東京発寝台特急の挽歌 第7章 ~宇野行き「瀬戸」 宇高連絡船と四国への道行きを支え続けた40年~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昭和61年の夏の週末のこと、僕は、東京駅を20時15分に発車した宇野行き寝台特急列車「瀬戸」の2段式B寝台車の一隅に収まっていた。

 

 

 

 

今では、宇野、という地名を聞いてピンと来る人が、どれほどいるのだろうか。

宇野は瀬戸内海に面した岡山県玉野市の中心となる町で、江戸時代は特に港湾設備が設けられている訳でもなく、産業も漁業より農業が主で、入浜式塩田による製塩業が主たる収入源であったと言う。

明治時代に隣りの玉村と合併して、双方の一文字ずつをとって玉野村となったものの、後に宇野村として独立している。

 

宇野村に面した湾内は比較的水深があり、船の碇泊に適していたため、岡山県による宇野港の修築工事が行われ、34万3000円の工費をかけた4万3900坪にものぼる埋め立て工事が、明治42年に完成する。

同時に鉄道院に嘱託された9400坪もの埋立工事が12万9000円をかけて行われ、明治43年に岡山駅と宇野駅を結ぶ国鉄宇野線が開通、宇野-高松間の宇高連絡船が就航、以後80年近くに渡って、本州と四国を結ぶ交通の要衝となったのである。

 

大正8年に町制が敷かれた宇野町は、昭和15年に再度の合併で玉野市が誕生した際に、市役所が置かれた。

 

 

 

 

太平洋戦争後の昭和25年に、東京発着で初の宇野線直通列車となる四国連絡の急行列車が運転を開始した。

この時、宇高連絡船を挟んだ四国側の連絡列車として、高松桟橋駅と宇和島駅の間に準急「せと」が運転を開始し、高松桟橋-多度津間で「せと」と併結して運転される窪川行きの準急「南風」も登場した。

後に「せと」の列車名は東京-宇野間の急行列車に譲られ、当初は東京-広島間の急行「安芸」と併結されていたが、昭和26年に併結する相手を東京-大社間の急行「出雲」に変更、昭和31年から「せと」は単独運転になって列車名が漢字の「瀬戸」に変更されている。

 

昭和36年に、東京-神戸・宇野間に151系特急用車両を用いた電車特急「富士」が走り始める。

2往復の「富士」のうちの1往復は、初めての「四国連絡特急」として東京と宇野を結び、その走行距離765.7kmは、当時の電車特急として最長であった。

「富士」と言えば、戦前に1・2等車だけの豪華な編成で東京-下関間を結んだ特別急行列車に使われた愛称で、戦後の再登場が四国連絡列車という位置付けには、伝統にそぐわないのではないかと戸惑った人物も少なくなかったらしいけれど、「富士」が、東京と宇野を直通する初めての特急列車であったのは確かである。

 

 

 

 

当時の特急「富士」の運行ダイヤは以下の通りであった。

 

下り「第1富士」:東京8時00分-横浜8時22分-熱海9時16分-静岡10時09分-名古屋12時14分-岐阜12時35分-京都14時00分-大阪14時33分-三ノ宮14時55分-姫路15時38分-岡山-16時44分-宇野17時20分

 

上り「第2富士」:宇野12時40分-岡山13時16分-姫路14時21分-三ノ宮15時05分-大阪15時30分-京都16時02分-岐阜17時21分-名古屋17時48分-静岡19時50分-熱海20時42分-横浜21時38分-東京22時00分

 

昭和39年の東海道新幹線開業を期に、東海道本線の電車特急は全廃されることとなり、「富士」の名は東京と大分を結ぶ寝台特急列車に譲られ、しばらく東京と宇野を直通するのは急行列車だけとなったが、昭和47年に「瀬戸」が寝台特急に昇格する。

 

 

 

この時の「瀬戸」の運行ダイヤは以下の通りであった。

 

下り:東京19時25分-横浜19時51分-熱海20時56分-静岡22時00分-名古屋0時21分-姫路4時04分-岡山5時19分-宇野6時00分

 

上り:宇野21時00分-岡山21時39分-姫路22時49分-大阪23時58分-静岡4時53分-熱海5時53分-横浜6時57分-東京7時25分

 

「瀬戸」は1往復に減ったものの、宇高連絡船を介して、同じダイヤ改正により四国で初めて登場した特急列車である高松-松山間「しおかぜ」と高松-高知間「南風」に接続するダイヤが組まれ、鉄道における四国連絡ルートが確立されたのである。

 

ちなみに、登場から20年近くを経た、今回の旅における「瀬戸」の運転時分は以下の通りである。

 

下り:東京20時15分-横浜20時39分-熱海21時41分-富士22時12分-静岡22時43分-名古屋0時59分-姫路4時56分-岡山6時03分-宇野6時42分

 

上り:宇野21時04分-岡山21時43分-姫路22時48分-三ノ宮23時34分-大阪0時03分-静岡4時39分-富士5時08分-熱海5時40分-横浜6時46分-東京7時11分

 

下り列車は名古屋に停車して関西圏を通過し、上り列車は三ノ宮、大阪に停車して名古屋を通過するという共通点が面白い。

日中の特急「富士」が9時間20分で結んだ東京-宇野間を、寝台特急「瀬戸」は10時間半前後で結んでいるのは、電車特急より客車列車の方が鈍足であるのはやむを得ないとしても、何となくもどかしい気がする。

 

特急「富士」が消えた後には、大阪や新大阪で東海道新幹線に接続する特急「うずしお」と「ゆうなぎ」が宇野まで運転されたものの、東京と宇野を直通する列車はなくなり、山陽新幹線岡山開業を機に、関西から宇野線へ直通する列車も消えてしまっていた。

 

 

 

 

東京や関西から新幹線で岡山、更に宇野線の列車と宇高連絡船へ、乗り換えの煩わしさが増えていることを考慮すると、宇野まで直通する「瀬戸」の存在は貴重だったと思う。

加えて、夜行列車には、慌ただしい日中の特急や新幹線とは一味も二味も異なる独特の情緒がある。

 

20時間以上も費やす「九州特急」に比べれば、運行距離も所要時間も短いためであろうか、当時の「瀬戸」はB寝台車だけが13両連なるモノクラス編成で、東京駅を発着するブルートレインの中では唯一、個室寝台も食堂車も連結されていなかった。

車内販売が回ってきた記憶もない。

 

それでも、寝台に横になって心地良い揺れに身を任せ、時折物悲しく奏でられる機関車の警笛や、規則正しくレールを刻む走行音に耳を傾けていれば、寝ている間に遠くの土地まで誘ってくれるという旅情が込み上げてきて、無性に嬉しくなる。

 

 

 

 

東京駅を発って1時間あまりで夜の関東平野を走り抜け、小田原駅を通過すると、列車は、箱根山塊から伊豆半島に連なる山々に分け入っていく。

真っ暗な相模灘が左側に垣間見える。

時計の針は午後9時半を回っていて、かぼそい灯がホームに点々とともる根府川駅を通過するあたりで、僕は寝台に腰掛けながら、ぼんやりと右側の車窓に目を向けていた。

 

不意に、黒々と視界を遮る山肌の中腹を、漆黒の闇を切り裂いて、一筋の光が貫いた。

客室の照明を煌々と輝かせながら、新幹線の上り列車が、東京方面に向けて疾走していったのである。

あのようなところに東海道新幹線が敷かれているのか、と驚いた。

パンタグラフから、線香花火のような青白い火花がパッ、パッとまき散らされて、幻想的だった。

トンネルとトンネルの狭間にある谷を跨ぐ鉄橋を、その新幹線は渡っていたのだと思う。

 

 

 

 

いつしか深い眠りに落ち、間もなく岡山駅に到着するという車掌の案内放送で目を覚ました。

車内がざわざわとしているから、岡山で降りる客が多いようである。

東京駅を発着する「九州特急」は、広島あたりで夜明けを迎えることが多いので、程良い時間に岡山を通る「瀬戸」は、手頃な列車なのだろう。

 

後に夜行列車が衰退する御時世となっても、岡山は夜行需要が根強く残っている不思議な地域である。

東京から新幹線で3時間半、航空機で1時間あまりという至便な位置にありながら、今でも夜行高速バスが東京-岡山間に5路線、元ツアー高速バス系の路線を含めれば2桁を下らない路線数になることだろう。

しかも、寝台特急「瀬戸」が、平成10年から「サンライズ瀬戸」と電車寝台特急に更新されて、運転を続けているのである。

 

 

 

 

山陽本線で岡山駅に近づくと、思い浮かぶのは、岡山が郷里である内田百閒の「阿房列車」の一節である。

 

『三石の隧道を出て下り勾配を走り降り、吉井川の川中で曲がった鉄橋を渡ってから、備前平野の田圃の中を驀進した。

瀬戸駅を過ぎる頃から、座席の下の線路が、こうこう、こうこうと鳴り出した。

遠方で鶴が啼いている様な声である。

何年か前に岡山を通過した時にも、矢張りこの辺りからこの通りの音がしたのを思い出した。

快い諧音であるけれども、聞き入っていると何となく衷心をそそる様な気がする(鹿児島阿房列車)』

 

百閒先生が博多行き急行列車「筑紫」に乗車している際の描写である。

心惹かれる内容であり、紀行作家の宮脇俊三氏も、

 

『たしかに山陽本線の瀬戸-西大寺(現在の東岡山)間では、そういう音がするのだ。

それは岡山の近いことを知らせるかのような独特の響きだった(阿房列車賛歌)』

 

と書いているから、今でも聞こえるのかもしれない。

 

この文を読むと、在来線の線路を僅かにバウンドしながら勢いよく回り続ける、客車の鉄輪が思い浮かぶ。

どのような節理が奏でる音なのだろうか。

聞いて見たい、と思うけれども、聞いたことがない。

僕が岡山を在来線で走る機会など滅多にあるものではないし、寝台特急では寝ている間に通過してしまうことが多い区間である。

 

『遠方で鶴が啼いている様な』というのだから、かすかな音なのであろうし、宮脇先生も、『百閒先生が文章にしなければ、そのときだけで忘れてしまう瑣細な音である』と書いている。

残念なことに、「瀬戸」でも聞いた記憶がない。

聞こえなかった、と言うのではなく、意識しなかったのだ。

 

『瀬戸、西大寺、岡山の間だけでなく、岡山を出た西の方の線路にも、この音のする所がある。

速い時に鳴り出す様で、大体7、80粁前後にならなければ、鶴は啼かないのではないかと思う(春光山陽特別阿房列車)』

 

という別の一節を読むと、「瀬戸」の乗車は、鶴の声を聞ける貴重な機会であったはずなのに、おそらく僕は、この旅の時代に「阿房列車」を読んでいなかったのだと思う。

 

現在、この区間を高速で走る列車は決して多くなく、東京から岡山経由で高松・出雲市に向かう「サンライズ瀬戸・出雲」か、岡山と鳥取を結ぶ特急「いなば」に乗って耳を澄ましてみるしかなさそうである。

 
 

大半を眠って過ごすような乗車時間であるためか、寝台特急「瀬戸」の記憶は断片的なのだが、岡山駅から宇野駅までの32.8kmの車窓は、起き抜けであったにも関わらず、鮮明に覚えている。

所要は40分、表定速度はおよそ時速44kmと、東京-岡山間の表定速度である時速75.2kmに比べて極端に鈍足となるが、東京-岡山間で表定速度が時速83.9kmという俊足を誇った151系特急用電車「富士」ですら、この区間の表定速度は54.6kmまで落ちてしまうようなローカル線なのだから、やむを得ない。

 

岡山駅を発車した「瀬戸」は、左へ曲線を描きながら山陽新幹線と山陽本線の跨線橋をくぐり、すぐに築堤を登り始めて、岡山の市街地を一望する高架に出る。

大元駅を通過し、右にカーブしながら高架を降りると、すぐ備前西市駅である。

笹ヶ瀬川を渡って築堤を下り、妹尾駅を過ぎると、市街地も尽きて周辺には鮮やかな緑の田畑が目立つようになる。

備中箕島駅、早島駅、久々原駅を過ぎると再び高架となり、茶屋町駅の構内に入っていく。

昭和63年に開通した瀬戸大橋に繋がる本四備讃線は、茶屋町駅で宇野線と分岐することになっていた。

 

 

 

 

茶屋町とは、気になる地名である。

今では倉敷の市域に含まれ、かつては穀倉地帯として米や麦、イグサ、綿花の栽培が盛んに行われ、四国往来の沿道として、また汐入川の河港としても栄えたという。

領主が岡山との行き来で利用する茶屋を中心とした商家が並び、地名の由来となったのである。

 

鉄道ファンにとっての茶屋町駅は、軌間762mmの軽便鉄道として親しまれた下津井電鉄の起点として記憶されているに違いない。

下津井は、宇野よりも古い江戸時代からの港町として栄え、下津井-丸亀航路は比較的距離が短いことから、四国往来と呼ばれる主要ルートの一部として、金比羅参りなどの人々に多く利用されていた。

国鉄宇野線が開通し、宇高連絡船が開設されると、下津井-丸亀航路の利用者は激減し、四国への渡航客を取り戻すために、下津井や丸亀の実業家が出資して茶屋町駅から小島新田を経て下津井駅までの下津井電鉄線が、大正3年に開通したのである。

 

岡山から国鉄宇野線に乗り換え、更に茶屋町で乗り換えなければならないという手間のために、本四連絡の客の利用は決して多くなかったと言われているけれど、鷲羽山への観光客や、児島近辺での繊維業の発展により、隆盛を極めた時期もあったと聞く。

しかし、岡山と児島の行き来には直通するバスの方が便利となってしまい、昭和47年に茶屋町-児島間が廃止されて、国鉄線と接続しない根無し草のような路線になってしまう。

鉄道の客を奪ったバスが自社路線であったと言うのは、皮肉である。

 

峻険な地形であるために、バスの代替輸送が困難であったことから残されていた児島-下津井間も、本四備讃線が岡山駅から児島駅に直通し、下津井電鉄の児島駅と1kmも離れていたことや、瀬戸大橋建設用の道路整備により道路状況が改善したことから、平成3年に廃止されたのである。

 

 

 

 

茶屋町駅を出た「瀬戸」は、倉敷川を渡り、しばらく川沿いに東へ進んでから彦崎駅、備前片岡駅と歩を進めていく。

岡山と宇野の間には、このような険しい山々が立ちはだかっているのか、と目を見張るような山あいに分け入り、迫川駅、常山駅、八浜駅を過ぎると、短いトンネルまで現れる。

 

児島半島は、かつて吉備児島と呼ばれる島であったという。

「古事記」などによれば、吉備兒島は、今の淡路島に当たる大倭豐秋津島の次に生まれた島と伝えられている。

本土と吉備児島との間、現在の茶屋町の付近は吉備の穴海と呼ばれる浅い海で隔てられ、古代には藤戸と呼ばれたこの海峡が重要な航路となっていた。

奈良時代から早くも干拓が開始され、室町時代から戦国時代にかけて新田開発のための大規模な干拓が推し進められるようになり、江戸時代には、現在の岡山市南西部、早島町南部から倉敷市中東部にかけての岡山藩による干拓が仕上げとなって、吉備児島は陸続きの半島となったのである。

明治期以降も干拓事業が進められ、太平洋戦争後には農林水産省の国家事業として干拓が継続された。

昭和37年には児島湾の一部を閉め切って、灌漑用の児島湖が完成している。

 

児島湖の西側に細長く広がる児島半島が、昔は独立した島であり、その北側の平地が海であったと聞けば、海に向かって平地から山中に入って行く、通常ならば逆ではないかと思わせる宇野線沿線の地形も、島としての隆起であったのか、と納得できる。

 

地図を開けば、宇野線は大元駅から茶屋町駅を頂点として宇野駅まで大きく西に迂回した線形となっている。

これは当時の海岸線に沿って建設された結果で、宇野線より東側は、以後の干拓によって、新しく陸地となった地域なのである。

国鉄がこの遠回りの線形を解消しようと計画したこともあったらしいが、瀬戸大橋へは、茶屋町から真っ直ぐ南下する経路を採ることが出来たため、結果として西回りの線形が役立ったことになる。

 

トンネルの先の備前田井駅から先は住宅地が目立つようになり、「瀬戸」の終点である宇野駅は間もなくだった。

 

 

眠い眼をこすりながら「瀬戸」を降りて跨線橋の階段を昇り、宇高連絡船への乗り換え通路を歩いているうちに、いつの間にか船内に足を踏み入れていることに仰天してしまうような寝ぼけぶりであったから、80年もの間、四国への入口となっていた宇野駅の佇まいは、全く覚えていない。

 

昭和63年の瀬戸大橋の開通により、宇野線の茶屋町から末端部は盲腸線となり、高速艇だけで細々と運航されていた宇高連絡船も平成2年に休止となった。

それでも、東京駅を「宇野」と行先表示を掲げた列車が出入りしていたことは、貴重な歴史の1ページとして、いつまでも記憶に留めておきたいと思う。

 

 

宇野と高松を結ぶ民間の四国フェリー、宇高国道フェリー、本四フェリーによる宇高航路は、瀬戸大橋の通行料金が割高であったことからトラックを中心に人気が持続して運航を続けていたが、しかし、明石海峡大橋の完成や、瀬戸大橋の通行料金の値下げ、燃油価格高騰などのために利用客が減少する。

平成21年に津國汽船の本四フェリーが、平成24年に宇高国道フェリーが、そして四国フェリーが令和元年に廃止され、1世紀以上もの歴史を持つ宇高航路は、その歴史に幕を閉じることになったのである。

折りからの不況も加わって、宇野地域の経済は冷え込んでいると聞いている。

 

 

一方、寝台特急「瀬戸」は、瀬戸大橋開通後に高松まで足を伸ばし、平成2年にはA個室寝台「シングルデラックス」とシャワー室を備えた「ラウンジカー」も連結されるようになった。

平成10年には、個室寝台を主とした285系寝台電車で運転される「サンライズ瀬戸」に生まれ変わって、現在も我が国唯一の夜行列車として走り続けている。

 

下り:東京22時00分-横浜22時24分-熱海23時23分-沼津23時40分-富士23時54分-静岡0時20分-浜松1時12分-姫路5時26分-岡山6時31分-児島6時53分-坂出7時10分-高松7時27分

 

上り:高松21時26分-坂出21時44分-児島22時01分-岡山22時34分-姫路23時35分-三ノ宮0時13分-大阪0時34分-静岡4時40分-富士5時10分-沼津5時27分-熱海5時45分-横浜6時45分-東京7時08分

 

 

「サンライズ瀬戸」の運転ダイヤを見ると、東京-岡山間の所要時間が8時間半と、151系特急「富士」の8時間44分よりも短縮されているのは、最新鋭の寝台電車の面目躍如だと思う。

客車式のブルートレインだった「瀬戸」の時代に比して、静岡県内の停車駅が大幅に増えており、また上り列車が関西で乗降扱いを行う伝統も引き継がれているものの、下り列車の名古屋停車がなくなっているのは、東京発が2時間近く繰り下がっているため、やむを得ないことなのだろう。

 

それでも、「瀬戸」から眺めた早朝の宇野線の鄙びた雰囲気が印象的であっただけに、「サンライズ瀬戸」の停車駅に宇野の文字が見当たらないことには、容赦の無い時代の変遷を感じてしまう。

 

 

瀬戸大橋の完成が間近に迫っていることは小耳に挟んでいたものの、「瀬戸」から降り立った僕は、そのような未来のことなど想像もしていなかった。

 

僕は、宇野を7時00分に出港する宇高連絡船1便で、初めての瀬戸内の船旅を楽しんだ。

寝台特急から連絡船への乗り継ぎは青函連絡船で体験していたし、その醸し出す旅情は言葉に尽くせないほどであったから、「瀬戸」の車中から、宇高連絡船への乗り継ぎをとても楽しみにしていた。

天候にも恵まれ、海は穏やかで、船内から瀬戸大橋を見晴るかすことも出来たけれど、あまりに遠くて、どの程度の完成状況なのかは判然としなかった。

 

 

国鉄高徳本線や琴平参宮電鉄線の電車を乗り潰しながら金刀比羅宮や屋島、高松市内を散策し、夜になってから、一足遅れて新幹線でやってきた高校時代の友人と落ち合った。

高松を0時46分に発車する高知行き客車夜行221列車で、高知4時32分着。

高知4時36分発の731D列車で、中村7時52分着。

バスで足摺岬を往復するだけで丸1日を費やし、時間を間違えて復路のバスに乗り遅れそうになりながらも、何とか中村を13時18分に発つ普通列車754Dに間に合って、高知16時50分着。

高知発18時00分の国鉄松山高知急行バス最終便「なんごく」26号に揺られて、松山21時49分着。

道後温泉で1泊し、松山市内を観光してから、松山12時54分発の急行「しおかぜ」8号で、高松16時11分着。

高松を16時25分出港のホーバークラフト116便で、宇野に16時48分着。

宇野17時37分発の快速3140M列車へと乗り継いで、岡山18時08分着。

 

 

何とも慌ただしい四国巡りとなってしまい、岡山駅から上りの新幹線に乗り込んでひと息ついた時に、友人は若干不服そうだった。

寝台特急「瀬戸」で四国入りした僕にとっては、車中泊も含めて3泊4日に及ぶ大旅行だったのだが、2泊3日しかしていない友人は、もう1泊したかったようである。

疲れも手伝って、旅の幕引きとなる東京行きの新幹線の車内は、2人とも無口だった。

 

別に選んだわけではなく、たまたま行程に当てはまっただけであるけれども、岡山駅で指定券を手に入れた「ひかり」の先頭車が、当時2階建て新幹線と持て囃されていた100系車両のスマートなノーズだったので、僕の心は躍った。

当時の東海道・山陽新幹線は、まだまだ0系車両が主力で、昭和60年にデビューした100系車両を使う「ひかり」は少しずつ本数を増やしていたものの、まだ珍しい存在で、1日数往復しかなかった。

まだ「のぞみ」は登場していない時代である。

 

 

とっぷりと日が落ちた三島駅を通過して、新丹那トンネルをくぐり、熱海駅構内の半径1500mという急カーブでぐぐっとスピードが落ちる頃、時計の針は、夜の9時半を回っていた。

並行する東海道本線ならば、熱海、湯河原、真鶴、根府川と、相模灘に沿う駅が続く区間である。

箱根山塊が海ぎわまでせり出しているため、断続するトンネルと鉄橋ばかりであるけれど、新幹線は熱海から小田原まで駅がなく、在来線より内陸側の山中を連続する長大トンネルで貫いていく。

長さ606mの熱海トンネル、3193mの泉越トンネル、1415mの城堀トンネル、5170mの南郷山トンネルを抜ければ、根府川を渡る短い鉄橋に差し掛かる。

 

熱海から4つ目のトンネルを抜けた瞬間、ふと右下の車窓に目を遣った僕は、黒々としたなめくじのように、暗闇の中をのんびり走る列車の姿を見た。

あっと思う間もなく、僕らの乗る「ひかり」は、ぐわん、と風を巻き上げて、次のトンネルに突っこんでいった。

列車種別を見極める時間もないような、瞬時の邂逅だった。

けれども、その列車には客室の明かりが殆ど見えず、カーテンを閉め切った寝台列車だったように思えてならなかった。

 

ならば、何という正確な運行であろうか。

四国へ向かっていた3日前の僕が、寝台特急「瀬戸」の窓から見上げた新幹線は、まさしく、100系だったのだから。

漆黒の闇の中に煌めいた2階席の明かりが、今でもまざまざと脳裏に浮かび上がる。

 

当時、その時間帯を運行する上りの100系「ひかり」は、僕と親友が帰路に利用した「ひかり」28号だけであった。

博多を16時27分に発車し、岡山発は18時43分、東京へ22時32分に着く。

小田原の手前の根府川のあたりは、22時より少し前に通過しているはずである。

その時間帯に東海道線の根府川付近を下る寝台列車も、「瀬戸」だけだった。

 

往路で利用した乗り物と、帰路にすれ違うという偶然である。

旅先での様々な出来事が凝縮して、旅そのものが「邯鄲の夢」であったかのような儚さすら覚えてしまう。

「ひかり」28号の窓から見下ろした「瀬戸」の車内には、新幹線を見上げていた3日前の自分がいたのかもしれない。

SFのような空想が、胸中に去来する。

時を戻して、四国に戻りたいと思う。

 

明日の瀬戸内海は、穏やかだろうか。

 

 

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