陰陽連絡バス素描・番外編 ~さらば寝台特急出雲~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成18年1月の週末、寝台特急「出雲」は東京駅を定刻21時10分に発車した。
 
東海道新幹線が次々と滑り込んでくる高架に沿いながら、有楽町、新橋、浜松町と、窓外を過ぎていく駅のホームと駅前の人混みを見下ろしていると、旅立ちの高揚感が胸に湧き上がってくる一方で、つい先程までどっぷりと浸かっていた浮き世のことが無性に懐かしくなり、少しばかり心細くなるひとときである。
どうして、僕は、日常に身を置いていることに飽き足らず、旅に出たいという欲望を抑えきれないのだろう、と思う。
 
 
『御乗車の皆様、この列車は寝台特急「出雲」出雲市行きです。御利用の際には、乗車券の他に特急券と寝台券が必要になります……』
 
国鉄時代から寝台特急列車の車内放送でお馴染みの「ハイケンスのセレナーデ」のメロディが流れ、車掌の案内放送が始まる。
 
『この列車は定時に東京駅を発車しております。この先の停車駅の到着時刻を御案内致します。次の横浜には21時35分、熱海に22時41分、沼津22時59分、静岡23時40分、浜松で日付が変わりまして0時36分、京都3時39分、綾部5時08分、綾部には明朝5時08分の到着です。福知山には5時20分、豊岡6時20分、城崎温泉6時32分、香住6時58分、浜坂7時21分、鳥取7時58分、倉吉8時42分、米子9時25分、安来9時56分、松江10時15分、宍道10時38分、終点の出雲市には10時57分の到着となります……』
 
車掌の放送が延々と続き、羅列された駅名を聞いているだけで、山陰の情緒が匂い立って来る。
東京から出雲市まで898.2km、途中19の駅に停車する所要13時間47分もの長旅に出ようとしていることが、改めて実感される。
 
『列車は9両連結しております。前寄りから1号車、2号車の順で、1番後ろが9号車です。全ての車両が終点の出雲市まで運転致します……』
 
 
僕は、1号車のA寝台個室「シングルデラックス」を奮発している。
 
僕が「出雲」に乗車したのは、経費削減や利用者数の減少を鉄道会社が声高に主張して、夜行列車の整理が凄まじい勢いで進められていた時代である。
当時の趨勢と言えば、例えば東京を発着する寝台特急列車だけを取り上げても、以下のような有様だった。
 




 
東京と紀伊勝浦を結んでいた「紀伊」が昭和59年に廃止。
上野と青森を常磐線経由で結んでいた「ゆうづる」が平成5年に廃止。
上野と秋田を結んでいた「出羽」も、同年に「あけぼの」に統合されて廃止。
東京と熊本・長崎を結んでいた「みずほ」は平成6年に廃止。
上野と青森を東北本線全線を走破して結んだ「はくつる」は平成14年廃止。
東京と下関・博多を結んだ「あさかぜ」は平成17年廃止。
東京と長崎・佐世保を結んだ「さくら」も同年に廃止。
 
子供の頃から憧れてきた列車が次々と姿を消し、残っているのは、
 
東京と西鹿児島を日豊本線経由で結び、その後宮崎、更に大分止まりに区間短縮された「富士」
東京から鹿児島本線経由で西鹿児島を結び、その後熊本止まりとなった「はやぶさ」
東京と高松を結ぶ「サンライズ高松」
東京と出雲市を結ぶ「サンライズ出雲」
上野と金沢を結ぶ「北陸」
上野と秋田・青森を結ぶ「あけぼの」
上野と札幌を結ぶ「北斗星」
 
そして、僕が乗っている東京と出雲市を結ぶ「出雲」だけという寥々たる状況になっていた。
 
「富士」と「はやぶさ」は平成21年に、「北陸」は平成22年に、「あけぼの」は平成26年に、「北斗星」は平成29年にそれぞれ廃止され、「出雲」も、この旅の2ヶ月後である平成18年3月に消える運命が待っている。
 




 
関西発着の寝台特急列車も同様に衰退している。
 
昭和61年、大阪と鹿児島を鹿児島本線経由で結んでいた寝台特急「明星」が臨時列車に格下げされ、続けて臨時急行「霧島」に降格されて、「明星」の愛称名が消滅。
平成6年に大阪と新潟を結んでいた「つるぎ」が廃止
平成17年に大阪と宮崎を結んでいた「彗星」が廃止
 
この旅の時点でかろうじて生き残っていたのは、
 
大阪と熊本・鹿児島を結んでいた「なは」
長崎・佐世保を結んでいた「あかつき」
大阪と青森を結ぶ寝台特急「日本海」
 
と僅か3本であったが、併結運転をしていた「なは」と「あかつき」は平成20年に、「日本海」も平成24年に廃止されてしまった。
 
 
この頃に寝台特急を利用すれば、それが最後の乗車となる可能性を常に意識する必要があったから、貴重な乗車体験は個室で贅沢に過ごしたかった。
 
「出雲」は、昭和3年から大阪と浜田を福知山線・山陰本線経由で運転していた準急列車がルーツで、昭和10年に急行列車に格上げされ、大阪と大社の間の運転となる。
太平洋戦争の激化に伴って昭和18年にいったん廃止されたものの、昭和22年に準急として復活し、昭和26年に再び急行に昇格して「いずも」の列車名を冠し、編成の一部が東京まで直通、同時に大阪から浜田まで足を伸ばす編成も連結された。
昭和31年には「出雲」に改称され、東京と大社の間を全編成が運転するようになり、昭和36年からは経路を変更して京都から山陰本線に入るようになり、大阪駅を通らず、東京と山陰地方を結ぶ列車としての性格を強めている。
 
 
昭和47年に寝台特急となり、東京と浜田の間を運転するようになった。
昭和50年に、東京と米子間で寝台特急「いなば」の運転が開始されたが、昭和53年に出雲市まで延伸の上「出雲」に統合、「出雲」は東京-出雲市、東京-浜田の2往復で運転されるようになったのである。
 
子供だった僕が鉄道ファンになったのは、ちょうど「出雲」が寝台特急に出世し、「いなば」が運転を開始した昭和50年前後のことであった。
東京駅を18時20分に発車した下り「出雲」が終点の浜田駅に到着するのが翌日の14時45分、また上り列車が浜田を発車するのが14時00分、東京着が9時36分という、九州方面の寝台特急列車並みの20時間以上にも及ぶ所要時間であることを時刻表で知り、山陰とは何と遠い土地なのだろう、と感じ入ったものだった。
島根県西部の浜田という街の名も「出雲」の終着駅だから知ったようなものであり、いつかは乗り通してみたい、と願っていたのだが、平成10年に東京-出雲市間の1往復が新型の寝台特急電車285系を用いた「サンライズ出雲」に生まれ変わり、伯備線経由となると同時に、残りの山陰本線経由のまま残された1往復も浜田までの運転を取り止めて、出雲市止まりになってしまった。
 
 
実は、今回の旅の1週間前に、僕は「サンライズ出雲」に乗り通している。
職場の先輩2人と連れ立っての気儘な旅で、東京から出雲市まで「サンライズ出雲」で出掛け、出雲と松江を2日間に渡って散策したのである。
 
個室寝台主体の編成である「サンライズ出雲」の車中は、愉快の一語に尽きた。
サロン室で酒を酌み交わしながら話し込んだり、狭いながらも個室寝台の気楽さを存分に堪能したことも楽しかったが、途中、横揺れがひどくて目を覚まし、なかなか寝つけなかったことが、今でもまざまざと脳裏に浮かぶ。
「サンライズ出雲」の個室寝台は進行方向と平行して設置されており、また客車の寝台特急に比べれば速度が速いためであろうか、横たわっている身体が左右に激しく揺さぶられるのには閉口した。
壁に掛けた衣紋掛けが、カタカタと壁を打ち続けていることに苛立ちながら、もっと丁寧に保線してくれよ、と腹を立てたり、弱ったな、と窮しているうちに、速度が落ちた訳でもないのに、すっと揺れが収まった。
何が起こったのか、と、ますます目が冴えてしまったのだけれど、しばらくして運転停車した駅の駅名標に「岐阜」と書かれているのが目に入った。
おそらくは、線路の歪みが起きにくいスラブ軌道の高架線に差し掛かったのであろう。
 
そこからは熟睡することができ、出雲市到着が9時58分と遅めであることも手伝って、大いに朝寝坊することができたから、寝不足に陥ることはなかった。
岡山から分岐する伯備線での中国山地越えの最中に、ふと目を覚ましてブラインドを上げると、線路際が雪で真っ白に染まっていた。
そうか、山陰は雪か、と何となく旅の幸せを噛み締めながら、再び毛布にくるまって二度寝を決め込むのは、これ以上はない贅沢だった。
 
雪景色の松江を散策しているうちに、山陰本線経由で残されていた「出雲」が2ヶ月後に廃止されるという一報を耳にして、今度は「サンライズ」ではない「出雲」に乗っておきたい、と思い立ったのだ。
僅か1週間の間隔で2本の寝台特急に乗ることなど、僕も初めての経験であったけれど、伯備線や松江で巡り会った雪景色を思い浮かべれば、心が踊った。
 
 
「出雲」が最初に停車する横浜では、午後9時半を過ぎていても、ホームからこぼれ落ちんばかりに帰宅客が鈴なりだったが、根府川付近で暗い相模灘の沿岸を走り抜けて、丹那トンネルをくぐり、熱海、沼津と歩を進める頃には、照明に明々と照らし出されたホームの人影は目立って疎らになっていく。
 
明かりを消して眠りに落ち、停車の衝撃でふと目を覚ますと、名古屋での運転停車であった。
時刻は午後2時になろうとしていて、煌々と明かりが灯されたままのホームに、人影は見られない。
 

 
先程、東京と大阪を発着する寝台特急に思いを馳せたが、名古屋でも、博多行きの寝台特急「金星」が唯一気を吐いていた時代があった。
残念なことに昭和57年に廃止されてしまったが、代わりに東京発着の寝台特急列車が名古屋でも乗降扱いを行い、中京地区と山陽・山陰・九州の間を行き来する客を拾っていたものだった。
 
しかし、平成10年に「出雲」の1往復が「サンライズ出雲」に変わり、残された「出雲」の下り列車の発車時刻が繰り下がった際に、名古屋駅は通過となったため、新聞に「『出雲』の名古屋飛ばし」と騒がれたものだった。
 
 
「名古屋飛ばし」が大きな話題となったのは、平成4年に東海道新幹線で運転を開始した1日2往復の「のぞみ」のうち、下りの1番列車である「のぞみ」301号が、新横浜駅に停車して名古屋駅と京都駅が通過とされた時のことと記憶している。
「のぞみ」301号は、東京や横浜周辺のビジネス客が早朝に出発して、大阪近辺に出社できるよう意図して設定されたと言われている。
 
当時の東海道新幹線では、夜間の保線工事の後、地盤を固めるために早朝の数本の列車が減速運転をしなければならなかったため、「のぞみ」301号を新横浜・名古屋・京都に停車させると、「のぞみ」の売りであった「東京-新大阪2時間半」が不可能となり、朝の出社や会議に間に合わなくなる恐れがあるため、苦肉の策として、名古屋・京都を通過させることで時間短縮を図ったのである。
新大阪着が8時30分であれば「9時の会議に間に合う」とアピールできるが、名古屋着7時40分では早過ぎて、ビジネスマンに対するPRにはなりにくい。
 
それまでの最速列車である「ひかり」の大半が通過していた新横浜駅に停車した理由は、利用者が早朝に横浜周辺から東京駅へ出るのが難しかったためであるが、人口で大阪市を凌いだ横浜市の存在感の高まりを偲ばせる。
京都では、観光への影響が殆どない早朝の1本のみということで、通過に対する反発の声や抗議は殆ど見られなかった。
 
 
ところが愛知県や名古屋市の政財界からは激しい反発が噴出し、国会議員は超党派でダイヤ変更を求める議員連盟を結成する動きを見せ、当時の愛知県知事も「通過して結構だとは言えんわな」と批判、中部経済連合会からも「JR東海本社のある名古屋に停まらないのはどういうことか」と非難される騒ぎとなってしまう。
中京地区選出の国会議員には、かつて、政治家の利益誘導によるローカル線建設、つまり我田引鉄が国鉄の財政を圧迫し、分割民営化の遠因となった経緯から、「民間会社に議員が口を挟むべきではない」と冷静に主張した議員もいたようである。
 
JR東海による「早朝の1本だけ」との説明が功を奏し、次第に地元にも容認の動きが見られるようになって、「名古屋飛ばし」騒動はおよそ1ヶ月で幕を閉じ、「のぞみ」301号は計画通り運転を開始した。
平成5年のダイヤ改正では、新横浜駅を通過して名古屋駅と京都駅に停車する「のぞみ」1号が設定され、保線工事での技術の進歩によって早朝の速度制限の必要性がなくなったことと、新横浜・名古屋・京都の各駅に停車して東京-新大阪間を2時間半で結ぶことが可能となったことで、平成9年に「のぞみ」301号は後続の「のぞみ」1号に統合される形で廃止されたのである。
 
 
「のぞみ」登場の6年後に敢行された「出雲」の名古屋飛ばしの理由は不明であるが、東京の発車時刻も、また京都以遠の山陰本線沿線都市への到着も、あまりにも早過ぎては利用客が不便という判断であろう。
事実、九州方面への寝台特急は東京駅を午後6時台に発車しており、仕事を終えて乗ろうとすれば、かなり忙しい思いをしなければならない。
「出雲」の午後9時10分という発車は、実に程良い時刻に感じられるのである。
 
ただし、当時のJR東海社長が、
 
「名古屋飛ばしの批判は新幹線を大事にしてくれている裏返し」
 
と振り返っていることを思い起こせば、「出雲」の名古屋飛ばしがそれ程話題にならなかったのは、それだけ寝台特急の利用者が少数派になっていることの証かもしれず、一抹の寂しさを感じるのも事実である。
 
この旅の1週間前に「サンライズ出雲」の激しい揺れで寝つけなかったのは、名古屋から岐阜にかけての区間だったと思うのだが、名古屋駅での運転停車中に眠りに落ちた僕が目を覚まさなかったのは、客車列車である「出雲」の速度が「サンライズ出雲」よりも遅かったためか、それともベッドの向きが進行方向と直角だったためであろうか。
 
 
僕が次に目を覚ましたのは、未明の午前3時過ぎに京都駅を発車して、山陰本線に入ったところである。
山陰本線は電化されていないので、京都でEF56型電気機関車からDD51型ディーゼル機関車に付け替えた筈であるが、前方の車両に乗っているにも関わらず、その振動には気づかなかった。
 
「出雲」が走り出した当初の、山陰本線における牽引機は、西ドイツから技術供与を受けて生産されたDD54型ディーゼル機関車であった。
子供の頃の鉄道書籍に掲載された「出雲」は、欧風の洗練された外観を持つDD54型が先頭に写っているアングルが定番で、凸型の武骨な風貌のDD51型より好きな機関車だったのだが、エンジンや変速機の故障が頻発し、蒸気機関車が救援するという事態すら発生したため、「出雲」での運用は僅か1年半で中止され、DD51型に変更されたという。
 
 
東海道本線の安定した走りっぷりとは対照的に、山陰本線に入った「出雲」の速度は極端に落ちて、揺れも大きくなる。
山陰本線に足を踏み入れれば、作家水上勉氏と宮脇俊三氏の対談が脳裏に浮かぶ。
 
『水上 そういえば京都の嵯峨の竹藪の中を細々とした1本の線路が横切っていて、山陰本線ってこんなに貧弱なのかと思ったことがありますわ。
宮脇 だいたいあんな調子ですね。ほとんど単線で電化もされていませんし。
水上 ずうっと単線ですか。
宮脇 ええ、米子と松江のあたりだけが、ほんの少し複線化されているだけです。
水上 出雲の先の石見のあたりもですか。
宮脇 あっちへ行けば、ますます単線です(笑)。レールもローカル線並みに細くなりまして……。
水上 なるほど、だから、あのあたりはいいんだな。
宮脇 やはり勘所はつかんでおられる』
 
僕も、この文節には思い入れがある。
小学校4年生だった頃のこと、家族旅行で初めて京都へ行き、天龍寺を見物してから築地が並ぶ小径を歩いている最中に、緑一色に染まった竹林の向こうにディーゼルカーが通過していくのを目にした僕は、写真に撮ったのである。
僕が鉄道ファンになったかならないかの頃で、列車を撮影したかったのか、竹藪の美しさに惹かれてカメラを向けたところに、たまたま列車が通りかかったのかは定かでなく、おそらく後者であろうと思うのだが、それは、僕が初めて撮影した鉄道写真であった。
後に振り返れば、あれが山陰本線だったのか、と言い知れぬ感動が湧き上がってきた覚えがある。
 
 
山陰本線を「偉大なるローカル線」と呼んだ宮脇氏は、「出雲」への思い入れも強かったようで、
 
『じっさい、東京駅の10番線で発車を待つ寝台特急「出雲1号」を見ると、鉄路の持つ不思議の念に打たれる。
磨き上げられた車体、個室寝台車も食堂車も電源車もある日本一の豪華列車が、明日の未明には、あの旧態この上ない余部鉄橋を渡るのかと思うと、「山陰本線に入ったら道が悪いから気をつけなさいよ」と撫でてやりたくなる。
歳を取って老婆心が芽生えてきたようだが、この気持ち、同じブルートレインでも、九州特急の「あさかぜ」などに対しては起こらない』
 
と記している。
 
真冬の午前3時では、嵯峨野の景色は何も見えないけれども、京都を過ぎた「出雲」の乗り心地の鄙びた変化は、山陰に向かう旅の情緒を嫌が応にも盛り上げてくれる。
 
 
そこからはうつらうつらしながら過ごしたが、午前7時前に到着した香住駅で、僕はハッと居住まいを正した。
香住駅の先、鎧駅と餘部駅の間には、有名な余部鉄橋が待ち構えているので、起きない訳にはいかない。
 
このあたりは丹後の山々が海に迫る峻険な地形で、技術的に難しい長大トンネルを避けて海沿いに線路を敷設するルートと、保守作業の困難が予想される長大鉄橋を回避する内陸迂回ルートが比較検討された上で、全長310.6m、高さ41.5mの余部鉄橋を建設する前者の案が採用されたのである。
 
「出雲」が停車した香住駅の標高は7.0m、次に停まる浜坂駅の標高は7.3mとほぼ同じであるが、その間にそびえる山塊を越えるためには、可能な限り高度を稼いでから短いトンネルを掘削する方法が、明治期の建設技術の限界であった。
付近の河川は山中から海岸へ直角に日本海に流れ出ているため、比較的勾配が緩やかな川筋に沿うルートがなかなか見出せなかったらしいのだが、餘部の西にある桃観峠では、東斜面を西川が東西に流れて餘部で海に注ぎ、西斜面では久斗川が浜坂で海まで流れていたことから、この2つの川筋を利用して峠を登り詰め、標高約80 mの地点に全長1992mの桃観トンネルを建設したのである。
しかし、桃観峠のトンネルの長さを短縮するためには、香住寄りに流れる長谷川が刻む幅300mの谷を、40~50mの高さで越えなければならなくなった。
 
そこで、明治42年に、鉄鋼を櫓のように組み合わせた11基の橋脚と23連の橋桁を持つ鋼製トレッスル橋の建設が開始されたのである。
 
 
「出雲」は、開通した明治45年当時の面影を色濃く残す、旧態依然とした山陰本線をそろそろと進んでいく。
香住から最大12.5‰の勾配を登って標高39.5mの鎧駅を過ぎ、断続する短いトンネル群を通り抜けて、余部鉄橋に向かう。
ちょうど冬の日が白々と明け始めた頃合いで、室内を暗くすれば、うっすらと外が見えるようになっていたが、車窓は線路際に鬱蒼と生い繁る木々に覆われている。
木立ちの根元には、ところどころ雪が残されている。
勾配はそれほどきつくはないように感じてしまうけれど、「出雲」の歩みはゆっくりと慎重である。
香住と浜坂の間17.9kmを23分で走り抜ける「出雲」の平均速度は時速47km程度であり、特急にしては鈍足を余儀なくされているのだ。
 
鎧駅を過ぎてから、今か今かと待ち受けていると、不意に窓外の眺望がいっぺんに開けて、「出雲」は宙空に飛び出した。
余部鉄橋には柵やトラスが全くなく、軌道が導いてくれる鉄道だからこそ可能な芸当だと思うのだが、列車に乗っている身としては、目も眩みそうな高さを綱渡りしているような気分にさせられる。
 
 
眼下を見下ろせば、屋根を白く染めた家々が豆粒のように並んでいる。
頭上を列車が通過する家に住むというのは、なかなか難儀なのではないかと思う。
実際、鉄橋の下の住民は、騒音だけでなく、ボルト、ナット、リベット、雨水、つらら、氷塊、雪庇、錆などといった落下物に、長年悩まされ続けてきたと聞く。
 
胸が塞がる思いで想起されるのは、昭和61年12月28日に起きた列車転落事故であろう。
回送中だったDD51型機関車が牽引するお座敷列車7両が、日本海から吹き込む最大風速33mという突風にあおられ、機関車を除く全車両が鉄橋の中央部より転落、真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場の従業員5名と車掌1名の計6名が死亡、車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った事故である。
その日、風速25m以上を示す警報装置が2回作動していたが、1回目の警報では風速20m前後であるため異常なしと判断され、2回目の警報が作動した時点では、列車を止めるのに間に合わない状況だったという。
調査の結果、橋に取り付けられていた2台の風速計のうち、1台は故障し、もう1台は精度が落ちていたことが判明した。
強風が吹き荒れる余部鉄橋に列車が進入する結果となり、転覆限界風速が32mと計算されている列車に、最大瞬間風速を35~45mの横風が襲いかかったのである。
 
転覆の原因が、強風によって鉄橋がフラッター現象を起こし、線路が歪んだことに起因するとの説も唱えられているという。
 
 
車内にいると、今の風速がどの程度なのかを推し量る術はない。
周りで強風に木々がざわめいていないか見回してみても、木立ちなどは40mも下にあるのだから、よく見えない。
事故の後には、風速20m以上で香住と浜坂の間の運行が自動的に停止するように改善されているから、案ずることはないのだろうと頭では理解していても、遥か下方を覗き込めば背筋がゾクッとして、気持ちの良いものではない。
だが、この橋を渡らなければ山陰へは行けないのだ。
 
橋の袂ににある餘部駅の標高が43.9mで、「出雲」は更に15.2‰の急勾配を登り詰めて、標高80mの地点で桃観トンネルに入る。
トンネルを抜ければ久谷駅までは15.2‰の下り坂となり、標高51.9m の久谷駅からは勾配が13‰まで緩み、浜坂駅の手前で平坦となる。
 
 
三方を山に囲まれ、一方は海岸に近いという地形と、冬季には季節風や吹雪が吹き付ける立地であることから、余部鉄橋が完成した3年後には早くも錆防止の塗装が必要となり、5年後からは腐食した部品の交換が始めらている。
このような補修が常に必要とされたため、大正6年から昭和40年までは「鉄橋守」と呼ばれる工手が常駐することとなる。
維持作業は「繕いケレン」と呼ばれ、ケレンは、クリーンがなまったものではないかとの説がある。
東海道本線や山陽本線のような幹線ならばとっくに架け換えられているのだろうが、昭和32年から昭和51年まで計3回に及ぶ大規模な修繕が行われ、大半の鋼材が交換され、より防錆性の高い塗料に塗り替えられた。
鉄橋守が置かれなくなった後も、橋脚の防錆処理は4~5年に1度の周期で行われ、平成になってからの調査でも、鉄橋は健全な状態であることが確認されている。
 
ただし、交通地理学者の一部からは、「信越本線の碓氷峠におけるアプト式鉄道の採用と並んで、後世に多額の保守経費を発生させた」という否定的な見解も挙がっている。
 
群馬県と長野県の境に横たわる碓氷峠では、26本も掘られたトンネルで機関士や乗客が蒸気機関車の煤煙に巻かれる事故が続出したため、内部への風の吹き込みで煙が列車にまとわりつかないよう、列車の通過直後に入口を幕で閉める「隧道番」が配置されていたという。
当時、国家の大動脈である鉄道を維持するために、余部や碓氷のような目立たない任務で縁の下の力持ちとして鉄路を守り続けた人々が、数多く存在したのである。
 
 
余部鉄橋の設計に際して、コンクリート橋にする案も検討されたと言われているが、当時のコンクリートの品質は悪く、もしコンクリート橋で建造していたら現代まで持たなかっただろうとする意見もある。
 
平成の世になると、老朽化が顕著になり、維持費が膨大な余部鉄橋の存続が問題視されるようになる。
平成19年から3年の工事期間を掛けて平行するエクストラドーズドPC橋が建設され、平成22年7月16日の最終列車の通過を以て、初代余部鉄橋はひっそりと役目を終えたのである。
技術が進歩した後世に批判することは簡単であるけれど、余部鉄橋の98年の歩みを振り返れば、山また山が連なる我が国の峻烈な地形を克服するために、先人たちが知恵を絞り、歯を食いしばって道を拓いてきたことが、改めて実感される。
 
この日、余部鉄橋を渡る「出雲」から見下ろす家並みは、薄暗さの中に、まだ眠りを貪っているかのようにひっそりとしていて、1世紀に及ぶ艱難刻苦の歴史を微塵も感じさせなかった。
雪でまだらに染まった背景の山々と合わせて、如何にも山陰の冬といった寒々とした光景で、暖房が効いた車内にいても、思わず浴衣の襟を掻き合わせたくなる。
 
 
色々と途中で目を覚ます道中になってしまったが、「サンライズ出雲」より1時間も早く東京を発っているにも関わらず、出雲市への到着は1時間も遅いのだから、時間はたっぷりと残されているし、11時近くまで寝坊も出来る。
早朝に着く慌ただしい夜行列車やバスが少なくない中で、朝にゆっくり余裕がある乗り物に乗っていると、そこはかとない幸せを感じる。
 
浜坂を過ぎてからも、トンネルの合間に険しい断崖がちらりと顔を覗かせる車窓が続く。
崖っぷちに立つ松の木が、雪の重みにじっと耐えている。
ひと眠りして目を覚ませば、いつの間にか地形がなだらかになっていて、櫛の歯を引くように窓外を流れるススキや葦、松林の向こうに、荒涼とした砂丘と暗い日本海が広がっていた。
真冬の日本海は荒れているようで、波頭が白く浮かび上がる黒々とした海原の向こうは、低く垂れ込めた雲との境を成しているはずの水平線がはっきりしない。
色彩をいっさい失って、白と黒だけの墨絵のような車窓に目を釘付けにしながら、冬の裏日本に来たのだな、と思う。
 
 
鳥取駅に着くと、懐かしさが込み上げてきた。
20年前のこと、鳥取に所用が生じ、京都発の特急「あさしお」で山陰本線を初めて走った僕は、嵯峨野、保津峡、丹後から但馬にかけての山河、余部鉄橋、そして日本海と、変化に富んだ自然豊かな車窓に魅了されたのである。
それ以来、鳥取は何度か訪れているものの、殆どが高速バスの利用で、列車に揺られて鳥取まで来たのは久しぶりだった。
 
しかし、2ヶ月後に迫った「出雲」の廃止により、鳥取は東京からの直通列車を失うことになる。
寝台特急列車の衰退によって首都東京と直通する列車が皆無になった県庁所在地は少なくないのだけれど、東京に行くならば飛行機が便利という世の中になっているのだから、一抹の寂しさや痛痒を感じるのは僕のような鉄道ファンだけなのだろう。
夜行高速バスが走ってはいても、10両を超える長大編成の寝台特急列車と比べれば、輸送人員数に差異があり過ぎる。
それだけ、夜行の需要が激減したと考えるべきなのか。
 
急行時代から半世紀もの長きに渡り、片道900km近い行程を走り続けた「出雲」は、時代の変遷と共に、その役割を終えたのだと思った。
 

 
もうひと眠りをすると、中海から宍道湖にかけての湖畔に差し掛かっていた。
陰鬱だった但馬から因幡にかけての車窓とは打って変わって、出雲の空は明るく、雲間から陽射しも覗いている。
 
定刻10時57分、「出雲」は静かに出雲市駅のホームに滑り込んだ。
 
ゆったりとくつろぐことが出来た贅沢な14時間であったけれども、水上勉氏が、
 
「だから、あのあたりはいいんだな」
 
と呟いた石見国の浜田まで「出雲」が走っていた頃に、時を巻き戻したくなった。
 

 

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