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秋田県仙北市角館町。学校法人真栄学園かくのだて幼稚園隣接。曹洞宗久米山常光院。御本尊釈迦牟尼仏。秋田三十三観音霊場12番札所。寛正元年(1460)開山。佐竹北家の菩提寺。境内には佐竹北家の墓所や、幕末の戊辰戦争で大村藩など九州からの援軍藩士の戦没者墓地があります。大村藩の15歳の少年鼓手浜田謹吾の墓を訪れる方が多いそうです。
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山門。
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創建は寛正元年、佐竹北家の祖とされる佐竹義信が、要山玄的を召還し常陸国久慈郡金砂郷村に開山し歴代の菩提寺としたのが始まり。佐竹義信は佐竹家14代当主佐竹義治の4男で、当時の佐竹家宗家の居城である太田城(茨城県常陸太田市)の北方にある久米城の城主だったことから「北殿」と呼ばれるようになり、後裔は佐竹北家として宗家の重臣として重きをおきました。
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関ヶ原の戦いで佐竹家は東西中立だったため、慶長7年に久保田藩に移封となり、佐竹北家義廉も宗家に随行し仙北郡長野(大仙市)に配され、常光院も常陸の常光院6世任山良運を招いて開山し寺領100石が安堵されています。
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承応2年に角館の領主であった芦名家が断絶すると佐竹北家が角館所預として角館に赴任。しかし菩提寺である常光院は長野に留まりました。元文4年に火災によって常光院が焼失。これを機に角館移転が検討されて、明和2年に本堂が竣工したことで正式に角館西勝楽町に境内を移し寺町を形成。戊辰戦争の際、久保田藩は比較的早い段階で奥羽越列藩同盟を離れて新政府軍に与したため奥羽諸藩と戦うこととなり、常光院は戦時病院としての役割を担いました。角館戦線では大村藩7名、平戸藩7名、長州藩1名、薩摩藩1名の合計16名が犠牲となりました。
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現在の常光院本堂はその当時のもので、木造平屋建、入母屋、銅板葺、平入、桁行10間、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、腰壁は下見板張り縦押縁押え、江戸時代中期の寺院本堂建築の遺構として貴重であり、昭和52年に仙北市(旧角館町)指定史跡に指定。
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六道能化地蔵菩薩、他たくさんの地蔵尊。
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諏訪亭子遭難之碑。どなたかはわからず。裏面見ておりません。
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山本先生体操記念碑。どなたかはわからず。裏面見ておりません。
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本堂前の観音様の石碑と石仏。
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休庵村野孝顕寿像。
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碑文「閲歴」…『明治34年4月2日生、阿部鶴壽に得度並立職、大正5年山形県乾徳寺僧堂に安居、仝7年病を得て上京、藤田霊斉先生の下で闘病、本腹、就学、昭和4年駒沢大学佛教学部専科卒業、ハツと結婚、仝年5月米国駐在布教師として羅府禅宗寺駐在、後桑港で千崎如幻師を知り、外人伝導に従事、法話集二部を英語で出版、仝7年同志と自動車で全米走破、ニューヨーク市で佐々木指月師を識る。仝年禅宗寺開創10周年記念誌を編纂「米国佛教傳道史」を出版、仝年帰朝、仝8年台湾宗教事情視察員として全嶋を巡教、仝年8月長男生る。仝11年仙台市栴檀中学に就職、翌12年母の死と共に帰院、仝15年前線慰問使としてハルピン、満州、中国、朝鮮を経て帰国、仝18年長女生る。以後アフガニスタン僧のメキシコ伝道に関する論文の翻訳に従事、仝28年常光院境内に学校法人「かくのだて幼稚園」を創設、仝53年米国ネブラスカ州オマハ市外人参禅会に助援、仝年ハワイで藤田先生全伝資料の蒐集に従事前後4回出張、仝54年曹洞宗海外布教伝道史の編纂委員となる。仝55年刊行、仝57年藤田先生全集第一輯刊行。その間、オーストラリア、香港、シンガポール、メキシコ、ペルー、タイ等を歴訪、仝58年幼稚園創立30周年を記念して彫塑家小金丸幾久氏に依頼、壽像を昭和58年4月2日建立。壽83歳。』
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慰霊碑、石仏。
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弔魂碑(明治2年8月10日)。碑文省略。
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角館町・大村市姉妹都市締結記念碑。
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戊辰役戦歿者墓地へ。
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戊辰役戦歿者墓地。一部ですが紹介します。
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官軍長藩田中與四郎壽祝墓・長州藩同士奉納石灯籠・官軍平戸藩石井幸七清久墓。
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宦軍大村藩片山好馬友直墓・大村桜。
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宦軍大村藩浜田謹吾重俊墓。
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中央の碑「少年鼓手之碑」…「二葉より手くれ水くれ待つ花は君が為めにそ咲けやこの時」。15歳の少年浜田謹吾の血で染まった衣服の襟には、我が子の出征を励ますために書きしるした歌が縫い込んでありました。
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(史跡)戊辰戦役戦没者墓地…『慶応4(1868)年戊辰戦争がおこり秋田藩は新政府側の立場をとり東北諸藩を相手に戦かった。佐竹北家の城下町であった角館には総督府の会議所が設置され仙北郡方面戦場の拠点となった。藩内奥深く侵入した東北諸藩兵は藩庁の久保田(現秋田市)を窺う勢いであったが角館方面の戦闘はよく侵入兵を防ぎ反撃の糸口をつくった。この戦役には九州諸藩の援兵が来援し秋田藩士とともに戦ったが、佐竹北家の菩提所である常光院は仙北郡内諸方の戦闘で負傷した兵士の病院に充てられ、他藩から応援に来てこの地方で戦死した兵士をこの寺に埋葬した。他藩応援兵の戦死者は大村藩7名、平戸藩7名、長州藩、薩州藩各1名の16柱である。このうち大村藩戦死者は後で郷里大村に改葬したので、今この墓地には9名が埋葬されている。墓地正面の少年鼓手の碑は角館町戊辰事跡顕彰会が建立したもので、父に代って15歳で鼓手として来援し戦死した大村藩士浜田謹吾の顕彰碑で、出陣の門出に母がその覚悟を和歌に託して謹吾に贈ったという次の歌が刻まれている。「二葉より手くれみずくれまつはなは君がためにそ咲けやこのとき」仙北市教育委員会』
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