90近い高齢のお一人暮らし。

一気に耳が遠くなり、1つの話を繰り返すようになり、
話題を変えようとすると混乱・沈黙し、
口を開けばもとの話に戻ってる。

そこから脱線できないご様子でした。

おぼつかない、迷子のようなお顔をなさって。


買い物では同じものを買い続け、家にものがたまってく。
お店での行動が適切でなくなり、トラブルも発生。
もはや一人にしておくわけにもいくまいってことで、
施設の利用も検討されたらしいが、

そのまま1年2年と経過するうちに、なんと回復されている。

目つき顔つきに、しっかりした気持ちが表われ、

耳は少々遠いけれど会話の自由がきくようになり、
やりとりの流れにそって話をする。
「わたしはもうココがね」って、自分の頭を指さすなど、
ほんとに驚きました。

週に何度かお身内が通って、操体法するようになっていた。
「以前は断わってたの」と話してくださる。
「でも、これをやるようになって、
どこがどうというのは、わたしにはわからないけど、いいみたい」

「血流が、よくなる。わかるのは、それだけ」
そんな話の断片から、
成り行き任せで回復したのではないと感じる。

お身内の方は、話が通じるよう忍耐強く接しておられました。
操体法の説明も、何度も聞かせる努力を続けておられた。
ケンカでもしてるみたいに耳のそばで話す光景、
あんなで成果が期待できるだろうかと、そばで見ててハラハラしてた。
それがこうして結果につながったことに、私は驚きを禁じ得ない。

 

至れり尽くせりの施設に入れてあげたら、

あっという間に表情がなくなり話もできなくなった。

そんな話はいくらでも耳にするわけです。

高齢者を高齢者あつかいしないって、どういうことか。
機能が失われたからといって、あきらめないって、どういうことか。
できる限り、「ふつうのひと」として接し、

体の調整しながら回復のチャンスをうかがう。
はたで見ていて過酷に見えることも、正直いって、ありましたが、
あのままどんどんハードル下げていってたら、
こんな展開はなかっただろうと。

今後どのような展開が待ってるかと、いろんな思いがめぐります。