東京発寝台特急の挽歌 第3章 ~西鹿児島行き「はやぶさ」・日本一の長距離列車の旅路~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成9年9月の週末、西鹿児島行き寝台特急列車「はやぶさ」は、電源車を含めた15両の堂々たる編成をEF66型電気機関車に牽かれて、定刻18時16分に東京駅10番線を発車した。



久しぶりの「九州特急」の道行きである。

「九州特急」に乗ったのは、昭和63年に「みずほ」で熊本に出掛けて以来であるから、平成の御世になって初めて、実に9年ぶりであった。


「九州特急」は他の夜行交通機関に比べて発車時刻が早いので、仕事を片付けて東京駅へ駆けつけるまでが慌ただしく、2段式B寝台の一角に腰を下ろしてひと息つくと、間に合った、という安堵とともに、一種の虚脱感に襲われてしまう。

窓外を過ぎ去る黄昏の街並みをぼんやりと眺めながら、だいぶ日が短くなってきたな、と秋の深まりを感じた。



それにしても、9年前と発車時刻がだいぶ変更されたものだと思う。

この旅の時点で、東京駅を発つ寝台特急列車は、


16時37分:「さくら」長崎・佐世保行き

17時05分:「富士」宮崎行き

18時16分:「はやぶさ」西鹿児島行き

18時44分:「出雲」1号浜田行き

19時20分:「あさかぜ」下関行き

21時00分:「瀬戸」宇野行き

21時20分:「出雲」3号出雲市行き


という順番で、東京と熊本・長崎を結んでいた「みずほ」が廃止され、東京と下関・博多を2往復で結んでいた「あさかぜ」が下関止まりの1往復に減らされ、「富士」と「あさかぜ」の運転時間が入れ替わっている。


「富士」は小倉から日豊本線に入っていくが、運転本数の多い鹿児島本線に直通する「はやぶさ」を、博多近辺の朝のラッシュ時間から外すための変更と聞いている。

東京でも、線路容量いっぱいに電車がひしめく朝の通勤時間帯を避けるように、上りの寝台特急は午前9時以降の到着にされている。



『本日はJRを御利用下さいましてありがとうございます。この列車は寝台特急「はやぶさ」、熊本・西鹿児島行きです』


東京発の列車で、西鹿児島、という言葉を言葉を改めて耳にすると、これから九州南端まで行くのだと心が奮い立つ。

何と言っても、我が国で最長距離となる1515.3kmを走破する列車である。


これでも史上最長ではなく、以前は東京と西鹿児島の間を日豊本線経由で結ぶ寝台特急「富士」の運転距離1574.2kmが筆頭で、その所要時間は24時間32分、丸1日を超えるという日本離れした列車だった。

次点に控えていたのが、同じ起終点を鹿児島本線経由で繋ぐ「はやぶさ」で、所要時間は運転開始の時点で22時間30分、この旅の時代でも20時間30分、昭和55年に「富士」の運転区間が東京-宮崎間に短縮されてからは、文字通り我が国で最長距離・最長所要時間の列車として君臨している。


小学4年で鉄道ファンになってから、ブルートレインに憧れ続けて30年もの間、「富士」と「はやぶさ」は、僕にとって別格だった。

いつか乗りに行きたい、と恋い焦がれながらも、20時間を超えるような列車に乗る時間を捻出するのは容易ではない。

それだけに、「西鹿児島行きです」の案内を車中で聞く日が訪れたことは、感無量である。



ただし、それも長いことではない。

世の中は夜行列車の削減が強力に推し進められる情勢へと変化し、「九州特急」も例外ではなかった。

この年の11月に、「はやぶさ」は運転区間を短縮して、熊本止まりになることが発表されていた。

東京から鹿児島まで直通しているうちに、幼少時からの願いを実現しなくては、という焦燥感に苛まれて、日程を無理矢理こじ開けたようなものである。


人間とは、進歩を追い求める生き物である一方で、何処か保守的な考え方を残していて、自分の身の周りに起きている事象の変化に想像が及ばないことが少なくない。

航空機の台頭や新幹線の延伸によって夜行列車の利用客が減少していることを耳にしながらも、「九州特急」が消えたり短縮される筈がない、と高をくくっていたことは否めない。

「はやぶさ」が熊本止まりになっても、仮に廃止されたとしても、僕の生活には何の影響もない。

しかし、大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、心の支えが失われてしまうような空虚感に襲われるのも事実である。

贔屓にしているスポーツのチームが消えても、ファンになっている芸能人が引退しても、生活は変わらないだろうが、人生は変わる。

それが趣味というものなのだろう。



『列車は14両で運転しております。先頭から1号車、2号車、3号車の順で、1番後ろが14号車です。途中の熊本で7号車から14号車が切り離されて、1号車から6号車が終点の西鹿児島まで参ります。7号車から14号車は熊本までとなりますので御注意下さい。13号車が1人用個室のシングルデラックス車両、12号車がB寝台個室のソロ、そして1号車から7号車と10号車、11号車、14号車がB寝台車となっております。今一度切符を御確認の上、お間違いのないように御利用下さい。8号車はロビーカーです。なお、9号車の食堂車は営業しておりません。車内販売が終点の西鹿児島まで乗務しておりますので、そちらを御利用下さいますよう、お願い申し上げます』


長年の憧憬の対象であったけれど、ようやく乗ることが出来た「はやぶさ」の編成は、全盛期に比べれば、没落した印象が拭えない。

食堂車は連結されているものの、平成5年に全ての「九州特急」の食堂車は営業を取りやめ、今では車内販売の基地となっている。

様子を窺いに足を運んでみたけれど、誰も座っていないテーブルが虚しく並んでいるだけで、奥の厨房にも人気が感じられない。

解せないのは、抜け殻のような食堂車をどうして未だに連結し続けているのか、ということである。

まるで寝台特急の凋落を晒しているようなものではないか。



食堂車の行き帰りに通るB寝台車では、2つの2段ベッドが向かい合う4人分の区画に1~2人いればいい方で、無人の区画も少なくない。

末期の「はやぶさ」の乗車率は、20%に満たなかったと言われている。


最近の寝台特急はどのような客層が利用しているのか、カメラと分厚い時刻表を手にした鉄道ファンばかりなのではないか、と思っていたけれど、比較的年配の女性が目立つ。

東京に出た我が子や孫の顔を見に出かけた帰り、と言ったところであろうか。

浴衣に着替えてカーテンも閉めずに寝転んでいる男性と、ベッドに足を投げ出して窓外を眺めている女性は、夫婦であろうか。


残念なのは、個室もロビーカーも熊本止まりの付属編成に含まれていて、西鹿児島まで行かないことである。


昭和57年から59年にかけて「小説新潮」に連載された宮脇俊三氏の「旅の終わりは個室寝台車」で、宮脇氏が編集者と西鹿児島駅で上り「はやぶさ」の個室寝台に乗り込む描写が忘れられない。

 

『個室寝台は1号車で、片側に通路があり、櫛形に14室並んでいる。

3段式のB寝台では定員が約50名、2段式でも34名だから、抜群の贅沢さだが、けっして広いわけではない。

いたずらに天井のみ高く、幅の狭いソファー式ベッドに座って脚を伸ばせば壁につかえる。

けれども、窓際には洗面台があって、蓋をすれば机になるし、なによりも通路との境に扉があって、要するに個室であるのがよい。 


「これが個室寝台ですか。案外狭いんですね」


と、7号室におさまった藍君が内部を見回しながら言う。


「だから個室じゃなくて独房だと言ったでしょう」

「でも、やっぱり快適です」

「それならいいけれど」


定刻12時20分、寝台特急「はやぶさ」は西鹿児島駅を発車した。

これから東京まで1515.3キロ、所要時間は22時間10分。

距離・時間ともに日本最長の列車である。


「さて、あしたの朝10時半に東京へ着くまで、ここで暮らすとしますか」

「とりあえず、どうしますか」

「まず昼寝をして」

「そうですか」

「昼寝じゃいけませんか」

「ぼく、もう二度と個室寝台に乗る機会がないような気がするのです」

「どうして?」

「そんな気がするのです。でも、どうぞお寝みになってください」


1時間半ばかり昼寝をして廊下に出ると、7号室の扉が開いていて、藍君がしょんぼりと外を眺めているのが見えた』


鹿児島から東京まで個室寝台を堪能できたとは、羨ましい限りである。

僕が今までに乗車した「九州特急」のうち、初体験の「あさかぜ」では、途中の広島までであったが個室寝台を奮発し、身分不相応の贅沢さに酔い痴れた。

次の「みずほ」では節約のために開放型B寝台にしたけれど、社会人になって経済的に自立したならば、必ずや個室に乗るぞ、と決めていた。


しかし、「九州特急」の利用客が減少し、個室車両や食堂車を新造する余裕がなくなった国鉄は、食堂車は昭和53年から、個室車両は昭和61年から、熊本で折り返す運用に変更したのである。

「はやぶさ」のように所要20時間を超える長距離列車ともなれば、下り列車の西鹿児島到着は上り列車の発車後になり、西鹿児島まで連結した車両をその日の折り返しに使うことは出来ない。

熊本で切り離せば、その日の上り列車に連結して、2泊で東京に戻すことが出来るという算段である。

省力化という趣旨は理解できるけれど、東京から西鹿児島までの長時間を個室で過ごしたかった僕にとっては、残念な運用である。

「はやぶさ」で西鹿児島へ行くためには、B寝台を選ぶしか選択肢はない。

ただ、僕がいるB寝台の区画に乗り込んで来る客は現れず、4人分の空間を独り占め出来たので、結果として個室のような使い心地だった。


「はやぶさ」を熊本止まりにするダイヤ改正も、つまるところ、「はやぶさ」そのものを2晩で折り返させたい、という意図なのだろう。



『これから先、停まります駅と到着時刻をお知らせ致します。次の横浜には18時42分、熱海に19時40分、富士20時12分、静岡20時39分、浜松21時36分、名古屋22時50分、岐阜23時10分。岐阜からは深夜運転となりますので、広島までお降りになることは出来ません。広島には日付が変わりまして、明朝5時25分、柳井6時26分、下松6時48分、防府7時19分、宇部7時57分、下関8時34分、門司8時46分、小倉8時59分、博多9時53分、博多には9時53分の到着です。鳥栖10時19分、久留米10時30分、大牟田11時03分、熊本11時48分、熊本は11時48分です。次の八代には12時20分、水俣13時08分、出水13時24分、阿久根13時43分、川内14時25分、串木野14時37分、伊集院14時53分、終点の西鹿児島には15時10分、西鹿児島には15時10分の到着となります』


乗客の心に刻みつけるような張りのある声が、西鹿児島まで28の停車駅を、丁寧に、延々と羅列していく。

発車直後の案内放送を聞くともなく聞いていると、僕が鹿児島まで利用するのは航空機でもどこでもドアでもなく、僕の人生における何万分の1に相当する時を刻みながら、遙かな旅路を駆け抜けていく寝台特急なのだという実感が込み上げてくる。


いずみ、と聞いて、鹿児島に泉などという町があったっけ、いや、出水だったか、とか、せんだい? 鹿児島のは仙台ではなくて川内と書くのだったな、などと南九州の地図を頭に思い描くのも、汽車旅の醍醐味であろう。


『次の停車は横浜、左側の扉が開きます。停車時間は1分です。すぐに発車となりますので、ホームへはお出でになりませんようお願い申し上げます』


との案内で長い放送が締めくくられたのは、両岸に工場がひしめく鶴見川の短い鉄橋を渡っている最中であった。

続いて、透明感のある若い女性の声が、やや早口でスピーカーから流れ始める。


『日本食堂より車内販売の御案内を申し上げます。車内販売では、ホットコーヒーにサンドイッチ、お茶にお弁当、冷たいお飲み物、また、沿線のお土産品と致しまして、東京の雷おこし、草加せんべい、栄太郎飴などを持ちまして、皆様のお席へと参ります。どうぞ御利用下さいませ』


在来線の昼間の特急列車と、話し方の抑揚も内容も全く同じなのだな、と感心しながらも、食堂車が車内販売に取って代わられたのは、やはり物足りない。



横浜駅を過ぎたあたりで、


「おくつろぎのところを畏れ入ります。切符を拝見致します」


と、僕が乗る車両で車掌の声が聞こえ始めた。

僕の順番が巡ってきて、券面を目にした車掌は、一瞬、目を見張りながら僕の顔と切符をまじまじと見比べたように思えた。

僕の切符は、東京から西鹿児島までの乗車券と特急・寝台券の2枚で、周遊券でも割引切符でもなく、この「はやぶさ」に乗るためだけに購入したものである。


「西鹿児島までですね。ありがとうございます。明日の15時10分の到着になります」


ありがとうございます、の言葉が、心なしか丁寧だったように感じられたのは、僕の思い過ごしであろうか。

今の御時世で寝台特急を好むとは、貴重な顧客と受け止められたのか、それとも単なる物好きと思われたのか。

このように邪推してしまうのは、他ならぬ僕自身が寝台特急をそのように捉えている表れに過ぎず、車掌はもっとビジネスライクだったのかもしれない。

今夜、西鹿児島まで乗り通す客はどれくらいいるのですか、などと声を掛けてみたいと思ったけれど、躊躇っているうちに、車掌は慇懃に一礼して姿を消した。


明日の午後3時過ぎまで、少なくとも3回の食事をして、寝不足にならないよう然るべき時間を睡眠に充てる他には、何もすることがない。

このような無為の21時間を、僕は過ごしたことがない。

退屈するのだろうな、と思うけれど、退屈も旅の醍醐味である。



1976年に公開された米映画「大陸横断超特急」で、ロサンゼルス発シカゴ行きの長距離列車に乗車した主人公が、食堂車で相席になった女性に、


「どうして列車にしたの」


と聞かれて、


「退屈したいから」


と答えるやりとりが、僕は好きである。

この映画のアイデアは、脚本家がロサンゼルスからシカゴまで列車で旅をした際に、退屈のあまりあれこれ想像したものだという。



ロサンゼルスとシカゴの間には、Amtrakの「サウスウェスト・チーフ」が、運行距離3631kmを2泊3日、40時間以上もの所要時間で毎日運転されていて、年間35万人の利用者があるという。

両都市間は、稚内から那覇までの距離に匹敵するが、航空機ならば数時間足らずである。

航空機を駆使しての移動が主流となっている社会で、鈍足の鉄道を楽しむ行為は、まさしく優雅である。

足掛け3日間を要する列車を、1日平均1000人近い旅行者が利用するという事実に、僕は、優雅とは程遠いと思い込んでいた米国人に対する観念を改めた。


東京と九州を行き来する人々の大半が航空機を利用するのは当然としても、別途、鉄道でのんびり行きたいと考える人だけでは1日1本の列車すら成り立たない我が国の現状は、国民性の違いだろうか。

僕らの国では、鉄道があまりにも優秀であり過ぎるために、遊びの対象になり得なかったのか。


「今度、寝台特急で21時間かけて鹿児島へ行くんだ」


と言えば、周りの人々からは、どのような反応が返ってくるだろう。


「旅の終わりは個室寝台車」の別の章に記されている、次のような宮脇氏と編集者のやりとりが思い出される。


『「会社で、北海道へ行くんだと言いますとね、ああ北海道か、いいなあって、みんな羨ましがるのが普通なんですけど」

「そりゃあそうでしょう。飛行機であっさり行けるようになって、だいぶ手擦れてきたけれど、まだまだ広々としてますからね」

「ところが、汽車と連絡船を乗り継いで16時間かけて札幌まで行くのだと言うと、みんな、それは気の毒、と同情するんです」

「1人くらいは、それは面白そうだという人がいてもいいと思うがなあ」

「それが、1人もいないんです」

「困った会社ですな」

「1人くらいいてもいいですよね」

「それで、ご本人はどうなんですか。自分に同情しながら乗っているってわけですか」

「そんなことはありません。いい経験だと思ってます」


 いい経験……』


僕らは、移動を旅の一部として楽しむ文化が醸成されていない社会に生きている。

それもそのはず、我が国における鉄道は、遊びどころか、産業や生活を支える歯車として機能していたのである。



「サウスウェスト・チーフ」のように、2泊3日に及ぶ長距離列車は、我が国にも実在した。


東京と鹿児島を直通する列車の嚆矢は、昭和17年の関門トンネルの完成と共に東京駅と鹿児島駅の間で運転を開始した急行7・8列車である。

戦局が厳しい時代であったため、昭和20年1月に運転区間が下関止まりに短縮され、3月には運行が中止されている。


昭和25年に東京-鹿児島間の急行「霧島」と「筑紫」が運転を開始し、「霧島」では山陽本線区間が夜にかかっていたが、「筑紫」は東海道本線と鹿児島本線の2つの区間が夜行運転という、我が国では珍しい2泊3日の行程で走る列車だったのである。


急行「筑紫」の主要駅の発車時刻は、


東京21時45分・名古屋4時44分・京都7時36分・大阪8時26分・岡山12時20分・広島20時12分・下関20時12分・門司20時34分・博多22時40分・熊本1時06分・鹿児島5時46分


と、実に31時間01分に及んでいる。

ちなみに「霧島」の主要駅の時刻は、


東京13時00分・名古屋18時45分・京都21時12分・大阪22時10分・岡山1時14分・広島4時18分・下関8時25分・門司8時41分・博多9時58分・熊本12時29分・鹿児島16時40分


という所要27時間40分であった。



昭和31年に「筑紫」の列車名は「さつま」に変更され、「さつま」を特急列車に昇格させる形で、寝台特急「はやぶさ」が昭和33年に登場する。

昭和35年には20系客車が投入され、「はやぶさ」も「あさかぜ」「さくら」に次いでブルートレインの仲間入りを果たすと同時に、鹿児島側の起終点が西鹿児島駅に変更された。

昭和43年には一部の編成が分割運転で長崎発着となったが、昭和50年に長崎編成は熊本止まりとして切り離されるだけとなり、代わりに東京‐熊本間の寝台特急「みずほ」の分割編成が長崎へ運転されるようになった。



「はやぶさ」の前身である「筑紫」「さつま」と同じく昭和25年から運転されていた急行「霧島」は、昭和45年に「桜島」と改名されて運行を続けていたが、昭和50年に廃止された。

「霧島」と併結され、日豊本線経由で東京と西鹿児島を結んで日本一長距離を走る急行列車だった「高千穂」も、同時に廃止されたため、東京から九州に乗り入れる急行列車は、この時点で、全て消滅した。


廃止直前の「桜島」の主要駅の発車時刻は、


東京10時00分・名古屋15時19分・京都17時28分・大阪18時12分・岡山21時01分・広島0時13分・下関4時02分・門司4時16分・小倉4時23分・博多5時28分・熊本7時20分・西鹿児島10時51分


と、所要24時間51分であり、東京-小倉間で「桜島」と併結していた「高千穂」の小倉以遠の時刻は、


小倉4時31分・大分6時55分・延岡9時24分・宮崎11時03分・西鹿児島14時11分


と、所要28時間11分だった。


黄金期の鉄道に憧れて、タイムマシンを駆ってでも乗ってみたかったと思う僕でも、「筑紫」や「高千穂」に乗り通す自信はない。

4人向かい合わせの硬いボックス席に座って延々30時間、そのように想像するだけでお尻が痛くなりそうである。



昭和33年に公開された松本清張原作・野村芳太郎監督の映画「張込み」は、大木実と宮口精二扮する2人組の刑事が、張り込み先となる九州まで夜行急行列車を利用する場面から始まる。

この列車こそが急行「さつま」で、横浜駅から三等車に飛び乗った2人は、殺人的とも言える混雑のために席を得ることすら出来ず、通路に腰を下ろして一夜を過ごす。

翌日、岡山のあたりでようやく席にありつけたものの、冷房がないので、誰もが服を脱いでシャツ1枚になり、しきりと団扇を使っている有様である。


このような光景を目にすると、この列車に乗れと言われても、勘弁してくれ、と答えるしかない。

移動を楽しむどころではなかったのである。


「今度、鹿児島まで寝台特急で行ってみない?20時間くらいかかるけど」

「ええ?無理!」


航空機での移動が当たり前となっている時代に、人々が寝台特急に対して抱くイメージは、僕が昭和30年代の夜行急行列車に感じる畏怖と同質なのかもしれない。

これほど壮絶な長距離列車の記憶が残っている限り、寝台特急列車は、優雅な旅の対象にはなり得ない気もする。



「さつま」で30時間を要していた東京-鹿児島間を、「はやぶさ」は20時間に短縮したにも関わらず見向きもされないのは、2時間も掛からずに直結する航空機が出現したのだからやむを得ないけれど、僕らは、何という目まぐるしい変化を享受しながら生きていることだろう。

時代と歩調を合わせて自分も進化を続けていけるならば、問題はない。

しかし、いつかは、自分自身が世の中の進歩に従いていけなくなるかもしれない。

使い捨てを繰り返していると、いつか使い捨てられる立場に陥らないとも限らない。


僕のように、「旅の終わりは個室寝台車」が刊行された昭和50年代よりも、「はやぶさ」の所要時間が1時間短縮されていることすら勿体ないと思う人間は、世間一般から見れば、はみ出し者と言ったところだろうか。

乗り物に乗りたくて旅に出るのだから、乗っている時間は長ければ長いほど良い。


幾ら退屈を持て余しても、「大陸横断超特急」を書き上げた脚本家のような想像力を、僕は持ち合わせていない。

ジーン・ワイルダー演じる主人公のように、食堂車で美女と出会ってコンパートメントで2人きりの時間を楽しみ、事件に巻き込まれて3度も列車から降ろされては追いかける羽目になる、といった血湧き肉躍る物語は、「はやぶさ」の車内では起こり得ない。



旅立ちの高揚感は、いつしか、物憂げな倦怠に変わっていた。

遅々として進まぬ時の流れに倦み、闇が深まっていく窓の外を見つめているだけでは、人恋しさが募るばかりである。

小田原を過ぎれば、「はやぶさ」は丹那山系を貫くトンネルを続け様にくぐり始める。

轟々と壁に反響する重苦しい走行音がふっと途切れるたびに、トンネルの合間に覗く車窓の闇が深まっていく。

時折、機関車の警笛が物悲しく虚空に響く。

左手の山あいに明かりのない空間が広がっているのは、相模湾であろうか。


窓の下を、乏しい灯に照らし出されて鈍く光沢を放つ上り線のレールが、何処までも続く。

我が国の近代を拓いた鉄の道を、どれだけの列車が走り、どれだけの人々が人生の哀歓を乗せて通り過ぎて行ったことだろう。

当時、大井町に住んでいた僕は、近所の東海道本線の踏切で踏みしめるレールの感触に、この先は九州まで続いているのだ、と胸を熱くしたものだった。

その線路を「九州特急」が走り抜けていたからこその感慨だったと思う。

そのような空想が浮かばなくなったのは、「九州特急」の全廃と期を一にしていたような気がする。



「失礼致します。お弁当にお茶、コーヒー、紅茶、ビール、おつまみは如何ですか」


じりじりして待っていた車内販売が、聞きなれた台詞と共にようやく姿を現した。

夕食を買い求める客が多かったと見えて、残っている弁当の種類はそれほど多くない。


「申し訳ありません、お弁当は幕ノ内だけなんです」


販売員さんは恐縮しているが、僕は夕食にありつけたという安堵から、いっぺんに機嫌が良くなった。

いやいや構いませんよ、と弁当とビールを買い求めれば、これでささやかな夕餉を始めることが出来る。

ただ、翌日も朝食と昼食を車内で手に入れなければならないのに、無事にありつけるのだろうか、と心配にならないでもない。


旅に出れば、食の比重は日常よりも増す。

長時間を過ごす車中で豊かな食事にありつけないのは、やっぱり幻滅する。

コンビニや駅ナカが充実し、乗車前に購入した飲食類を持ち込む乗客が増えたために採算性が悪化し、平成20年代になると、新幹線や在来線の特急列車から車内販売は姿を消しつつある。


「この列車に車内販売は乗務しておりません。お食事やお飲み物は御乗車の前にお買い求め下さい」


このような案内放送を、どれだけ耳にするようになったことだろう。


かつて、優等列車では、車内で食事を供することが当たり前だった。

小田急、東武、近鉄などの私鉄特急でも、車内での食事サービスを売りにする特急列車が少なくなかった。

いつ売りに来るのか、と空腹を抱えながら待つよりも、持参した方が手軽なのは確かである。

それでも、日常から抜け出したい、異質なものに触れてみたい、という心根が旅の原動力であるならば、コンビニ弁当や出発駅の駅弁では興趣が削がれてしまう。

「靴底のようなビフテキを食べさせられた」と阿川弘之氏が嘆いた食堂車のメニューでも、持ち込み弁当よりは、旅の実感が湧くのではないか。

何の変哲もない「はやぶさ」の幕ノ内弁当ですら、日常で僕の食卓に上がることはない。


手軽なもの、便利なものを選択する乗客ばかりになったという理由で、食堂車どころか車内販売すら存続の危機を迎えてしまう原理は、夜行列車の斜陽化と何ら変わりはない。



弁当を食べ終わる頃合いを見計らったかのように、車内は減光された。


鼻をつままれても分からない程の闇に包まれる夜行高速バスと異なり、防犯上の都合でもあるのか、夜行列車の減光は何処か中途半端である。

眼を射るような強烈さではないものの、瞑目しても瞼の裏に明るさが残る微妙な光加減で、これで熟睡しろと言われてもなかなか難しい。

決して豊かな光量ではなく、減光後に車内を見渡すと、世の終わりが到来したかのような不気味な明るさ、としか表現のしようがない。

もちろん、寝台に籠ってカーテンを閉め切れば、内部は真っ暗になる。


缶ビール1杯で朦朧とした眼を外へ向ければ、20時39分発の静岡のホームは、まだ日常を営んでいる人々の姿が少なくなかった。

22時50分発の名古屋では、煌々と明かりが灯されているホームの人影は疎らになっていたが、それでもよそ行きの出で立ちで「はやぶさ」を待つ客がちらほら見受けられた。


名古屋から先では、列車の揺れが妙に激しくなった。

「はやぶさ」の行程の中でも、名古屋から大阪の間は、表定速度が時速80~90kmと速くなっている、と聞いたことがある。

幾ら出したとしても、客車列車の最高速度は時速110kmと定められているから、たかが知れている。

日中の特急であればスピード感に酔い痴れるところであろうが、寝台に横になってこれだけ激しく揺さぶられると、そんなに急いでどうするのか、と腹立たしくなってしまうから、人間とは勝手なものである。


岐阜の停車を最後に、「はやぶさ」は関西圏で乗降扱いをしない。

かつての「九州特急」は関西圏を通過するのが常道であったが、「はやぶさ」に先行する寝台特急「さくら」「富士」は京都、大阪、三ノ宮に停車して、九州の行き来に使おうと思えば使えるダイヤである。


最盛期には寝台特急14往復、夜行急行4往復という大所帯を誇った関西対九州の夜行列車は次々と廃止され、この旅の時代には、西鹿児島行き「なは」、長崎・佐世保行き「あかつき」、都城行き「彗星」の3往復まで削減されていた。



寝つけないままに、ふと思い立って食堂車の隣りのロビーカーに出掛けてみると、同じく夜更かし組が思い思いに寛いでソファーを占めている。

5人ほどの中年男性がビールを次々と空けながら話に興じているが、その他は、1人で本を読んだり、ヘッドホンで音楽を聴いている。

ロビーカーは運賃を稼ぎ出す類いの車両ではないけれど、ロビーカーがあるから寝台特急を選ぶ乗客が出てくるかもしれない。

詰め込み一辺倒だった我が国の鉄道に、このような余裕のある空間を設けるという発想が出現したことは喜ばしい。


ふかふかのソファーに腰を下ろしてみたものの、行きずりの人と会話を楽しむ社交性がある訳でもなく、手持無沙汰で長居もしづらくて、悄然とベッドに戻るしかなかった。

ベッドに寝転んで枕元の明かりを消し、漆黒の闇の中で規則正しいジョイント音に身を任せているうちに、幾らかは眠ったようである。



『おはようございます。只今の時刻は6時10分です。列車は定刻通りに運転しております。次の停車は柳井、およそ10分ほどで到着いたします。お降りのお客様は、お忘れ物などございませんよう、今一度御確認下さい』


遠くで誰か喋っているな、と思いながら目を開けると、車掌さんの朝の第一声が流れていた。

東京駅の発車直後と異なって、どこか控えめで、かすれたような声色である。

分割民営化されても、乗務する車掌さんは、国鉄時代と同様に起終点を乗り通すのだと聞いたことがある。


窓のカーテンを開けると、朝靄に沈む瀬戸内海が広がっていた。

「九州特急」に乗って良かった、と思う瞬間である。


朝御飯はどうなるのだろう、と不安に駆られていると、6時26分に到着した柳井駅で、地元のおばさんらしい車内販売員が乗り込んで来た。

売っているのは籠に入った弁当とお茶だけで、僕はあなご飯を購入した。



ここまで西に来れば、さすがに夜明けが遅いから、まだ外は真っ暗で、ようやく東の空が白みかけた程度である。

6時48分に到着した下松駅では、明るくなり始めたホームから作業員が乗り込んで来て、慣れた手つきで1号車から6号車までの下段ベッドの枕やシーツ、毛布を畳んで、ぽんぽんと上段へ放り込んでいく。

ここから先は、立席特急券を購入した客が、寝台車を昼間の特急として利用できることになっているのだが、乗り込んできた客は大して多くなかった。

山口県内から鹿児島まで 時間も掛けて出掛ける客などそうそういないだろうし、他にもっと速く便利な列車が幾らでも走っている。



寝台が3段式だった時代は、中段を折り畳まないと頭がつかえて座れなかったが、2段式ではそのまま座れるだけの高さがある。

使い古しのシーツや枕が片付けられているとは言っても、東京から一晩を経て空気も淀んでいる客室の居心地など、決して快適には感じられないだろう。


僕が占めている区画に乗って来る客はいなかったから、好きな時に横になることが出来たけれど、誰かが来た場合に、僕が購入したこのベッドを使う権利はどのように考えればいいのだろう、などと狭量なことを考えないでもない。

寝台特急を維持するために、少しでも増収を図りたいという意図なのであれば、僕らは従うしかないけれど。



下関駅が近づくとすっかり夜が明けて、建物の合間に見え隠れする関門海峡の彼方に、九州の山並みが覗く。

牽引機をEF81型電気機関車に付け替えた「はやぶさ」は、僅か数分で関門トンネルをくぐり抜け、門司駅でED76型電気機関車に付け替える。

EF81型機関車でも西鹿児島まで行けるはずなのに、牽引機を変える理由は何だろうか。


北九州の重工業地帯と炭鉱地帯を走り抜けて、9時53分に着く博多駅の案内が流れると、車内が少しばかりざわめいた。

さすがに東京発の新幹線で来られる時間帯ではないし、かろうじて新大阪発の新幹線が間に合う頃合いである。

羽田からの航空機であればこの時間に福岡まで来ることは可能だけれど、そのためにはかなり早起きをしなければならず、博多まで寝台特急を利用する客は少なからず存在するのだろう。


10時19分に到着した鳥栖駅は、「はやぶさ」が西鹿児島編成と長崎編成を切り離していた時代ならば5分程度は停車していたのだろうが、現在の「はやぶさ」は2分ほど停車しただけで、素っ気なく発車する。



2年後に、「はやぶさ」は、再びこの駅で5分を費やすことになる。

平成11年に、「はやぶさ」は、東京と長崎を結ぶ寝台特急「さくら」と鳥栖駅まで併結されるようになった。

熊本行きの編成と長崎行きの編成が1本の列車として運転される形態は、かつての「はやぶさ」や「みずほ」を彷彿とさせるものの、当時は複数の列車が補完し合う必要性が生じるほど寝台特急の利用客が多かったのだが、今では、乗客数が1本の列車すら満たさないと判断されたのである。


平成17年のダイヤ改正で「さくら」が廃止となり、「はやぶさ」と併結される相手が東京-大分間を結ぶ寝台特急「富士」に変わると、遂に「九州特急」は僅か1往復となった。


平成21年3月、「はやぶさ」と「富士」は共に廃止の日を迎える。

東京発着の「九州特急」は全廃されたのである。



黄金色の稲穂が風に揺れる筑紫平野の田園地帯は、いつしか熊本平野に変わっている。


11時03分着の大牟田駅で、再び5分停車となった。

博多と西鹿児島を結ぶ特急「つばめ」9号に抜かれるためである。

特急が特急に抜かれるとは何たることか、と抜かれる側とすれば忸怩たる思いに駆られてしまうけれど、最新鋭の787系特急用車両を投入し、同区間に運転されていた特急「有明」よりも速い列車として登場した「つばめ」にしてみれば、面目躍如といったところだろう。

「つばめ」9号の博多発は10時18分、西鹿児島着は14時09分と、所要時間は「はやぶさ」より1時間半近くも短いのだ。

同じ線路でも、電気機関車が牽く客車列車と動力分散型の電車では、それほど差があるのか、と驚かされる。



「つばめ」という列車名は、戦前から我が国を代表する最速列車につけられていた伝統があるため、「はやぶさ」も諦めはつくというものであろう。


ギネスブックには、世界一速い鳥として、ハヤブサとハリオアマツバメが登録されている。

ハヤブサは、急降下で最も速い鳥、ハリオアマツバメは水平飛行で最も速い鳥ということらしい。

急降下で最も速い鳥とされているハヤブサは、急降下に際して時速300kmという凄まじい速度に達し、水平飛行で最も速い鳥であるハリオアマツバメは時速170kmなのだと言う。

ハリオアマツバメは、大きさが20cm程度のアマツバメ科に属する鳥で、ツバメ科に属する一般的なツバメとの生物学上の関連は少ないらしいが、「はやぶさ」と「つばめ」とは、ギネス記録に併記される奇しき縁だったのである。

だからこそ、「はやぶさ」の名は、後に東北新幹線の最速列車に冠されることになったのだろう。


東海道・山陽本線区間でも、同じ線路ではないから目に見えないだけで、数え切れないほど新幹線に抜かれているのだから、今更「つばめ」だけに目くじらを立てても意味はない。

そもそも、平成2年のダイヤ改正の時点で、「はやぶさ」は、水俣駅で特急「有明」11号に追い越されるダイヤが組まれていたのである。


「はやぶさ」が熊本止まりになる理由として、熊本以南へは「つばめ」や「有明」に乗客が乗り換えてしまうことが挙げられたが、僕にしてみれば、ここまで来て他の列車に移ろうなどという気はさらさらない。



熊本への到着は11時48分であった。

「みずほ」でこの駅に降り立った時のことを思い出しながら、煤けたホームを懐かしく見渡せば、あれから9年が経ってしまったのか、と容赦のない時の流れが身に滲みる。


2ヶ月後に「はやぶさ」の運転区間が東京-熊本間1315kmに短縮されると、昭和55年に「富士」が宮崎止まりになって以来、20年近く維持してきた定期列車における日本一の長距離列車の座を、「さくら」に譲ることになる。

「さくら」が廃止されると、「はやぶさ」が再び日本一の座に返り咲きを果たすことになるのだが、もはや長距離・長時間乗車を人々が嫌う御時世なのだから、長さを競うことなど虚しいだけである。


6号車と7号車の間の連結器と幌が切り離され、ロビーカーや食堂車、個室を含む8両を熊本駅に残した「はやぶさ」は、僅か6両の短いローカル列車に成り果てて、2ヶ月後には乗り入れを止める区間を走り出す。


三たび車内販売が乗務して来たから、つい惰性で昼食用の弁当を購入してしまったものの、あまり空腹ではなく、弁当の種類も覚えていない。

東京を発って18時間ともなれば、さすがに朦朧としてくる。

虚ろな視線を窓外に向けている僕の脳裏には、明瞭な形を成した景観の記憶ではなく、鮮やかな陽の光に照らされた山や木々の緑や、土の白っぽさなどといった色彩だけが刻まれた。


八代で熊本平野が尽きると、東京から1本のレールで繋がっている幹線の風格は跡形もなくなり、単線区間が増え、「はやぶさ」の速度も目に見えて落ちてくる。

右手に広がる不知火海では、水平線の彼方に天草の島影が浮かんでいる。

水俣、出水 阿久根、川内、串木野、伊集院と断続する南九州の町と、シラス台地の山峡を縫って、「はやぶさ」は朴訥に走り続けた。



停車駅で、鄙びたホームにぽつりぽつりと降り立っていく乗客が、一服の絵画のように窓に映る。

1人旅らしき若い男性も、出迎えの人と手を取り合っている高齢の女性も、必ずと言って良いほど、眩しそうに客車を振り向いていたのは、長い旅路の余韻を噛み締めているのか、それとも別れを惜しんでいるのだろうか。


鹿児島県の人々は、2ヶ月後に、東京と直通する列車を半世紀ぶりに失う。

昭和33年に運転を開始した当初の「はやぶさ」は、南九州に乗り入れる初めての特急列車であったという。

僕は、幸いにして、自分が住む町から頼りにしていた交通機関が消えるという経験をしたことがないけれど、鹿児島の人々にしてみれば、ぽっかりと心に穴が開いたような心境ではないだろうかと推察する。


小さな駅に停車して、対向列車を待つこともあった。

客車列車であるからモーター音も聞こえず、停車した時の静寂は、耳鳴りがするほどである。

外の音に触れてみたい、対向列車の地響きが近づいてくるのを聞いてみたいと思うけれど、窓は開かないし、待ち合わせだけの駅だから扉も閉められたままである。


往年であれば、対向列車が先に駅に待機してから、寝台特急列車が悠々と通過する手順であったのだろうが、「つばめ」に追い越されてからは、何でもありなのだ、と達観することにしていた。

駅名標を見れば、「薩摩高城」と書かれている。

緩やかに弧を描くホームの奥を湯田川が流れ、田畑の向こうにこんもりとした丘が並び、その合間から、海がちらりと覗いている。

このような寂しい駅に東京発の寝台特急を待たせるとは、どのような列車なのか、「つばめ」か「有明」か、と待ち構えているうちに、西鹿児島駅を13時13分に出てきた上り「はやぶさ」が現れた。

夜中に山陽本線でもすれ違っているはずで、同じ列車と2度邂逅するのも、20時間を超える長距離列車の貫禄であろう。



指差し呼称をしながら前方を見据えるED76型電気機関車の機関士。

窓から身を乗り出して、駅員と挙手の礼を交わす車掌。

悠然と交換する上り「はやぶさ」を見つめながら、ふと、半世紀に及ぶ寝台特急列車の運行に携わった多くの人々に思いを馳せた。

鉄道が国を支えていると自負していたからこそ、過酷な昼夜勤務をものともせず、列車の定時運行と安全と車内の快適な環境を守り続けてきたのである。


同じく、昼夜を問わず猛烈に働きながら、寝台特急の客となって日本中を駆け回っていた人々。

寝台特急にノスタルジーを覚えるのは、働けば働くほど未来は良くなる、と人々が頑張っていた昭和30~40年代への憧憬なのだと思う。

現在より不便であっても、その時代には夢があった。

いつかは坂の上の雲をつかむことが出来ると、信じて疑わずに済んだ時代だった。


新幹線が敷かれ、航空路線が増えて、他の交通機関が社会を担い始めたとしても、その変貌は、寝台特急に関わった人々が産み出した進化に他ならない。

一時代を築き、与えられた責務を果たし終えた今、遊びの対象になってまで卑屈に生き伸びる必要はないし、胸を張って退場すればいい。

新しい時代を生きる僕たちは、その礎となった寝台特急のことを、決して忘れることはないだろう。


西鹿児島駅、定刻15時10分。

21時間に及ぶ寝台特急「はやぶさ」の旅は終わった。

夜行列車を降りて西陽が傾きかけているというのは初めての経験だったけれども、あとは、正味1時間40分の空路で東京に戻るだけである。


埃にまみれた「はやぶさ」の車体を振り返れば、最後の舞台を演じ終えた名優が幕の向こうに一礼して消えていくのを見届けた時のように、心地よい余韻が心を占めていた。

名残惜しいけれども、こうして「はやぶさ」の時代に間に合ったことを、良しとすべきだろう。

僕は、さっぱりした気持ちで、西鹿児島駅の改札を出た。



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