海と山が奏でる交響曲~西伊豆特急バスと西伊豆ライナー~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

熱海駅の開業は大正14年3月である。

小田原から熱海、三島にかけて海際まで箱根山塊が張り出す峻険な山岳地帯にトンネルを掘り抜く技術がなかったため、明治期の東海道本線は現在の御殿場線ルートで建設され、小田原や熱海へは、国府津駅から路面電車と人間が客車を押す人車鉄道に乗り換えていた。
御殿場経由は急勾配のために輸送力の障壁になったことで、東海道本線を熱海経由で造り直すことになり、大正14年に国府津から熱海までの熱海線が開業する。
難工事の末、昭和9年に熱海駅と函南駅の間に長さ7804mの丹那トンネルが完成、熱海-沼津間の鉄道も建設されて、現在の東海道本線の姿になったのである。


この土地の険しさは、熱海駅を乗り降りするだけで、よく理解できる。
東海道新幹線のホームに上がれば、東京側に口を開けているトンネルから、曲線半径1500mという新幹線では有数の急カーブが続いている。
俊足を誇る「のぞみ」ですら、この曲線では、新幹線では最も遅い時速185kmという通過速度まで減速しなければならない。

待避線が設置できるような地形の余裕はなく、通過列車が高速でホームをかすめるため、我が国で初めてのホームドアが昭和49年に設けられた。
開業から10年間も、このホームは通過列車に対して剥き出しだったのか、と驚いてしまうのだが、停車する列車が到着する寸前まで改札制限を行なっていたらしい。

平成28年の2月に熱海で1泊する所用があった僕は、日曜日の昼下がりに、熱海駅から下りの「こだま」に乗り込んだ。

「あれ?どこに行くんです?」

東京に帰るために上りの新幹線ホームに行きかけた仕事仲間が、目を丸くする。

「いえ、せっかく熱海まで来たんですから、伊豆半島に寄ってみようと思いましてね」
「なるほど」

と、腕時計に目を遣った同僚の1人は、日曜日のこのような時間から伊豆で遊ぶような暇があるのか、と言いたげである。

「行って帰ってくるだけです。明日はちゃんと出勤しますよ。御心配なく」

僕の乗物趣味は職場に知れ渡っているので、その一言で全員が納得したようである。

「じゃあ、気をつけて」
「皆さんも」

と手を振って乗り込んだ「こだま」を隣りの三島駅で乗り捨てて、僕は駅前のバス乗り場に向かった。
これから、路線バスを乗り継いで伊豆半島の西海岸を南下し、下田へ抜けてみようという趣向である。
都合良く、三島駅を13時15分に発車する堂ヶ島経由松崎行きの東海自動車の便がある。

東海自動車や富士急行、伊豆箱根鉄道など、駅前にひしめく様々な会社のバスを掻き分けるように現れたバスを見れば、やっと乗ることが出来るぞ、と嬉しくなる。

平成の初頭から発行されている高速バス時刻表は、今ほど路線数が多くなかったためなのか、観光路線も少なからず掲載していた時代があり、その中に、沼津や三島から西伊豆に向かうこの路線も欄を設けられていた。
小田急線と御殿場線を連絡していた新宿-御殿場間の急行電車「あさぎり」が、平成3年に車両を一新されて特急へ昇格し、沼津まで延伸された際に、小田急2000系RSE車両とJR東海371系車両と同じデザインの塗装を身に纏い、「スーパーロマンス」号の愛称で運転されたこともある。


「スーパーロマンス」号の名は、小田急電鉄の特急電車の別名「ロマンスカー」から採ったのであろう。

「ロマンスカー」の由来は、昭和10年に新宿と小田原の間をノンストップで結ぶ「週末温泉急行」が起源と言われている。
この電車には2人掛けで進行方向を向く座席を装備した101形車両が使用され、そのシートが「ロマンスシート」と呼ばれたのである。

昔恋しい銀座の柳
仇な年増を誰が知ろ
ジャズで踊ってリキュルで更けて
あけりゃダンサーの涙雨

恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文かく人もある
ラッシュアワーに拾ったばらを
せめてあの娘の思い出に

広い東京恋ゆえせまい
いきな浅草忍び逢い
あなた地下鉄 私はバスよ
恋のストップままならぬ

シネマ見ましょうか お茶のみましょうか
いっそ小田急で逃げましょうか
変る新宿 あの武蔵野の
月もデパートの屋根に出る

「ロマンスカー」と言えば、僕は昭和4年に発表された西條八十作詞、中山晋平作曲の「東京行進曲」を思い出す。

「週末温泉急行」では、沿線案内と「東京行進曲」を車内に放送することが計画され、当時の有名女優に吹き込ませた6枚組のSPレコードが完成したのであるが、実際に電車が走り出すとレコードの針が飛んでしまい使い物にならなかった。
現在の小田急線は、線路の補修技術が優秀なのか、快感になるほど揺れが少ない印象があるのだが、当時はそうでもなかったのか、それとも、さすがに走行中の車内でレコードを掛けることは今でも無理なのか、などと考え出すと、自然と頬が緩んでくる。

「東京行進曲」の影響なのか、陰では「おしのび電車」と囁かれていた小田急ロマンスカーであるが、太平洋戦争中と戦後の一時期は運転を取り止めていたものの、昭和23年に復活を果たし、箱根湯本、江ノ島、そして御殿場・沼津へ頻繁に運転される大所帯へ発展している。
ただし、「あさぎり」は、平成24年に以前と同じ御殿場止まりとなり、平成30年に「ふじさん」へと改称された。


「いっそ小田急で逃げましょうか」という一節からの連想なのか、小田急ロマンスカーという言葉に、現実逃避の響きを感じるのは、僕だけだろうか。

何年か前に、小田急沿線で仕事をしてから、都心で夜勤という勤務を申し渡されたことがある。
職場が人手不足で如何ともし難いことは理解していたものの、その日に申し渡されたのは忘年会の留守番であり、宵の口の新宿駅に着いた時には気が滅入って仕方がなかった。
すると、同行していた女性事務員のMさんが、

「Yさんに電話しちゃおうか」

と、悪戯っぽい表情になって携帯を取り出した。
Yさんとは、僕らの勤務を組む事務長である。

「もしもし、Yさん?うん、今、新宿──ねえねえ、○○先生(僕のこと)、『あーもうやってらんねえ!』って言って、箱根行きのロマンスカーに乗っちゃったよ。どうするの?」

にやにやしながら喋っていたMさんであったが、不意に真顔になって、電話口を押さえながら僕を振り向いた。

「大変!Yさん、信じちゃったみたい。絶句してる」

僕は慌てて携帯を取り上げた。

「もしもし、○○です。Mさんの冗談ですよ。心配しないで──ってか、マジに信じないでよ、こんな話」

Yさんにとっては、たとえ一瞬でもかなりの衝撃を受けたことでトラウマになってしまったらしく、それからもきつい勤務を組まれるたびに「いっそ小田急に乗って逃げ出しちゃいますよ」と苛めると、

「お願いですから勘弁して下さいよ」

と、冗談が通じず真顔になってしまうのであった。

仕事に文句は言っても、逃げ出したことなど1回もないはずなのだが、先程、熱海駅で職場の皆と別れた場面でも、Yさんは、どこか心配そうな表情を浮かべていたような気がする。


小田急直通特急電車との接続機能を失ってしまった東海自動車の「スーパーロマンス」号であるが、今では「西伊豆特急バス」と名を変えて、高速バス時刻表からも消されてしまったのだが、いつかは乗車してみたいものだ、と思い焦がれていた。

松崎行きの特急バスは、市街地を鉤状に右左折を繰り返し、伊豆箱根鉄道の単線を渡ってから、ようやく目的地を見定めたかのように、国道136号線を南へ速度を上げる。
4車線の立派な道路の脇に、中古車店やスーパー、ファミレスなどが軒を連ねる平凡な郊外風景がしばらく続くうちに、狩野川を渡って函南町へ入ると、間もなく国道を右折して、バスは伊豆中央道の高架に駆け上がっていく。


伊豆中央道は、国道136号線の渋滞を緩和するためのバイパスとして昭和60年に国道136号線大場川南交差点と長岡北ICの間の4.8kmが開通し、平成7年に長岡北IC-大仁中央IC間3.8kmが延伸されている。

市街地を避けて西側に連なる丘陵地帯に建設されたため、わずか8.6kmの区間に、長さ825mの江間トンネルをはじめ、花坂第1・第2、長岡第1~第3、小坂第1・第2トンネルと、8本ものトンネルが断続する。
江間トンネルを抜けると、平成4年に我が国で初めての無人料金収受機が設置されたという料金所があり、この付近で、バスは函南町から伊豆の国市に足を踏み入れることになる。

伊豆の国市や伊豆市、東伊豆町に西伊豆町、南伊豆町など、このあたりには似たような自治体名がひしめいている。
僕が平成の大合併後の新時代に順応できていないだけなのかもしれないが、標識などで市町村名を目にしただけでは、自分が何処にいるのか、感覚としてさっぱり掴めなくなっている。

昭和30年に南中村、南上村、三坂村、三浜村、竹麻村、南崎村の6村が合併した南伊豆町や、昭和31年に仁科村と田子村の合併で誕生して平成17年に安良里村と宇久須村を吸収した西伊豆町、昭和34年に稲取町と城東村が合併した東伊豆町までは、その位置関係も含めてかろうじて頭に入っているのだが、平成16年に修善寺町、土肥町、天城湯ケ島町、中伊豆町が合併した伊豆市や、平成17年に伊豆長岡町、大仁町、韮山町が合併した伊豆の国市は、何が何やらである。

途中、バスは長岡ICでバイパスを降り、高架の袂にある伊豆の国パノラマパークのロープウェイ駅に置かれた長岡温泉停留所に立ち寄る。
このロープウェイは伊豆中央道の上空を横切っていて、その下をくぐるたびに、乗ってみたい、と思わせる。
道路標識に「韮山」とか「長岡温泉」などといった古い地名が現れると、きちんと目的地に向かっているのだな、とホッとする。


韮山は日本史にたびたび登場する地名である。
古くは、平治の乱で父の源義朝とともに破れた源頼朝が流されて20年を過ごした蛭ヶ小島も韮山の一角にあり、ここで東国の武士団が頼朝を担いで挙兵し、徳川幕府に至る700年間に及ぶ武家政権の基礎を築いた。

近世では、1840年のアヘン戦争に危機感を覚えた韮山代官の江川英龍が、国防のために鉄砲を鋳造する反射炉の建造を発案し、1853年の黒船の来航をきっかけとして完成させ、4門の鋳鉄製18ポンド砲と5門の銅製大砲が製造された。
反射炉とは、熱源と鉄の原料である銑鉄を別個に配置し、熱の反射を利用して鉄を造り出す装置で、当時の我が国にとって全く未知の技術が必要とされたのだが、幕末の日本人は、Ulrich Hugueninが著した「ロイク王立製鉄大砲鋳造所における鋳造法(Het Gietwezen in's Rijks Ijzer - geschutgieterij te Luik)」という1冊の蘭書を読んだだけで、独力で造り上げてしまったのである。

『明治には凄味がある。
この国民を興奮させたのは新しいものへの好奇心と新国家へのロマンティシズムであった』

『日本人は技術が好きでした。
そして、物が好きでした。
一生懸命、道具をつくることに、非常に長じた文化史を持ってきた民族です』

とは、司馬遼太郎氏が遺した言葉であるが、海に隔てられた島国で、しかも長く続いた鎖国下にありながら、僕らの国の先人たちは、そのような逆境をはね除けて先端技術への飽くなき好奇心を極限まで高め、反射炉を含む技術を吸収し、驚くべきエネルギーで、一気に我が国を先進国へと脱皮させたのである。


伊豆半島は、ユーラシアプレートと北アメリカプレートの間に楔のように割り込んでいるフィリピン海プレートの最北端に位置している。

今から200万~1000万年前の伊豆半島は、伊豆諸島と同様の火山島であった時期があると唱えられていて、100万~200万年前に北上して本州と合体し、60万年前に半島となったことから、半島の植物相は本州と異なる南方系なのだという。
フィリピン海プレートと北アメリカプレートの衝突により岩盤に亀裂が生じてマグマが貫入したことで、天城山などの大型火山から成る伊豆東部火山群が形成され、半島の東部で群発地震がしばしば起こるようになる。


山間部に広がる平地は、火山から噴出した堆積物が河川により侵食された名残りであるため、比較的なだらかで、伊豆中央道のトンネルの合間から見渡すと、伊豆にもこのように広々とした土地があるのかと、大らかな気分にさせられる。

大仁南ICでバイパスを降りて再び国道136号線に戻ったバスは、狩野川を南へ渡って伊豆市に入ると、緩やかに蛇行する川の広い河川敷を見下ろしながら土手に沿って爽快に走り続ける。
このあたりでは狩野川が伊豆の国市と伊豆市の境界になっているのか、と合点していると、やがて対岸に家々が建て込んでくる。


脇にお地蔵さんが立つ横瀬交差点で、トラスが真っ赤に塗られた修善寺橋に左折し、狩野川を北へ渡ると、修善寺の中心街である。
おやおや、いつ、狩野川の向こう岸が伊豆の国市から伊豆市に変わったのだろう、それとも修善寺は伊豆の国市だったけ、などと、また地理感覚がこんがらがってしまう。

様々な行き先の路線バスが居並ぶ修善寺駅を過ぎると、平地は先細りになって周囲の景観が山がちになり、道路の起伏も激しくなって、川面は渓谷の底に消えてしまう。
車窓の鄙びた変化に、いよいよ伊豆半島の懐に本格的に分け入っていくのだ、と気分が新たになる。


目の前を「下田駅」と行先表示を掲げた小型の路線バスが先行し、このバスは天城峠に連なる半島の脊梁を越えていくのか、と想像すると、無性に乗り換えたくなる。

平成31年4月から、「西伊豆特急バス」は、大仁南ICと修善寺ICを結ぶ修善寺道路、そして修善寺ICから月ヶ瀬ICまでの天城北道路を通るようになり、修善寺駅を経由しなくなったのだが、大仁南ICから先の国道136号線の道ゆきは、西伊豆への導入部として捨てがたい魅力があったと思う。

古びた家々がひしめく出口の交差点で右折したバスは、狩野川水域と駿河湾沿岸を隔てる標高570mの船原峠の山越えに挑んでいく。
右折した道は三島から走ってきた国道136号線の続きで、直進して天城峠に向かう道は、国道414号線である。


狩野川の支流である船原川を遡りながら、みかん畑に囲まれた長閑な坂道を登り詰めて、分水嶺を越えると、いきなり、つんのめるような九十九折りの急な下り坂が現れる。
僕がハンドルを握っていたならば思わずブレーキを踏んでいたことであろうが、運転手さんは動ずることなく、バスを巧みに操りながら坂道を下っていく。

逞しい山々が、彼方まで幾重にも折り重なっている。
一部の山肌が剥き出しになっているのは、伐採の結果なのか、土砂崩れでも起きたのか。
身もすくむような下方の谷底に、家々が身を寄せ合っている集落を見下ろしているうちに、駿河灘の真っ青な海原が木々の間から覗き始める。
とうとう西伊豆に来たのだ、と思う。

下りの方が遥かに険しく感じられた船原峠の傾斜が少しずつ和らいで、建物が込み入ってくると、土肥の町である。


弧を描く海岸線に沿った狭い平地にへばりつくように、ホテルや旅館が建ち並ぶ温泉街で、日曜日の午後にも関わらず多くの乗客がバスを降りた。
停留所では、上りのバスを待っている客も多い。

町外れにある土肥金山は、佐渡金山に次ぐ我が国で第2位の産出量があったと言われている。
昭和40年には枯渇して閉山されてしまったが、今でも坑道が観光用に開放されている。
このような佇まいの町に滞在してみたい、と腰が浮きかけるが、日曜日の午後の特急バスに乗っている身としては、ここで降りる訳にはいかない。
それこそ、Yさんを悩ませることになる。

その思いが昂じて、後日、自家用車で土肥を再訪し、金山に入山してみると、江戸時代の鉱夫やその妻たちの様子を再現した人形が暗い坑道のあちこちに置かれ、その苛酷さがよく伝わってくる。
かつてはこのような人生があったのだな、と思う。
資料館に展示されている、ギネスにも認定されたという250kgにも及ぶ世界一の巨大金塊には、度肝を抜かれた。


土肥を過ぎると、バスは急な登り坂に差し掛かる。
国道136号線は海岸に沿いながらも、山塊が波打ち際まで迫り出して、すとん、と落ち込む地形になっているため、バスはぐいぐい高度を上げながら、目が眩むような崖っぷちを走ることになる。

このあたりが、西伊豆海岸の旅の白眉であろう。
傾きかけた陽の光をいっぱいに浴びた駿河湾が、右手の車窓いっぱいに煌めいている。
その彼方に、優雅な山裾を広げる富士山の全貌が姿を現した時には、思わず感嘆の溜息が漏れた。

中央自動車道や東名高速道路を走る高速バス、または富士吉田と甲府を結ぶ国道137号線の御坂峠を越える路線バスから見通す富士山にも感動したものだったが、国道136号線を行く「西伊豆特急バス」から眺める富士山は、雄大な駿河湾の眺めと相まって、バスの車窓としては飛び抜けているのではないだろうか。
この景観を目にすることが出来ただけで、「西伊豆特急バス」に乗りに来て良かったと思う。


西伊豆町との境の手前に、恋人岬という、歯が浮くような名前の岬がある。

近年の観光ブームにあやかっただけではなく、男女2人が鐘を鳴らすことで愛を確認した場所として、廻り崎と呼ばれていた昔から民話に語り継がれていたのだが、ここからの富士山の眺望も素晴らしかった。
同じ名の岬はグアムや新潟県柏崎市にも存在し、グアムからは金の鐘、伊豆からは銀の鐘を互いに送り合う提携関係を結び、片方を鳴らしただけでも恋愛が成就するのだが、両方を鳴らせば、この上ない幸せが訪れるのだという。

ちなみに、柏崎の恋人岬は、地元に伝わる悲恋の物語に基づいており、伊豆やグアムとは対照的である。


南に行くほど海岸線は窄まって行くために、西伊豆町に入ると、煌びやかな海の眺めは変わらないものの、富士山や駿河湾は背後の山影に隠れてしまう。

国道136号線は入り組んだ海岸線を忠実になぞりながら、宇久須、安良里、田子と海沿いの集落を結んでいるが、「西伊豆特急バス」は、地域輸送よりも、観光客を観光地に一刻も早く運ぶことが自分の使命なのだと言わんばかりに、新しく出来たバイパスやトンネルで、町の中心部を迂回して素っ飛ばして行く。
田子を過ぎると、堂ヶ島の名を冠したホテルや施設が国道沿いに姿を現し始め、「西伊豆特急バス」は、定刻15時ちょうどに堂ヶ島バスターミナルに横付けされた。


終点の松崎に向けて走り去っていくバスを見送り、道路の向かいに視線を転じると、狭い砂浜を取り囲むごつごつした岩礁や、象島、中ノ島、沖ノ瀬島、高島から成る三四郎島が沖合に並び、伊豆の松島とも称される独特の景観が広がっている。
太古、伊豆半島が海底火山だった時代の噴火に伴う海底土石流と、その上に降り積もった軽石や火山灰が、波に削られて断崖となったと言われている堂ヶ島の、荒々しさと不思議な造形美が同居する地形を目にすれば、自然のなりわいの神秘に圧倒される。

吹きつけてくる風は強いものの、真冬とは思えないぬくもりが感じられる。


短い待ち時間の合間に、海蝕洞の天井が崩れたという天窓洞を上から覗き込んだり、狭い砂浜に押し寄せる波と戯れてから、僕は15時30分発の下田駅行き特急バス「西伊豆ライナー」に乗り継いだ。
特急バスと銘打ちながらも、途中では全ての停留所に停車する路線バスで、車両も前扉と中扉を備えた普通の小型路線車である。

10分弱で「西伊豆特急バス」の終点である松崎の町を過ぎ、「西伊豆ライナー」は国道136号線に別れを告げて県道15号線下田松崎線に左折、伊豆半島最高峰である標高1406mの万三郎岳や1299mの万二郎岳、1197mの遠笠山などで構成される天城連山の南麓を回り込むように、伊豆半島の南端を横断して東に向かう。


伊豆を代表する名山天城と言えば、川端康成の「伊豆の踊子」や松本清張の「天城越え」、もしくは石川さゆりの同名の演歌を思い出す人も多いのであろう。

昭和58年に映画化された松本清張の「天城越え」の魅力は、何と言っても、主演女優の田中裕子であった。
ミステリーであるからネタバレは避けたいけれど、警察に連行される彼女の、主人公の学生に別れを告げる場面で浮かべた表情には、胸が締めつけられた。


思い起こせば、小松左京のSF小説「日本沈没」では、我が国を襲う大規模地殻変動は、天城山の噴火で始まったのではなかったか。

僕の記憶に根強く残っているのは、「日本沈没」の映画化の成功に触発されて昭和50年に公開された田中光二原作のパニック映画「東京湾炎上」の冒頭、ドラマの舞台となるマンモスタンカーの甲板で、主人公が近づいてくる日本の島影を見遣りながら、

「万三郎、万二郎とちょっといい山があってね」

と語る場面である。
「日本沈没」も「東京湾炎上」も、主演が藤岡弘であったことから、天城、と言えば彼の顔が思い浮かぶという、ちょっぴり困ったことになっている。


日本百名山にも選ばれた天城山は、万二郎岳から万三郎岳、八丁池へと抜ける縦走路に挑む登山客も多く、昭和天皇や今上天皇陛下も訪れたことがあるという。

何よりも、首都圏へ向かう海外からの船舶が最初に目にする日本本土が伊豆半島であることが、「東京湾炎上」の導入部で、改めて心に刻まれたのである。


幕末の開国史を紐解けば、その地理的な条件が原因で、伊豆半島がたびたび登場する。

ペリー来航の1853年に先立つ1849年に、英国のマリーナ号が下田港へ強硬に入港して海岸一帯の測量を行い、韮山代官により武力で退去させられた事件を筆頭に、1854年の日米和親条約調印によって箱館とともに下田が外国船に開港され、ペリー艦隊も下田に寄港している。
その際に、吉田松陰が米国への密航を企てたのも下田であり、同年にロシアのプチャーチンがディアナ号で下田に入港して日露和親条約が長楽寺で締結され、安政東海地震による津波が原因で沈没したディアナ号に替わって、戸田で建造したヘダ号で帰国の途についたり、1856年にハリスが我が国最初の米国総領事として玉泉寺に着任し、唐人お吉の切ない伝説が生まれ、1858年に英国使節ブルースが搭乗する英国艦隊が入港したのも下田の地で、伊豆半島は、我が国の近代の幕開けに揺さぶられ続けたのである。


後日、伊豆を再訪した時には、土肥の北にある戸田温泉にも足を伸ばし、入江を囲む砂州の松林にある造船郷土資料博物館で、ロシア船ディアナ号と戸田の関わりを初めて知り、強く感銘を受けた。
下田の地震による損傷が元で戸田沖にて沈没したディアナ号の乗員と地元の船大工が協力して、西洋式帆船ヘダ号を建造し、その技術は後の我が国における近代造船技術の発展に大いに寄与したと言われている。

韮山反射炉と同じく、物作りに掛ける日本人の情熱がひしひしと伝わってきて、胸が熱くなった。


天城山系に端を発する那賀川の清流を遡って県道15号線を行く「西伊豆ライナー」の車窓は、周囲を囲む山並みに生え揃った樫や杉などの常緑広葉樹に覆われている。
このあたりは温帯樹林の植物相であるが、西海岸で眺めた紺碧の海の鮮やかさに比べれば、何処か色褪せていて、思わず襟を合わせたくなるような寒々とした心持ちにさせられた。

天城山の南側の地域は、太平洋からの湿った風が天城山に当たって上昇気流となり、雨雲に発達することで雨が多く、年間降水量が4000mmを超えることもあり、冬期には雪が積もることも珍しくないのだという。
昭和33年9月27日に伊豆地方を襲った狩野川台風は、猛烈な豪雨をもたらし、多くの崖崩れや川の氾濫が発生して、多数の犠牲者を出している。
平成24年5月3日には、24時間で観測史上最大の649mmの降水量を記録したこともある。


このバスに乗った時から、気になっていたことがある。
行先標示に「バサラ峠 下田」と書かれていたのである。

婆娑羅峠は松崎町と下田市の境に位置する標高316mの峠で、県道15号線は、鬱蒼と繁る木々の合間にぽっかりと口を開けた203.5mの婆娑羅トンネルで難なく通り抜けてしまう。

バサラの語源は、サンスクリット語における金剛石を意味するvajraとされ、平安時代には、雅楽や舞における伝統的奏法を打ち破る自由な演奏を婆娑羅と称した。
婆娑、という言葉は、舞う人の衣服の袖が美しく翻る様を指していることから、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけては、体制に反逆し、身分の上下に遠慮せず派手な格好で好き勝手に振舞う者を婆娑羅と呼んだのである。
戦国時代における下克上の萌芽であったとも解釈されているが、その後は、うつけやカブキといった言葉に置き換えられて、婆娑羅という表現は、書物に全く見られなくなったと言う。

婆娑羅の名が伊豆半島の果てに近い土地につけられている理由は、弘法大師が密教の「婆娑羅三摩耶(vajra samaya)」を習得した場所との伝説が基になっており、我が国の中世に広まった語意とは無関係のようである。


婆娑羅峠を越えた「西伊豆ライナー」は、柳生沢川に沿って山あいを坦々と東へ進む。
川の名が稲生沢川と名を変える頃、正面に横たわる山の中腹に、伊豆急行線の線路敷が見えてくる。

閑散とした蓮台寺駅前に立ち寄ってからの車窓は、川幅が広がるにつれて賑々しくなり、行き交う車の数も増えて、バスは16時32分に下田駅前に到着した。

降りたばかりのバスは、「松崎 堂ヶ島」と表示を変えた折り返し便に早変わりして、さっさと駅前から姿を消してしまった。


下田、と聞けば、僕は反射的に伊豆急、という単語を頭につけたくなる。

東急が、伊東と下田を結ぶ鉄道建設の免許を取得し、昭和36年に開通させたのが伊豆急行である。
昭和39年には東京を発着して伊豆急下田駅まで乗り入れる急行「伊豆」が走り始め、昭和44年には157系車両を投入した特急「あまぎ」も乗り入れるようになった。
僕の子供の頃の鉄道雑誌には決まって「あまぎ」の写真が掲載され、時刻表でも伊豆急行線は国鉄のページに掲載されるなど、なかなか華やかな私鉄であった。

昭和48年頃であったか、僕にとって初めて故郷の外に出た家族旅行の行先も伊豆半島であった。
ただし、東京を経由したにも関わらず「あまぎ」は利用せず、新幹線を三島で降りたのである。
その頃はまだ鉄道ファンになっていなかった僕は、「あまぎ」に乗りたい、と思った訳ではなく、初めて新幹線に乗っただけで有頂天だった。


今回の旅で、三島から下田まで乗り継いできた2本のバスを運行する東海自動車は、大正5年に、チャンドラー4台を使用して下田と大仁の間を天城峠経由で結んだ下田自動車が前身である。
それが、乗合馬車が主力だった伊豆半島におけるバス事業の始まりでもあり、以後、同社は複数のバス事業者を合併しながら半島内を網羅する路線を展開し、丹那トンネルの開通で東海道本線が熱海・三島経由に変更され、昭和10年に国鉄伊東線が開業した際には、伊東から下田までの直通バスの運行も開始している。

東急による伊豆急行線の免許申請では、三島と修善寺を結ぶ西武グループの伊豆箱根鉄道も同区間に鉄道免許を競願したが、東海自動車は当時の大物政治家を動かして、伊豆急行に協力する代わりに自社の買収を行わないよう協定を取り交わした上で、東急を支持したと言われている。
伊豆箱根鉄道が修善寺と下田を結ぶバス路線の免許申請を行ったこともあったが、東海自動車の抵抗により却下されている。

その後、モータリゼーションの発達により、バス利用者数の減少が顕著となり、東海自動車も経営難を再建するため、昭和46年に小田急グループに加わることになった。
三島から堂ヶ島まで利用した「西伊豆特急バス」の塗装は、小田急傘下の箱根登山鉄道バスと共通であり、白地に赤いラインが入った小田急バス塗装の車両も存在する。


大資本と地元資本が激しく争奪戦を展開した伊豆半島の公共交通機関も、最近は協力関係にあるようで、「西伊豆ライナー」が下田の手前で停車した蓮台寺駅は、平成8年から伊豆急行の特急が停車するようになり、東海自動車が堂ヶ島方面への連絡バスを接続させるよう取り計らっている。

子供の頃から紙上で慣れ親しんだ伊豆急行であるが、僕は1度も利用したことがない。
首都圏に程近い一大観光地でありながら、頻繁に伊豆半島を行き来するようになったのはバイクや自家用車を運転するようになってからのことで、東海岸を行き来すれば必ずと言って良いほど同線の線路を目にしたものの、いつかは乗りに来るぞ、と心に決めながら、その機会はなかなか巡って来なかった。

この日、長年の願いがようやく叶う。


背の高いシュロの木が並ぶ下田の駅前は、少しばかり雑然としているけれども、南国情緒は満点である。
伊豆半島の最南端は、下田から20kmほど西にある石廊崎で、こちらも後日に訪れるまで足を運んだことはなかったが、幼少時から鉄道地図に馴染んで来た者としては、伊豆急下田駅が伊豆の最南端のような思い込みがある。

三島から伊豆半島の西海岸をバスで縦断し、旅の締めとして、折り返し東海岸を北上する初乗りの鉄道旅行を味わうとは、僅か半日の旅にしてはなかなか良く構成されているではないか、と自画自賛したくなる。


伊豆急下田駅のホームに待機しているのは、17時10分発の東京行き上り最終の特急「踊り子」118号である。

展望座席を備えた「リゾート21」や「スーパービュー踊り子」といった人気車両ではなく、昭和56年に特急「あまぎ」と急行「伊豆」が統合されて「踊り子」が登場した時から採用されている、古参の185系である。
特急用車両でありながら通勤通学輸送の普通列車にも運用する全く新しい試みで設計された185系は、車内設備が中途半端などと陰口を叩かれたこともあったものの、「踊り子」ばかりではなく、東北本線や高崎線の新特急や、東北新幹線と上越新幹線の大宮暫定開業時に上野と大宮の間で運転された「新幹線リレー」号などにも広く用いられて、一世を風靡した。


僕も、様々な列車として運用された185系に幾度も乗車した経験があり、何よりも、長野新幹線の開業前に上越新幹線と接続して高崎と長野を結んだ「信州リレー」号を使って故郷を行き来したことは、こよなく懐かしい思い出である。

登場から30年以上が経ち、老朽化した185系も徐々に淘汰される時代を迎え、「踊り子」も別の車両に置き換えられることがJR東日本より発表されている。
おそらく、185系に乗るのもこれが最後なのだろうな、と思う。


定刻に伊豆急下田駅を発車した「踊り子」118号の足取りは決して軽快とは言えず、暮れなずむ入江の町や海を見下ろしながら、のんびりと走る。
波打ち際に差し掛かると、彼方に大島がぼんやりと浮かんでいる。

速度は遅くても、3時間足らずの後には、僕を東京まで運んでくれるはずである。

185系「踊り子」の揺れに身を任せているうちに、不意に、昼過ぎに別れたばかりの職場の人々のことが頭に浮かんだ。
熱海を発ったのが遥か遠い昔のように感じられるのは、それだけ充実した旅だったことの表れなのだろう。

海と山が奏でる変化に富んだ車窓に彩られた「西伊豆特急バス」と「西伊豆ライナー」、そして「踊り子」の旅は、よく出来た交響曲を鑑賞し終わったかのような心地好い余韻を残して終わろうとしていた。

大丈夫、Yさん、存分に気分転換が出来ましたから、きちんと東京に帰りますよ──


ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>