伊豆への新しい高速バスの旅~「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」で箱根の坂を越えて三島・修禅寺へ~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

東京から箱根の坂を越えて伊豆までは、かなり億劫な行き来となる覚悟がいる時代があった。
 
首都圏に近い人気の一大観光地でありながら、車を使った場合、伊東や伊豆高原、下田などの東伊豆へは、東名高速道路と小田原厚木道路までは順調でも、小田原市街を通過した先の西湘バイパス石橋ICから先は、崖っぷちを登り下りする国道135号線を延々と南下する以外に道はない。
それでも、この経路は箱根山塊の裾を回り込む海岸に沿い、根府川や真鶴付近で相模灘の絶景を眺められるから、まだマシである。
 

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修善寺や天城といった中伊豆方面や、土肥・堂ヶ島などの西伊豆へは、箱根の北の東名御殿場ICから乙女峠を越えるか、もしくは小田原厚木道路から国道1号線旧道や箱根新道、箱根ターンパイクを経て、箱根峠と十国峠から伊豆スカイラインに入る方法か、もしくは箱根越えの先の三島や沼津から国道136号線で修善寺に抜けることになる。

天城や西海岸まで行ってしまえば楽しい道になるけれど、伊豆の入口とも言うべき三島から修善寺にかけては、中古車店やファミレスなどが軒を連ねるだけの平板な郊外風景が続く1本道で、欠伸が出ない方がおかしいくらいの単調な道行きである。
しかも休日や夏季シーズンともなれば、どこも大渋滞となるのが常であった。
 
車やバイクで伊豆を訪れたことは何度もあるけれど、修善寺の近辺で渋滞に苛々しながら、遥か前方まで数珠つなぎになった車の列に溜息をついた記憶ばかりなのである。
 
 
20年ほど前に、職場のバイク仲間とツーリングで伊豆を1周したことがある。
旧天城トンネルや石廊崎、西海岸の絶景を存分に楽しんだものの、土肥まで戻って来た時に、僕が音を上げてしまった。
 
「ここから東名までは遠いよ。沼津までフェリーにしないか?」
 
バイク乗りの風上にも置けない申し出なのだが、優しさからなのか、それとも土肥から沼津への行程に辟易する思いは皆同じだったのか、仲間も気持ち良く賛同してくれた。
駿河湾フェリーの船上で程良い休憩をとることも出来たし、何よりも、海上から望む富士山が見事だった。
 
 
東京から伊豆への交通機関としては、JRの特急列車「踊り子」が、伊豆急行や伊豆箱根鉄道に乗り入れて下田や修善寺まで直通しているから、決して不便とは言えない。
エコの観点からは鉄道を利用した方が好ましいのであろうが、ドア・ツー・ドアやバリア・フリーでは、鉄道が車より劣るのも事実である。
 
 
平成21年3月に、新宿と修善寺を結ぶ高速バス「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」が開業したことを知った時に、まず思い浮かべたのが、伊豆までの遠い道のりのことだった。
 
東京と伊豆を結ぶ初めての高速バスだったから、無性に乗りたくなった。
自分の運転ならばうんざりするけれども、高速バスならば、少しくらい冗長だろうが渋滞しようが、乗っている時間を楽しく過ごすことが出来るかも、とも思った。
 
ただ、新宿から修善寺までの所要が3時間弱となっているけれど、本当にその時間内で行けるのだろうか、と心配でもある。
せめて週末や休日は避けた方が賢明であろうと考えた僕は、平成27年7月の平日に仕事を終えてから、少しばかり早く職場を出て、新宿駅に向かった。
 
 
まだバスタ新宿が出来ていない時代で、「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」は、新宿駅西口のハルク前に設けられた小田急箱根高速バス乗り場から発車する。
 
小田急箱根高速バスは、東名高速が開通した昭和44年6月から、新宿と箱根桃源台を結ぶ高速バスを専門に運行してきた老舗のバス会社で、一般路線バスや長距離高速バスを運行する小田急バスとは、同じ小田急電鉄傘下でありながら別会社である。
箱根1本槍であったバス会社が伊豆方面にも路線網を展開したのは意外だったが、一方で、箱根と伊豆は、ひと続きの土地のようなものか、と妙に納得したものだった。
数々の温泉と豊かな自然に彩られたこの観光地を、伊豆箱根国立公園として、行政もひとくくりにしているではないか。
 
 
箱根火山は、約40万年前から何度も噴火を繰り返し、約25万年前には古箱根火山と呼ばれる標高2700mにも達する富士山型の成層火山が形成されたと言われている。
約18万年前に山の中心部が陥没して巨大なカルデラが誕生し、その周囲を塔ノ峰、明星ヶ岳、明神ヶ岳、丸岳、三国山、大観山、白銀山といった標高1000m前後の古期外輪山が囲んでいたらしい。
 
約13万年前の火山活動によって、カルデラ内に小型の楯状火山が出現し、約5万2000年前に、現在の横浜あたりから富士川までを約50億立方メートルにも及ぶ火砕流で埋め尽くす破局噴火を起こした後に陥没、浅間山、鷹巣山、屏風山などの新期外輪山が形成される。
約5万年前になるとカルデラ内の火山活動のために先神山が形成され、溶岩を大規模に流出させることで台ヶ岳、箱根駒ヶ岳、上二子山、下二子山といった中央火口丘群が出現、その火砕流で早川が堰き止められて、仙石原にカルデラ湖が誕生する。
 
最近1万年程の火山活動は中央火口丘群に限られており、約8000年前の神山、約5700年前の二子山、約3200年前の神山と、3回の火山活動が確認されているという。
最後の神山の噴火により大涌谷が生まれ、土石流により仙石原湖が埋没して仙石原となり、早川上流の湖尻付近が堰き止められて芦ノ湖が誕生することになる。
 

 

その後は大涌谷周辺での水蒸気噴火だけが発生するようになり、近年では、平成27年5月6日の水蒸気爆発と、同年6月30日の噴火によって、大涌谷周辺の半径1kmに避難指示が出されたことは記憶に新しい。
人口稠密の首都圏の至近で破局的噴火を含む活発な火山活動の歴史が刻まれているのは無気味としか言い様がなく、その眠りが覚めないことを祈るのみである。
 
かたや、今から200万~1000万年前の伊豆半島は太平洋上に浮かぶ火山島で、プレートの移動に伴って100万~200万年前に本州と合体し、60万年前に現在のような半島となったと言われている。
 

 

つまり、箱根と伊豆の成り立ちは全く別々なのであるが、地図を開けば、箱根山は箱根峠、十国峠、熱海峠と南北に連なる標高700~900m級の尾根筋で伊豆半島の脊梁山脈と一体のように繋がっており、十国峠ドライブウェイから伊豆スカイラインへとハンドルを握っていても、何処までが箱根山で何処からが伊豆半島なのか、判然としない。
 
休日に車で伊豆に向かうと、東海岸を伝う国道135号線がひどく渋滞しているのか、カーナビが小田原厚木道路から箱根を越える国道1号線の箱根新道を案内することも多く、本当にこの行き方が早いのだろうか、と大いに悩まされる。
芦ノ湖の南にある箱根峠の交差点から伊豆スカイラインに至る道をドライブするのは、景色も抜群で実に爽快なのだが、九十九折りの山道だから、同乗者が車に酔いやすかったりすると、この経路を使うことを躊躇ってしまう。
 
 
箱根山から伊豆半島に至る峻険な山陵は、まさに我が国随一の動脈である東海道を分断している。
 
中でも標高846mの箱根峠は、古くから東西交通における難所とされて、律令時代に設けられた東海道は、箱根山の北方にある足柄峠を経由していたと言う。
9世紀初頭の富士山の延暦噴火によって、足柄峠の通行が困難になったことから、箱根峠に街道が開かれた。
 
徳川幕府は距離の短い箱根峠ルートを重視し、芦ノ湖畔に箱根関所を設け、明治期に造られた国道1号線も箱根峠越えを踏襲した。
ただし、鉄道は地形が急峻な箱根峠を避け、最初の東海道本線は足柄峠に近い箱根外輪山の外周を迂回する御殿場経由で建設された。
小田原と沼津の間を短絡した新しい東海道本線の丹那トンネルは、箱根から伊豆半島に連なる山塊の1つ、熱海火山を貫いて、異常湧水と崩落事故に悩まされながら16年にも及ぶ難工事となったのである。
東海道新幹線も新丹那トンネルで東海道本線と平行しているが、東名高速道路や、国道1号線のバイパスとして機能する国道246号線は、御殿場経由で建設された。
 
 
発車時刻である17時05分の直前に新宿駅西口に姿を現した「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」は、小田急箱根高速バスと全く同じ塗装でありながら、静岡側の事業者である東海自動車である。
 
乗り場には大勢の利用客がたむろしていたが、乗り場に横付けされた「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」が案内されても顔を見合わせて動かない人ばかりで、乗降口に集まったのは僕を含めて僅かに5人だった。
数人連れで歩み寄ってきた外国人などは、改札をする運転手さんに、
 
「Hakone?」
 
と問い掛けてから、
 
「Syu……Syuzennji?Where is Syuze……Syuzennji?Not Hakone?──Oh no!It's different destination」
 
などと、賑やかにまくし立てた挙げ句、大袈裟に肩をすくめて離れてしまう。
箱根が日光、鎌倉と並ぶ国際的な観光地であることに異論はないけれど、伊豆だって良い所なんだぞ、と、いささか判官びいきの心持ちになりながら、僕はバスに乗り込んだ。
 
 
僕の「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」に対する目下の関心事は、どのような経路で修善寺へ向かうのか、ということである。
東京側の担当事業者が小田急箱根高速バスであることから、箱根の坂を越えて伊豆に向かうかもしれない、と思ったりもする。
 
定時に発車したバスは、甲州街道から山手通りに左折し、首都高速中央環状線山手トンネルに潜り込んで、大橋JCTで螺旋状の流入路を駆け上がり、首都高速3号線に入る。
甲州街道と山手通りが交差する初台の交差点は何回も信号待ちを強いられる渋滞ぶりで、大橋JCTも山手トンネルから首都高速までノロノロ運転である。
 
伊豆でも渋滞に巻き込まれるかもしれないのに、こんな旅の鳥羽口で引っ掛かってしまうのかと、もどかしさを禁じ得ない。
 
 
東名高速に入って多摩川を渡る頃には車の流れもスムーズになり、小田原厚木道路を分岐する厚木JCTを脇目も振らずに通過してしまう。
まさか、とは思っていたけれど、これで箱根峠を経由する可能性は消えた。
 
前方には黄昏に染まる丹沢山系が連なり、ひときわ高く大山がそびえ立っている。
晴れていれば大山の左に富士山が顔を覗かせることもあるのだが、この日は雲が多く、大山だけが夕景の中にくっきりと浮かび上がっている。
 
 
箱根路が開かれる以前の東海道が越えていた足柄峠は、大山の西にあったのだっけ、と思う。
 
古来、関東地方が板東と呼ばれたのは、矢倉沢往還と呼ばれたこの峠道を足柄坂と呼んだことが由来であるという。
東海道が箱根を越えるようになっても、矢倉沢往還は大山詣の信者たちに盛んに利用され、大山街道と呼ばれるようになる。
 
矢倉沢往還は、後に国道246号となり、「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」が走り抜けてきた首都高速3号線と東名高速道路も、概ねこの街道に沿っていることから、我が国の東西交通で最も重要な役割を持つルートとして利用され続けている。
 
 
関東平野のどん詰まりに位置する秦野中井ICを過ぎると、東名高速は酒匂川に沿う山越えに挑んでいく。
道路の傾斜が急になり、カーブもきつくなるが、「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」の走りは全く衰えを見せない。
 
平成3年に、東名高速の大井松田ICと御殿場ICの間は、下り線が従来の上り線を併せた2車線ずつの計4車線に拡張され、3車線の上り線が新たに建設された。
下り線は、旧来の下り線である左ルートと、かつての上り線を逆方向に転用した右ルートに分かれ、制限速度は変わらないものの、比較的速度が速い車が利用する右ルートに高速バスが進入することは、あまり経験したことがない。
 
「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」も左ルートに入るのかと思いきや、果敢にも右ルートに舵を切った。
自分の運転でも右ルートに入ったことはあまりなかったので、どのような道なのかと興味津々であったが、よく考えてみれば元々上り車線として何回も走ったことがあるから特に目新しい風景でもなく、車の流れも左ルートと大して変わる訳でもない。
 
 
現在の上下線はかなり離れていて、上り線は折り重なる山々をモノともせずトンネルで貫いていくため、842mの鳥手山トンネル、708mの太郎ヶ尾トンネル、328mの北畑トンネル、482mの桜平トンネル、569mの高尾トンネル、125mの所領トンネル、215mの白旗トンネルと、下り線より7本もトンネルが多くなっている。
 
下り線でも、長さ360mの吾妻山トンネルや1656mの都夫良野トンネルといったトンネルが姿を現すが、山肌を巻くように建設されている区間も多く、上り線より眺めが良い。
65mの高みから、山あいを流れている川面を見下ろす東名酒匂川橋で窓外を覗き込むと、身がすくむ。
 
 
鳥居忱作詞、滝廉太郎作曲の唱歌「箱根八里」で、
 
箱根の山は 天下の嶮
函谷關も ものならず
萬丈の山 千仞の谷
前に聳へ 後方に支ふ
雲は山を巡り 霧は谷を閉ざす
昼なお暗き 杉の並木
羊腸の小徑は 苔滑らか
一夫關に當るや 萬夫も開くなし
天下に旅する 剛氣の武士
大刀腰に 足駄がけ
八里の岩根 踏みならす
かくこそありしか 往時の武士
 
と歌われたそのままの景色が車窓に展開する。
 
 
前方に、下り線を跨ぐ上り線の東名足柄橋の流麗な斜張橋が姿を現すと、間もなく左右のルートが合流し、「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」は減速しながら足柄SAに滑り込んだ。
 
バスを降りると、高原を吹き渡る風が肌に心地良い。
つい先程まで猛暑の都心で仕事をしていたというのに、2時間たらずでこのような場所にいるとは、何だか不思議な感覚である。
出掛けて来て良かった、と思う。
 
「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」の前には、派手な富士急ハイランドの広告でラッピングされた東京‐河口湖線が羽を休めていて、続いて東京発名古屋行き「東名ライナー」号が追い付いてくる。
前者は、これから雲の中を冨士山の反対側まで行くのだな、と思うと、それもまた羨ましい。
河口湖へは、新宿からの「中央高速バス富士五湖線」で行くのが古くから一般的で、何度も往復したことがあるけれど、御殿場経由は自分で運転したことはあっても高速バスで行き来したことはないから、いつかは乗ってみたいものだと思っている。
 
 
10分の休憩で身体を伸ばしながら、僕らはこれからどのような道を使って修善寺に向かうのか、と楽しみになる。
 
「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」は、18時55分着の三島駅北口、19時05分着の三島駅南口、19時33分着の長岡温泉、19時48分着の大仁・伊豆温泉村に立ち寄ってから修善寺に向かう予定である。
オーソドックスな行き方は、東名沼津ICから国道1号線バイパスで三島へ戻っていく経路であろうが、足柄SAを出た「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」は、その先の御殿場JCTで新東名高速道路への流入路に入ったので、少なからず驚いた。
東名高速より南にある土地に向かうと言うのに、北側を走る新東名高速に入ってどうするつもりなのか、と思ったのである。
 
 
東名高速ならば、富士の裾野を水源とする黄瀬川に沿って長い下り坂を駆け下りていくのだが、山あいを進む新東名高速は、東名と平行していながらも、それほど高度を下げているようには感じられない。
左手に駿河湾と三島の街並みを遠望する頃になると、どこまで行くのだろう、このままでは伊豆半島の付け根を過ぎてしまうではないか、と不安にさせられたが、長泉沼津ICの標識が現れると、バスは速度を落とし始めた。
 
 
料金所を出たバスはそのまま伊豆縦貫自動車道に入っていく。
 
伊豆縦貫自動車道は、沼津市と下田市を結ぶ延長約60kmの伊豆半島で初めての高規格幹線道路で、東名高速の沼津岡宮ICと三島塚原ICの間は東駿河湾環状道路として平成23年7月に開通、翌年には新東名高速への連絡路として長泉沼津IC-長泉JCTが、平成26年2月に三島塚原IC-大場・函南ICが開通している。
 
伊豆縦貫道の大場・函南IC-修善寺ICは着工されていないが、代わりに伊豆中央道が大場・函南ICに程近い大場川南交差点-長岡北ICの間で昭和60年に、長岡北IC-大仁中央ICが平成7年に、それぞれ供用を開始して、東駿河湾環状道路と直結している。
その先も、平成4年に熊坂IC-修善寺ICが、平成10年に大仁中央IC-熊坂ICが修善寺道路として開通、平成20年に修善寺IC-大平ICが、平成31年に大平IC-月ケ瀬ICが天城北道路として開通し、現時点で沼津と伊豆市月ヶ瀬の間が高規格道路を使って行き来できるようになっている。
 
このような道が出来ていたのか、と感心する。
 
 
伊豆縦貫道は東名高速を跨ぎ越し、すっかり暗くなって、行き交う車のヘッドライトやテールライトだけが輝く切り通しの下り坂を、左へ、左へとカーブしていく。
ほぼ180度の弧を描いて、新東名高速や東名高速と逆の方を向いてしまったから、この道路はいったい何処へ向かうのか、と、また心配の種が増えた。
慌ててスマホを取り出し、地図を見れば、伊東市街を避けて東側の山中を迂回してから南下することが判明したから、そうだったのか、と思う。
 
せっかく新しい高速道路に乗ったというのに、「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」は長泉沼津ICから5kmほど進んだ三島萩ICで下りてしまい、県道21号線で三島市の中心街へ向かう。
 
 
「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」は、平成21年に開業した時には「伊豆・新宿ライナー」という愛称であった。
 
この旅の前年の平成26年4月に、現在の長い愛称に変更されたのは、最初の名前が漠然とし過ぎていて、平成22年3月に新宿と三島を結んで走り始めた高速バス「三島エクスプレス」号と紛らわしかったことも一因と思われる。
「三島エクスプレス」号も小田急箱根高速バスと東海自動車が組み、1日14往復が運行される盛況ぶりであるのに、「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」は、新宿発9時15分と17時05分、修善寺の年川車庫発9時20分と16時20分の1日2往復だけである。
しかも、平成29年から午後の便の発車時刻が大幅に早められて、毎日運行するのは新宿8時30分発と年川車庫14時00分の1往復だけに減便され、新宿13時15分発、年川車庫9時00分発の便が土曜・休日のみの運行と、どうも振るわない印象である。
毎日運行便は三島市内停留所を廃止して伊豆長岡・修善寺直行となり、土曜・休日運行便のみが、従来と同様に三島市内を経由している。
 
富士急行バスが運行する新宿-沼津線「みしまコロッケ」号も、1日9往復のうち3往復が三島市内の停留所に立ち寄っているから、東京と三島の間は、新幹線と競合しつつも、かなり太いパイプで結ばれていることになる。
 
 
面白いのは、「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」も「三島エクスプレス」号も、そして「みしまコロッケ」号も、三島駅で北口と南口の両方に停車することである。
どの路線も三島駅北口と南口の間に要する時間は10分であり、地平のJR在来線で2本のホームと待避線を含めた5本の線路、高架の新幹線で1本のホームと通過線を含めた4本の線路、そして伊豆箱根鉄道駿豆線のホームと2本の線路があるだけの構内を横断するのに、徒歩で5分と掛からないのではないだろうか。
 
ところが、三島駅には北口と南口を結ぶ自由通路が無く、駅の南北を行き来するには、入場券を購入するか、駅の敷地を大きく迂回する必要があり、迂回の場合は徒歩で10分程度を要すると言う。
 
せっかく三島駅の南北にわざわざ寄り道し、加えて、社会福祉会館、一本松と停車案内が流れるものの、降車ボタンを押す乗客は誰もいなかった。
東京と三島を行き来する利用客は、「三島エクスプレス」号を利用するのであろう。
 
 
三島から長岡温泉を経て修善寺までの車窓は、すっかり闇に包まれてしまったが、平成3年に伊東と名古屋を結ぶ高速バス「伊豆スパー」号で通った懐かしい道であり、この旅の翌年には、伊東から堂ヶ島・松崎へ向かう「西伊豆特急バス」でもう1度たどることになる。
 
伊豆中央道の高架の脇にある長岡温泉停留所が、何処に温泉施設やホテルがあるのだろう、と訝しくなるような寂しい場所に思えたのは、辺りが暗くてよく見えなかったことが一因であろうか。
新宿から楽しそうに話し込んでいた年配の夫婦が長岡温泉で下車し、19時53分着の修善寺駅前に降り立ったのは、僕を含めて3人であった。
 
このあと、「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」は、修善寺温泉を経て年川車庫に向かうはずなのだが、他の路線バスと一緒に駅前の待機場に停車したバスは、いつまで経っても動く気配を見せなかった。
 
 
せっかく修善寺まで来たけれども、「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」を乗り通したことで旅の目的は果たされてしまい、東京へ戻るだけである。
僕は伊豆箱根鉄道駿豆線の改札をくぐり、20時01分発の三島行き電車に乗り込んだ。
 
ホームには特急「踊り子」に用いられている185系電車が停車しており、これならば2時間前後で東京に戻れるじゃないか、と思ったのだが、この時間帯に「踊り子」の運転はなく、車内も明かりを落として翌朝の発車まで待機しているだけのようである。
昭和60年代には1日10往復が伊豆急下田まで、6往復が修善寺まで運転されていた「踊り子」だが、今や下田発着列車は1日6往復にとどまり、修善寺発着は僅か2往復と凋落している。
伊豆への観光客が減少した訳ではなく、車での行き来が増えた影響かもしれない。
 
 
ホームの向かいに停まっている各駅停車に乗れば、20時36分に三島へ着き、新幹線で小田原、小田急ロマンスカーに乗り継げば新宿へ午後11時前に帰り着けるから、「踊り子」の所要時間と大して変わらない。
 
伊豆箱根鉄道駿豆線に乗るのは初めてだったが、車内には昔の国鉄急行電車のような4人向かい合わせのボックス席が並び、懐かしい雰囲気である。
 
 

今、出てきたばかりの修善寺は、807年に空海が創建したと伝えられる高名な寺の名が、そのまま地名として用いられているのかとばかり思っていたが、寺の名は、修禅寺、と書くのだという。

源頼朝の弟の源範頼と、頼朝の息子で鎌倉幕府2代将軍の源頼家が、幽閉され殺害されたことでも知られている。

戦乱や火災により伽藍が全焼したこともあるのだが、再興したのは北条早雲である。

 

牧之郷、大仁、田京、伊豆長岡、韮山、原木、伊豆仁田、大場──

 

淡い照明が照らし出す、人気のない途中駅を窓から眺めながら、ふと思い浮かべたのは、早雲の生涯を描いた司馬遼太郎の小説「箱根の坂」だった。

 
 
室町幕府の8代将軍足利義政の弟である義視の申次衆を務めていた早雲は、義視の側女として奉公を始めた美貌の娘・千萱の世話をすることになる。
折しも、多くの餓死者を出した長禄・寛正の飢饉の最中で、巷には飢民が溢れ返り、食い詰めた者は野盗となって狼藉を働き、京の市中で争いの絶える日がなかった時代である。
室町幕府に世の中を建て直す力も意志もなく、将軍職の継嗣問題がきっかけとなって、諸国の勢力が二分される応仁ノ乱が起こり、未曾有の乱世が始まる。
それまで地下人と呼ばれて賤しまれていた地頭や国人衆といった階層が、農業生産性の向上と商業の発達によって力を得るようになり、不意打ちや闇討ちも辞さず勝利を求める戦法を得意とする足軽衆が登場することで、戦いに美学を求める源平時代以来の価値観が潰えて、社会全体に地殻変動とも言うべき変化が起こりつつあった。
巨大な変革と新たな時代の胎動を感じていた早雲は、ひょんなことから足軽の軍勢を指揮することで、己の中に眠っていた軍才に気づかされる。
 
いつしか惹かれ合っていた早雲と千萱であったが、駿河の太守である今川義忠の子を身籠もった千萱は駿河へ下り、早雲は足利義視と共に京を落去し、頭を丸めた入道姿となって諸国を流浪するようになる。
今川義忠の嫡男・竜王丸を産んで北川殿となった千萱が、義忠の死去の後に後継を巡る騒動に巻き込まれていることを知らされた早雲は、駿河へと向かう。
 
駿河国では、古くからの御譜代衆と新興勢力である地頭・国人衆との睨み合いが家督争いに影を落としていたばかりではなく、関東管領山内上杉氏と鎌倉公方の対立、後に山内上杉氏と対立関係になる扇谷上杉氏が繰り広げている争いの影響下に晒されていて、将軍家から派遣されて伊豆に御所を築いた堀越公方も無視し得ない勢力を持っていた。
早雲は、家督争いで対立する今川義忠の従弟の今川範忠を倒し、竜王丸を国主として駿府城に迎えることに成功する。
更に、今川氏の軍勢の助けを得て堀越公方を滅ぼし、東相模を勢力下に置く三浦氏の下に逃亡した堀越公方の嫡男を三浦氏の内紛に乗じて倒すことで、伊豆を支配下に置く。
早雲は、名目上の伊豆守護職であった山内上杉氏に対抗しながら、その影響下にあった小田原城を奪取、山内上杉氏寄りの立場であった三浦氏も、長い歳月を費やして打ち倒すことで、相模国を配下に治めることに成功したのである。
 
 
新時代を切り拓いた早雲の生涯に思いを馳せることは、箱根の坂を越え、伊豆半島の入口に足跡を印した夕刻のささやかな一人旅に相応しい。
 
『この奇妙人について重要なことは戦国の幕を切っておとしたことである。
さらには室町体制という網の目のあらい統治制度のなかにあって、はじめて「領国制」という異質の行政区をつくったこともあげねばならない。
日本の社会史にとって重要な画期であり、革命とよんでもいい』
 
と「箱根の坂」で評された早雲が、駿河で後継者を巡る政争の渦中に巻き込まれ、今川家の客将として伊豆を併呑、更には箱根の坂を越えて相模に侵攻したことが、既成の秩序を破壊し、戦国時代の口火を切ったと言われている。
 
ただし、早雲の行動は、野心からではなく、民を国政の基に据える新たな領国体制を構築しようとした清廉な政治的信念によるものと「箱根の坂」では説明されている。
加賀の一向一揆のことを知った早雲は、地下人と蔑まれながらも経済力を持つ地頭や国人衆が力をつけていく時代の流れは止められないと感じ、幕府内の内紛に明け暮れる堀越公方を追放して地頭や国人衆を直接支配しない限り、自らも滅亡すると悟ったことが、「箱根の坂」に記されている。
 
『早雲は伊豆にもどると、窮迫した財政のなかで身をちぢめつつ、ただ一点を考えた。
(坂を超えよう)
ということであった。坂とは、箱根のことである。越えるとは、関東に入ることであった』
 
小説では、早雲が、自分の関東侵攻が戦国乱世を招き寄せることを見越していたとも書かれている。
それでも、敢えて箱根の坂を越えた理由として、愛読した「孟子」における、徳を失った体制ならば転覆も辞さない、という思想に基づいていると解釈されている。
 
早雲の治世は、租税を諸国に類例のないほど安く抑え、訓令まで発布して生活規範を細々と指導し、領民を撫育したと言われている。
その様子は、さながら老人が幼子を訓育するようで、百姓と変わらぬ格好で領内を自ら見て回り、稀代の仁君と慕われたのである。
 
僕が印象的だったのは、最初の戦国大名と呼ばれる早雲の行動が、終始一貫して、千萱への思慕に裏打ちされているかのように描かれていたことである。
駿河国の国母となった千萱を守りたい一心で、駿河を脅かす関東の政情不安を実力で収め切った早雲の一生は、爽やかな読後感を残した。
 
 
物語の中盤で早雲と対立する堀越公方とは、将軍足利義政が、対立を深める鎌倉公方足利成氏への対抗策として足利政知を派遣したものの、政知は鎌倉に入ることが出来ず、伊豆に堀越御所を建設したことに始まる。
足利成氏は、千萱親子と家督を争った今川範忠の軍勢により鎌倉を追われ、下総国古河城に移ったことから、古河公方と呼ばれるようになる。
 
堀越公方の御所は、現在の伊豆の国市寺家にあったとされ、伊豆箱根鉄道長岡温泉駅と韮山駅に挟まれた一帯である。
僕が「伊豆スパー」号の旅で思いを馳せた源頼朝が流されていた蛭ヶ小島も韮山にあり、頼朝が挙兵の最初に襲撃した韮山代官の屋敷跡も寺家のすぐ近くにある。
 
『早雲は八十七歳にしてようやく相模全円を得たことになる。
その翌年八月、早雲は伊豆の韮山で病没した』
 
という一文で、「箱根の坂」は幕を閉じる。
 
ここでも韮山か、と思う。
車窓から見る韮山駅は、ほの暗い電灯に照らし出された看板広告だけが目立つ、人の気配が感じられない小駅に過ぎなかった。
 
我が国で最初の武家政権を開いたのも、庶民が力を得ていく下克上の時代の先駆けとなったのも、伊豆とゆかりが深い人物であったことに、不思議な縁を感じる。
伊豆とは、そのような土地なのだと思う。
 
三島二日町、三島田町、三島広小路──
 
古びたボックス席の一隅に座る僕を乗せた伊豆箱根鉄道の上り電車は、うら淋しい夜を突いて坦々と走り続け、いつしか三島の市街地に差し掛かっていた。
 
 
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