アメリカに壊滅させられたスイスのプライベート・バンキング

前回の記事では暗号通貨が本当に普及すれば政府がそれを壊滅させるというジム・ロジャーズ氏の主張を取り上げた。

しかしこれは主張ではなく史実である。金融業界の人間ならば誰でもそれを知っている。それは2008年にスイスの銀行業に既に起こったことだからである。今回の記事ではそれを取り上げたい。

スイスの銀行業

スイスの銀行の歴史は古い。大手であるUBSの設立は1862年、クレディ・スイスの設立は1856年である。スイスの銀行家の歴史自体は更に1700年代まで遡る。企業買収などを補助する投資銀行業を主とするアメリカの投資銀行などとは違い、スイスにおける銀行業のメインは顧客の資産を管理することだった。

中でも特に富裕層の資産を管理する部門はプライベート・バンキングと呼ばれ、スイスの銀行の中軸となっていった。顧客のために相場を張って利益を上げるヘッジファンドなどとは違い、プライベート・バンキングの目的は資産の防衛であり、利殖ではなかった。何から資産を守るのかと言えば、その相手は政府である。

程度の差はあれ、各国政府は自国民の資産をある程度好きなようにしている。ただ、多くの国民はそれに気づいていないだけである。金本位制の廃止とは中央銀行が国民から預かっているだけの金を国民に返却しない宣言であることはこれまでの記事で説明している通りである。

金本位制とは国民がゴールドを中央銀行に預けていた時代のことである。それは紙幣を中央銀行に持っていけば返却されるはずだったのだが、いつの間にかゴールドは返ってこないことになった。それで誰も文句を言っていないのである。

そして国民から奪われたまま返ってこない資産が何処に行ったのかと言えば、例えば東京の真ん中に巨大な便器を打ち立てるために使われたのである。

出典:産経新聞

この便器は1,569億円もしたのだが、これが本当に欲しかった日本国民がどれだけ居るのだろうか? 仮に居るとすれば手を挙げてほしいものである。筆者はこれが欲しかった日本人にこれまで会ったことがない。それでも便器は作られるのである。何故だろう。

政府からの資産防衛

「スイスの銀行」、あるいはプライベート・バンキングと言えば富裕層だけを相手に金持ちをもっと金持ちにすることに従事しているというイメージが先行しがちだが、実際には多くのプライベート・バンカーは上記のような政府への正当な不信感から顧客の資産を防衛使用とする意識が強く、一般のイメージと彼らの意識はかなり異なっている。それは負債の少ない国家を作り上げたスイス人の気質とも重なっている。

そして何より、別に彼らは富裕層以外を助けたくなかったわけでもない。実際には富裕層以外に顧客を広げることが出来ないのである。プライベート・バンキングのビジネスを大々的にすべての国民に提供すれば、確実に政府に潰されてしまう。便器が作れなくなるからである。そうしてプライベート・バンキングは少数の顧客でも商売が成り立つように極一部の人々の資産防衛に従事する産業となっていったのである。

スイスに対するアメリカの恫喝

政府とプライベート・バンキングの間にはこうしてある程度の均衡が出来上がっていた。2008年までは、脱税は犯罪でも資産を政府に公開しないことは事実上許容されており、銀行にもよるが5億円から10億円の資産があればスイスに行って自国の政府に情報が漏洩しない銀行口座を作ることができた。

状況が変わったのは2008年のリーマンショックによって先進国経済が深刻なダメージを負ってからである。経済がある程度回っている間は便器を作りたい人も便器を作られたくない人も双方納得できるような妥協が作られていたが、全体のパイが縮小すると人類は本格的に資産の奪い合いを始める。レイ・ダリオ氏が指摘している通りである。

ことの発端はブラッドリー・バーケンフェルド氏というジュネーブのUBSのアメリカ人従業員が内部情報をアメリカに売ったことに始まる。バーケンフェルド氏は同僚の銀行員を告発すると同時に、その告発によって得られる税収の一部をアメリカから受け取る契約を交わし、しかも自分の罪状に関しては免除するように厚かましくも求めたが、アメリカは最後の要求は蹴ってバーケンフェルド氏を刑務所に放り込んだ。しかし密告者に税収の一部を渡すという契約は守った。同じような銀行員が今後も出てくるようにするためである。

同時にUBSはアメリカ政府にアメリカ国民の顧客情報を渡すように迫られていた。UBSは渋ったが、UBSの従業員を刑事告発して刑務所に放り込むというアメリカの脅しに対して服従するほかなかった。

UBSは7億8,000万ドルの罰金を支払った上にアメリカ人顧客の情報を開示させられることを余儀なくされた。アメリカは更にスイスに対して、スイスにあるすべてのアメリカ人の銀行口座をすべて毎年アメリカに報告するFATCAと呼ばれる制度に同意することを迫った。スイス議会はこれを2度否決した後にアメリカの要求を飲んだ。世界一の軍事力を持つアメリカに対して小国スイスに出来ることはなかった。ロジャーズ氏が政府は「武力」を持っていると言ったのはそういう意味である。

こうして長い歴史を持つスイスの銀行業の秘匿性は、アメリカ人とアメリカ政府の手によって終わりを告げた。アメリカ政府はこれをアメリカ人のためにやったわけではない。FATCAのお陰でアメリカ国外の金融機関はアメリカ人に対して口座を提供することを拒否するようになった。アメリカの軍事力を恐れてのことである。このためにアメリカ人は国籍を捨てない限り実質的に海外に口座を持てない状態にある。これがアメリカ国民のための処置なのだろうか? 政府はただ国民の資産を囲いたいだけなのである。金づるをみすみす逃す理由があるだろうか。

結論

2008年以来、こうした状況は各国に広まっている。今ではOECDが主導しているAEOIという制度によって日本人でもスイスに口座を開くと自動的に日本政府に通知が届く。OECDは利権の源泉である税収を世界的に増大させるために各国の政治家や官僚が談合したものであり、彼らが反グローバリズムに反対するのも当然のことである。

暗号通貨の保有者の大半が理解していないのは、自分が何と戦っているのかということである。身分証明証を持って取引所で暗号通貨を買うことほど意味の分からない行為はない。それは政府にとって現金より追跡しやすく、他のコモディティより価値がないのである。筆者は金本位制を廃止した後の法定通貨を何の価値もない紙切れと呼んだが、これらの人々は政府の管理する何の価値もない紙切れから、政府にとってより管理しやすい何の価値もないビット列に逃げようとしている。理屈に合わないのである。

大半の人々が暗号通貨の使い方を間違っている一方で、スイスの銀行業のやったことを全国民に広げようとしたのがサトシ・ナカモト氏ら創業期のハッカーらの目的である。そしてその技術革新は今も続いている。

本来のやり方で暗号通貨を使う本当のハッカーたちは、スイスの銀行業界が敗北した相手と本気で戦うことになる。今は規模が少ないために見逃されているが、普及すればするほど当局は本気になってくるだろう。その難しさを知っている人間はその状況を楽観することがない。ロジャーズ氏の言っていることはそういうことなのである。

このように、世界経済が沈み始めてから当局は必死に国民の資産を囲おうとしている。日本で日本政府が必死に普及させようとしているマイナンバーはそうした目論見の延長である。筆者は日本の課税は既に理不尽なレベルに達していると考えているが、日本国民がマイナンバーを受け入れれば政府は国民の口座を直接管理できるようになり、政府が勝手に膨らませた債務を国民に無理やり肩代わりさせることが可能になるだろう。日本国民はこれから更に理不尽な課税を受けることになる。

スイスの銀行業界がそうなったように、それは徐々に来ることになる。日本国民が納得しないような課税であっても、政府がボタン1つで銀行口座から自動でお金を引き落とせるような時代が来ようとしているのである。