と稚内空港を過ぎると、道道1077号線稚内猿払線に右折して、内陸の宗谷丘陵へと足を踏み入れていく。
 
声問駅については、レールウェイライター種村直樹氏が、
 
『声問の駅名から想い浮かべるのは、誰もいない駅前で人恋しくなり、おーいと呼びかけたくなるような感触だ。声を出して自分の存在を確かめたくなるのだが、空しく響いて、誰も答えない(「駅を旅する」より)』
 
と記し、その優しげな駅名には僕も強く心を惹かれるのであるが、アイヌ語で川が崩れる所を意味するコイ・ツェ・イが起源で、声問川が河口で大波によって決壊を繰り返したことを示す地名であるという。
 
 
宗谷丘陵は標高が20~400mと比較的なだらかな地形で、深い谷も見当たらず、道路もそれほど曲がりくねってはいないけれど、北から南へ行くにつれて徐々に高度が上がり、ふと気づけば、白樺やエゾマツが山肌を覆っている他には何もない、人跡稀な地域に入り込んでいる。
真夏と言うのに、どこか寒々とした車窓は、本州であれば標高1000m以上の高原を走っているかのようである。
 
声問から鬼志別まで、天北線には恵北、樺岡、沼川、曲淵、小石の5駅が設けられていたが、道道1077号線が路線跡から離れていて転換バスが駅前までは入らなかったのか、この区間で廃駅を目にした記憶がすっぽり抜けている。
駅どころか人家すら見当たらず、白樺が生い繁っていることから名づけられた樺岡、沼と川が多いことによる沼川、あたりを流れる川が曲がりくねっていることから名づけられた曲淵など、旧駅名から付近の地形の様相が分かる一方で、和名ばかりで、アイヌ人すらこの地域には足跡を記さなかったのかも知れない、と思う。
曲淵駅と小石駅の間は天北線で17.7km、我が国の鉄道で最も駅間距離の長い区間であった。
猿払村北端の集落があるオホーツク海沿岸の小石駅の由来が、付近に小石の多い浜があったから、などと聞けば、地名は地形から名づけられることが多いとは言え、あまりの素っ気なさに苦笑してしまう。
 
数ヶ月前までは、急行「天北」が1時間もの無停車で走り抜けていた南稚内と鬼志別の間を、バスは各駅停車よりも遅い1時間半をかけている現状は、鉄道よりも不便になったと考えるべきなのか、なかなか健闘していると言うべきか。
 
 
稚内から50kmを走破して頓別原野に出ると、景観は一変して山並みが彼方に後退し、緑一色に染まって緩やかに起伏を描く広大な平原になる。
ところどころで牛がのんびりと草を食んでいる姿も見掛けたが、牧草地帯なのか湿原なのか定かではない場所も少なくない。
 
このあたりから、バスは鉄道転換路線らしさを取り戻して、小まめにかつての駅を克明に辿り始める。
建物の間隔は開いているし、目立って高いビルがある訳でもなく、アメリカ西部の開拓村を想い起こさせる荒削りな佇まいであるけれど、鬼志別や浜頓別、中頓別、小頓別といったかつての急行停車駅では、小ぶりながらも周辺に町並みが形成され、鉄道時代の駅舎跡がバスターミナルとして堂々たる建物に造り替えられて、未だに町の中心を成している。
バス転換後になって、ターミナルの新築にこれだけ力を注いでいる廃線跡も珍しい。
 
 
鬼志別で5分程度のトイレ休憩となったので、三角屋根のバスターミナルに入ってみると、在りし日の天北線の写真や駅名標、時刻表や切符などが所狭しと乱雑に並べられた資料館となっている。
この地域の開拓に鉄道が果たしてきた役割の大きさが改めて実感されるとともに、鉄路を失った住民の無念が感じられるような気がして、胸が締めつけられる。
 
国鉄の分割民営化を推進する当時の内閣を、僕らは総選挙で大勝させたのであるが、その結果、1つの地域を切り捨てることに繋がったのではないだろうか、と心が沈む。
国鉄の膨大な赤字を解消すると言われれば聞こえが良いけれど、採算が合わない路線の大半は人口の少ない過疎地にある訳で、多数決の全国選挙となれば地方が不利になるのは目に見えている。
多数決で得られた結論から洩れてしまう人々に配慮するのが、政治というものだと思うのだが。
 
 
芦の原っぱの河口を意味するアイヌ語のサル・ブッが起源の猿払駅や、芦が原生していることから名づけられた和名の芦野駅、そして背の低い茅しか生えない泥炭地であることを示す浅茅野駅では、荒れ放題の草むらの向こうに、閉ざされた木造駅舎が顔を覗かせている。
 
このような蕭々とした荒蕪地に生きることには想像を絶する厳しさがあると思うのだが、猿払村は古くから海外にも輸出するホタテの好漁場で、近代には天北炭田と林業、酪農も加わって大いに栄えた歴史を持つ。
ところが、戦後になって炭鉱が相次いで閉鎖され、林業も衰退、ホタテ漁も乱獲のために先細りとなって、「貧乏見たけりゃ猿払へ行け」と陰口を叩かれるほど、住民の生活は困窮を極めたという。
昭和40年代に村の存亡をかけて巨額を投じ、ホタテの稚貝の放流事業を開始、計画的な放流と徹底した資源管理により、我が国随一のホタテの水揚げを誇るまでになったのである。
 
鬼志別の地名は、河口に樹木が原生している川を意味するアイヌ語のオ・ニ・ウシ・ペッが起源と言われているが、河口が豊漁である川を意味するオ・ヌ・ウシ・ペッという説もあるという。
 
 
稚内から100km近くを隔てた浜頓別は、天北線の中心を成す駅で、瀟洒なバスターミナルでの乗降も多い。
浜頓別駅から45.8km先の小頓別駅まで、下頓別、中頓別、上頓別と頓別の名を冠した駅が点在している。
そもそも、全長148.9kmという天北線沿線に、起終点の稚内市と音威子府村を除けば、猿払村、浜頓別町、中頓別町の3つの自治体しかなく、北側3分の1が猿払村、残りの3分の2は、後に浜頓別と中頓別に分割された旧頓別村という大雑把な区分けになっていて、改めて人口の希薄さが実感される。
 
急行「天北」でも走り抜けるのに1時間弱を要していた広大な頓別地域は、アイヌ語で沼に行く川を意味するト・ウン・ペッから名づけられた頓別川の流域にあたり、ヤマメ、マス、サケが豊富に釣れると聞く。
この町は海岸から発展したようで、天北線と浜頓別駅で南へ分岐し、海沿いに北見枝幸駅まで伸びていた興浜北線の頓別駅が、頓別川の河口に置かれ、かつては町の中心だったと言われているのだが、興浜北線も昭和60年に呆気なく廃止されてしまった。
 
 
浜頓別を過ぎると、右手の生い繁る背の高い葦の合間に、クッチャロ湖の青い水面が覗く。
アイヌ語で沼の水が流れ出る口という意味のクッ・チャラが語源で、日本最大のカルデラ湖である道東の屈斜路湖と同じである。
ただ、こちらは漢字を当てはめて貰えず、その方が雰囲気があるような気もするけれど、猿払村の小石と同じく何やら投げやりな印象がするのは否めない。
クッチャロ湖は仁達内川の河口が砂州によって海と隔てられた海跡湖で、頓別平野にはポロ沼、モケウニ沼など、砂州で閉塞された海跡湖が並んでいるが、明らかな湖岸が形成されているようにも見えず、湿原と湖の境はよく分からない。
それでも、緑一色の原野に飽きた頃に、宝石のように真っ青な湖面を目にすれば、心が洗われるような思いになる。
ここは我が国最大のコハクチョウの生息地とされているが、夏は大陸で過ごし、冬にならないと渡って来ない鳥だから、真夏の今は白鳥の姿を目にすることは出来ない。
 
バスは、湖や沼と海の間の砂洲に伸びる国道を坦々と走る。
クッチャロ湖を過ぎると頓別原野も南の端に近づき、天北線の跡をたどる代替バスの行程も3分の2を過ぎたことになる。
鉄道より20分ほど余計に時間を費やして頓別原野を縦断し終えた天北線転換バスは、眠ったような車窓が続いた穏やかな地勢のオホーツク海沿岸から離れ、内陸に向けての山越えに差し掛かる。
頓別川の中流になることから名づけられた中頓別駅を過ぎ、小頓別駅まで来ると、車窓はすっかり山あいの様相を帯びている。
 
 
浜と上中下、小と連なる5つの頓別駅の合間に、松音知、敏音知という、どこか気になる名前の駅が隣り合っている。
松音知はアイヌ語で女性の山を意味するマツネ・シリ、敏音知は男性の山を意味するビンネ・シリから名づけられ、それぞれの駅の背後にそびえる山が、松音知岳は丸みを帯びた緩やかな山容であるのに対し、敏音知岳は山頂が鋭く尖った猛々しい容姿を見せている。
 
小頓別駅は、枝幸に向かっていた歌登村営軌道の起点であった。
天北線の計画段階では、枝幸を経由する経路も候補に挙がっていたのであるが、結局は音威子府から浜頓別まで直線的に抜けてしまう。
その代わりとして、小頓別で分岐し、明治期に砂金が採取された歌登村を経て枝幸に達する簡易軌道が建設されたのは、昭和5年のことである。
北海道に数多く施設された簡易軌道の中でも規模が大きく、全国版の時刻表にも掲載されたこともあり、僕も幼少時に小型の武骨な機関車に繋がる貨物列車や、ガソリンカーの写真を目にしたことがあるのだが、最後まで馬が牽く列車も残されていたという。
 
当時、宗谷本線の美深駅から興浜北線の北見枝幸駅まで建設されていた国鉄美幸線と一部区間が重複することから、軌道を撤去して建設用地に充てるよう鉄道建設公団に要求されたことで、昭和46年に全廃に踏み切り、バスやトラック輸送に置き換えられた。
ところが、美幸線も日本一の赤字線として知られる有様となり、仁宇布駅止まりで枝幸に達しないまま未成線で終わったという、どこかやるせない最期を迎えたのである。
 
 
小頓別を過ぎると、にわかに沿道の山が深くなり、陽射しを遮って鬱蒼と林立する木々の梢が、櫛の歯を引くように流れ過ぎていく車窓に、眼がチカチカする。
なかなかの山道ではあるけれど、バスの速度は衰えず、果敢な走りっぷりである。
中頓別を出てからは乗り降りが全くないままに、バスが終点の音威子府駅前に到着したのは、定刻15時28分であった。
 
稚内から4時間のバス旅は、鉄道ならば急行で2時間半、各駅停車でも3時間半であったことを考えれば、大幅な退歩ととらえられても仕方がない。
交通機関とは、日々スピードアップの歴史を重ねて発展すべきもの、という既成概念がある者としては、忸怩たる思いをどうしても捨て切れない。
 
実際、天北線代替バスの収支は、その後年々悪化し、年間利用者数が平成12年に26万人であったところが、平成24年には15万8000人と、40%近い減少を来した。
これは天北線に限らず、全国の廃止路線代替バスに共通の現象で、バス転換した路線は鉄道時代に比して利用客が大幅に減少する傾向があると、何かの文献で読んだことがある。
鉄道が存続されていても同様の結果であったのかも知れないが、所要時間が延びたバスを、地元の人々は代替交通機関と認めず、移動手段を自家用車などに変更してしまったのだろうか。
 
平成13年に、声問と鬼志別の間が従来の鉄道ルートから外れた宗谷岬経由に切り替えられ、小石と鬼志別の間には猿払村がデマンド自動車を運行、また声問と曲淵の間は宗谷バスの路線が存続しているものの、曲淵と小石の間は公共交通機関が皆無になった。
一時は中頓別と音威子府の間も廃止して乗合タクシーへ転換する計画が持ち上がったものの、沿線自治体の負担額が現在より増える見込みと試算されたために見送られた推移もある。
 
 
北海道を走る路線バスの多くは国や道、市町村からの補助金で維持しているのが実状で、路線距離が計7600kmにも及ぶ167路線に対し、27億3100万円が交付されているという。
国の財政難を背景に、平成29年に国土交通省が赤字バス路線に対する補助金の削減を検討し、日本バス協会などの反対によっていったん白紙に戻されてはいるものの、同省はバス事業者に徹底した収支改善を要求している。
鉄道代替路線でありながら、広尾線や留萌線の代替バスのように病院やショッピングセンターを経由する例も現れ、天北線転換バスの宗谷岬への経路変更も、鉄道跡に拘らず、観光客を取り込むためと言われている。
 
しかし、事は、バス事業者や地元自治体だけの努力で解決するとは到底思えない。
既に天北線沿線には消滅集落が少なからず見受けられており、このままでは地域に住む人間がいなくなってしまうのではないか。
土地を守り育てていく人間が消えた地域が増えていく傾向を無視して、僕らの国は国土を守っていけるのだろうか。
地方の格差や住民の高齢化という我が国が抱える問題をどのように乗り越えていくのか、総合的な見地に基づいた大胆な施策を打ち出さない限り、瀕死の状態にある過疎地が蘇ることはないだろう。
 
 
音威子府駅は、山あいの広々とした原野に設けられた小駅である。
麺が黒々とした名物の駅蕎麦に舌鼓を打ち、ホームに佇んでいると、草原の彼方にポツリと列車の姿が点のように小さく現れ、カタカタとかすかにレールを震わせながらゆっくりと近づいてくる様は、如何にも北海道らしい大らかな光景である。
 
『私は音威子府の駅名標を眺めたりして時を過ごした。
この駅を通るのは今回で4度目だが、ここの駅名標を見ていると、北海道にいるのだという実感が湧いてくる。
オトイネップはアイヌ語で「川口の汚れているところ」の意味だというが、長万部、倶知安など、北海道旅行を楽しくしてくれる地名は、アイヌ語の発音に忠実に当て字をしたものが多い。
オペレペレケプを帯広などとせず、尾辺礼辺礼毛布とでもしてくれていたら、私だって入場券の5枚くらいは買うだろう(「時刻表2万キロ」より)』
 
と記した紀行作家宮脇俊三氏の一節を読んで、吹き出したことを思い出す。
 
 
札幌行きの宗谷本線上り急行「宗谷」の座席は、どこかのお古かもしれないけれど、ふかふかのリクライニングシートが配されていた。
配置が窓と多少ずれていることが若干の難点であったものの、背もたれはきちんと固定できるし、固いボックス席を予想していた僕としては嬉しい驚きだった。
今回の旅で最も豪華な座席であり、これで何時間かを過ごせるのはまさに至福である。
 
 
黄昏の宗谷本線を南下する「宗谷」の座席にぬくぬくと収まりながらも、脳裏に蘇るのは、如何にも最果ての地に相応しい、日本離れした車窓を堪能した天北線転換バスの心地よい余韻である。
素敵なバス旅をさせてもらったと思う。
 
ただし、かつて急行列車が運行されていた線区とは信じられないほどの、寂莫とした車窓を改めて思い起こせば、鉄路を失ったこの地域はこれからどうなってしまうのだろうと、暗澹たる気分が込み上げてくるのを、どうすることも出来なかった。
 
 

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