北海道の廃線の息吹を伝える代替バスの旅 第7章 江差線 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

函館七重浜フェリーターミナルに降り立つと、冷たく乾いた風が容赦なく僕の頬を叩いた。
どんよりとした雲が低く垂れ込め、今にも泣き出しそうな空模様が、紛れもなく冬の北国であることを示しているが、ずっと憧れていた旅に出て来たと言うのに、今、北海道の地を踏み締めているという実感がまるで湧き上がって来ないことには弱ってしまう。


前の夜に東京駅を発った青森行き夜行高速バス「ラ・フォーレ」号で一気に深夜の東北自動車道を走破し、東日本フェリーの「べにりあ」で津軽海峡を渡ってきた。
夜行列車や青函連絡船が姿を消してから、この行程が最も北海道へ向かう旅情を演出してくれるはず、と期待していたのだけれど、夜行急行列車の硬い座席より遥かに乗り心地の良い夜行高速バスでひたすら眠りを貪り、目覚めたら青森、という感覚だったから、長旅をしたという実感に乏しいことをしばしば経験する。

兎にも角にも北海道へやって来たのだ、と自分に言い聞かせながらシャトルバスに乗り込み、行き交う車のスパイクタイヤが削り取った埃を巻き上げ、路面電車と競争しながら函館駅前に到着したのは、午前11時半頃であった。


平成3年のクリスマスも近い週末に出掛けてきた今回の旅は、北海道の長距離高速バスを縦横に乗りまくりながら、車中4泊を含む足かけ5日間を費やして、稚内や根室、網走まで足を伸ばそうという、僕にとって初めての、バスに拘った大旅行の幕開けであった。


ところが、北海道にはもともと長距離バスが比較的発達していたとは言え、当時は、旅の鳥羽口に当たる函館から札幌へ向かう長距離バスが、当時、函館駅前23時55分発の「オーロラ」号夜行便1往復だけという時代である。
「高速はこだて」号が昼夜を問わず何往復も運転されている現在では、想像もつかない状況であろう。
長万部や洞爺湖で乗り継げば日中の路線バスでも札幌へ行けないこともないのだが、季節運行であったり、接続が悪かったりして、結局は函館で12時間以上を持て余すことになった。


函館は、幕末に横浜、長崎と共に三大開港場として開かれ、長く北海道の玄関として発展して来た歴史上の経緯がある。
一方で、15~16世紀における北海道開拓の黎明期に、和人がアイヌの人々と様々な関わりを持ちながら住みついたのは、日本海に面した渡島半島西岸の松前と江差だった。

松前は以前に行ったことがあるので、この日は時間潰しに江差行きの路線バスに乗ってみようと思い立った。
函館と江差の間を直行する路線バスは函館バスの担当で、戦前から運行されていた伝統路線であり、当時は1日6往復が運転されている。
時刻表をめくると、運良く12時23分発の便があるではないか。
僕は手早く駅で昼食を済ませて、駅前の小さな発券所で江差までの乗車券を購入した。


定刻に乗り場に横付けされたバスは前扉だけの観光車タイプで、補助席も含めれば70名は乗れそうなキャパシティの大きい、言い換えれば窮屈な座席構造である。
しかし、各駅停車の路線バスとしては豪勢な部類に入るのかも知れず、最前列右側の2席の座面が外されて荷物置き場として利用されているのが物珍しかった。

この路線の始発は駅から10分ほど離れた函館バスのターミナルで、そこから乗ってきた人を含めて、函館駅を発車する時点での乗客数は50人もいたであろうか、補助席を除けばほぼ満席の盛況である。
病院や買い物帰りと覚しきおばさんやおばあさんが多く、停留所を告げる放送が聞こえないほどの賑やかさで、よそ者には少しばかり居心地の悪いローカルバスの雰囲気を味わいながら、しばらくは肩をすくめて過ごすことになった。


函館駅の北に位置する函館本線五稜郭駅で分岐する鉄道の江差線は、海岸に沿って木古内を経由した後に、渡島半島を横断して江差へと北上する大回りの経路を取っているが、バスは、ほぼ真っ直ぐ西へ向かう国道227号線を使っている。
こまめに停留所に停まって行くうちに、いつしか市街地を抜け、山々が正面に近づいてくる。
函館平野が尽きる大野町で、乗客の半数以上が下車してしまった。
大野町は、1692年に北海道で初めて米作が行われた水田発祥の地であるという。

バスは、大野川に沿って曲がりくねった山道を登り始める。
山肌は色褪せた針葉を残したエゾマツやトドマツの木立で覆われ、暗い曇り空と相まって、墨彩画のような寒々とした光景であるが、雪は全く見られない。
北海道に来さえすれば雪が拝めると思っていたから、拍子抜けしてしまう。

ところが、長さ740mの中山トンネルで中山峠を越え、厚沢部町に足を踏み入れた途端に、道端や木々の根元が白く染まり始めた。
路肩を示す赤白のポールや標識が、積雪に備えて2m以上もの高さになっていて、ここも雪深い土地なのだな、と思う。


路面が凍結していないのか、と緊張させられる車窓の変化であるけれど、バスの走りは快調で、峠をひと息に駆け下った後に、小さな集落に置かれた鶉バス停でひと息つくように停車した。
客を降ろした後も、バスが動く気配がない。

「時間調整のためしばらく停車します」

と、初老の運転手さんが素っ気なくアナウンスして、身じろぎもせず、背筋をぴん、と伸ばしたまま、ハンドルからも手を離さずに前方を見つめている。
北海道のバスは運行ダイヤに余裕があり、道路がとても良い場所でも時速30~40km程度でのんびりと走るため、もどかしく感じることもある、と何かで読んだことを思い出す。
その本に登場した路線バスでは、運転手さんがひっきりなしに時間調整を行いながら、

「しばらく停まります。ゆっくり走っているんですが、どうしても時間が余っちゃうんですよ」

と、乗客の笑いを誘った描写があったように記憶している。

そのうちに感覚が麻痺してしまうのか、そのゆったり加減が、とろんとした良い心持ちに変わる。
前日まで慌ただしい東京の日常の中にいたことが、彼岸のことに思えてくる。


バスは、厚沢部川に沿ったなだらかな丘陵地帯に入っていく。
厚沢部町は地味が肥沃で、農耕と牧畜が盛んなところであると聞く。

江差から水堀、乙部、旭岱、熊石、大成、富磯と海岸線の町を結ぶ路線バス「檜山海岸線」や、江差から小黒部、稲美、館を経由して厚沢部、鶉、富塚に向かう「稲美・館線」が集まる東急ボールバス停では、残っていた乗客の殆どが降りてしまい、車内には2~3人が残っているだけとなった。
意外と江差への直通客は少ない。
函館バスの時刻表を開いてみると、「檜山海岸線」は10分程度の待ち合わせでバスがやって来るが、「稲美・館線」は1時間半以上も時刻が開いている。


函館バスの「檜山海岸線」と言えば、昭和37年10月17日に熊石発江差行きの路線バスが巻き込まれた悲惨な事故を思い出す。
バスが熊石町から乙部町に入って間もなくの豊浜4号トンネルを通過して、豊浜3号トンネル付近に差し掛かったところで落石を発見、運転手が最寄りの停留所まで後退を始めたところで土石流が発生して、車両もろとも海中に転落、運転手と車掌は生還したものの6歳の女児を含む乗客11名が犠牲となり、3名が行方不明、重軽傷者14名という大惨事となり、転落した車両も引き上げられないままとなったのである。
後に、この区間には豊浜トンネルが新たに山側に掘られて、事故が起きた旧道は廃道となった。


豊浜トンネルの名は、北海道後志地方の余市町と古平町を結ぶ国道229号線の同名のトンネルの方が知られているかも知れない。
平成8年2月10日の午前8時10分頃、古平側の坑口付近において高さ70m、幅50m、厚さ13m・重量2万7000tもの岩盤が崩落し、走行中だった北海道中央バス余別発小樽行き路線バスと乗用車2台が直撃を受け、20名が死亡するという事故が起きている。
トンネル内の現場は多数の瓦礫に塞がれ、巨大な岩盤を除去しない限りは再崩落の危険があり、内部での救助作業が困難であったため、発破により岩盤を海側へ滑らせて除去する方法がとられたのだが、内部で人が生存している可能性のため爆薬の量が制限され、4日間に渡る4回の発破作業の末、ようやく岩盤を除去することができた。
しかし、バスは3mの車高が1mにまで押し潰され、犠牲者全員が即死状態であったと考えられている。

奇しくも、北海道西岸の国道229号線にある2つの豊浜トンネルにおいて、いずれも路線バスが巻き込まれた災害が発生し、特に古平の場合は、湧出した地下水が厳冬期に凍結し、岩盤の亀裂を徐々に大きくなったことが原因と見られていることから、この地で生きていくことの厳しさを改めて痛感する。


現在の時刻表を見ると、東急ボール停留所は、柳崎と名を変えたようである。
当時も、このような辺鄙な場所にボウリング場があるのか、と周囲を見回したものだったが、その後、なくなってしまったのだろうか。

僕は人に誘われればたまに遊ぶ程度であって、大して上手くもないのだけれど、昭和40年代のボウリング最盛期をかろうじて覚えている世代である。
ボウリングの発祥は、倒すピンを災いや悪魔に見立てて、沢山倒すことが出来たならば災いから逃れることが出来るという、一種の宗教儀式であったと言われている。
紀元前5000年頃には、古代エジプトにおいて木でできたボールとピンによるボウリングに似たような遊戯があったいうから、歴史はとんでもなく古い。
倒すピンの数や並べ方が地域によって様々であったものを、中世ドイツの宗教家として知られるマルティン・ルターが、倒すピンを9本、並べ方を菱形にして基本的なルールを統一し、宗教家の間で人気が出たことが、近代ボウリングの原型になったらしい。
17世紀になると多数の清教徒が移住したことで、アメリカでもボウリングが盛んになったが、ピンが9本のナインピン・ボウリングは、西部開拓時代に賭け事に利用されたことで禁止となり、反発した有志がピンを1本足したことで、現在のスタイルが確立されたと言う。

なお、ボウリングをすることを意味するbowlという英語は、ラテン語で泡や瘤を意味するbullaに由来すると言われ、同じ綴りで食器や容器のボウルを意味するbowlや、球を意味するballはゲルマン語が由来で、異なる単語とされている。


我が国におけるボウリング事始めは、幕末の文久元年に、長崎の大浦居留地に初のボウリング場が開設されたことに遡り、武器商人のグラバーと交流があった坂本龍馬あたりが日本人初のボウリングプレイヤーかもしれないとの説もある。
昭和27年に、本格的な民間ボウリング場である東京ボウリングセンターが、港区青山の外苑前に開業する。
昭和40年代になるとボウリング場が数百メートルごとに立ち並ぶほどのブームが到来し、国内のボウリング場は3600ヶ所を超える程の隆盛を極めたのであるが、ブームが過ぎ去るのもあっという間で、現在は800ヶ所程度にまで減っている。

あまり経験のない人でも男女を問わず参加できる、手軽な集団レクリエーションとして浸透しているのは今でも変わらないと思うのだが、函館からバスで1時間半もかかる渡島半島の奥地にも、ボウリング場が出来る程のブームがあったのだな、と思う。
松前から東急ボール行きの路線バスを写した古い写真を目にしたことがあるのだが、渡島半島全域からここに人々が遊びに来た時代もあったのだろう。
ポロシャツにミニスカート姿の女性プロ選手が活躍するボウリングの定期番組を、子供の頃に観た記憶も懐かしい。


伏木戸バス停の手前で、不意に、眼前いっぱいの日本海が広がった。
晴れていれば彼方に奥尻島が望めるのであろうが、この日は、見渡す限り白い波頭と分厚い雲だけの海原である。
なだらかな弧を描く海岸線に砂浜は殆ど見られず、波打ち際まで岩や樹木帯が迫る荒磯が続く。
海中からごつごつした奇岩がそそり立っている場所もある。

国道229号線と合流して海岸線に出たバスは、南へと針路を変える。
このあたりから、乗客がぼちぼちと乗り始めた。


江差町は、かつて「江差の5月は江戸にもない」と歌われたほどのニシン漁の千石場所だったという。
その歴史は、1454年に甲斐武田氏の一族がアイヌと闘いながらこの地に移り住み、松前文化の基礎を形づくっていった頃に始まる。

バスの車窓に映る江差の町並みは、厳しい冬の到来にじっと耐えている寂しい漁村にしか見えず、往年の賑わいは微塵も感じられない。
人通りが少なくひっそりとした町なかを通り抜け、少し外れに設けられた函館バス江差ターミナルにバスが滑り込んだのは、定刻14時20分であった。


江差にこれといって用事があって来た訳ではない。
バスの窓から、ひっそりと眠っているような町並みを見ることが出来ただけで満足である。

帰路を同じバスで折り返すのも芸がないので、鉄道を使ってみようと思う。
江差線の末端部である江差と木古内の間は、初めて乗車する路線である。
この時間ならば、往路で通った国道227号線とは異なる景色の車窓を、じっくりと楽しめることだろう。

ところが、江差駅まで歩いてみると、昼下がりの駅は閑散としていて、列車が発車する気配など微塵も感じられない。
次の列車は16時43分に発車する木古内行き337Dで、その前は13時18分発の325Dという、とんでもなく間延びしたダイヤである。
2時間以上も江差の町で何をしていたのか、その記憶は残っていない。
列車が発車した頃合いには、短い冬の日がすっかり暮れなずんでいて、間もなく、窓は深い闇の他に何も映さなくなってしまったことだけは覚えている。


夜の旅ならば、列車よりもバスの方が格段に面白い。
運転手さんの運転ぶりを眺めたり、ヘッドライトに照らし出される範囲でそれなりの光景が見えるために、夜でも飽きることは滅多にない。
列車の場合は、車内の照明はバスより明るいけれども、暗い窓に映る閑散とした座席や自分の姿を寂しく眺めながら、黙然と揺れに身を任せるしかない。
往路と復路を逆にすれば良かったか、と後悔の念が湧いてくる。

ただし、闇の中を走るバスは、どこか行先不明の観があって、きちんと目的地に連れて行ってくれるのだろうか、という心細さが込み上げてくることがある。
その点、鉄路は、どのような僻地を走る閑散線区でも、進路が定まっている安心感は桁違いである。


上ノ国、中須田、桂岡、宮越、湯ノ岱、神明、吉堀、渡島鶴岡──

順々に列車が停車していく駅で、客の乗り降りは全く見受けられない。
夕方の時間帯であるから、函館からの下り列車にはもう少し人が乗っているのかも知れないが、ゴトリ、と単行のディーゼルカーが停まっても、意味もなく扉が開け閉めされて、冷たく湿り気の多い風が吹き込んでくるだけである。
ホームの灯りも薄暗く、駅名標がぼんやりと浮かび上がって、列車が何処まで進んできたのか教えてくれることのみが目的のように思えてくる。
さすがに人恋しくなって、北海道と本州を結ぶ特急列車や貨物列車が行き交う表街道の津軽海峡線に合流するまで、あと何駅なのか、と指折り数えるだけの江差線の車内だった。

江差と木古内の間における1km当たりの1日平均利用客数を示す輸送密度は、昭和62年度が253人、平成23年度は6分の1以下の41人へと激減し、JR北海道の管内で乗降客が最も少ない区間に落ちぶれてしまう。
木古内で江差線から分岐し、渡島半島の南岸に沿って松前まで敷かれていた松前線は、昭和63年3月の青函トンネルが開通する1ヶ月前に、呆気なく廃止されてしまった。
木古内以西の旅客量が松前線より少ないと指摘されていた江差線が存続したのは、輸送量が多い五稜郭-木古内間が江差線に含まれていたから、と囁かれていたことを思い浮かべた。


江差線の歴史は、上磯村で産する石灰石を函館に運ぶ目的で、上磯軽便線が五稜郭駅と上磯駅の間に開通した大正2年に遡る。
その後、改正鉄道敷設法に「渡島國上磯ヨリ木古内ヲ經テ江差ニ至ル鐵道」と規定され、昭和5年から昭和11年にかけて江差駅までの延長工事が行われ、住民の足ばかりでなく、木材や海産物などを運ぶ貨物輸送手段として活躍する。

昭和63年には、江差線の一部である五稜郭駅と木古内駅の間で、青函トンネルの接続路線としての電化や軌道の強化といった改良工事が施こされ、北海道と本州を直結する幹線ルートの津軽海峡線として脚光を浴びる。
北海道と本州の間の貨物輸送では鉄道の比率が高いことから、北海道新幹線の青函トンネル区間では、軌間が異なる貨物列車の併用を前提とした設計となっており、1日50本もの貨物列車が通過する木古内と五稜郭の間が廃止される可能性は低いと見られていた。
しかし、JR北海道は新幹線規格の車両に在来線の車両を積載するトレイン・オン・トレイン方式によって、北海道新幹線の線路を使用する貨物輸送を研究しており、実現すれば江差線全線が廃止される可能性が無きにしも非ずであった。

整備新幹線では、並行在来線を地元自治体が負担する輸送手段に分離することが、法律上の前提となっている。
北海道新幹線の開業を控えて、北海道が江差線五稜郭-木古内間のバス転換を提案したことがあったが、地元が猛反発したためにバス転換案は撤回され、第3セクター方式で鉄道を維持する方針を表明する。


一方、木古内と江差の間は非電化のローカル線として取り残され、北海道新幹線の開業に前後して廃止されるのではないかという見方が大勢を占めていた。
平成24年に、JR北海道がこの区間を廃止する方針を固め、沿線の江差、上ノ国、木古内の3町との間で連絡協議会を立ち上げる。
沿線3町は代替輸送が確保されれば廃止を了承するという姿勢をとり、平成26年に、江差線の木古内以西は廃止されたのである。
JR北海道の鉄道路線の廃止は平成7年の深名線以来19年ぶり、道内では平成18年のちほく高原鉄道以来8年ぶりのこととなった。

残された五稜郭-木古内間も、平成28年3月の北海道新幹線新青森駅-新函館北斗駅間の開業と同時に、JR北海道から道南いさりび鉄道に経営分離されたのである。


江差線の廃線は、国鉄末期に見られた路線廃止とは性格が異なるように感じた。
それまでの路線廃止は、1つの線名を持つ線区ごとに廃線か存続かが議論され、たとえ末端部の利用者が少なくても、一部で輸送量の多い区間があれば残存するケースも多く、地域としては一種の不公平感を生む結果を招いた。
木古内以西では江差線よりも松前線の方が利用者数が多いという数字が示されていたにも関わらず、先に松前線が消えてしまったという推移は、その最たる例であったのだが、最近のJR北海道は、なりふり構わず、1本の線区の一部であっても、極端に利用者数が少なければ廃止する方針を打ち出している。
昭和63年に廃線になった歌志内線と似たような炭鉱線でありながら、函館本線の支線として線名が付けられていなかったことから廃線を免れていた深川-上砂川間も平成6年に姿を消し、深川と増毛を結んでいた留萠本線の末端部である留萠-増毛間も平成28年に廃止、札幌近郊の通勤路線として賑わう札沼線の末端区間である北海道医療大学-新十津川間も、令和2年に廃止を控えている。
それだけ、人口密度が低い北の大地の鉄路を維持することは大変なのだろう。


木古内と江差の間には、函館バスが代替バスの運行を開始した。
江差線とほぼ平行している道道5号線を経由して、江差から大留、豊田、桂岡、宮越、湯ノ岱、神明、吉堀、鶴岡禅燈寺前、木古内駅前と、かつての停車駅はほぼ踏襲されており、北海道新幹線の開業後は、木古内駅で新幹線に乗り継ぐことも出来る。
ただし、投入された車両は、車体に沿線3町のキャラクターがデザインされた小型の日野ポンチョで、大型車両で運行する函館-江差線とは比較にならず、輸送人員の寡少さを浮き彫りにしている。

現在、如何にも昭和の建築といった観のあった江差駅舎は跡形も無く取り壊され、跡地を別のことに利用する風もなく、「ありがとう江差線」と大書された碑と、駅名標だけが残された更地になっている。
松前線の終点松前駅でも、駅跡に石碑が建てられているだけであった。

駅とは、その町におけるランドマークであったと思う。
人々が集い、何処かへと出掛けていくだけでなく、何らかの心の寄りすがりの役割を果たしていたことを振り返れば、江差線と数々の駅が消えた今、地域が失ったものは決して過小評価してはならないような気がする。
僅かな時間で散見しただけではあるけれど、江差の町並みから駅舎が消えた様など、僕には想像もつかない。
人を運ぶことは出来ても、残念ながら、代替バスではその役割を果たすことは難しいように思う。
江差線に限らず、鉄道の廃止に携わった人々は、そのことを少しでも考えたのだろうか。


337D列車が木古内駅に到着したのは17時52分であった。
江差からの42.1kmを1時間9分で走ったことになり、山越えの路線である割には健闘したと言える速さではないだろうか。
この旅の20年後に登場する江差線転換バスの、江差ターミナルから木古内駅前までの所要時間は1時間20分前後となっており、他の代替バスと同様、鉄道より少しばかり遅くなっている。

僕が乗り継ぐ函館行き327D列車の接続は良く、木古内を18時07分に発車し、函館に着くのは19時37分である。
バスが2時間程度で走り切ってしまう区間に3時間近くを要することになり、別に急ぐ旅ではないけれど、これでは函館と江差を行き来する人が列車を利用することはなさそうだな、と思ったものだった。


青函トンネル開通の直前に消えた松前線と、北海道新幹線の開業の2年前に消えた江差線。

江差線の木古内-江差間の年間赤字額はおよそ3億円とされていた。
松前線の赤字額は調べられなかったが、江差線と大同小異であろう。
特急列車や貨物列車が行き交う五稜郭-木古内間でも18億円、廃止された夕張線の新夕張-夕張間が1億8000万円、留萌線の留萌-増毛間が2億3000万円、札沼線の北海道医療大学-新十津川間が3億3000万円という数字と比較して、北海道新幹線の新青森-新函館北斗間の赤字が年間100億円を突破したという報道を聞けば、なにやらやるせない思いに駆られてしまう。
青函トンネルの膨大な維持費を抱える北海道新幹線の赤字額が少なくないことは、開業前から予想されていたことであるけれど、次々と断行されていくローカル線の廃止が、JR北海道の収支改善に大して寄与していないことは一目瞭然であり、これから北の大地の鉄路はどうなってしまうのだろうと愕然とせざるを得ない。

ちなみにバス転換された江差線転換バスの赤字額は年間5000万円程であるという。
赤字額は確かに減少したけれども、町の便利な交通手段とランドマークを失い、それでもなお北海道の鉄道網の危機の解決に繋がらないとなれば、鉄路を取り上げられた人々の無念さは察するにあまりある。

北海道開拓の祖とも言うべき土地を結んでいた2つのローカル線に思いを馳せると、人は、便利さを手に入れると同時に、何かを失っていくものなのか、ということを考えさせられてしまうのである。


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