陰陽連絡バス素描 第7章 ~広島‐益田間「新広益線」と萩-広島間高速バス~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成17年10月の週末の朝、緑に白いラインが入った広島電鉄の益田行き高速バスは、定刻9時43分に広島駅新幹線口を発車した。


なぜ僕が広島にいるかと言えば、この年に開業したばかりの、昼行の高速バスでは我が国最長の運行距離を誇る「弥次喜多ライナー」号に乗ったからである(「日本一の長距離を走った昼行高速バス弥次喜多ライナー号で東海道・山陽道中バス栗毛」)。

 


 

前回の記事で取り上げた寝台特急「出雲」の旅もそうであったが、魅力的な乗り物を目的として出掛けてしまうと、乗り終えた時に、宴を終えた後のような虚脱感に苛まれてしまう。
そこからの旅をどのように組み立てようか、と悩むのも旅の醍醐味であるけれど、落ち穂拾いの様な作業と言えないこともない。


横浜から広島まで912.1kmもの距離を走り抜いたバス旅は、丸1日がかりであったから、ホテルの一室でああでもない、こうでもない、と時刻表を捻くり回した挙げ句、僕は広島と益田を結ぶ陰陽連絡バスを選んだ。
振り返ってみれば、陰陽連絡バスの乗車体験は、ついでに、との動機が多いように感じられて、申し訳ないような気分になるけれど、実際に乗ってみれば、鄙びた中国山地を横断する車窓はいつも新鮮で、お見逸れしました、と蒙を啓かれるのが常であった。

 


 

国道54号線を北上して山陽自動車道広島ICから高速に入り、広島JCTで広島自動車道、広島北JCTで中国自動車道に乗り換えていく経路は、広島発着の陰陽連絡バスを利用すればお馴染みであるが、これまで広島と浜田、出雲、松江、鳥取を行き来した時と異なるのは、バスが広島北JCTで中国道の上り線ではなく下り線に入っていくことである。
益田がそれだけ西寄りに位置しているということであり、遠くまで行く旅の期待と喜びが込み上げてくる。


広島北JCTから戸河内ICまでおよそ17kmの区間には、中国道随一の峻険な山岳地帯が横たわり、中国道で最長を誇る3560mの牛頭山トンネルを筆頭に、1040mの平トンネル、3370mの加計東トンネル、2672mの加計西トンネルなどといった長大トンネルが連続して、4分の3にあたる12kmがトンネルという難所である。
戸河内ICと次の吉和ICまでが広島県で、次の六日市ICが島根県、その隣りの鹿野ICは山口県である。

 


 

戸河内ICを降りるとすぐ、国道186号線と191号線が交わる交差点に出る。
益田行きのバスは直進する国道191号線で日本海へ抜けて行くが、交差点を右に折れれば、加計の町を経て浜田へと続く。


昭和59年から平成13年まで、広島電鉄が大阪と加計の間に高速バスを運行したことがあり、戸河内ICで中国道を出入りしていた。
この路線の運行距離は片道390.5km、当時の昼行高速バスとしては日本一で、強く心が惹かれたものだったが、乗る機会に恵まれないまま姿を消してしまった。
前日に僕が乗車した「弥次喜多ライナー」の運行距離は、大阪-加計間高速バスの2倍を優に超えている訳で、この四半世紀における高速バスの発展には唸らされる。

 

 

スキー場の看板が目立つ交差点を横切りながら、右方向が加計であることを示す標識と道路に目を遣れば、加計に高速バスで行って見たかったな、と焦がれるような思いになる。
それでも、同じ会社のバスで近くを訪れたのだから、と自らを慰めるしかない。


国道191号線の起点は岩国市で、かつては岩国と益田を結ぶ国鉄バス「岩益線」が運行されていた。
それと競うように、昭和27年から広島-岩国-益田間の長距離バスを運行したのが、現在の広島と益田を結ぶ「広益線」の始まりである。
「広益線」は中国道の六日市ICから国道187号線を経由して益田へ向かう。

 


 

一方、僕が乗車する戸河内IC経由の高速バスは、平成6年に開設された別系統で、「新広益線」と呼ばれている。

「広益線」の方が、朝早い時間帯も含めて運転本数が多いのに、どうして僕が「新広益線」を選んだのかは覚えていない。

加計や三段峡といった思い入れのある土地の近くを通ることは、実際に乗ってから判明したことである。

単に、寝坊がしたかっただけなのか。

 

 

「新広益線」のバスが走る国道191号線は、立ちはだかる険しい山塊を縫って、大きく蛇行しながら西北へ向かう。


国道が最初に沿うのは太田川で、河口付近で広島平野を形成した大河とは信じられないほどの、白い河原を抱く清流である。
戸河内の集落を抜けると、支流である柴木川に変わり、三段峡の手前で横川川と板ヶ谷川に分かれる。
国道191号線が遡るのは板ヶ谷川であるが、横川川に沿って県道に逸れれば、数kmで三段峡に至る。

 

石英斑岩が長年の浸食によって刻まれた三段峡は、落差が30mという三段滝を筆頭に、猿飛の滝、二段滝、三ツ滝、龍門の滝の5つの滝と、黒淵、猿飛の2つの淵が七景と呼ばれ、紅葉の名所でもある。

 

 

幼い頃から僕が三段峡の名に馴染みがあるのは、山陽本線横川駅から三段峡駅まで可部線が延びていたから、という如何にも鉄ちゃんらしい理由である。
 

明治42年に大日本軌道が軽便鉄道として開業させた横川-可部間の路線を、昭和11年に施行された改正鉄道敷設法における「廣島縣廣島附近ヨリ加計ヲ經テ島根縣濱田附近ニ至ル鐵道」として国が買収、その後も可部以北で延伸を重ねた。
昭和29年に加計駅まで延伸したことで、国鉄の路線延長が2万kmに達したという記念碑的な存在でもある。
昭和44年に鉄路は三段峡駅まで達し、更に島根県の浜田を目指す陰陽連絡線「今福線」の建設が進められた。
しかし、可部以北の収支は芳しくなく、昭和55年の国鉄再建法により今福線の工事は中止、平成15年に可部-三段峡間も廃止された。
坪野駅と田之尻駅の間に置かれていた国鉄路線2万㎞の記念碑は、線路亡き後も、そのまま残されているという。
 

可部線の廃止後は、広島電鉄バスが可部-三段峡間、広島交通が可部-安芸飯室間で代替バスを運行し、広島からの直通バスもある。

 


 

僕が乗る益田行きのバスは、三段峡近くの板ヶ谷で10分間の休憩を取った。
バスを降りてみれば、杉林を吹き抜けてくる涼風が、頬をひんやりと撫でる。
公衆トイレが設けられているけれども、店舗も何にもない駐車場で、後で地図を見直してみると、タイヤチェーンの脱着場である。
チェーン脱着場で休憩する高速バスも珍しいのではないだろうか。
 

周囲の静まり返った山並みを見回しながら、三段峡に寄って紅葉を愛でてみたかったな、と思う。
陰陽連絡バスの客としては、途中下車する訳にもいかず、如何ともし難いのだけれど、ここまでの車窓でも、常緑の木々の合間に、ハッと息を呑むように鮮やかな紅葉が見られたから、幾らか気持ちが慰められる。
 

僕は、可部線の終着駅だった三段峡駅の跡を見たかったのかも知れない。
未成に終わった陰陽連絡線に夢を託した地元の人々のことに思いを馳せれば、胸が痛む。
面白半分で訪れてはいけないのかもしれないけれど、バス旅をしていると、しばしば廃駅に巡り会うことがあり、在りし日の人々の生活ぶりや容赦のない時の流れを痛切に感じることが少なくなかった。
このような山奥にまで鉄道が敷かれていたのか、と驚くような地形であるけれど、広島と浜田の間には、僕が初めて体験した陰陽連絡バス「広浜線」が走っていて、バスで事足りるような旅客数なのだから、やむを得ないのかも知れない。

 


再び走り出したバスは、松原郵便局前停留所が置かれた集落まで北上してから、左へとカーブを重ねて南下、深入山の南麓を回り込むようにU字を描きながら再び北へ針路を変える。
樽床ダムに堰き止められた聖湖の北まで遡り、八幡原バス停から道川の集落まで再び鼻先を南へ向ける、という大迂回である。
雲間から覗く太陽の弱々しい光が、左の窓から射したり右から射したりする。
戸河内ICから道川まで直線距離で20km程度のところを、35kmもの大廻りをしないと山を越えられないのかと、このあたりの中国山地の険しさに改めて恐れ入るような道のりである。
 

これでも、「広益線」の所要時間が3時間20分であるのに対し、「新広益線」は2時間50分なのである。

 


八幡の村落を過ぎたところに島根県との県境が引かれ、舗装も荒れて道幅も細くなり、このような山道を高速バスが走って良いのか、と心細くなってくる。
道の両側をぎっしりと覆う山林には、鮮やかな紅葉が混ざっている。


分水嶺を越えたバスは、匹見川に沿って山を下っていく。
この流れは幾つもの支流を引き込んで高津川となり、益田まで続いているのだが、国道191号線は途中で匹見川と袂を分かち、681.5mの銅ヶ峠トンネルで尾根筋を越え、益田川の支流である矢原川とともに山を下り、美都町に入っていく。
銅ヶ峠トンネルは、鬱蒼とした山肌に挟まれてぽっかりと口を開けている暗いトンネルで、県境よりも凄みが感じられた。

 


「新広益線」は、「広益線」の利用者が多いことを受けて、美都町など沿線地域の要望で開設されたと聞く。
日帰り温泉らしい「美都温泉」の看板が立つ交差点で、国道沿いの丘の陰に隠れているかのような美都の町並みを振り返れば、ぎっしりと屋根がひしめく比較的大きな集落に見えたものの、美都温泉入口停留所での乗り降りはなかった。


美都から20分ほど走り、なだらかな笹ヶ峠を難なく越えると、バスは国道191号線から脇道を左に逸れ、医光寺バス停に停車する。
益田近辺の路線バスの時刻表を見ると、医光寺と書かれている路線が多く、昔から気になる停留所名だった。

医光寺を通ることが、僕が「新広益線」を選んだ理由となった可能性はある。

「広益線」は、西の方から益田市内に入っていくため、益田駅に寄ってから医光寺へ向かう順番なのである。

 


どのような寺なのかと見てみれば、益田城の大手門を移築した古めかしい総門だけが道路側に孤立して建ち、その奥に、こんもりと木立ちに囲まれた境内が控えている。

医光寺は14世紀に創建された薬師如来を本尊とする臨済宗の寺で、雪舟が益田に滞在した際に造った庭園が、国の史跡に指定されているという。


医光寺から先が、益田川と高津川に挟まれた三角州に広がる益田の市街地で、それまでののんびりした車窓から、建物がぎっしりと建て込むいきなりの変化には、思わず目をしばたたいてしまう。
バスが益田駅前に到着したのは、定刻12時33分であった。

 


益田駅から医光寺への路線バスの本数は多く、雪舟の庭を見てみたいと思うけれど、忙しく乗り継ぎを控えている僕にそのような贅沢は許されない。


僕は、13時発の石見空港経由萩行きの急行バスに乗り込んだ。
戸河内ICから僕を益田まで導いてくれた国道191号線は、そのまま日本海の波打ち際を下関まで延びている。
山陰地方を横糸のように紡ぐ国道としては9号線が知られているけれど、関西から鳥取、米子、松江を経由して益田まで海岸沿いを伝った後に内陸部へ折れ、津和野を経て山口市に向かう。

 


以前、山陰本線の急行「さんべ」で下関から出雲市まで乗車した時に、海ばかりを映し続ける車窓に強く魅入られた記憶がある。

その後、萩見物の際に、石見空港リムジンバスのような、益田と萩を結ぶ都市間バスのような、この奇妙なバスを見かけた。

空港連絡バスは数あれど、正反対の方向に位置する2つの都市を結ぶ路線は、珍しいのではないだろうか。

首都圏で例えるならば、横浜発羽田空港経由千葉行き、といったところだろう。

 

増してや、山陰本線と同様に海沿いを走るからには、是非とも乗車してみたくなった。

 


益田駅前を発車した萩行きの石見交通バスは、益田川を渡って海岸に向かう。


右手の河口寄りに、工事途上の橋梁の橋脚が見える。
国道9号線バイパス益田道路として建設されている山陰自動車道で、高津ICと久城ICの間が完成するのはこの旅の5年後であるが、益田川の橋梁は、後に鴨島大橋と名付けられることになる。


鴨島とは、高津川の河口の0.5~1km程の沖合にあったとされる、本土と砂州で繋がった陸繋島であった。
かつては日本海を行き来する船が寄港して賑わい、ここで没したと伝えられる柿本人麻呂の辞世の句として、
 

鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
 

と、万葉集にも歌われた。
鴨山とは、島の小高い丘を指しているらしいが、岩盤の上に砂が堆積しただけの砂丘のような島であったことから、11世紀に起きた万寿地震により一夜にして海中に没し、約500軒を数えた民家や寺社も、ことごとく壊滅したのである。
大瀬と呼ばれる水深3~13mの暗礁が、鴨島の陥没した跡だとされており、波の荒れた日には大瀬に白波が立つのを見ることが出来るという。
 

長年、鴨島の存在は伝説に過ぎないとする説が唱えられてきた。
地元の郷土史家が地理的な考察に基づいて反論したことをきっかけに、昭和47年に哲学者の梅原猛を団長とする調査団が、また平成5年には地球物理学者の松井孝典と竹内均による調査団がそれぞれ学術調査を行い、鴨島が実在したことの直接的な証拠は見出せなかったものの、大瀬が過去に島ないし半島であり、急速に水没したことを示す形跡や、益田川の川底で、万寿年間に津波が発生したことを示唆する痕跡を発見し、科学的にも鴨島を否定することは出来ないと結論づけたのである。
 

この日の日本海の波は高かった。
せめて、大瀬に立つ白波を見たいものだと目を凝らしたけれど、河口は遥か彼方で、目にすることは叶わなかった。

 


 

バスは益田駅から10分程で、平成5年に開港したばかりの石見空港ターミナルビルに横づけされ、益田駅からの乗客は僕を除いて全員降りてしまった。
代わりに、萩見物と覚しき出で立ちの乗客が、数人乗り込んでくる。
乗車扱いの合間に、若い運転手さんが、降りんのか、と言うような面持ちで、最前列席に陣取る僕をちらりと見つめたような気がした。
このバスで益田から萩まで乗り通す客は、それほど珍しいのか、と気恥ずかしくなる。
 

そのような些細なことが気にならなくなるほど、このバスの車窓は素晴らしかった。
新広益線での紅葉に彩られた山深い景観と打って変わって、冬かと見紛うような日本海の暗い海原である。
点々と海鳥が舞う空は灰色の雲で埋め尽くされ、水平線との境目がはっきりしない。
風に立つ白い波頭が、無数に沖まで続いているだけの、晩秋の山陰の海。
岩や石ばかりの浜では、ごつごつした岩礁に根を張った松の木が波飛沫を浴びている。
持石、三里ヶ浜、小浜、飯浦と海岸の名を記した標識が思い出したように窓外をかすめ去り、名も知らぬ小島が沖合に現れる。

 


 

飯浦海岸を過ぎると、高山岬に連なる山々が正面に立ち塞がり、田万川トンネルを抜けて山口県に足を踏み入れたバスは、入江を囲むような江崎の町を経て、須佐湾に出る。


宇田郷から木与にかけては、視界を遮る岬や入り江はなく、なだらかに弧を描く海岸と、果てしなく広がる海ばかりの眺望を車窓に映しながら、バスは坦々と国道191号線を行く。
時折、停留所の案内が流れても、降車ボタンを押す客はいない。
乗ってくる客もいない。
平成24年にこの路線は乗合タクシーに転換されて、姿を消してしまう。
客が多かろうが少なかろうが、運転手さんはじっと前方を見つめたまま、これが自分の仕事と悟っているかのように、ハンドルを握り続けている。
石見空港を出たばかりの頃に、ひそひそと話し声が聞かれていた車内も、ふと気づけば、すっかり静まり返っていて、振り向くと居眠りをしている客ばかりになっていた。

 


 

海の眺めに食傷するとはこの上ない贅沢だと思うのだが、僕もとろとろとしてきた頃、海に突き出したモドロ岬が視界を塞ぐ。
その先の越ヶ浜では、大島の島影や虎ヶ崎の浜辺が車窓の主役に変わり、益田から1時間半あまりのバス旅の終点が近づいた。
 

松本川と橋本川に挟まれた萩の中心部を、山陰本線は南へ迂回している。
川を渡って街なかまで足を踏み入れるのは、バスだけである。

 

 

萩バスセンターに着くと、さすがは高名な観光地で、新山口駅で新幹線と接続する長距離バスの特急便「スーパーはぎ」号や各停便「はぎ」号が、客を満載して発車していく。
日本海に面した萩市と、瀬戸内海に近い山口市を結ぶ「はぎ」号も、県内路線であるものの、陰陽連絡バスで最も西側を走る1本と数えていいのだろうと思っている。


その起源は、昭和46年に開業した東萩駅と山口駅、防府駅を結ぶ国鉄バス防長線萩観光特急便という、伝統路線である。
昭和50年の山陽新幹線博多開業に伴い、「はぎ」号との愛称を付して、現在の新山口駅の前身である小郡駅に乗り入れを開始し、全国のみどりの窓口で新幹線特急券と同時にバス乗車券も購入できるようになった。

 

 

萩は何回か訪れたことはあるけれど、僕は「はぎ」号を利用したことがない。
これを機会に乗車してみるのも一興であるが、僕は別の路線を選んだ。
萩バスセンターを16時00分に発車する防長交通の萩-広島線である。


この路線は、同社が、一般道経由で小郡-山口-防府-徳山-下松-柳井に運行していた幹線バスが元祖である。
中国道広島北JCTと山陽道広島JCTの間の広島道が開通し、広島が中国道と直結されたのは昭和60年で、この時に、山口と広島を中国道と広島道経由で結ぶ高速バスが登場している。


山陽道の広島IC以西の区間も、


昭和60年:広島JCT-五日市IC
昭和61年:徳山西IC-防府東IC
昭和62年:五日市IC-大野IC、防府東IC-中国道山口JCT
昭和63年:大竹IC-岩国IC、広島IC-広島JCT
平成2年:熊毛IC-徳山西IC、大野IC-大竹IC
平成4年:岩国IC-熊毛IC


と平成の初頭に順次完成していることから、萩、山口、防府、徳山と広島を結ぶ、合計20往復を超える高速バスが時刻表を賑わせて、僕の心を揺さぶることになる。

 


防長交通の広島発着高速路線の中でも、最長距離を運行する系統である萩-広島線は、乗るならばこれしかない、と思い込んでいたので、今回、ようやく、その願いが叶う。
しかも、この路線ならば、途中の秋吉台まで「はぎ」号と同じ経路である。


今思えば、「はぎ」号より広島線を選んで良かったのだ。
同社の広島発着高速路線のうち、萩系統だけが、この旅の8年後の平成25年に廃止されてしまう。


広島発着の陰陽連絡バスでは最西端を運行していたこの路線の廃止により、「広益線」が最も西の路線になった。

 

 

萩バスセンターに姿を見せた広島行きのバスは、ぴかぴかに磨かれたハイデッカーで、これが乗り納めになるとは思いもしなかった僕は、「はぎ」号よりも豪華ではないか、と嬉しくなった。
しかも、横4列シートが並ぶ車室に上がれば、最前列左側の座席だけが、都市部の路線バスのようにぽつりと横1列になっているではないか。
2人連ればかりの他の乗客は誰も座ろうとせず、まるで1人旅の僕のためにあつらえたような配置である。
乗降口を広く確保しようとしたのかもしれない。
この特等席で、広島までの4時間を過ごすことが出来るのだから、ツイている、と思う。

 


定刻に萩バスセンターを発車したバスは、商店が軒を並べる大通りを南下し、橋本川に架かる橋本橋で萩を後にする。
松本川と橋本川の本流である阿武川を遡る国道262号線に乗れば、川筋の緩やかな蛇行に合わせて国道も右に左にカーブが繰り返されるが、道幅が広く傾斜も緩やかで、バスの走りっぷりは快調である。
10分ほど走ると、川上山田の集落付近で国道262号線は阿武川と袂を分かち、支流の明木川を遡り始める。
角力場という、由来が知りたくなる名前の交差点で、バスは山口市の東部へ向かう国道262号線と別れ、秋吉台や小郡方面へ向かう県道32号線に右折、萩市を出て美東町に入る。


萩と山口や小郡との間で最も山深いのは、県道32号線で越える雲雀峠の前後であろうが、道は曲がりくねっているものの、周りを囲む峰々の様相は穏やかで、こぢんまりとした集落と水田が代わる代わる現れるだけである。
ここはもう、中国山地から外れているのだな、と思う。
日本海と瀬戸内海を結んでいても、中国山地を越えている訳ではないから、萩-広島線も「はぎ」号も、陰陽連絡バスとは言えないのかな、などと思ったりする。


峠を下りた絵堂交差点で合流する国道490号線もまた、萩と小郡を秋吉台経由で結ぶ道である。
広島行きの高速バスも「はぎ」号も、最初から490号線を使えば良いではないかと思いがちだが、萩と絵堂の間にそびえる笹目峠は、バスのような大型車はもとより、乗用車ですらすれ違いが難しい狭隘な道路であるため、バスがたどってきた国道262号線と県道32号線が最も走りやすいのだという。
ただ、古い型のカーナビや携帯電話の道路案内アプリでは、小郡や秋吉台近辺から萩へ向かう優先経路として、国道490号線の笹目峠が選ばれる場合があるらしい。
走行距離が若干短いのと、県道より国道を優先するプログラミングがされていることが原因で、萩市が製造会社に異例とも言える経路の見直しを申し入れ、山口県も、県道23号線の利用を推奨する看板を現地に立てている。
 

絵堂から大田にかけては秋吉台の東にあたるが、緑の木々に覆われたこんもりとした丘陵の合間を縫う道路が延びているだけで、高名なカルスト台地の面影は感じられない。
このあたりは、幕末に高杉晋作率いる奇兵隊と長州藩の守旧派が衝突した大田絵堂古戦場で、勝利した奇兵隊はそのまま萩へ進軍し、長州藩は一気に倒幕へとのめり込んでいくことになる。

 

 

大田の集落は、明治維新に向けての重要な分岐点の舞台であったことなど微塵も窺えないような静けさが支配していた。
この地方の経済圏は宇部・小野田に含まれ、明るく広大な水田地帯を目にすれば、山陽に出て来たのだな、と思う。

昭和36年まで宇部から船木、吉部を結んでいた船木鉄道も、未完に終わったものの、大田まで延伸する計画があったと言う。

 

 

この町に置かれた停留所は、大田中央という大仰な名前である。
山口や萩、秋吉台、美祢などを路線バスで巡れば、必ず通る交通の要所で、時刻表への露出も多く、昔からどのような場所なのか無性に気になっていた。
 

鉄道を敷こうとしたのだから、さぞかし規模の大きな町なのだろうな、と目を凝らしても、宇部で太平洋に注ぐ厚東川の支流である大田川のほとりに、家々が点在するだけの鄙びた場所で、これだけか、と拍子抜けしてしまう。
「大田バスセンター」と錆びかけた看板が立ち、複数の屋根付きの乗り場が設けられている敷地だけは立派であった。

 

 

入口には瓦屋根の売店も建っていて、「長州栗」「あわ雪」「カステーラ」などと昭和の雰囲気が懐かしい看板が掲げられている。

フランス菓子の商品名と覚しきデザインが、あまりにも技巧を凝らしすぎて判読困難であるのも、なかなかいい味を出している。

しかし、薄暗い店内に人影はなく、カーテンを閉め切った食堂と思われる部屋は、椅子が机に積み上げられたままで、長いこと使われた形跡がない。
自家用車が普及する前の、路線バスが元気だった時代は、この店で食事や買い物をしながらバスを待った人々が大勢いたのだろう、と思う。
 

「はぎ」号ならば、このまま国道190号線で小郡まで下っていくのだが、広島行き高速バスは、綾木の交差点で国道435号線に左折する。
山口盆地の北にそびえる東西の鳳翩山の麓に横たわる吉敷峠を、長さ1030mの鳳翩山トンネルでくぐり抜ければ、山口市である。


ホテルや旅館の間隔が広く、あっけらかんとして高名な温泉街に見えない湯田温泉には、萩を出て1時間あまりの17時05分に、続いて山口市随一の繁華街である米屋町には17時10分に到着した。

 


 

店頭に明かりが灯り始めた暮れなずむ商店街で、山口と下関を結ぶサンデン交通の高速バスとすれ違った。
この路線は、かつて山陽急行バスが昭和30年代に運行していた下関-小野田-宇部-小郡-山口-萩と山口県を縦断する長距離路線バスが起源で、中国道が開通して高速バスとして生まれ変わってからは1時間に1本という頻回の運転を行っていたが、減便を重ねた挙げ句、平成26年に廃止されてしまった。
 

山口から防府へは、再び国道262号線を走ることになるが、萩近辺と異なり、往復4車線の見違えるような道路に変貌している。
この道筋は山陽道と萩を結ぶ萩往還にあたり、難所であった佐波山には、明治20年に、当時我が国第3位の長さとなる518mの佐波山洞道が掘削され、大正3年には山口と防府を結ぶ乗合自動車が運行を始めたという。
 

僕が乗るバスは、防府から国道2号線を東進して徳山駅にも立ち寄り、防長交通の広島発着路線が結ぶ街を全てなぞってから、徳山東ICで山陽道に入って広島へと向かう。
山口では黄昏の始まり、防府ではすっかり夜の帳が下りていて、20時01分着の広島バスセンターまでは闇の中だった。

 


 

10時間以上をかけて、広島から益田、萩、山口とひと回りしてきたバス旅も終わりが近い。
大いに楽しんだ反動なのか、途中の何処かに魂を置いてきてしまったかのような心持ちで、寂しさと虚しさだけが胸中を支配している。
 

旅の終わりを迎えてこのように鬱々とした気分になるのはいつものことで、僕は、それを見越してとっておきの計画を立てていた。
既に、新幹線では東京行きの上り最終列車が出た後であるから、広島を22時38分に発車する寝台特急「富士/はやぶさ」の個室寝台を確保しておいたのである。
 

ブルートレイン華やかなりし頃は、それぞれ日豊本線と鹿児島本線経由で西鹿児島駅と東京駅を結ぶ我が国第1位と第2位の運行距離を誇った寝台特急「富士」と「はやぶさ」も、夜行列車を利用する客数の減少により、片や大分、片や熊本発着となって、小倉駅と東京駅の間は併結運転になっていた。
思い起こせば、僕が学生だった昭和60年に生まれて初めて憧れの寝台特急を体験したのが、当時、博多と東京を結んでいた寝台特急「あさかぜ」の東京から広島までの区間であった。
その時も身分不相応の個室寝台を奮発したのだけれど、胸をときめかせて過ごした一夜のことは、未だにありありと瞼に浮かぶ。
あれから20年以上が経ってしまったのか、と思う。
 

九州と首都圏・中京・関西を結ぶ最後の夜行列車であった「富士/はやぶさ」も、平成21年に終焉を迎える。
その日付までは予想していなかったが、僕が東京発着の九州ブルートレインに乗るのも、これが最後なのだろうという予感があった。

 


 

旅の終わりは個室寝台車──
 

「小説新潮」に連載された紀行作家宮脇俊三氏の代表作の題名が、心に浮かぶ。
編集者と旅していた宮脇氏は、締めくくりとして、西鹿児島駅から「はやぶさ」に乗車したのである。
 

『個室寝台は1号車で、片側に通路があり、櫛形に14室並んでいる。
3段式のB寝台では定員が約50名、2段式でも34名だから、抜群の贅沢さだが、けっして広いわけではない。
いたずらに天井のみ高く、幅の狭いソファー式ベッドに座って脚を伸ばせば壁につかえる。
けれども、窓際には洗面台があって、蓋をすれば机になるし、なによりも通路との境に扉があって、要するに個室であるのがよい。
 

「これが個室寝台ですか。案外狭いんですね」
 

と、7号室におさまった藍君が内部を見回しながら言う。
 

「だから個室じゃなくて独房だと言ったでしょう」
「でも、やっぱり快適です」
「それならいいけれど」
 

定刻12時20分、寝台特急「はやぶさ」は西鹿児島駅を発車した。
これから東京まで1515.3キロ、所要時間は22時間10分。
距離・時間ともに日本最長の列車である。
 

「さて、あしたの朝10時半に東京へ着くまで、ここで暮らすとしますか」
「とりあえず、どうしますか」
「まず昼寝をして」
「そうですか」
「昼寝じゃいけませんか」
「ぼく、もう二度と個室寝台に乗る機会がないような気がするのです」
「どうして?」
「そんな気がするのです。でも、どうぞお寝みになってください」
 

1時間半ばかり昼寝をして廊下に出ると、7号室の扉が開いていて、藍君がしょんぼりと外を眺めているのが見えた』
 

宮脇氏の諸作の中でも、強く印象に残る終わり方である。
同行の編集者は、せっかく個室に乗ったというのに、どうしてしょんぼりと過ごしていたのだろう、と不思議な読後感が残ったものだったが、この日は、その気持ちが何となく理解できるような気がした。
今夜、「富士/はやぶさ」に乗ったら、僕もしょんぼりと過ごすのだろうと思う。
 

萩発広島行きの高速バスは、いつの間にか山陽道に乗っていて、街の灯が点在する瀬戸内沿岸を、ひたすら闇に向けて走り込んでいった。

 

 

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