東京発寝台特急の挽歌 第1章 ~博多行き「あさかぜ」1号で初めてのブルートレインを楽しむ~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

ああ だから今夜だけは君を抱いていたい

ああ 明日の今頃は僕は汽車の中

 

旅だつ僕の心を 知っていたのか

遠く離れてしまえば 愛は終わるといった

もしも許されるなら 眠りについた君を

ポケットにつめこんで そのまま連れ去りたい

 

ああ だから今夜だけは君を抱いていたい

ああ 明日の今頃は僕は汽車の中

 

賑やかだった街も 今は声をしずめて

何を待っているのか 何を待っているのか

いつもいつの時でも 僕は忘れはしない

愛に終わりがあって 心の旅がはじまる

 

ああ だから今夜だけは 君を抱いていたい

ああ 明日の今頃は 僕は汽車の中
 

 

寝台特急列車「あさかぜ」に乗る前の晩のこと、僕の脳裏には、チューリップの「心の旅」が浮かんでいた。

 

デビュー当初は鳴かず飛ばずだったチューリップの3枚目のシングルで、これが売れなかったら故郷の福岡へ帰ろう、と背水の陣で売り出された曲だったが、昭和48年の発表と共に大ヒットとなり、チューリップをメジャーに押し上げることになる。

僕にとっても、高校時代に友人と何度も歌った曲であり、大学でも仲間とカラオケに出掛けると必ずこの歌で締めくくったという、馴染みの曲である。

上京するために別れなければならない女性への思慕を歌っていながら、鉄道ファンだった僕の心を捉えたのは、明日長い旅に出るという高揚感であった。

今夜は君を抱いていたい、と言いながら、明日の今頃は汽車の中、と歌っているのだから、汽車とは夜行列車のことに違いない、と決めつけていたのだ。

 

寝台特急「あさかぜ」は、昭和31年に東京と博多を結んで登場し、後に20系寝台車両が初めて投入されたことから、我が国初のブルートレインと呼ばれるようになった。

何よりも、僕が初めて経験した寝台特急として、思い入れが強い列車である。

昭和59年の5月とは、教養学部だけが全寮制という大学に入学した僕が山梨県富士吉田にいた頃の話であるが、どうして「あさかぜ」に乗ろうと思ったのか、その理由は覚えていない。

子供の頃から憧れていた寝台特急に乗りたい、という願いが昂じてのことであったのは間違いない。

 

「その歌、好きだな」

 

同室の友人に声を掛けられるまで、自分が「心の旅」を口ずさんでいることに気づいていなかった。

5人で1部屋に割り振られた同期生は、気の置けない仲間ばかりだったから、居心地が良かった。

同室に尾崎豊のファンがいて、歌が出るとすれば「17歳の地図」や「スクランブリング・ロックンロール」、「SHELLY」、「卒業」ばかりで、誰かがいきなり、

 

「自由になりたくないかーい」

 

などと歌い出し、みんなで、

 

「熱くなりたくはないかい」

 

と唱和するような部屋だったから、「心の旅」は少しばかり異質だったかもしれない。

 

「えっ?」

「『心の旅』。さっきからずっと歌っているじゃん」

「ああ、そうか、ごめん、無意識だった」

「明日の今頃は、僕は汽車の中……か」

 

と、友人が思い入れたっぷりに口ずさんだから、見抜かれたか、と警戒したが、

 

「富士吉田に来る前に、誰か、ふって来たんだろ」

「そんなんじゃないよ」

 

週末ともなれば実家や東京へ遊びに行く学生が多く、外出や外泊を訝しむ者はいなかったが、まさか僕が鉄ちゃんで、寝台特急に乗りに出掛けるとは、誰も想像していなかっただろう。

 

他の人には「心の旅」は列車に乗る歌ではなく別れの歌なのか、と1人頷きながら、講義が終わった土曜日の午後、僕は寮を抜け出して富士急行線と中央本線を乗り継ぎ、東京駅へ向かった。

富士吉田から東京へ出るためには「中央高速バス」が安くて便利だったけれども、渋滞などで遅れれば目も当てられないし、乗車券は乗換駅である大月駅から購入していたのである。

 

 

僕が乗る「あさかぜ」1号の発車は18時45分である。

当時は、「九州特急」と呼ばれた東京と九州を結ぶ寝台特急がまだ健在だった時代で、東京駅の長距離列車用ホームからは、

 

16時35分:長崎・佐世保行き「さくら」

16時50分:西鹿児島行き「はやぶさ」

17時05分:熊本・長崎行き「みずほ」

18時05分:宮崎行き「富士」

18時15分:浜田行き「出雲」1号

18時45分:博多行き「あさかぜ」1号

18時55分:下関行き「あさかぜ」3号

21時00分:出雲市行き「出雲」3号

20時15分:宇野行き「瀬戸」

 

といった錚々たるブルートレインが、綺羅星の如く西へ発車していたのである。
 

 

東京駅のホームに駆け上がった時は、まだ列車は入線していなかったけれど、既に大きな荷物を抱えたよそ行きの恰好に身を包んだ人々があちこちにたむろしていた。

何よりも、「18:45 博多 あさかぜ」と書かれている頭上の表示を見て、無性に嬉しくなった。

いよいよ、子供の頃からの夢が叶う時が来たのだ。

 

親の脛を囓っている学生の身分で、用もないのに寝台特急に乗ろうとしている行為を、後ろめたく感じなかったと言えば嘘になる。

僕が懐に忍ばせている切符は、広島までの乗車券と特急券・寝台券である。

初めての寝台特急として「九州特急」を選んだにも関わらず、手前の広島止まりの旅程を組んだのは、そのような遠慮があったからかもしれない。

 

この数ヶ月後に、僕は東北への旅行を企てて青森行き寝台特急「はくつる」に乗ることになるのだが、その時も行先は終点の青森ではなく盛岡で、しかも寝台ではなく、1両だけ連結されていたグリーン車の座席で1晩を過ごしたのである。

どうして「はくつる」をグリーン車にしたのか、寝台が売り切れていたのかもしれないけれど、今回の広島行で贅を尽くし過ぎたことが一因だったかもしれない。

 

あろうことか、僕は個室寝台を奮発していたのである。
 

 

寝台特急に乗るのは初めてであったけれど、寝台列車は以前にも経験したことがあった。

小学生の頃の家族旅行で京都に行った時、長野発大阪行きの夜行急行「ちくま」で、B寝台を利用したのである。

昭和36年に「あさかぜ」に投入されて、寝台特急列車がブルートレインと呼ばれるようになったきっかけとなった20系客車が、後継車両の14系や24系に追われるように、夜行急行列車で第二の勤めを果たしつつあった昭和50年前後のことである。

 

20系のB寝台は、進行方向に対して直角に並ぶ3段式で、僕ら家族は、1段目に母と小さかった弟が添い寝し、2段目が父、そして僕は最上段をあてがわれた。

20系客車の最上段は客車の屋根の丸みがそのまま内部に反映した形をしていて、まさに屋根裏そのものであったが、天井は高く、通路の天井裏の空間を利用した荷物棚と合わせて、3段のうちでは最も広い空間に思えた。

窓は、開閉ができる蓋がついた小さな覗き穴が1つだけである。

初体験の列車寝台に有頂天になった僕は、覗き窓から外を眺めたり、仰向けになって丸く曲線を描く天井を眺めるだけで、とても幸せな気分に浸ったものだった。

この体験に味をしめた僕は、10年ほど経ってから、20系客車を使用していた東京と大阪を結ぶ寝台急行「銀河」に乗った際にも、わざわざB寝台の最上段を指定した程である。

 

僕が乗る「あさかぜ」は24系車両に更新されて、B寝台も2段になっていたけれど、身分不相応でも、初めての寝台特急体験を豪華に演出したかったのだろう。

 

 

「間もなく、10番線に、18時45分発寝台特急『あさかぜ』1号博多行きが参ります。どちらさまも白線の内側にお下がり下さい。列車は14両編成で、品川寄りの先頭が荷物車、続いて1号車、2号車の順、神田寄りの1番後ろが13号車になります……」

 

とのアナウンスが流れ、EF66型電気機関車に牽引されたブルートレインが静々と姿を現した。

 

僕が子供の頃の「九州特急」を牽引する電気機関車と言えば、四角い外観に横長の運転窓が切れ長の目の美人を彷彿とさせるEF65型と相場が決まっていたが、高出力の貨物列車牽引機として昭和41年に製造されたEF66型に、この年から切り替えられたばかりだった。

従来より高い位置に設けられた運転台や、中央部を突出させた独特の前面形状は、183系や485系特急用電車の先頭車にも似て、貨物列車よりもブルートレインに相応しい外観だった。

小学校では鉄道好きの同級生が何人もいて、顔を寄せ合って鉄道写真を眺めながら、

 

「EF66がブルートレインを引っ張れば似合うのになあ」

 

などと言い合っていた記憶があるから、実現した時には、国鉄も味なことをするじゃないか、と嬉しくなったものだった。

 

 

田町にある車庫からの回送列車として東京駅に入線する際に、電気機関車の前面には、列車名を表示したヘッドマークがつけられていない。

客車をホームに停車させた後に、牽引機は隣りに敷かれた機回し線を利用して編成の先頭まで後戻りして、改めて連結し直されるされるため、ヘッドマークは機関車の品川方に装着されている。

この機回し線は、東北・上越新幹線用のホームを設置するため、平成元年に廃止され、その後は、車庫からの回送列車を次の寝台特急列車の機関車が牽引し、発車した後に、ホームの品川側にある短い引き込み線に戻るという手順になった。

 

因みに、行き止まりの頭端式ホームから寝台特急列車が発車していた上野駅では、機関車を大宮側に連結したままバックで入線していたというから、機関車牽引の客車列車とは、何かと手間の掛かる代物だった訳である。

僕が初めて寝台特急に乗車してから、僅か十数年で、客車方式の寝台特急が全て消えてしまったのもむべなるかな、と思う。

 

 

ブルートレインが消えてしまう未来のことなど、想像もしていなかった僕は、青地に白いラインが入った客車をまじまじと見つめながら、これまでは羨望の眼差しで眺めるだけだった寝台特急の車内に、この日は足を踏み入れられることを、夢のように感じていた。

 

個室寝台は、先頭の1号車である。

デッキから客室に入ると、通路に14室の個室の扉がずらりと並んでいる。

指定された部屋に入ると、進行方向と直角に細長く広がる室内には、ソファー式のベッドが置かれ、小さくエの字が並ぶ模様の浴衣と、寝台特急のヘッドマークが縫い付けられたタオルが畳んで置かれている。

窓際には洗面台が設けられていて、蓋をすれば机になる。

脇にごみ箱も置かれている。

通路との境に扉があって、鍵は掛けられないけれども、まさに個室となっている。

 

ソファーベッドに腰を下ろして膝を伸ばせば、足の先が壁についてしまうような狭さであるけれど、この空間を独り占めして、広島までの11時間あまりを過ごすことが出来ると思えば、心が浮き立つ。

贅沢をしてしまったな、と、脳裏に親の顔が浮かんで後ろめたい気分になったりもする。

  

 

唯一難点に感じたのは、ソファーに座ると進行方向に対して後ろ向きになる部屋をあてがわれたことである。

廊下に出て他の部屋を覗いてみると、進行方向の壁際にベッドがある部屋と、後ろ側の壁にベッドがくっついている部屋が交互に並んでいて、僕は前者の部屋を指定されていたから、座っている時間は後ろ向きになる訳である。

 

 

この旅に味をしめた僕は、その後も幾度か個室寝台で旅をすることになるのだが、不思議なことに、いつも後ろ向きの部屋を指定されることになる。

国鉄が指定席を販売する際には、車室中央の窓際席から埋めていくと聞いたことがあるけれど、個室寝台でも前向きの部屋から売る、というようなしきたりがあるのかもしれない。

僕は、この日の個室寝台利用客の中でも、比較的遅い時期に寝台券を購入したということだろうか。

 

世の中には車内で後ろ向きで過ごすことを厭わない御仁も少なくないようで、急行列車や鈍行列車の客室に配置されている4人向かい合わせのボックス席などは半分の確率で後ろ向きになる訳だが、特急列車の座席は前向き2人掛けのロマンスシートが基本となっているから、やっぱり前向きを好む客が多いのだろう。

昭和57年に東北・上越新幹線が開業した際に、普通車の横3列席を回転させるスペースが捻出できなかったのか、車室中央から車端方向に座席の向きが固定され、横3列席の半分が後ろ向きになってしまう座席配置の車両が登場した時には、驚いたものだった。

そのため、東北・上越新幹線では指定席に乗らず、自由席で前向きの席を選んでいたくらいである。

 

それほどの拘りがあるので、起きている時間も少なくない「九州特急」の長時間乗車では、出来れば前を向いて座っていたかった。

ソファーベッドが後ろ向きの部屋になってしまったのは不本意だけれど、ロマンスシートのように簡単に個室寝台の向きを変える訳にもいかないことは理解できるし、進行方向の壁際にベッドがあるということは、列車が急停車してもベッドから転げ落ちることはないから、この方が安全なのだ、と前向きに考えることにした。

 

 

初めての個室体験に有頂天になりながら、色々と室内を吟味していると、まだ発車していないのに、車掌さんがノックして検札に現れた。

個室寝台を選ぶ客は、1人で静かに過ごす時間に大枚をはたいているのだから、早めに検札して出来るだけ邪魔しないように、という配慮だろうか。

 

「御乗車ありがとうございます。切符を拝見いたします。はい、ありがとうございます。広島までですね。明朝6時19分の到着になります。鍵がありませんので、トイレなどにお出でになる際には、貴重品を身につけて行かれますよう、お気をつけ下さい」

 

と慇懃に頭を下げながら、車掌さんが扉を閉めるとほぼ同時に、「あさかぜ」1号はガタン、と身震いして動き出した。

 

 

ホームにいる人々や売店などが見る間に後ろへ流れ出し、列車は黄昏の街に旅立っていく。

初夏で日が長くなっているから、線路沿いに林立するビルの窓に明かりは灯っているけれども、人々や車が行き交う路地は、まだ明るさを充分に残している。

 

有楽町、新橋、浜松町、田町……と窓外を過ぎていく国電のホームには、勤め帰りの人々が鈴なりで、窓1枚隔てているだけなのに、まるで彼岸のことのように思えてならない。

その光景はまさしく、僕が先程まで身を置いていた日常そのものだけれど、そこを飛び出して旅に出ようとしている境遇を至福と思うのか、それとも、常人とは異なる行為に対して仄かな羞恥や悔悟を感じてしまうのか、僕は双方が入り混じった複雑な心境だった。

何よりも、日常に対する懐かしさや、1人旅に出ることに対する寂寥感が込み上げてきたのは、我ながら意外だった。

日常に飽き足らなくて、僕は旅に出ることを渇望していたのではなかったのか。

 

紀行作家の宮脇俊三氏が、編集者と東京と大阪を結ぶ寝台急行「銀河」に乗って、同じ車窓風景を目にした時の描写が印象的である。

 

『ホームには湘南電車を待つ勤め帰りの客がずらりと並び、浴衣姿で飲み食いする私たちを至近距離から見るともなく見ている。

窓ガラス1枚を隔てて、まるで世界が違うから、妙な気分である。

相手は水族館の魚でも眺めているつもりかもしれないが、こちらは、しかるべく飲んだあと、すぐベッドで横になれるわけだから、こっちの方が天国だと、自分ではそう思う。

「わるくない気分ですな」、これは私。

「なんだか、わるいような気もしますね」と名取君。

どうやら彼のほうが人柄がいいようだ』

 

 

品川を過ぎて大井町、大森へ続く直線区間に差し掛かり、列車の速度がぐいぐい上がる頃から、「ハイケンスのセレナーデ」のメロディが流れて、車掌さんの案内放送が始まった。

 

ジョニー・ハイケンスはオランダの作曲家で、第二次世界大戦中にヒトラーを賞賛した言動を責められ、終戦後に収監されて獄中で病死し、母国では忘れ去られた存在となっているという。

我が国では、太平洋戦争中に、NHKのラジオ番組「前線へ送る夕べ」のテーマ曲として「ハイケンスのセレナーデ」が使われたことで名が知られるようになり、戦後は、国鉄の客車列車の車内放送用チャイムに、第一主題の末尾部分が採用されたのである。

当時の国鉄の特急電車の車内放送で流れるのは「鉄道唱歌」と決まっていたから、「ハイケンスのセレナーデ」の美しい旋律は新鮮で、どこか物悲しく感じられて、僕の心に強く刻み込まれた。

 

『御乗車ありがとうございます。この列車は寝台特急「あさかぜ」1号、博多行きです。御利用の際には、乗車券の他に特急券と寝台券が必要になります。列車は13両連結しております。前から1号車、2号車の順で、1番後ろが13号車です。全ての車両が終点の博多まで参ります。1号車が個室寝台、2号車から7号車、9号車から13号車がB寝台となっております。8号車は食堂車です。指定券をよくお確かめの上、お間違いのないようにお願い申し上げます』

 

 

「あさかぜ」1号は、暗くなり始めた空の彼方に向かって、大井町駅のホームを吹き飛ばすように、猛然と走り込んでいく。

大井町駅のホームの大森寄り、池上通りの陸橋の手前にある踏切の甲高い警報音が、車内にも聞こえてくる。

この小さな踏切が、東京駅を発つ東海道本線の列車が最初に通過する踏切だったと思う。

 

富士吉田の教養学部から進級して、東京での大学生活が始まると、僕はこの踏切の音が聞こえる至近距離に住むことになる。

6畳1間で風呂なし、共同トイレという古びたアパートの2階の1室で、カンカン、と鳴る踏切の音を耳にして、列車の通過音がかすかに聞こえると、「あさかぜ」1号の旅を懐かしく思い浮かべたものだった。

 

貴方はもう忘れたかしら

赤い手拭い マフラーにして

2人で行った横丁の風呂屋

一緒に出ようねって言ったのに

いつも私が待たされた

洗い髪が芯まで冷えて

小さな石鹸カタカタ鳴った

貴方は私の身体を抱いて

冷たいねって言ったのよ

 

若かったあの頃

何も怖くなかった

ただ貴方のやさしさが怖かった

 

貴方はもう捨てたのかしら

24色のクレパス買って

貴方がかいた私の似顔絵

巧くかいてねって言ったのに

いつもちっとも似てないの

窓の下には神田川

3畳1間の小さな下宿

貴方は私の指先見つめ

悲しいかいってきいたのよ

 

若かったあの頃

何も怖くなかった

ただ貴方のやさしさが怖かった

 

喜多条忠作詞・南こうせつ作曲の「神田川」は、昭和40年代から50年代の若者文化を象徴する作品と評されており、喜多条氏の学生時代の思い出がそのまま綴られているという。

歌の舞台は、明治通りと新目白通りの交差点のすぐ西に架かる戸田平橋近辺とのことで、同棲の女性が風呂上がりに待たされたのも、喜多条氏が銭湯で飼っていた鯉に餌をやっていたためである。

 

†ごんたのつれづれ旅日記†

 

「あさかぜ」の旅の1年足らずの後に、「神田川」そのままの生活を大井町で送ることになろうとは想像もしていなかったけれど、踏切の音につられて眺めた大井町の街並みは、鮮やかに心に残った。

踏切に併設されている歩行者用の跨線橋は、ブルートレインの撮影場所として鉄道ファンによく知られているが、僕は、その脇に立つソープランドの看板が気になってしょうがなかった。

大井町とは、風俗店があるような街なのか、と思った。

 

 

女性がマッサージのサービスをする個室浴場が我が国に登場したのは昭和26年で、当初は性的なサービスが禁止されていたものの、昭和28年には、性的サービスを売り物にする店舗が全国で70店に増えていたという。

トルコ人留学生が厚生省に訴えたのをきっかけに、ソープランドと名称が変更されたのは昭和59年のことであるが、「あさかぜ」1号から見た大井町の店は、トルコという呼称のままだったかもしれない。

僕は、駐日トルコ大使館が日本政府に抗議して名称が変更されたと思い込んでいたのだが、「Wikipedia」には、新宿区に存在していた「大使館」という名のトルコ風呂の店が、電話帳に「トルコ大使館」と記載されていたことに対しての抗議だったと記載されている。

 

僕が大井町に住むようになったのは、性風俗の店があるからではなく、安いアパートを紹介してくれる親戚の知人が大井町在住だったからである。

もちろん、そのような店に足を踏み入れたことなど1度もないことは、断言しておく。

そもそも、バイトで風俗店に行けるような金額を手にすると、僕は迷わず旅に出掛けたのである。

 

今にして思えば、もう少し融通を利かせた学生生活を送っても良かったかな、と思う。

 

 

『この先の停車駅の到着時刻を御案内致します。次の横浜には19時12分、熱海に20時19分、沼津20時37分、静岡21時21分、浜松22時22分、名古屋23時36分。名古屋からは深夜運転となりますので、岡山まで停車致しません。岡山には明朝4時14分、尾道5時14分、広島には明朝6時28分の到着です。宮島口には6時52分、岩国7時10分、徳山8時05分、防府8時30分、宇部9時05分、下関9時44分、門司9時57分、小倉10時08分、終点の博多には11時04分の到着となります……』

 

車掌の放送が延々と続き、羅列された駅名を聞いているだけで、随分と遠くに行く列車に乗っているのだな、という高揚感が湧いてくる。

東京から広島まで894.8kmもの長旅に出ようとしていることが、改めて実感される。

 

 

戦後初の夜行特急列車として、昭和31年に登場した「あさかぜ」が画期的だったのは、夕刻に東京を出発して、関西圏を深夜帯に通過するというダイヤであった。

前例のないこのようなダイヤは、関西圏における乗降をを無視しても、東京対中国・九州圏を直通する需要が見込まれたことや、航空機の深夜便「ムーンライト」の影響があったためとされている。

国鉄の大阪鉄道局は強く反発したものの、関西と九州を結ぶ夜行急行列車の運転を開始することと、深夜でも京都駅、大阪駅、神戸駅で客扱い停車をすることで決着し、東京対九州間のビジネス利用に最適な時間帯設定として、国鉄の目論見通り高い乗車率となったのである。

 

後になって関西圏での停車が取り止められていることは、この日の車掌さんの案内からも一目瞭然であるが、この頃から東京の一極集中が加速されていったのかもしれない、と思わせるような「あさかぜ」の運行ダイヤであった。

 

 

小田原を通過して、関東平野から丹那山系に入り込む午後8時前には、すっかり暗くなった。

根府川付近で相模灘の眺めが見られたのかどうかは、よく覚えていない。

車窓を闇が支配する頃合いに、僕は、いつ食堂車に行こうかとそわそわし始めていた。

 

昭和50年代になると、航空機や新幹線、そして高速バスの台頭と、国鉄の相次ぐ値上げによって、寝台特急の利用客数は減少の一途をたどり、一世を風靡した「あさかぜ」の乗車率も20~30%程度まで落ち込んでしまったと言われている。

経済的に余裕のある客は航空機に移ったため、複数の車両が連結されていたA寝台車や個室が外されて「殿様列車」と呼ばれた面影が皆無となり、続いて、廉価さを求める客が夜行高速バスに奪われたのである。

 

同じく利用客数の低迷を理由として、平成5年に廃止されてしまう食堂車であるけれど、混んでいるのか空いているのかという予想が難しい。

鉄道雑誌や紀行文を読むと、ガラガラに空いているという文もあれば、発車直後から入口に列が出来ていると書かれた本を読んだこともある。

往年の1等寝台を愛用した内田百閒先生の「阿房列車」には、列車ボーイに、食堂車の席があいたら案内するよう依頼したという記述が見受けられるが、いくら個室寝台でもそのようなサービスを期待するのは無理であり、そもそも列車ボーイの乗務はとっくに廃止されている。

 

個室寝台がある1号車から8号車の食堂車までは決して近くない。

行ってみたら満席で引き返す羽目になった、などという事態は御免被りたいから、夕食の時間帯を避けることにしたのである。

 

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意を決して、何両もの通路を揺られながら出掛けた食堂車の混み具合は、よく覚えていないのだが、記憶に残っていない、ということは、待つ程のこともなく席にありつけたのだろう。

出迎えたウェイトレスに、相席をお願いされたような気もする。

 

食堂車で何を注文したのか、こちらの記憶も曖昧なのだが、当時のメニューは以下の通りであった。

 

海老フライ定食(海老フライ・野菜サラダ・パン又はライス・コーヒー又は紅茶) 1850円

ポークカツレツ定食(メインディッシュ以外は同上) 1550円

ハンバーグステーキ定食(同上) 1550円

ビーフカレーセット(ビーフカレー・ライス・野菜サラダ・薬味・コーヒーまたは紅茶) 1030円

ビーフカレー 820円

ミックスサンドイッチ 620円

ハムと野菜サラダ盛り合わせ 720円

海老・かにシューマイ 720円

フランクフルトソーセージ 820円

串焼き盛り合わせ 820円

スモークサーモン 720円

鳥の唐揚げ 720円

ポークカツレツ 1030円

スープ 410円

パン又はライス 150円

コーヒー 310円

紅茶 290円

オレンジジュース 260円

キリンレモン 210円

コーラ 210円

ミルク 210円

ビール(中瓶)490円

ギネススタウト 540円

清酒 450円

スコッチウイスキー 600円

国産ウイスキー 600円

ワイン(ロゼ)450円 

 

このメニューならば、僕の好みではポークカツレツかカレーライスを選んだに違いないと思うけれど、貧乏学生の懐具合から換算すると、移りゆく車窓を眺めながら食事をする楽しみを帳消しにしかねないような割高さを感じたことは否めない。

それでも、「九州特急」の食堂車で夕食を楽しんだのは、この時が最初で最後になったことを思えば、「あさかぜ」1号で利用しておいて良かったと思っている。

 

 

僕が食堂車で過ごしたのは、「あさかぜ」1号が静岡に着くまでの頃合いだった。

 

再び延々と通路を歩いて個室に戻り、窓の外に目を遣ると、暗闇の中でも、後方に飛び去って行く家々の灯や街灯、そして道路を行く車のライトなどが、旅の風情を醸し出す。

明かりだけが煌々と無人のホームを照らし出している小駅を通過する時だけ、室内がパッと明るくなる。

時折、ピョーッ、と電気機関車の警笛が聞こえてくる。

 

「あさかぜ」の運行が計画された時には、戦前に東京‐下関間で運転された特別急行列車に使われた「富士」と名付けられる予定だったが、上り・下り列車とも富士山が見える時間帯に富士山麓を走行しないという理由から、「あさかぜ」と名付けられたという。

戦前には欧亜連絡の一翼を担う国際列車でもあった「富士」の名は、東京-宇野間を走る四国連絡の昼行特急列車に命名され、続いて東京-西鹿児島間を日豊本線経由で結ぶ日本一の長距離を走る寝台特急として君臨したものの、「九州特急」の衰退とともに宮崎止まり、大分止まりへと短縮され、必ずしも伝統に相応しい使われ方とは言えない変遷をたどる。

富士山が見えようが見えまいが、そのような些末なことに拘らず、我が国を代表する夜行特急列車として華々しく東京-博多間に登場した寝台特急を「富士」と名付けておけば良かったのに、と僕は思っている。

 

『夜も更けて参りました。これより、明朝、7時10分に到着します岩国まで、案内を控えさせていただきます。どなた様もごゆっくりお休み下さい。途中駅でお降りのお客様は、乗り過ごしのないようにお気をつけ下さい』

 

という放送が流れたのは、浜松のあたりであっただろうか。

 

夜行列車に乗ると、嬉しくて、眠るのが勿体なくて、ついつい夜更かしをして翌日寝不足になるのは、鉄道ファンのジレンマではないかと思う。

「あさかぜ」をホームで待つ人が案外に多いように見受けられた名古屋駅を過ぎ、さすがにきりがないから僕もそろそろ眠ろうか、と横になってみたものの、壁にくっついた背もたれが案外と邪魔になって、ベッドの幅が狭く感じる。

寝返りを打てば、床に落っこちそうである。

こんなものか、と思いながら眠りについたのだが、実は座面を引き出して広く使える構造だったと気づいたのは、間抜けなことに、翌朝になってからだった。

 

 

停車の衝撃で目を覚まし、何処まで来ているのだろう、とカーテンをめくってみると、大阪駅だった。

時計の針は深夜の1時を過ぎていて、いっさいの人影や電車が見られない時間帯であるにも関わらず、奥行きのある構内に何本も並んでいるホームの全てに、眩く照明が灯されている。

無数の人々でごった返している日中の大阪駅を知っている者としては、とても不思議な光景に感じられた。

 

登場したばかりだった「あさかぜ」と、始発駅である東京駅を舞台にして、昭和32年に発表された松本清張の「点と線」を思い出した。

夜を迎えた東京駅の13番線で料亭の女中に見送られていた商社の社長が、15番線を発車しようとしている「あさかぜ」に、同じ料亭の女中と一緒に乗り込もうとしている知人を見掛ける場面から、物語は始まる。

その知人と女中は、数日後に香椎の海岸で情死体となって発見されるのだが、電車の出入りが激しい東京駅で、13番線から15番線を見通せる時間が1日で僅か4分しかないことから、偶然にしては出来過ぎではないかと刑事が抱いた疑念を発端にして、事件が解きほぐされていく。

東京駅の4分間に着眼した作者に敬服すると同時に、香椎海岸の寂しげな描写が心に残る1編だった。

 

東京と九州を行き来するために、人々が主として寝台特急を利用していた昭和30年代の時代背景にも、惹き込まれる。

ネタばれになるけれど、「点と線」の犯人のアリバイは、鉄道利用ではどうしても崩すことが出来ないのだが、刑事たちは、なかなか航空機に思い至らない。

「心の旅」の男女が、遠距離恋愛など考えもつかずに、「愛に終わりがあって 心の旅が始まる」と歌うように、昭和30年代から40年代の日本は、現代に生きる僕らが想像する以上に、広かったのだろう。

 

大阪駅に新幹線は乗り入れていないから、ずらりとホームが並ぶ壮観な眺めは、「点と線」の時代からあまり変わっていないのかも知れない。

対照的に、東京駅では、新幹線ホームを設けるために在来線ホームが10番線までに減らされ、中央線快速が使う1番線と2番線が、3番線と4番線の真上に移設されていることに思いを馳せれば、この30年間で、我が国の交通体系は大きく変貌したのだな、と唸らざるを得ない。

時代の流れとともに、寝台特急列車も、その役割を終えつつあったのだと思う。

 

前の晩に食堂車を往復した時に通ったB寝台車は、カーテンが閉められているベッドの方が少なくて、空いているんだな、と寂しく感じたことを思い出した。

東京-博多、東京-下関の2往復が運転されていた「あさかぜ」も、前者が平成6年に姿を消し、後者も平成17年に廃止される。

 

子供の頃に憧れていた対象が消えていく。

寂しいけれども、かろうじて間に合ったことを良しすべきであろう。

 

 

寝たり起きたりを繰り返しながら、はっきりと目を覚ましたのは、尾道を発車した頃だっただろうか。

既に辺りは明るくなっていて、カーテンを開けると、真っ青な瀬戸内の海原が、窓外を流れる木々の向こうに広がった。

朝靄にぼんやりと霞みながら、大小の島々が浮かんでいる。

初めて目にする水彩画のように鮮やかな瀬戸内海の景観に、遠くまで来たな、という旅の感動が込み上げてきた。

「あさかぜ」に乗って良かった、と思う。

 

 

三原から先では、古びた民家が点在する耕地が開けた山あいに入り込み、「あさかぜ」1号は、一晩を走り通した疲れを微塵も感じさせずに軽快に走っていく。

 

西条駅の隣りにある八本松駅を過ぎると、通称「瀬野八」と呼ばれる10km程の急な下り坂となる。

「あさかぜ」は一気呵成に駆け下ってしまうが、上りの貨物列車は今でも補助機関車を連結して登っていく難所である。

蒸気機関車時代の特急列車も、全てが瀬野駅で後押しする補機を付けて「瀬野八」を越え、八本松駅では走りながら切り離すという芸当を演じていたという。

 

「瀬野八」を下っている途中で扉がノックされ、はい、と返事をすると、車掌さんが顔を出して、

 

「お目覚めでしたか。あと10分ほどで広島に着きます。お忘れ物のございませんようにお降り下さい」

 

と一礼した。

通路で何回かノックの音が聞こえたので、広島で降りる客が少なくないのだろう。

 

東京発の18時台という時間帯はともかく、博多に11時近くに到着するというダイヤは、東京と福岡の間を行き来するには間延びしていると言わざるを得ない。

朝の6時過ぎに到着する広島あたりまでが、実用的な時間帯なのであろう。

何とか、もう少しスピードアップ出来ないものか、と無念でならないが、そのようなことは国鉄当局も散々検討したに違いないから、僕のような素人が口を出すべきことではない。

 

 

定刻に広島駅に滑り込んだ「あさかぜ」1号を降りれば、今回の旅のメインディッシュは終わりである。

博多に向けて発車していくブルートレインの後ろ姿を見送りながら、終点まで乗っていきたい、と思ったけれども、この後は、広島市内や宮島を散策してから、午後の新幹線で東京へとんぼ返りして、富士吉田まで戻らなければならない。

博多まで行く時間の余裕はないし、名残惜しいけれども、寮に戻ってから、「あさかぜ」に乗ったことを友だちに話そうか、それとも黙っていようか、と苦笑いしたくなった。

 

 

鉄道ファンで知られる歴史学者の原武史氏は、その著書「鉄道ひとつばなし2」の「独断・日本の駅百選」の章で、様々な観点から個性的な駅を選び出し、最後に広島駅を取り上げている。

 

『最後の広島は奇異な感もなくもないが、大変な駅だと思う。

百万都市の玄関駅で唯一ずっと自動改札を導入せず、戦前以来の入口と出口が別々にあるスタイルを踏襲し、改札を出れば眼の前が路面電車の駅になっている。

階段だらけの高架駅にもせず、ペデストリアンデッキも付けない。

しかも路面電車は京都市電のお古だったりする。

新幹線が開業しても、昔の風景がかたくなに守られている』

 

同氏は、続編「鉄道ひとつばなし3」でも、普通列車の乗り継ぎで山陽本線を乗り通した「山陽本線を行く」で広島駅に立ち寄り、

 

『ここは私が最も好きな大都市駅のホームである。

同じ平面に改札口があり、入口と出口が離れたところにある構造は、戦前の面影をよく保っている。

百万都市でこういう駅はほかにないだろう』

 

と記している。

この旅の後に、僕も広島駅を何度か利用するようになり、何処か他の都市と異なる雰囲気を感じ取っていたものだったが、原氏の文を読んで、すっきりと長年の疑問が氷解したような気がした。

そういうことだったのか、と思う。

 

 

その広島駅に初めて降り立ったのが、「あさかぜ」を下車したこの時だった。

確かに、列車を降りてから出口までがとても近かったような気がする。

大都市の駅のように延々と歩かされた記憶はない。

 

旅の余韻に浸りながら、ごった返している改札を出ると、目の前に見知らぬ街並みが忽然と現れた。

見馴れないビルが建ち並び、駅前の乗り場を路面電車が轟々と音を立てて出入りしている。

空気まで変わったような感覚が、無性に心細い。

初めての土地に足を踏み入れるという経験に乏しかった僕にとって、あたかも不意打ちのような展開だった。

僕は思わずその場に立ちすくんだ。

 

用もないのに1人で寝台特急列車に乗り込むという大胆さを持ち合わせながらも、この頃の僕は、まだまだ旅慣れていなかったのである。

 

 

 

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