懐かしの伊豆スパー号~伊東・修善寺・長沢・富士の裾野から名古屋への忙しい一人旅~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成3年8月の土曜日の午後、職場から急いで東京駅に向かった僕は、13時ちょうどに発車する特急「踊り子」17号に何とか間に合った。


自由席車両を探し当てて乗降口をくぐると同時に、ホームに駆け登って来た時から鳴り響いていた発車ベルが止み、扉が閉まった。
弾む息を整えながら客室を覗き込んでみたが、生憎の満席らしく、通路に立っている人もいる。
人気の観光地に向かう週末の特急列車であるから、混雑は半ば予想していたので、それほど落胆することなく、僕はデッキで過ごすことに決めた。
客室より冷房の効きは悪いけれども、30℃を超える外よりは遥かに快適である。

この頃は長時間の立ち仕事も多く、14時53分に到着する伊東までの2時間くらいならば立っていても苦にならなかったから、僕も若かったと思う。
ただし、そこまでしなければならないのか、と自嘲したくもなる。


今回の旅の目的地は、伊東ではない。
僕を駆り立てているのは、伊東駅を15時20分に発車する名古屋行き高速バス「伊豆スパー」号に乗ってみたい、という乗り物趣味であるが、実は、この旅の目的地が何処と言うべきなのか、判然としないのである

平成2年7月に登場した「伊豆スパー」号は、JR東海バスと東海自動車が共同で運行を開始し、伊豆と名古屋を直通する面白さに強く惹かれた。
開業当初は、伊東駅を15時と16時発、名古屋駅を7時30分と8時10分発というダイヤで、伊豆側では伊東港と宇佐美駅に停車していたところを、僕が乗る直前の平成3年7月末から伊東駅発が8時と15時20分、名古屋駅発が8時10分と15時に振り分けられ、伊東港と宇佐美駅には寄らず、修善寺駅、長沢口、東名静岡での停車が設けられた。
バス会社が路線を大幅に改変するのは、乗客数が振るわない場合が少なくない。
もう少し伊豆の奥まで行くか、せめて熱海まで足を伸ばせば、とも思うのだが、「伊豆スパー」号は3年程の短命に終わり、平成4年7月には早々と運休してしまう。

†ごんたのつれづれ旅日記†

名古屋から温泉に向かう湯浴み客を取り込もうとする高速バス路線は、幾つか登場しているものの、長続きしない印象がある。

名古屋-山中温泉「北陸道特急バス」:平成元年開業・同11年3月廃止
名古屋-伊東「伊豆スパー」:平成2年開業・同4年廃止
名古屋-箱根関所「箱根ビュー」:平成2年開業・同8年廃止
名古屋-草津温泉「スパライナー草津」:平成16年開業・平成20年廃止
名古屋-勝浦温泉「南紀特急バス」:平成17年開業・同26年新宮止まりに区間短縮

これらの高速バスが開業した時には、名古屋の人は遠くまで温泉に浸かりに行くものなのだなあ、と感嘆したものだったが、さすがに毎日運行される高速バスを成り立たせる程の需要ではなかったようである。
今でも健在なのは、昭和39年から運行されている老舗の名古屋-長島温泉線や名古屋-湯の山温泉線「かもしか」号のような比較的短距離の路線か、名古屋と飯田を結ぶ「中央道特急バス」が昼神温泉を経由するなど、都市間路線が立ち寄るくらいである。

高速バスの最大の魅力が廉価な運賃であるならば、そもそも温泉に行く人々は、多少高価になろうとも、新幹線や特急料金といった旅費を節約したりはしないのかもしれない。
用務客と異なり、観光客ならば時間が掛かるバス旅を楽しんでくれるかもしれないという目算だったのかも知れないが、費やすとすれば温泉に浸かったり一杯やる時間の方であろう。


慌ただしい旅立ちになってしまったが、デッキからでも、扉の窓から景色を楽しむことは出来る。
東海道本線の車窓は建物ばかりで単調な印象があるけれど、国府津のあたりからは家並みの向こうに青く輝く海が垣間見えるようになり、小田原を過ぎて真鶴半島に差し掛かると、早川、根府川、真鶴付近で海を見下ろす崖の上を走ることになるから、飽きが来ることはない。

デッキでぼんやりと立っていると、座席に落ち着いている時よりも、他の客が気になるものである。
横浜から乗車して、空席の有無を確かめようともせず、そのまま扉の脇に佇んでしまった若い女性の姿が、何やら儚げな雰囲気である。
携えているのも小さな鞄1つだけで、近くで降りるのか、と思ったが、僕が下車した伊東駅でも降りず、ひっそりと俯いた姿勢を崩さないまま、伊豆半島に向かったようである。


白壁に赤い屋根を乗せた伊東駅舎は、熱海からの国鉄伊東線が開業した昭和13年に建てられたもので、昭和36年に伊豆急行線が下田へと開通するまでは、伊豆半島の玄関口となる終着駅であった。
かつて伊豆半島各地への路線バスが発着していたと思われる広い敷地には、客待ちのタクシーばかりが目立ち、駅舎の真ん前にあるバス乗り場のポールには、宇佐見港、川奈、伊豆高原、伊豆シャボテン公園、一碧湖、修善寺方面の短距離路線が掲示されているだけである。

小学校2年か3年生の頃であったか、初めての家族旅行の行先が伊東で、シャボテン公園などを訪れた記憶がかすかに残っている。
東京駅から生まれて初めての新幹線に乗って三島駅で降りたことや、伊東で和風の旅館に宿泊したことは覚えているが、どのように伊東まで来たのか、行程のことは全く覚えていない。
三島で新幹線を降りたのだから伊東線を利用した訳はないと思うけれども、どうして熱海で泊まらないのだろう、と訝しく感じたことを覚えているから、我ながらませた子供である。
子供の頃に親に連れられて来た土地を、大人になって再訪すると、様々な感慨が湧いてくる。


伊東の駅舎を見上げれば、懐かしさが込み上げてくる外観である。
この駅に来たことがあったっけ、と考え込んでいるうちに、大学時代の痛烈な思い出が甦ってきた。

部活の合宿で今井浜まで行った時のこと、鉄道は使わず何台かの車を連ねて、東名高速道路から小田原厚木道路、西湘バイパスを使い、小田原市街の先の石橋ICまではあっという間だった。
そこから先の、箱根山塊が迫り出す崖っぷちをうねうねと進む国道135号線の道行きは、海の眺めは素晴らしいものの、実に遠く感じられた。

僕が後輩と一緒に便乗したのは、後に漫画「頭文字D」で有名になるトヨタスプリンタートレノAE86型で、ハンドルを握る先輩は、

「何かヘンだな。ハンドル、いじりやがったかな」

などとぶつぶつ呟きながら、自分の車であると言うのに運転に苦労している様子が見て取れた。
前日まで車を車検に出していたそうで、ステアリングの遊びが殆どなくなっているようだ、と先輩は首を傾げたのだが、それが深刻な結果を招くことになろうとは、誰も思いが及ばなかったのである。

熱海のドライブインで後輩に運転を譲った先輩は、後部座席で横になり、僕は助手席に座った。
錦ヶ浦、赤根崎、網代と進む九十九折りの山越えでは、後輩も車の方向維持に苦心している様子であったが、免許を持っていなかった僕は、他人の車を運転するとそのようなものなのか、と大して気にも留めなかったし、追い越し禁止の片側1車線の道であったから、先行する他の車に離されることもなかった。


ところが、伊東の市街に入ると海沿いの道路は4車線に広がり、信号待ちで他の車から置いてきぼりにされてしまった。

「今井浜の旅館は知ってる?」
「名前は聞いてますが、場所は知らないです」

カーナビなどなかった時代であるから、大いに不安になり、何としても先行した車に追いつかなければならないという焦りが生じた。
右隣りの車線にはワゴン車が並んで停まっていて、前方に目を向ければ、数百メートル先で平地は尽き、1車線に窄まった山道になっている。
信号が青になるや否や、僕は、

「よし行け、負けるな!」

と、ワゴンの前に出るようにけしかけ、後輩も目一杯アクセルを踏んだようである。
遊びがなく敏感過ぎるステアリングの車で速度を上げるのは、素人がF1カーを運転するようなもの、とは後に得た知識である。
次の瞬間、僕らの車はハンドルを取られて大きく蛇行し、ワゴンの横っ腹にぶち当たって対向車線へ弾き飛ばしてから、回転しながら海側のコンクリート製の堤防へ斜めに突っ込んだ。
反対車線に飛び出たワゴン車は、対向車の側面に衝突して停止している。
一瞬の事故であったが、景色がぐるぐると回り出したことと、車の姿勢を立て直そうと歯を食いしばってハンドルを回している後輩の表情が、スローモーションのように脳裏に刻まれている。

「おたくらの車がいきなり横の車にぶつかってさ、刑事ドラマのアクションシーンかと思ったぜ」

とは、事故処理を何かと手伝ってくれた、沿道の自動車整備工場の親父さんの言である。

幸いなことに怪我人はなく、警察も巻き込まれた人々も、僕らの車のハンドルの異常について理解してくれたようである。
反対車線の乗用車に乗っていたのは若い男女で、話をしていた先輩は、

「女の方がやたら男につっかかってるんだよ。俺たち、あの2人の仲を引き裂いちまったのかもしれないなあ」

と、後に渋い表情で繰り返していたことを覚えている。
誰も言及しなかったけれども、全ては、信号が青になった時の僕の浅はかな煽りが発端ではなかったかと、今でも心が苛まれるのだ。

無残に壊れたトレノを整備工場に預けた僕ら3人は、伊東駅から今井浜駅まで、伊豆急行線で移動した。
携帯電話がなかった時代であるから、他の部員に連絡の取りようがなく、伊東駅の公衆電話で電話帳をめくりながら、今井浜の旅館に伝言を頼んだのである。

その数年後に特急「踊り子」から降り立った僕は、伊東の駅舎を眺めたのはあの時だったか、とほろ苦く思い出している。
構内の立ち食い蕎麦屋で遅くなった昼食を摂り、店の脇に置かれた公衆電話を見つけて、今井浜への連絡に使ったのはこれだったな、と思う。


伊東駅前の東海自動車の車庫に待機していた「伊豆スパー」号は、ボディに愛称が大書されたJR東海バスのスーパーハイデッカーである。
座り心地の良いシートに収まって、名古屋までの285.5km、およそ5時間半をここで過ごすことが出来るのかと思えば、苦い思い出も頭から消えて、無性に嬉しくなった。

定刻に発車して伊東市街を後にした「伊豆スパー」号は、どのような経路で、次の乗車停留所である修善寺駅に向かったのだろう。
伊豆半島中央部に位置する修善寺と、東海岸の伊東市は、険しい脊梁山脈に隔てられている。
距離が最も短いのは、県道59号線で山中に分け入り、伊豆スカイライン冷川峠ICを横断して県道12号線に入る経路であるが、県道59号線はろくにセンターラインもない狭隘な山道で、とても高速バスが通れるとは思えない。
南へ大廻りになるが、中伊豆スカイラインの別名を持つ県道12号線を使い、松川湖の北岸を経て冷川峠に向かう方が、バスの通る道としては遥かに相応しい。


ところが、東海自動車の伊東と修善寺を結ぶ路線バスは県道59号線を通っているので、もしかすると「伊豆スパー」号も同じ経路を使ったのかも知れない。
当時の僕は伊豆半島の道路地図など全く頭に入っておらず、鮮やかな緑の葉に覆われた森林の中の山道を走った記憶しか残っていない。

開業当初の経路は、国道135号線で宇佐見駅を経て県道19号線に左折し、伊豆スカイライン亀石峠ICを横切って、修善寺の北に位置する大仁町へ抜けたものと思われる。


いずれにしろ、1時間弱をかけて喘ぐような山越えを終えた「伊豆スパー」号は、16時過ぎに修善寺駅前でひと息ついた。
伊豆中央道の高架で長閑な山々に囲まれた平野を眺めてから、国道136号線に降り、三島市内の南二日町ICで高速道路と見紛うような国道1号線バイパスに左折する。
一気に交通量が増えて、轟々と行き交う車やトラックが、中央分離帯を備えた4車線の道路から溢れんばかりである。


次に停まる長沢口バス停は、修善寺からおよそ20kmほど離れた清水町を貫くバイパスに置かれている。
ラーメン屋や焼肉店、自動車整備工場が並んでいるだけの殺風景な場所で、どうしてここに停まることにしたのか、と首を傾げてしまう。
三島と沼津に挟まれた清水町は両市のベッドタウンとして発展してきたが、東海道本線が町域をかすめているだけで駅が置かれていないため、名古屋へ行き来する乗客を見込めると考えたのであろうか。

長沢とは、修善寺から沿って来た狩野川と、その支流である黄瀬川が合流するあたりの地名で、明治22年に伏見、玉川、長沢、柿田、八幡、新宿、湯川、的場、久米田、畑中、戸田、堂庭、徳倉の13村が合併して成立したのが清水村である。
バイパスの交差点を通過する度に、伏見、玉川、垣田、長沢などと旧村名を標示した標識が現れ、長沢の先の八幡西交差点を左折すれば、源頼朝と義経が初めて対面した場所と伝わる黄瀬川八幡神社が鎮座している。


『佐殿は善悪に騒がぬ人にておはしけるが、今度は殊の外に嬉しげにて、「さらばこれへおはしまし候へ。見参せん」とのたまへば、弥太郎やがて参り、御曹司にこの由を申す。
御曹司も大きに悦び、急ぎ参り給ふ。
佐藤三郎、同じき四郎、伊勢の三郎これら三騎召し連れて参らるる。
佐殿御陣と申すは、大幕百八十町引きたりければ、その内は八箇国の大名小名並み居たり。
各々敷皮にてぞありける。
佐殿御座敷には畳一畳敷きたれども、佐殿も敷皮にぞおはしける。
御曹司は兜を脱ぎて童に着せ、弓取り直して、幕の際に畏まつてぞおはしける。
その時佐殿敷皮を去り、我が身は畳にぞ直られける。
「それへそれへ」とぞ仰せらるる。
御曹司しばらく辞退して敷皮にぞ直られける。
佐殿御曹司をつくづくと御覧じて先づ涙にぞ咽ばれける。
御曹司もその色は知らねども、共に涙に咽び給ふ』

義経記に描かれた2人の対面の場面は、その後の平家討伐における義経の活躍、そして2人の確執と悲劇に思いを馳せると、殊更に感動的である。
ここだったのか、と思う。

源頼朝が20年間も幽閉されたのは、修善寺を出た「伊豆スパー」号が伊豆中央道で通過した韮山町の蛭ヶ小島であり、挙兵後最初の軍事行動が、韮山の伊豆目代である山木兼隆の襲撃であったことを思い起こすと、「伊豆スパー」号の道行きは頼朝の足跡に満ちている。

起終点の伊東も、頼朝との因縁は浅くない。
蛭ヶ小島に流された頼朝の監視を平家から任されたのは、伊東荘を治める伊東祐親で、娘の八重姫が頼朝と通じて子を成したと知るや、赤子を川に沈め、頼朝の殺害を企てるのだが、次男の祐清に急を知らされた頼朝は、北条時政の領地である熱海の伊豆山神社に逃げ込んで事なきを得る。


黄瀬川を渡って沼津市に足を踏み入れた「伊豆スパー」号は、上石田ICの立体交差で国道1号線バイパスを降り、県道83号線に右折して、沼津ICに向かう。
片側1車線の緩やかな登り坂になっている県道も、車が多く、流れがつかえ気味である。

「伊豆スパー」号が東名高速に入って、愛鷹PAで7分間ほどの休憩を取り、それまでの遅々とした足取りとは見違えるように速度を上げたのは、午後5時を過ぎた頃である。
東名高速を行き来する高速バスに乗車したことは多々あるけれども、沼津ICからは初めてで、東京からここまで2時間の道のりが省略されてしまうと、何となく勝手が違う気がする。
静岡あたりまでの前半部分の車窓の方が山あり海ありで変化に富んでいるだけに、興趣を削がれてしまったような気分になる。
河川敷の広大な富士川橋梁を渡ると、もうここまで来たのか、と拍子抜けしてしまう。


挙兵の後に伊東祐親と大庭景親の軍に敗れて房総半島へ逃亡した頼朝は、東国武士を傘下に収めて態勢を立て直し、平家の軍勢と富士川を挟んで対峙する。

『その夜の夜半ばかり、富士の沼に、いくらも群れ居たりける水鳥ともが、何にか驚きたりけむ、ただ一度にばつと立ちける羽音の、大風、雷などの様に聞こえければ、平家の兵ども、
「すはや源氏の大勢の寄するは。斎藤別当が申しつる様に、定めて搦手もまはるらむ。とりこめられてはかなふまじ。ここをば退いて尾張河洲俣を防げや」
とて、とる物もとりあへず、我先にとぞ落ち行きける。
あまりに慌てさわいで、弓とるものは矢を知らず、矢をとるものは弓を知らず。
人の馬には我乗り、わが馬をば人に乗らる。
あるいはつないだる馬に乗って馳すれば、杭をめぐること限りなし。近き宿々より迎へ取つて遊びける遊君遊女ども、あるいは頭蹴割られ、腰踏み折られて、をめき叫ぶ者多かりけり』

水鳥の羽音に驚いた平家の軍兵がこぞって逃げ出したという古戦場は、どのあたりなのだろうか。

この合戦で平家に味方し、頼朝に捕らわれた伊東祐親は、一命を赦されたにも関わらず、『禅門承今恩言。更恥前勘。忽以企自殺(吾妻鏡)』と自害する。
次男の祐清も捕らえられ、頼朝は、かつて自分を助けたことを理由に赦そうとするが、祐清は「父已亡。後栄似無其詮。早可給身暇」と平家の軍勢に加わり、北陸の戦いで討ち死にしたという。

富士川を渡る「伊豆スパー」号から振り返れば、富士山の頂は雲に隠れてその全貌を拝むことは叶わなかったけれど、愛鷹山の麓を過ぎれば、900年前から変わることのない雄大な裾野を眺めることが出来た。


鎌倉幕府成立の翌年に、頼朝が多数の御家人を集めて催した富士の巻き狩りは、現在の御殿場市から裾野市、更には富士川上流の朝霧高原まで及ぶ大規模なものだったと言われている。

富士の巻き狩りと言えば、曾我兄弟の仇討ちが思い浮かぶ。
討たれた工藤祐経は伊東祐親の甥で、伊東荘をめぐる所領争いで祐経は祐親に刺客を送ったのだが、狙った矢は、祐親の嫡男である河津祐泰に当たってしまう。
後に頼朝の寵臣となった祐経を討ち取った曾我祐成と曾我時致の兄弟は、祐泰の実子、つまりは祐親の孫に当たり、祐泰の妻が再婚した曾我家で育てられたのである。

「五郎者。差御前奔參。將軍取御劔。欲令向之給。而左近將監能直奉抑留之。此間小舎人童五郎丸搦得曾我五郎。仍被召預大見小平次。其後靜謐」

「吾妻鏡」では、工藤祐経を討った曾我時致が源頼朝の陣に乱入して取り押さえられる場面が描かれているが、発端となった祐経による伊東祐親暗殺の企てが頼朝の意を受けていたのではないか、と唱える説があることを聞けば、なるほどと思わせる。

曾我兄弟の敵討ちの直後、鎌倉では頼朝が討たれたとする誤報が伝わるなどの混乱を極め、鎌倉に残っていた源範頼が「範頼左て候へば御代は何事か候べき」と政子に見舞いの言葉を送ったことが謀反の意思と曲解され、範頼は修禅寺に幽閉された上で謀殺されるという後日談を生んでいる。
修善寺は、鎌倉幕府の2代将軍である源頼家が将軍の座を追われて幽閉され、誅殺された地として知られているが、地味でありながらも頼朝の優秀な片腕だったと評される範頼も、修善寺で最期を迎えたのである。


源平の時代を取り上げた大河ドラマを初めて観たのは、昭和54年にNHKが放映した「草燃える」だった。

現代語や現代語調を初めて多用した台詞回しには、子供心にも違和感を抱いたものだったが、源頼朝が石坂浩二、北条政子が岩下志麻、源義経が国広富之、源範頼が山本寛、源頼家が郷ひろみ、源実朝が篠田三郎 、平清盛が金子信雄、平宗盛が西田健、北条時政が金田龍之介、北条宗時が中山仁、北条義時が松平健、梶原景時が江原真二郎、安達盛長が武田鉄矢、安達景盛が火野正平、比企能員が佐藤慶、和田義盛が伊吹吾郎、三浦義村が藤岡弘、畠山重忠が森次晃嗣、土肥実平が福田豊土、千葉広常が小松方正、大庭景義が花沢徳衛、大庭景親が加藤武、大江広元が岸田森、山木兼隆が長塚京三、工藤祐経が加藤和夫、曾我祐成が三ツ木清隆、曾我時致が原康義、伊東祐親が久米明、伊東祐清が橋爪功、といった錚々たる顔ぶれは実にはまり役が多く、夢中になったものだった。

源平合戦から承久の乱までを鎌倉武士団の視点で描いた歴史ドラマは他に思い当たらず、この稿を書いていても、歴史上の人物が「草燃える」出演の俳優に脳内変換されてしまう。
特に石坂浩二は、威厳はあるものの、少しばかり女好きで、妻の政子には頭が上がらないという情けなさも併せ持つ頼朝像にぴったりだった。


源頼朝をめぐる人々と時代に思いを馳せているうちに、「伊豆スパー」号は、いつしか由比の海岸と日本平を過ぎ、静岡ICを出て東名静岡バス停に停車した。
名古屋行きでは降車、伊東行きでは乗車に限られている停留所だが、席を立つ人は誰もいない。

長かった夏の日もそろそろ黄昏を迎える頃合いであったが、暗くなるのが少しばかり早過ぎやしないか、と時計に目をやった僕は、ギョッとした。
東名静岡の到着予定時刻は17時55分のはずだが、時計の針は、既に午後6時半を過ぎているではないか。
大した渋滞に引っ掛かった記憶はないのだが、伊東から修善寺への山越えの悪路や、国道1号線から沼津ICにかけての混雑で、少しずつ遅れが積み重なったのであろうか。

一般道の区間が多いバス路線では、得てしてこのようなことが起き得るものだが、20時45分に到着するはずの名古屋駅で、僅か25分という乗り継ぎを控えている僕は、大いに焦り出した。
この先、浜名湖SAでの休憩を経て名古屋駅まで、時刻表の通りに走れば2時間50分、高速道路が大部分であるから少しは遅れを取り戻すかもしれないけれど、間に合わない公算も少なくない。
甘く考え過ぎたか、と臍を噛む思いである。

日本坂トンネルを抜け、暮れなずむ茶畑の中を走り抜けて、とっぷりと日が暮れた浜名湖SAで気もそぞろに過ごした休憩を終えると、車窓はすっかり漆黒の闇に塗り潰されてしまった。


20時05分に着く予定の名古屋インターバス停を通過したのが、20時半である。
ここから名古屋駅までは、ダイヤ通りに走っても40分を要する。

名古屋市内の車の流れもつっかえ気味だったから、僕は、後ろ髪を引かれる思いで、次の星ヶ丘バス停で「伊豆スパー」号を見限った。
むっと襲い掛かってくる蒸し暑さに辟易しながら、名古屋市営地下鉄東山線星ヶ丘駅の階段を小走りに下り、上り電車に乗れば、名古屋駅まで20分である。
当時のJRハイウェイバスターミナルは、名古屋駅桜通口の奥まった場所に設けられていて、地下鉄東山線の名古屋駅も桜通口の真下にある。

どうも今回の旅は息が切れるな、と苦笑しながら階段を駆け上がり、薄暗いバスターミナルに飛び込んだ時には、午後9時を過ぎていた。


21時10分発の東京行き夜行高速バス「ドリームとよた」号は、既に乗り場に横づけされていた。
間に合ったか、と胸を撫で下ろすと同時に、どっと全身に汗が湧いてきた。

午後1時に東京駅を発つ特急電車に乗り、伊東駅では立ち食い蕎麦を啜り込んだだけの30分足らずで高速バスに乗り換え、予定外の地下鉄を駆使してまで名古屋駅に急いだのは、東京行きの夜行高速バスに間に合わせるためである。
冷静に振り返ってみれば、実に阿呆らしい行為としか言い様がない。

もちろん、旅の主眼は「伊豆スパー」号であるけれど、せっかく名古屋まで足を伸ばしたならば、「ドリームとよた」号は是非とも乗車してみたい路線であった。

 

昭和44年6月に、我が国初の夜行高速バスとして、国鉄が東京-大阪系統2往復と東京-名古屋経由京都系統1往復の運行を開始したことが、「ドリーム」号の始まりである。

同年12月には名古屋系統が独立して京都系統が直行便となり、昭和46年12月に神戸系統が運行を開始する。
昭和62年4月の国鉄の分割民営化により、JR東日本・JR東海・JR西日本のバス部門が「ドリーム」号を担当、昭和63年にはJRバス関東・JR東海バス・西日本JRバスに分社化されて、東京-京都・大阪・神戸間はJRバス関東と西日本JRバスが、東京-名古屋間はJR東海バスにより運行されることになり、路線網が拡大していく。
昭和63年に「ドリーム」号京都系統を延伸する形で東京-京都・奈良間の「ドリーム奈良」号が開業し、「ドリーム」1号、2号などと命名されていた愛称を分離して、名古屋系統を「ドリームなごや」号、京都系統を「ドリーム京都」号、大阪系統を「ドリーム大阪」号、神戸系統を「ドリーム神戸」号へと改称する。
同じ年には「ドリームなごや」号に岐阜駅発着系統が設けられ、平成2年には、新宿駅南口に新設された高速バスターミナルを起終点として中央自動車道を経由する新宿-京都「ニュードリーム京都」号と「ニュードリーム大阪」号、東京-堺「ドリーム堺」号、東京-難波「ドリームなんば」号が登場し、そして平成3年7月に、東京-瀬戸・豊田・名古屋「ドリームとよた」号が開業の運びとなる。


国鉄時代の「ドリーム」号と言えば、無骨な外観を備え、タイヤハウスが足元に飛び出している低床の横4列シート車両と相場が決まっていたが、平成2年に「ドリーム大阪」号、「ドリーム京都」号、「ドリーム奈良」号が横3列シートのスーパーハイデッカー車両に更新される。

平成3年7月21日には、夜行高速バスとして初めての2階建て車両が「ドリームなごや」号に導入され、その5日後に開業した「ドリームとよた」号もダブルデッカーが用いられた。
「ドリーム京都」号、「ドリーム大阪」号、「ドリーム神戸」号にも平成3年から平成6年にかけてダブルデッカーが続々と投入されたため、「ドリーム」号と言えば2階建てバス、というイメージがある。

ダブルデッカーで初めて一夜を過ごしてみたくなって、僕は「ドリームとよた」号を予約した。


名古屋駅を23時に発車する「ドリームなごや」2号や、23時20分の「ドリームなごや」4号を選んでいれば、「伊豆スパー」号が多少遅延しようとも悠然と乗り続けていられたのだが、同じダブルデッカーの乗り心地を楽しむにしても、どうせならば新路線に乗ってみたい、と考えてしまう所がマニアの発想である。

同じく名古屋と東京を結びながらも、「ドリームとよた」号が「ドリームなごや」号より2時間近くも早く発車するのは、22時15分発の瀬戸記念橋駅、22時45分発の新豊田駅、23時30分発の岡崎駅などに寄っていくためである。


愛知県東部地方の諸都市と東京を結ぶ高速バスを、JR東海バスが開設したのは、この地が国鉄バス発祥の地であることと無関係ではないだろう。

国鉄が自らの手でバス事業を行うきっかけとなったのは、大正10年に改正された鉄道敷設法により、全国に膨大な数の鉄道建設が予定されたことがきっかけと言われている。
それらの予定線は需要見込みが少ない地域で計画され、多額の建設費が予想されたので、自動車運輸事業で鉄道を代替することになり、昭和5年12月に、国産のバス7台とトラック10台を使って、岡崎駅-多治見駅と瀬戸記念橋駅-高蔵寺駅の2路線が運行を開始したのである。


瀬戸市内にJRの鉄道駅は存在せず、瀬戸記念橋駅とは、自動車駅を指している。
大正天皇の行幸に際して瀬戸川に架けられた記念橋に隣接していることが由来で、省営自動車が開業した2路線が交差する要所であり、その後に挙母・岡崎方面の瀬戸南線、品野・多治見方面の瀬戸北線、名古屋方面の瀬戸西線といった路線網が拡大し、全国の国鉄乗車券や指定席券などを販売するみどりの窓口も設けられていた。

御多分に漏れず、この地域のバス路線網も平成に入ってから縮小の一途をたどり、平成21年9月をもってJR東海バスの路線は全廃されてしまう。
今でも、名鉄瀬戸線尾張瀬戸駅の近くの記念橋の袂には、「省営バス発祥の地」の記念碑が置かれている。

僕が初めて高速バスに乗車したのは国鉄時代の「東名ハイウェイバス」であり、夜行高速バス初体験も「ドリーム」号だったため、暗くて何も見えないかもしれないけれど、国鉄バス発祥の地を通ることは「ドリームとよた」号の楽しみの1つであった。


問題は、翌朝5時40分着の東京駅までの所要が8時間30分にも及ぶことで、「ドリームなごや」号ならば6時間40分しか掛からない。
何を好んで2時間も長いバスに乗るのか、と運転手さんに奇異の眼で見られるのではないかと、乗り場に近づくことを逡巡してしまう。

『お待たせしました。只今より東京行き夜行高速バス「ドリームとよた」号の改札を始めます。御乗車のお客様は3番乗り場までお越し下さい』

とのアナウンスが流れると、見上げるようなダブルデッカーの中央扉の前に、あっという間に10人以上もの列が出来たので、僕のような物好きがこれだけいるのか、と驚いた。
並んでいるのはネクタイ姿のビジネスマンや女性客が殆どで、マニアらしい容姿の客は見当たらない。
「ドリームなごや」号が満席で、席が予約できなかった人たちであろうか。

運転手さんも、乗車券にちらりと目を遣っただけで、

「はい、5番のC席ですね。2階へ上がって右側の窓側です」

と、至って事務的である。

乗降口のすぐ後ろにある廻り階段を、頭をぶつけないよう首をすくめながら昇り、天井の低い2階客室でも腰を屈めたまま通路を進んで、これがダブルデッカーの車内か、と指定された席から物珍しげに車内を見回していると、ようやくくつろいだ気分になった。
ある評論家から、ダブルデッカーは天井が低いものの、背もたれを倒して眠ってしまえば関係ないだろう、などと褒められているのか貶されているのか分からない評価を下されてしまい、事実その通りだったのだが、こうして乗っているだけでも楽しく、他のバスと異なる味わいがあることは確かである。
東京までの一晩を、せいぜい楽しんで過ごそう、と思う。


2階席は地上からどれくらいの高さなのか、と窓の下を覗き込んでいると、不意に、隣りの2番乗り場に滑り込んできたスーパーハイデッカーが僕の視界を塞いだ。
車体に「伊豆スパー」と大書されている。
時刻は21時08分、定刻より23分の遅れで、伊東からの長い航海を終えたのである。
おお、間に合ったのか、と旧友に再会した気分になった。

僅か2分後に、「ドリームとよた」号は、誘導員のホイッスルに導かれて、バックしながら乗り場を離れた。

乗りたかったバスの顛末を最後まで見届けられて安心したけれども、あのまま「伊豆スパー」号に乗っていても良かったのか、それとも、星ヶ丘で地下鉄に乗り換えて正解だったのか、少しばかり複雑な心境になった。
伊東発のバスからそのまま東京行きに乗り移ろうものなら、あの男は何しに名古屋まで来たのか、と訝しく思われるのがオチであろうし、これで良かったのだろう。

ただ、訪れた全ての土地で慌ただしく乗り継ぐだけだったこの旅の目的地を、何処と言うべきなのか、未だに結論は見出せていない。


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