陰陽連絡バス素描 第6章 ~出雲-広島線みこと号~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

寝台特急列車「出雲」で東京駅から出雲市駅までの一夜を過ごしてしまえば、僕にとって旅のメインイベントは終わりである。


冬の快晴に恵まれた出雲市駅前で、さて、どうしようか、と僕は思案に暮れた。
のんびりした夜行列車を利用したことで、既に日曜日の午前11時を過ぎようという頃合いで、身体を包み込む空気は冷え冷えとしているものの、太陽は頭上に高々と昇っている。

もちろん、遙々と出掛けて来たからには帰らなければならないから、復路をどのようにするか、と計画する楽しみは残されている。
出雲空港から羽田行きの飛行機に搭乗してしまうのが最も手っ取り早いのだが、それでは月並みに過ぎる。
鉄道ならば、出雲市始発で米子を経由する伯備線の特急列車「やくも」で岡山に出て、新幹線に乗り継ぐのが一般的なルートであるけれど、既に利用したことがあるので食指が動かない。
出雲市と岡山の間には、高速バス「ももたろうエクスプレス」号も走っているけれど、こちらも10年ほど前に乗車したことがある。


僕は、出雲と広島を結ぶ高速バス「みこと」号に白羽の矢を当てた。
この路線も、以前に、大阪から福岡まで昼行高速バスを乗り継いだ際に、途中の三次駅から広島駅までを区間利用した経験があるけれど、今度は全区間を乗り通してみようという趣向である。

この路線の歴史は古く、昭和9年に出雲と三次の間で運行を開始した省営自動車(後の国鉄バス)雲芸線まで遡る。
昭和47年に一畑電鉄が広島から宍道、出雲市を経由して大社に向かう特急バス出雲大社線の運行を開始、昭和61年には国鉄バス雲芸線に中国自動車道経由で広島へ乗り入れる特急便が登場、所要時間が3時間50分であったことから「出雲350」という愛称がつけられた。
同時に一畑電鉄出雲大社線も広島自動車道・中国自動車道経由に乗せ換え、平成元年に一畑電鉄と中国JRバスが共同運行する路線として統合され、愛称が「みこと」となったのである。


開業当時のパンフレットに「神、走る。」とのキャッチフレーズが大書されていた記憶がある。

端正なマスクの男性が駆けている写真が添えられ、どこが神なのか、と思う。
「みこと」という愛称と「神」と来れば、「古事記」や「日本書紀」といった神話時代の衣褌姿を誰もが思い浮かべると思うのだが、背広姿にしたのは、ビジネスマンの利用を喚起したかったのだろうか。
何かとツッコミどころの多い絵柄でありながらも、なぜか心に残る強烈な宣伝文句であったのは確かである。


出雲近辺の鉄道としては、JR木次線が山陰本線宍道駅から芸備線の備後落合駅まで伸びていて、岡山県の備中神代駅から三次駅を経て広島駅へ向かう芸備線とともに、広島と松江を結ぶ急行列車「ちどり」が運転される陰陽連絡線として機能していた時期もある。
しかし、JR西日本管内では最高地点になる標高727mの三井野原駅をはじめ、出雲坂根駅での3段式スイッチバックなど、陰陽連絡線では最も峻険な山越えを余儀なくされている木次線は、宍道と備後落合の間だけでも3時間近くを要するため、平成2年に「ちどり」が廃止されてからは、瀬戸内へ出る客は高速バスに流れてしまい、鉄道はローカル輸送が主体となっている。

だからと言って、この旅の当時の「みこと」号も決して俊足という訳ではなく、中国道に出るまでの区間は一般国道を使っていたけれど、それでも出雲市駅と広島駅の間の所要時間は国鉄バス時代より短く、3時間15分であった。
松江自動車道が開通し、三刀屋木次ICと三次東JCTの間が高速道路に乗せ換えられて、急行便の「みこと」号が2時間55分、特急便の「スーパーみこと」号が2時間47分に短縮されるのは、平成25年のことである。


ちょうど到着した広島発の下り便と入れ替わるように、出雲市駅を定刻11時30分に発車した「みこと」号中国JRバス担当便は、国道9号線を神立橋まで進んで出雲市街を東に抜けた。
斐伊川の手前で県道26号出雲三刀屋線に右折し、土手沿いを緩やかな曲線を描きながら走り始める。
素戔嗚尊の妻である稲田姫が大国主命を生む場所として選んだと伝わる三屋神社ゆかりの地であり、大国主命の寝床を意味する御門屋に由来する三刀屋の町で、松江から伸びて来た国道54号線に右折し、木次町の下熊谷バスセンターに寄ってから、いよいよ中国山地の山越えに取り掛かる。

国道54号線は、かつて広島発松江行きの高速バス「グランドアロー」号でたどったことがある。
なあんだ、せっかく「みこと」号に乗っても、「グランドアロー」号と同じ国道を走って、三次から先にも乗ったことがあるのだから、二番煎じになっちゃったか、と拍子抜けしてしまう。

出雲からは、神戸川に沿って飯南町で国道54号線に合流する国道184号線も走っていて、そちらを経由して欲しい気がしていたのだが、地図で見れば羊腸の如く曲がりくねった、如何にも3桁国道らしい山道であり、高速バスが走るには相応しくないのであろう。

意外なことに、いざ国道54号線を走り始めてみれば、十数年ぶりという歳月と、逆方向であるためなのか、まるで初めてのように車窓が新鮮に感じられる。
「グランドアロー」号に乗車した日が雨模様であったのと対照的に、この日は晴れていたことも一因だったのかも知れない。


「みこと」号は、三刀屋から先で、鍋山、坂本橋、多根、掛合、入間、恩谷、花栗口、頓原、来島、中城子、赤名、横谷、天狗橋、上布野、下布野、大谷と、「グランドアロー」号よりきめ細やかに停留所が設けられている。
こまめな停留所案内で流れる地名を耳にしながら、ひっそりと道端に佇む集落を眺めているだけで、遠くの地を旅している喜びが沸き立って来る。

出雲は、中国山中から流れ出て宍道湖に注ぐ斐伊川と、日本海に注ぐ神戸川に挟まれた水の豊かな平野であるが、国道54号線は斐伊川の支流である木次川に沿って高度を詰めていく。
ゆったりと流れる川の両側には春を待つ田園が広がり、雪の欠片すら見当たらない。
古代の中心地とされる出雲が、温暖で実り豊かな土地であることが実感される光景だが、国道54号線に入ってからも、しばらくは山並みを遠くに眺めるなだらかな地形が続く。
外の空気は冷たいのかも知れないが、暖房が効いてぬくぬくとした車内から眺めている分には、とても1月とは思えない陽気に感じられて、ついつい眠気が襲ってくる。


派手な赤い三角屋根の建物と、「ドライブイン赤名」の看板が窓外に現れた。
数台の車が停まっている駐車場が、窓外を過ぎていく。
おやおや、「グランドアロー」号はここで休憩したのに、「みこと」号は何処で休むつもりなのか、と首を捻っているうちに、山並みが両側から押し寄せてきて、陽が翳り、木々の根元や建物の影が白く染まり始める。

赤名といえば、三刀屋、掛合とともに、国鉄バス雲芸線の自動車駅が設けられていた要所であった。


万葉の昔から陰陽を結ぶ街道として往来があり、江戸時代には石見銀山の銀輸送における難所であったという赤名峠を越える赤名トンネルを抜ければ、広島県である。

颯爽とした特急便の「グランドアロー」号に比べれば、伝統の国鉄バスから派生したためか、どこか垢抜けていないローカル路線の名残を感じさせる「みこと」号は、休憩などといった贅沢はしないのかも知れない、と勝手な想像を巡らしているうちに、下り坂を駆け降りていたバスがブレーキをかけ、道の駅「ゆめランド布野」に滑り込んだ。

「御乗車お疲れ様です。こちらで10分間休憩します。発車は1時20分です。お乗り遅れのないようお願いします」

と運転手さんが案内する。

地産品を並べた店舗やレストランが軒を構える道の駅は、高速道路のサービスエリアのような取り澄ました雰囲気があり、高速バスの休憩場所としても幾つか利用したことがある。

一方、昔ながらのドライブインで、高速バスが休んだ記憶はない。
「グランドアロー」号における「ドライブイン赤名」での休憩は、貴重な体験だったのかもしれない。
ただ、日曜日の昼下がりというのに、道の駅「ゆめランド布野」を訪れている客は僅かで、だだっ広い駐車場には、ぽつんと1台きりの「みこと」号だけだった。


僕くらいの世代ならば、ドライブインには何かと思い入れがあるのではないだろうか。

ドライブインという英語は、車で乗り入れられる施設全般のことを示しているらしいが、我が国では、昭和のモータリゼーションとともに発展し、街道筋にある駐車場を備えた食堂に限定された意味として使われていたように思う。
家族連れで入れるファミレスのような雰囲気のドライブインも見受けられたが、トラックの運転手さんばかりがたむろしている店もあり、概して古びていて、敷居の高い印象だった覚えがある。
映画やテレビドラマなどでドライブインが舞台となった名場面も、幾つか思い浮かぶ。

昭和の終わりから平成にかけて車の流れが一般道から高速道路へ移ると、ドライブインの数は激減し、現在では、道の駅やコンビニ、ファミレスが道路に沿う憩いの場を提供している。

子供の頃、家族で出掛ければ必ず立ち寄っていた馴染みのドライブインが、僕の故郷の信州でも幾つか思い浮かぶ。
大人になって自分でハンドルを握るようになってから再訪すると、どれも例外なく閉店していて、がらんとした抜け殻となっている建物や、舗装が傷んだまま放置されている駐車場が広がる廃墟と化している有様を目にして、容赦のない時の流れに胸が塞がる思いがした。

存在して当然と思い込み、空気のように意識すらしていなかった物事が、いつの間にか姿を消していることに気づくのは、寂しいものである。
最近、そのような経験が増えているように感じるのは、単に僕がそのような年頃になっただけなのか、それとも僕らの社会が変化し、淘汰が当たり前の厳しい時代を迎えていると捉えるべきなのだろうか。

「ドライブイン赤名」も、平成23年に閉店したと聞いた。


道の駅を発車すると、間もなく三次の賑々しい街並みが車窓を彩り始め、「みこと」号は、ほぼ定刻の13時半過ぎに三次駅バス乗り場に横付けされた。

十数年前、僕はここから「みこと」号上り便に乗車したのである。
その時は、夜行バスで出て来た大阪で三次行きの高速バスに乗り、「みこと」号を挟んで、広島から福岡行きの高速バスへと乗り継いで、中国自動車道を日中に全線走破したのである。

待ち時間の間に慌ただしく昼食を摂ったハンバーガー屋が入った昼下がりの駅舎の佇まいは、10年前と殆ど変わっていなかった。
歳月を経ても変わらないものを目にすると、ホッと安心することもあるのだな、と思う。

しかし、そのハンバーガー屋は間もなく閉店し、跡地はコンビニに取って代わられたようである。
松江道の開通に伴う経路変更により、「みこと」号の三次駅乗り入れも終了した。


高速バスばかりに乗っている僕にとって、三次は、縁が浅からぬ土地である。

昭和61年の師走に、大阪と福岡を結ぶ夜行高速バス「ムーンライト」号に乗車した時には、発車後の案内をしていた交替運転手さんが、

「なお、本日、中国道に積雪の予報が出ておりますが、このバスはスパイクタイヤを履いております。どうか安心してお休み下さい」

と付け加えたので、中国地方で雪が降るのか、と仰天したものだった。
雪の高速道路など初めての経験だったので、どのような走行になるのか見当もつかなかったが、夜中に目を覚ましてカーテンをめくると、本当に路面が真っ白だった。

それが、三次付近の山中だったのである。


平成6年の冬に、鹿児島から名古屋まで夜行高速バス「錦江湾」号に乗車した時は、降雪によるチェーン規制のために三次ICで本線を降ろされてしまった。
雪だるまのようになっている警官が料金所の手前に立ち、1台1台に何事かを指示している。

「この先は、チェーンをつけないと走れないよ」

と言う警官に、

「スパイク履いてるから」

と運転手さんが応じると、警官は信号灯を振って、本線への進入路にバスを誘導した。
この時は最前列の席で外を眺めることが出来たが、ヘッドライトに照らされた路面には、轍の跡さえはっきりしないほど、踏み固められた雪が積もっていた。
横なぐりの吹雪が容赦なくフロントガラスを叩き、ゆっくりと動いている大きなワイパーが届く範囲以外には一面に雪がこびりついている。
運転手さんは落ち着いたもので、時々、コーヒーカップに手を伸ばしながら、悠然とハンドルを握っていた。

2つの夜行高速バスの揺るぎのない走りっぷりを経験したことで、高速バスは雪道でもびくともしない、という信頼感が醸成されたのである。


東京-広島線「ニューブリーズ」号や、名古屋-広島線「セレナーデ」号と「ファンタジア」号が開業した平成元年には、山陽自動車道が全通していなかったので、どの路線も中国道を経由し、三次駅で途中乗降を扱っていた。

「ニューブリーズ」号の上り便で三次駅に停車した時は、窓外が真っ暗で三次駅前とはどのような場所なのか、全く分からなかったけれども、特に観光地を巡った訳でもないのに、これほど何度も立ち寄って強い印象が残っている街も珍しい。
どちらの路線も山陽道に乗せ換えられた平成21年まで、三次は、東西交通を担っていた中国道における要の街だったのである。

今でも大阪や広島からの高速バスが残されているとは言え、山陽道が開通して中国道を経由する路線が減ってしまった現状では、今回がこの街を訪れる最後かもしれない、と思う。

 

「みこと」号の窓から久しぶりに目にする三次の街並みは、真冬にも関わらずすっかり乾き切っていて、雪の欠片も見当たらない。
まばらに雪を残しながらも、出雲では空が真っ青に晴れ渡っていたのに、三次から広島にかけての空は雲が増えた。
普通は逆だろう、と可笑しくなる。

三次駅を後にした「みこと」号は、三次ICから中国道に入り、寒々とした中国山地の雪景色を遠くに見遣りながら、それまでとは見違えるような勇ましさで速度を上げていく。
まさに「みこと、走る。」である。

10年前の「みこと」号は、広島平野の西を南下して五日市ICで高速を降り、草津沼田有料道路と国道2号線を使って市街地に入っていった。
今は山陽道の広島ICが完成しているので、殆どの広島発着の高速バスと同様に経路を移し、国道54号線をアストラムラインの高架と一緒に南下することになる。
陰陽連絡バスに乗ると、ここで渋滞に引っ掛かっていらいらした経験も少なくないのだが、この日の車の流れはスムーズで、定刻14時45分には広島バスセンターに到着した。


日曜日も残すところ9時間あまりともなれば、このあたりで気儘なバス旅を中止して、新幹線か航空機で東京に帰ろうと考えるのが正常な人間であろう。
だが、僕は、もう1本、高速バスに乗ろうと企んでいる。
平成2年から広島と大阪の間を結んでいる「ビーナス」号である。

山陽道が未完成だった開業当初は、夜行便1往復が中国道を使って運行され、関西と広島の行き来は夜行バスが担う距離なのか、と思った記憶がある。


今では山陽新幹線が2時間程度で結んでしまう区間であるけれど、歴史を遡れば、関西と広島の間は夜行列車が一翼を担っていた時期もあった。

明治27年に私設の山陽鉄道が神戸-広島間を開通させた時、日本初の長距離急行列車の運転を開始している。
神戸と広島の間の所要時間は上下列車それぞれ8時間50分前後であったという。
明治28年に、この急行列車が官営鉄道の東海道本線に乗り入れ、発着駅を京都に移している。
明治32年には、この急行列車に我が国で初めてとなる食堂車を連結、明治33年には夜行急行列車に、これまた日本初の寝台車を連結するという、大阪と広島を結ぶ鉄路はなかなか先進的だったのである。

太平洋戦争を挟んで、京都-博多間に特別急行「かもめ」が運転を開始したのは、昭和28年のことである。


昭和31年には、京都-広島間に昼夜行1往復ずつの準急列車が走り始め、後に「宮島」「ななうら」の列車名が与えられている。

蒸気機関車が牽引する客車列車だった特急「かもめ」には、昭和36年にキハ82系特急用気動車が投入され、同じく気動車特急として大阪-広島間に「へいわ」、大阪-博多間に「みどり」が新設された。
この頃の関西と広島の間の昼間の急行列車として大阪-広島「宮島」、夜行急行列車では同じ区間を「音戸」、また準急列車として大阪-三原間の昼行「びんご」、 京都-広島間の夜行「ななうら」が行き交っていた。


山陽本線の神戸から広島まで電化工事が進んだ昭和37年に、「宮島」は昼夜行2往復で東京-広島間に延伸され、その走行距離894.8kmは、電車急行として我が国における最長運転記録を樹立する。
「宮島」に用いられた151系・153系急行型電車は、広島の東にある瀬野-八本松間、いわゆる「瀬野八越え」の急勾配を自力で登ることができず、補助機関車を連結していた。

同じ年に夜行急行「音戸」が下関駅へと運行区間を延長している一方で、東京-大阪間で運転されていた特急「つばめ」の1往復が広島まで延伸され、代わりに「へいわ」が登場から僅か8ヶ月で廃止されている。


「へいわ」の列車名は、戦前に東京と大阪を結んでいた特別急行列車「燕」が、戦後の昭和24年に復活した際に用いられ、戦争に疲弊した人々の平和への切実な願いに即した愛称であったが、僅か4ヶ月後に、我が国の鉄道の頂点に立つ列車の愛称はこれしかない、とばかりに「つばめ」に変更されたという推移がある。
大阪と広島を結ぶ特急列車に冠せられた「へいわ」もまた、原爆の惨禍を受けた広島を発着する列車に相応しいと思うのだが、短期間で「つばめ」に取って代わられるという歴史が繰り返されたことになる。

東海道新幹線が開業した昭和39年には、東海道本線の特急列車だった「つばめ」と「はと」 が新大阪-博多間の列車として生まれ変わり、新大阪-下関間に特急「しおじ」が新設されている。
「こだま」型と呼ばれる151系特急用電車が投入された、これらの特急列車は、やはり「瀬野八」の急勾配を登ることができず、出力を向上させた181系車両の登場まで、補助機関車の世話になっていた。

このダイヤ改正で急行「音戸」が新大阪始発となり、大阪-下関駅間に急行「関門」が新設された一方で、急行「宮島」が元の大阪-広島間の運転に戻されている。


山陽本線の最盛期とも言うべきこの時期で、関西と広島の往来に利用できる列車としては、

特急「つばめ」:名古屋-熊本
特急「かもめ」:京都-西鹿児島・長崎
特急「みどり」:新大阪-大分・佐世保
特急「はと」:新大阪-博多
特急「しおじ」:新大阪-下関
特急「しおかぜ」:新大阪-広島
急行「宮島」:大阪-広島
急行「関門」:新大阪-下関
急行「海星」: 新大阪-博多

と多数に及び、関西と九州を行き来する他の昼夜行の急行列車でも、時間帯によっては関西と広島の間を利用することが出来たものと思われる。

歴史に残る大規模なダイヤ改正が行われた昭和43年には、

急行「玄海」: 名古屋-博多
急行「ながと」:新大阪-下関(「関門」を改称)
急行「とも」:新大阪・大阪-三原(「びんご」を改称)

が登場し、特急「しおかぜ」は「しおじ」に統合された。

昭和47年の山陽新幹線岡山開業に伴い、特急「つばめ」は岡山-博多・熊本間に、特急「はと」は岡山-下関間にそれぞれ運行区間が短縮された。
しかし、乗り換えを嫌う乗客に配慮して、特急「しおじ」が新大阪-広島・下関間に、特急「なは」が大阪-西鹿児島間に、特急「かもめ」が京都-長崎・佐世保間に、特急「みどり」が大阪-大分間に、特急「日向」が大阪-宮崎間に存続している。

昼行の急行列車として、大阪-博多を赤穂線経由で結ぶ「つくし」、大阪-西鹿児島を結んで九州内で夜行の時間帯になる「屋久島」、岡山-博多・熊本を結ぶ「玄海」、岡山-広島・下関を結ぶ「山陽」、呉線経由で岡山-呉・広島を結ぶ「安芸」が登場し、また夜行急行列車として「桜島」、「高千穂」といった東京と九州を直結する列車、名古屋と熊本を結ぶ「阿蘇」、関西と九州を行き来する「天草」、「雲仙」、「西海」、「日南」と共に、大阪-下関、京都-広島間を運転する「音戸」も健在であった。


しかし、昭和50年の山陽新幹線博多開業を機に、新大阪と下関を呉線経由で結ぶ「安芸」が寝台特急に格上げされたものの、昼行の特急列車である「つばめ」、「はと」、「かもめ」、「みどり」、「しおじ」、「日向」、「なは」、そして「屋久島」、「日南」、「音戸」、「山陽」、「玄海」、「ながと」、「とも」、「長州」といった大部分の急行列車が、新幹線に役割を譲って一斉に姿を消した。

相次ぐ運賃値上げによる国鉄離れと航空機の台頭によって、関西と山陽・九州を結ぶ直通列車は減少の一途をたどることになる。
昭和53年に「安芸」が廃止され、昭和55年には関西と九州を結ぶ定期の夜行急行列車が全廃されたのである。


僕が鉄道ファンになったのは、「安芸」が寝台特急に昇格した頃であり、ブルートレインの20系客車に「安芸」と列車名を掲げた写真は馴染みのものであった。

昭和50年の時刻表を紐解けば、関西と九州を結ぶ「明星」、「あかつき」、「彗星」といった寝台特急列車は、広島を深夜に通過してしまうため、関西と広島の間では使いづらいのだが、名古屋と博多を結ぶ「金星」が大阪1時21分発、広島5時53分着と、かろうじて夜行の任を果たせる時間帯である。
九州各地を発ってくる上り列車は、「金星」が広島23時12分発・大阪3時41分着と早過ぎる時間であるが、「明星」と「あかつき」が1本ずつ広島を午前0時台に発車して大阪に5時台に到着するダイヤとなっている。

それだけに、下関を起終点にしていながら、呉線を経由し、大阪発23時09分・広島5時15分着、広島23時29分発・大阪5時29分着という「安芸」は、関西と広島の間を結ぶことを主な目的にしていたと言えるだろう。
寝台特急「安芸」が短期間で廃止されたのは、急行時代と所要時間や停車駅が変わらず、実質的な値上げであったと捉えられたため、と解説している文献もあるけれど、これ以上所要時間を短縮しても、夜行として実用的ではなかったものと思われる。

「安芸」亡き後の関西-広島間の夜行需要は、昭和63年の時刻表を見ると、下りは大阪0時48分発・広島4時58分着の「みずほ」、上りは広島0時10分発・大阪4時29分着の「さくら」と、東京発着の寝台特急が1本ずつ担っていると言えないこともないのだが、4時間程度の区間に高い寝台料金を支払って利用する客がいたのかどうか。


寝台特急「安芸」の6時間という所要時間は誠に手頃であったが、「安芸」廃止の12年後に登場した夜行高速バス「ビーナス」号は、下り便が難波高速バスターミナル23時30分発・広島バスセンター6時20分着、上り便が広島バスセンター23時10分発・難波高速バスターミナル5時55分着と、「安芸」より1時間ほど割増された所要時間であった。
当時、運行を担当していた南海電鉄バスの路線でよく見られたように、大阪側の起終点は堺東駅で、難波、広島を経て呉まで足を伸ばす路線形態も、呉線を経由していた「安芸」を彷彿とさせる。

ただし、これから僕が乗るのは夜行便ではなく、平成14年に登場した1往復の昼行便である。

夜行便だけでは足掛け2泊3日の車両運用になるところを、折り返しの昼行便を設けることにより、1泊2日で車両を回転させることが可能になることから、他の長距離路線でも時々見受けられた方法である。
同時に、堺と呉での乗降扱いは廃止され、大阪と広島市内だけを結ぶ路線に生まれ変わっている。


関西と広島を結ぶ高速バスは、「ビーナス」号が初めてではない。
平成元年に、京都交通と広島バスが昼夜1往復ずつの「SANYO EXPRESS」号の運行を開始している。
当時の時刻表によれば、京都の祇園営業所と広島バスセンターを、それぞれ9時00分と23時00分に発車し、昼行便の所要時間は6時間40分、夜行便は7時間であった。
昼行便を利用すれば、ほぼ丸1日が移動に費やされる事になるが、乗ってみたい、と心を奮わせる長距離路線だった。

今回の旅でも利用は叶わず、残念なことに、2年後の平成20年に廃止されてしまった。


定刻15時ちょうどに広島バスセンターに姿を現した「ビーナス」号のスーパーハイデッカーは、10人足らずの乗客を乗せて、途切れることなく路線バスが出入りしている乗降場を離れた。
広島城を眺めながらスロープを下って地平に降り、先程「みこと」号で下って来た道筋を逆にたどりながら、バスは広島ICで山陽道に入ってぐいぐい速度を上げる。

中国道を使用していた夜行便単独の時代と異なり、山陽道を東へ走り抜いて大阪へと向かう、所要5時間、運行距離340kmに及ぶ長いバス旅が始まったのである。

山陽新幹線が開業する前の特急「しおじ」が広島と大阪の間を4時間20分、急行「宮島」が5時間程度で結んでいたことを思えば、新幹線に敵うはずはなくても、充分に健闘していると言えるだろう。
ちなみに夜行便の所要時間は、広島と難波の間を6時間45分で結んでいた中国道の時代と比べて、山陽道経由の夜行便は7時間25分と、逆に増えている。
中国道の時代には2人乗務であった運転手さんを1人乗務にしたことで、途中で仮眠時間を設けたものと思われる。
僕が乗る折り返しの昼行便も、運転手さんは1人であった。

部分開通の時代に所々で利用したことはあっても、広島ICから神戸JCTまで山陽道を走破するのは、僕にとって初めての経験だったから、大いに楽しみである。


山陽道が全線で開通したのは平成9年のことであるが、平成14年の「ビーナス」号昼行便の新設と同時に、西日本JRバスと中国JRバスが昼行の「山陽道昼特急広島」号と夜行の「山陽ドリーム広島」号を大阪駅と広島駅の間に開業している。
中国JRバスは「ビーナス」号にも参入していたので、同じバス会社が別の競合路線を開業したことには驚愕したものだったが、同社は平成22年に「ビーナス」号の運行から手を引いてしまった。

前年の平成13年に、東京駅と大阪駅を結ぶ「東海道昼特急大阪」号が開業し、人気を博したことから、各地で「昼特急」の名を冠した長距離昼行高速バス路線が誕生した。
夜行便の折り返しとして運行されていた長距離昼行便の乗車率が、大して良くなかった時代を知っている者としては、所要時間の長短よりも安い運賃を優先する人々がそれだけ増えたのか、と感無量であった。

「山陽道昼特急広島」号は、「東海道昼特急大阪」号と同様に全便が2階建て車両を使うという豪勢さで、昼夜5往復もの大所帯に発展している。

†ごんたのつれづれ旅日記†

盛況の後輩路線を横目に見ながら、昼夜2往復のまま細々と走り続けていた「ビーナス」号を、僕は敢えて選んだ。
もちろん、時間の都合が良かったという理由もあるけれど、大阪と広島を結ぶ高速バス路線を開拓したのは「ビーナス」号なのだという、如何にもマニアらしい拘りと、何やら判官びいきのような情が湧いてきたのである。

先輩路線に対するせめてもの敬意であるのか、「山陽道昼特急大阪」号上り便の広島バスセンターの発車は7時20分、8時50分、10時50分、16時35分、17時50分であり、15時00分発の「ビーナス」号の運行時間帯を避けている。

僕は、20時ちょうどに到着する難波高速バスターミナルまで5時間のクルーズを楽しんでから、最終の新幹線で東京へ帰るつもりだった。
僅か15分前に出雲から広島へ着いた人間が、それより早い時間帯の「山陽道昼特急広島」号に乗れるはずもなく、次の16時35分の「昼特急」では新幹線に間に合わない。
寝台特急「出雲」から高速バス「みこと」号と乗り継いできた今回の旅に、「ビーナス」号はぴたりと当てはまったのである。

渋滞などで遅れが出れば、台無しになって東京に帰れなくなる可能性を秘めた、綱渡りの旅程であることは重々承知している。
それでも、山陽道に入ってから目にする道路情報に異常が表示されていないことで、僕はすっかり安心していた。


東へと走り込む「ビーナス」号の車窓は、徐々に暮色を増していく。
山陽道は瀬戸内沿岸に建設されながらも、海岸沿いに連なる都市群を避けて背後の山中に建設されたため、地形が決して平坦ではない。
山陽本線の「瀬野八越え」を取り上げるまでもなく、広島ICから岡山ICまでの148.8kmには、実に26個ものトンネルが存在し、期待するほどには瀬戸内海を拝むことは出来ない。

雪こそないものの、色褪せて寒々とした冬の山河に目を奪われているうちに、いつしか深い闇が窓外を覆い尽くして、点在する家々の灯だけが流星のように過ぎ去っていく。

横3列独立シートが並ぶ車内は、夜行便と共通である。
窓外が真っ暗になってしまえば、閑散として静まり返った車中の気だるい雰囲気は、ますます夜行便と区別がつかない。


ふと、消えていった山陽本線の数多くの長距離列車に思いを馳せた。
その後を継ぐかのように走り続けてきた「ビーナス」号の命運も、それほど長くないのだろうな、という予感が湧いてくる。
時刻表を開くたびに「ビーナス」号の欄が残っているのを目にして、頑張れ、と応援していたものだったが、この旅から7年が経過した平成25年に、「ビーナス」号は23年の歴史に幕を下ろした。

それを惜しむのは、マニアの感傷に過ぎないのかも知れない。
この路線廃止で実害を被った人間は、おそらく誰もいない。
広島と大阪の間をバスで安くのんびりと行き来したい利用者は、「昼特急」や「ドリーム」を使えば良いだけの話である。

それでも、僕は、「ビーナス」号が新幹線の向こうを張って、孤軍奮闘して来た時代を忘れない。
在りし日の国鉄が、新幹線の開業後も、乗り換えや高額な運賃を嫌う乗客に配慮して、在来線の特急・急行列車を走らせ続けたことを思えば、高速バスは、旅の多様化を担った正統な後継者なのだと思う。

寝台特急「出雲」が「サンライズ出雲」に後事を託したように、「ビーナス」号も、「山陽道昼特急広島」号と「山陽ドリーム広島」号という後輩路線が育ったことをもって瞑すべきであろう。


ブログランキング・にほんブログ村へ

↑よろしければclickをお願いします<(_ _)>