北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)を不法占拠したソ連は昭和22(1947)年夏から23年秋にかけ、それぞれ島に残った島民たちを強制的に退去させた。ただ、島民が着いたのは北海道の根室でもなく極寒の樺太・真岡だった。

 

真岡には島民たちの収容所が2ヵ所あった。真岡第2小学校を改築した第1収容所と、真岡高等女学校を改修した第2収容所。いずれも周囲は金網で囲まれていた。

 得能さん一家は第1収容所の教室に1畳半のスペースが与えられただが、6人家族では狭く、全員か横になれず座ったまま寝たという、食事は朝と晩に黒パン2枚と、おかずのニシンの塩潰けだけだった。

 

体調を崩しても医者かいないし、薬もない。恐怖と飢えと寒さで、体力か衰弱し、多くの人が死んでいった。「死なないうちに船に乗りたい」が合言葉になっていたという。

 得能さん一家は真岡に着いてから約70日後の昭和22(1947)年12月上旬、函館に向かった。だか、函館港の桟橋に着いたとき、姉がおぶっていた2歳の長女が死んでいた。

「樺太での生活は人生の中で一番残酷で、生涯忘れることができない」得能さんは目を潤ませた。

 

 そうした島民の半数以上は故郷の島が見える根室周辺に住み、漁業などに従事した.。ソ連軍に財産を没収され、着の身着のままで強制的に退去させられたため『ゼロからの出発』を余儀なくされた。

 

「樺太 過酷な抑留生活」『産経新聞』020902