志村建世のブログ

多世代交流のブログ広場

「国営ひたち海浜公園」へ行ってきました

 昨日は、旅にくわしい孫の案内で「国営ひたち海浜公園」へ行ってきました。往復の列車からして、初めて経験する特別仕様車で、座席は進行の左側が2列、右側は一列のみという「ゆったり型」でした。こういう形の車両の存在自体を、私は今まで知らずにいました。勝田の駅からは、専用のバスが接続しています。ゲートを入ると、異次元世界に入って行くような感覚がありました。
 じつはここへ行ったのは初めてではありません。昨年の10月に行って、「また来てみたい場所が、一つ増えた」と思ったのでした。あたたかい春の日に行けて、本願達成したわけです。「上まで行ったら海が見えるだろう」と思った大観覧車にも乗ることが出来て、思った通りに太平洋を見晴らすこともできました。あとで、孫が手に入れていた案内地図を見せて貰ったら、今回は行けなかった広大な樹林エリアなど、奥深い見どころが、まだたくさん残っているようです。場内を一巡するミニ列車も、一度は乗ってみたいと思いました。
 この公園が「国営」であるのは、どういうことなのでしょうか。国の直営なら、どの官庁が担当していて、職員の身分はどうなっているのかなど、その面からも深堀してみたい気がします。
 それはともかく、国営の名のもとに、これだけの公園が維持されているのは心強いことです。自分も、もう一度と言わずに二度でも三度でも、長生きしてまた行ってみたいと思います。

ちょっと油断すると

 ちょっと油断すると、本当に無為のうちに一日が過ぎてしまう。体が健全体でなくなって、毎回の排尿を、カテーテルを通しての自家作業で処理しているのも影響していると思う。一日に数回、頃合いを見てすべて自分で出来るようになったのだが、それがかえって、一仕事しているような安心感になっているらしい。このペースなら、個室トイレさえ利用できればいいのだから、外出や旅行も、かなり自由に出来るに違いない。ただし全長40センチぐらいのカテーテルを持ち歩く必要があるのだが、これも昔の武士が、長い刀を腰に差して歩いたことを考えれば、あまり邪魔にもなるまい。
 長生きをすると、いろいろと面白いことを経験できる。可愛い孫たちにも会えたし、ひまご(曽孫)を抱くこともできた。
 
ここで中断、夕食に行く

燕温泉でのスキー合宿

 一転して、暗くて寒い一日になりました。強い雨ではありませんが、一日中、降ったり止んだりしながら、日暮れにさしかかっています。
 テレビニュースによると、台湾ではマグニチュード7.7の地震があったとのことで、観光客も避難するなど、混乱に巻き込まれたとのことです。日本でも沖縄は震源に近く、高台への避難などが行われたとのこと。所詮は不安定な火山列島に住んでいる私たちです。 
 しかし暦は春の四月、季節は確実にめぐって行くでしょう。夏が好きな私は、冬が苦手です。それでも高校時代には、豪雪で有名な燕温泉でのスキー合宿に参加したこともありました。関山の駅から、全員がスキーを着けて、半日がかりで宿にたどり着いたのでした。夜行列車で、あまり眠れなかったままの強行軍だったと思います。ただし行った先は、5メートルを超す深い雪の中でした。温泉の排水を、町の中心道路に流して往来していた風景を、今も覚えています。
 そこで習ったスキーは、武骨な「山スキー」でした。深い新雪の中でも対応できることを基本にして、急斜面のゲレンデに対応する「斜滑降」を最初に教えられたと思います。方向を変える基本は、山側のスキーを直立させてから谷側に倒し、次いで谷川のスキーを同様にして、その下側に倒す「キックターン」でした。これだけ知っていれば、かなりの急斜面でも初心者は対応できるのでした。
 でもこれは今から思えば、かなり特殊なスキー合宿でした。楽しむためのスキーなら、整備されたゲレンデスキーの方が、ずっと適しています。私たちは、昔ながらの「スキー道」みたいなものに取りつかれていたのかも知れません。スキーが、誰でも楽しめる身近なスポーツになる前の、ずっと昔のお話でした。

あたたかい春の日

 あたたかい春の日です。朝一番に、長女に付き添ってもらって、予約の決まっていた病院へ行ってきました。主治医からは、自分の身体の現状について、かなり明確な説明を聞くことができました。かかっているのは泌尿器科です。要するに私の膀胱が、経年で疲れ果てて、ダランと伸び切ったままになっているのだそうです。ですから定期的に導尿で出してやればいいので、むしろ本人のコントロールで出来るのですから、旅行などには好都合だということがわかりました。
 本人の実感では、一日に4回、6時間おきぐらいでよい加減のようです。カテーテルを使うので、立ち小便はできませんが、旅行でも何でも、むしろ活発に出歩くぐらいで良いということでした。きょうは4月の2日、エイプリルフールではない良いニュースでした。 
 私は小学校に入ったころは虚弱な体質で、「お小水」が近いので苦労しました。授業が始まると、あと一時間ぐらいはトイレに行けないと思うだけで心配になり、泣き出してしまって先生を困らせた記憶があります。そんな「弱虫」な子でした。それがどうやら大人になり、勉強も仕事もできるようになったのですから、それだけでも大成功と言っていいのです。
 現代の医療が、私をこれまでに生かしてくれました。
 外はあたたかい春の日です  
 来月になると、私は満で91歳になります
 妻がいなくなった私にも
 幸せな春の日がありました

まだ試運転中

 新しい機器になって、まだ試運転中です。体調も、あまり良くはありません。地元の警察病院で、経過観察中です。明日は予定された通院日、現状に適応できる生活技術などを聞いてみようと思っています。きょうから四月、暖かくなる日を待ち望んています。

とりあえず書いてみた

 天気のよい土曜日の昼前だ、日当たりの良い居室は、暖房がなくても暖かい。一階と地下の会社には、きょうは休日だから誰もいないだろう。
 身体はあまり健康体とは言えなくなったが、日常の暮らしが不快というほどではない、九十代になっているのだから、まあこんなものかと思っている。
 病院では、泌尿器科のお世話になっていて、来週の火曜日に予約が入っている。排尿というのは、健康に生きるための大事な営みだが、どうもそこが弱いらしい。カテーテルを通して自力で出すという方法に、ようやく慣れてきた。日時と分量を計って記録するという仕事が増えたから、自分を材料にして、理科の観察記録をしているような気分に近いものがある。
 長生きしたおかげで、曽孫(ひまご)と遊ぶ時間も持てたし、孫が親として成長して行く姿も見られた。もって瞑すべき幸せな人生と称してもいいだろう。亡妻にもこんな経験をさせられたら、どんなにか喜んだろうとも思うのだが、生命のあとさきには、人知の及ばない部分がある。あの世での再会があるというのは、たぶん願望を含めた虚構だろう。しかし人間、年をとれば、死んだ人の方に知人が多くなってくるのも、また理の当然である。
 
 ここまで書いて昼食で中断したら、なんと夕方の6時になってしまった。まだ日が短いから、カーテンを閉めた室内は夜のムードにになっている。心の中に、不満の要素は非常に少ない。私の食事の世話は、二人の娘が交代で担当してくれている。用意が本格的になる夕食は、お料理上手な次女の担当になることが多い。二人とも結婚して姓が変わっているのに、今も私の身近にいてくれるのは、亡妻の遺徳だと思っている。今の自社ビルを複合住宅に建て変えるとき、「こうしておけばあの子たち、遠くへは行かないわよ」と言っていた予言が、その通りになった。



 

とりあえず何か書いてみる

(熊)久しぶりですねご隠居、ずっとお呼びがないから、めでたく浄土行きしたかと思ってましたよ。
(隠)失礼なこと言うな。五体満足で、ちゃんと生きてるよ。もっとも、その五体満足が、少々怪しくはなって来てるがな。でも現在90歳、この5月には91になるんだよ。
(熊)そりゃ良かった。90になっても身辺のことが出来て、ブログも書けるってのは、それだけでもいいことですよ。ご隠居の体は、根は頑丈なんじゃないですかね。育ちざかりはずっと戦時中で、甘いものなんかは口に入らなかったんでしょ。その中でもご隠居の家は母上の実家が千葉の農家だったし、必要な栄養は取れていて、基本的に健康体に恵まれたんじゃないですかね。終戦後の進駐軍のアメリカ兵のジープに「ハロー」と声をかけて、ドロップスを投げてもらって、世の中にこんな美味いものがあるかと思ったという、思い出を聞いた覚えがありますよ。
(隠)ああ、そうだったね。いろんなことを見聞きしながら、世の中を生きてきたわけだ。「米英軍と戦闘状態に入れり」という臨時ニュースを、生で聞いた記憶も、ありありと残っているよ。それが小学2年生のときだ。それからしばらくは日本軍の勢いがよくて、東南アジア方面にどんどん占領地を広げて行ったんだ。いちばん遠い占領地で、あとで決戦場といわれたガダルカナル島が、どれほど遠いところだったか、世界地図で見てみるといい、日付変更線にも近い、オーストラリアの北東に当たるソロモン群島の中にある島なんだ。その頃は、南方の資源地帯が手に入ったから、日本はこれからどんどん豊かになるだろうなんて、楽観的な気分さえ出てきていたんだよ。だけど、それが日本の国力の限界だった。あとはみんな知っての通り、アメリカ軍に圧倒されて、最後は原爆まで広島と長崎に落とされて、無条件降伏のポツダム宣言を受け入れたというわけさ。
(熊)まずは、ご苦労さまってとこですね。
(隠)そんな話も、もう古いことになった。
(熊)そうですね。世界を巻き込む戦争なんて、もう、そんなことしたらダメですよ。
(隠)もちろんそうさ。これから後の世代は、もう戦争なんて考えなくていい。人間は話し合うことができる。人間の力は、人間の世の中を、もっと良くすることにだけ使えばいいんだよ。

底寒い一日と樋口恵子の「老いの上機嫌」

 3 月にしては底寒さを感じる、暗い日です。家に蟄居して、あまり興味もない高校野球のテレビ中継などを見ています。名義としては私が会社の代表者ですが、実務一切は、しっかり者の長女にすべて任せています。たぶん私よりも、経営者としての適性を備えているように思います。
 私は現在90歳。この5月には91歳になります。人並みよりは健康体のように思ってきたのですが、どうやらそれも怪しくなってきました。ただし最寄りの医院が東京警察病院という恵まれた場所に住んでいるので、その点は恵まれています。
 最近に読んだ本は、樋口恵子さんの「老いの上機嫌」。私とほぼ同年(少し年長)で、私が「主婦になってみた男の二週間」という体験記を書いたとき、面白がって「婦人公論」への掲載を橋渡ししてくれた俵萌子さんなどとともに、当時の男女平等運動を推進する同志のような感覚で、お付き合いしていた時期もありました。同盟系の労働組合の集会の時、どういう経緯だったか、私の妻も参加して、助言者として壇上に並んだことがあったのを覚えています。
 ところでこの本、91歳になった樋口さんが、「トホホな日常をアハハに変える」極意を伝えようとして書いたものです。90歳を超えた人間が、若い時と同じように競争したって、若い者に勝てるわけがありません。そこは長年月で積んだ経験の豊かさで切り抜けるしかないのです。それには「トホホ」と落ち込むのではなく、「アハハ」と笑い飛ばして、煙に巻いて一本取ってやるぐらいの知恵が必要ですが、幸いにして老人には長年月にわたって蓄えた豊富な記憶があります。その中から、明るく笑える話を引き出してくる。それが老後を楽しむ極意なのです。

  

とりあえず日記を書くように

 とりあえず日記を書くように、日々を記録することから始めてみます。現在の私は、あまり健康体ではありません。ただし地元の警察病院で、主治医による定期観察を受けているので、深刻な心配はしていません。なにしろ90歳を過ぎているのですから、それなりの老体になっているのは当然と思っています。身辺の人間関係も安定していて、たまに孫娘が曽孫(ひまご)を連れて遊びに来てくれるのを、この上ない楽しみにしています。
 季節は3月、太陽がだんだん高く上がるようになり、私の好きな夏に近づいて行くのがわかります。ただし風はまだ冷たくて、昼休みに屋上へ上がってみたときは、柵沿いに一周するひまもなく、早々に退散してきました。
 テレビでは選抜高校野球の中継をやっています。どこを応援するというのでもなく、見ていると次の展開が気になって、つい時間を過ごしてしまいます。私にも、当時はサッカーとは呼ばれなかった「蹴球部」で、汗を流した高校時代がありました。主将だった親友は、東南アジアを股にかけるビジネスマンとして発展しましたが、すでに故人となって故郷の妻の墓と並びました。
 私の妻もすでに遺骨となって、寝室の箪笥の上から私の日常を見ています。あちらの世界での再会というのは、たぶん虚構だろうとは思いますが、「あの世」から「この世」に帰ってくることは、本当にないのでしょうか。生きている人間には、わからないことです。




とりあえず再開しました

 再開はしましたが、まだ本人はコロナだったらしい「病み上がり」状態で、おまけにパソコンも新品と交換になり、学び直しの手順にウロウロしています。1933年生まれで、間もなく91歳になる私としては、この先は「オマケ」の人生として、せめて悠々と暮らして行きたいものです。
 会社の仕事は、かなり以前から長女に全権を委ねて、身辺の家事とともに回しています。たまには孫娘が曽孫(ひまご)を連れて遊びに来るのも、楽しみにしています。妻に、この風景を見せてやれなかったのは残念ですが、いまは骨壺の中から、安心して眺めていることでしょう。
 地元の風景も、間もなく目に見えて変わって行くようです。すでに閉鎖されている駅前「中野サンプラザビル」の独特の姿も、今年からいよいよ解体が始まると聞いています。
 わが家族が埼玉県の草加から、この中野に引っ越したのは、1976(昭和51)年のことでした。長女もまだ中学生でしたから、「埼玉の草加団地」は、もう遠い過去の記憶になっていることでしょう。そのときのサンプラザの正式名称は、「勤労青少年会館」だったと思います。
 きょうは祭日。何の日かと思ったら、「春分の日」なのですね。これからどんどん暖かくなり、その先に夏がやって来ます。夏の暑い日ざしを、私は決して嫌いではありません。 

ブログ再開します 志村建世

 パソコンの不具合により突然の中断をしていましたが、機器を更新して本日からブログを再開できることになりました。従前と変わらず、よろしくお願い致します。じつはパソコンの不具合とともに、本人も「コロナ」感染により、しばらくの間おとなしくしておりましたが、そちらも無事に回復した現状です。
 ただし年齢は90歳になっておりますので、それなりに自重して、天から恵まれた余生を楽しんで行きたいと思っております。 
 以上、とりあえずのご挨拶ですが、1933年(昭和8年)生まれで「米英軍と戦闘状態に入れり」という臨時ニュースを、ナマで聞いた記憶を明瞭に持っている世代です。「こんな話を聞いておきたい」というリクエストなどがありましたら、お寄せいただけましたら幸いです。

太陽が帰って来る

 冬至が過ぎて2週間ほどになった。居室の窓の上部に当る直射日光の幅が、1メートル近くにまで拡大してきた。南側に建つ学生会館が新築されるとき、長女の助言を聞きながら、少しでも北側斜線を低くするようにと交渉したのが、その後ずっと役に立っているのだと思う。太陽が帰って来るという感覚は、私にも心を明るくする効能がある。
 昔、大学でブライス教授に教えられた英詩の中に、冬至を迎えた動物たちが異常に活発になるという表現があり、それは太陽の老衰を予感するからだという説明だった。当時はそれが一般的な理解だったと思う。とこが今は、太陽は逆に肥大化して、地球はそれに呑み込まれるという説の方が有力であるらしい。どちらにしても、私の当面の人生にかかわりのある話ではないから、どうでもいいのだが、私はやはり、寒いよりも暑い方に耐性があるように思う。
 若いころ、ヤップ島に行ったことがあって、妻との電話で「ここの気候は自分に合っているような気がする」と話したら「ずっとそっちに居たら」と言われ、一本取られたような気がしたことを思い出す。ただし季節感のない「常夏の島」の住人になりたいとは、今でも思ってはいない。夏の終りに、日焼けした手首に残る腕時計の跡を見て懐かしく思うぐらいが、ちょうどよい加減である。ただし、中年になって以降は、そんな経験もなくなった。
 若い頃、仕事として若者たちの夏のキャンプを撮影したことが何度かある。初期のそれは、16ミリの映画撮影だった。100フィートの一缶で、3分足らずの撮影が出来るだけである。だから事前に作戦を立て、「3フィートで5秒」を基礎単位として場面を組み立てて行った。カメラマンと監督を兼ねているわけで、自分で作品を作り上げる実感のある、幸福な時間だった。 

落ち着かない正月だった

 あまり正月らしくない、落ち着かない正月だった。家の中でも、ちゃんと「明けましておめでとう」の挨拶をしただろうか、記憶がない。正月は慣例で2日の新聞の発行がないから、正確なことがわかりにくいのもあるが、正月最初に編集されたであろう3日付の朝日新聞朝刊の大見出しが「能登震度7・死者57人」であり、それを追いかけるように2日午後に発生した「日航機炎上 海保機と衝突」の記事が、第1面の横に押し込んである。そしてテレビニュースは「羽田空港での飛行機衝突炎上事故」の実況中継で持ち切りになってしまったのだった。これでは「おめでとう」を言い合える状況ではない。能登の地震も死者が57人も出た大惨事なのに、こちらの話題はすっかりしぼんでしまった。
 人の関心というものは、どうしても新しい大事件の方に吸い寄せられる。日本各地から、さまざまな正月の情報が寄せられていただろうに、それらはすべて「なかった」かのように消されてしまった。それでも日本全国、多くの家庭で餅が焼かれ、「お雑煮」の椀が往来したには違いない。
 正月が来ると、妻と最初に過ごした「二人きりのお正月」を思い出す。西池袋の、線路わきの四畳半アパートの一室で、その日を迎えたのだった。妻も私も、大家族の、にぎやかな家で育ったのに、この日は本当に二人きりだった。「妻のひそやかな悲しみを慰めるように、雪が降ってきた」と日記に書いたことを覚えている。静岡では、積もる雪を見たことがないと妻は言っていた。
 その妻も、もういない。90歳になっている私の未来も、そろそろ終わりに近いことは承知している。落ち着かない正月ではあっても、私の心は静かである。二人の娘を得て、孫が三人と、ひ孫も二人できた今である。それでも、生きているうちにやっておきたいことが、まだ残っていることを幸せと思うことにしよう。私は死ぬまでは生きている。それでよい。 

12月8日の一日遅れだが

 今年も「あの日」が巡ってきた。私は小学校(当時の名称は「国民学校」)の2年生だった。目が覚めて起きたときから、家の中が妙に騒がしかった。兄が興奮した様子で「米英軍と戦闘状態に入れり…」と、ラジオのニュースを繰り返していた。資料によれば、「大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は、本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という内容だった。これは今のベトナムやマレー半島などに上陸作戦を行ったことを指している。この時点では、ハワイへの攻撃には触れていない。ハワイは西太平洋には属していないのだ。やがてハワイのアメリカ艦隊を攻撃して戦果をあげたことが報じられて、そちらの方が大ニュースになるのだが、それは昼ごろにかけての続報だった。この日の朝は、なぜか新聞の配達がなかった。そして午後になってから、「米英に宣戦布告」という大見出しの新聞が届いたような気がする。(ただし記憶に自信はない、終戦のときと混同しているかも知れない)
 小学2年生にとっては、とにかく大興奮の事件だが、家族を含めて、決して暗い雰囲気ではなかった。父は新聞記者の経験があるから、何がしかの予感は得ていたと思う。「これは大変なことなんだよ」と言ってはいたが、やはり元気な口調だった。当時は「野ばら社の児童年鑑」がよく売れていたから、これは戦時特集号として編集をやり直さなければ、などと考えていたのだろう。
 世界の強国であるアメリカとイギリスを相手に戦うことが、容易でないことは子供にもわかっていたが、当時は同盟国であるドイツがすでにヨーロッパで戦争を始めて、破竹の勢いで進撃していた。そして日本軍も、驚くような早さで香港を攻略し、シンガポールも陥落させて「昭南島」と名付けたのだった。学校の教室には、正面の黒板の横に大きな世界地図が貼り出され、日本軍の占領地が増える度に、そこに小さな日の丸を貼り付けるようにした。その横には大きな日の丸も用意されていて、この戦争が日本の勝利で終ったときに、地図の真ん中に貼り付けることになっていた。
 当時の雰囲気は、そんな底抜けの明るさだった。やがて学校を通して、全員にお菓子の特別配給があった。その紙袋に印刷されていたのは、防暑服姿の兵隊さんが、日本の子供たちに菓子袋を手渡してくれている漫画だった。南洋の資源地帯が手に入った、日本の国は、ますます豊かになるに違いないと、私たちに思わせる幸せな時間だった。
 これが今から82年前の出来事である。90歳になった私がいま書いている。いろいろあって面白かったと思えるのは、戦争で死ななかったおかげである。同期生にも戦死者は少ない。自分たちは幼く、親たちは兵役年齢を過ぎていた。思えば幸せな世代だった。その逆の世代もあったことを思う。  

夢の中で母に会った

 今までに、ほとんど経験した記憶がないのだが、きょうの朝、目覚める前に、母親に会っていた。実際の母親とは、昭和48年(1973年)に死別しているのだから、それはちょうど50年前のことになる。母の死因は乳がんだった。本人はかなり早期に乳房のシコリに気づいていたのに、周囲が真剣に対応しなかったために手遅れになったという、悔いの残る経過だった。
 だが夢の世界では、昔のままの母が当然のように目の前に存在していて、自分も当然のようにそれに対応しているのだった。そのときの自分は、実際の今の自分が知っていることを、何も知らずにいるらしかった。しかしその時点ではその重層性にも、何の違和感もないのだった。
 私は今まで、本当に母を夢に見たことがなかったと思う。それがなぜ今になって現れたのか、そのことの方が、今は気になると言えば、その通りではある。私が今、孫の下の曽孫(ひまご)とまで仲よく遊んでいられることを、母は祝福してくれるに違いないとは思うのだが。
 もしかして、母は私を呼びに来たのかも知れないと、今はそんな気もする。「もう、そろそろいいんじゃないの」と言いたいのかも知れない。冥途とはどんなところかは知らないが、母が私を呼び寄せたがっている可能性は、大いにあると思う。「もう90にもなったんなら、いいでしょ」と言いたい気持ちも、よくわかる。
 私が生まれたとき、母は、短命だった私の姉の代わりに来てくれたと思ったと、「生い立ちの記録」に書いていた。「だからこの子は、やさしい子になった」とも言われて育った。その今の私を、間違いなく母は褒めてくれると信じている。 

中川・伊東トークライブで知った福田村事件

 大木晴子さん主催のライブ&トーク「希望をつなぐために語り・歌おう」を聞きに、渋谷の「LOFT9」へ、阿部めぐみさんに教えていただいて行ってきました。出演者は音楽家の中川五郎さんと伊東正美さん、司会が大木晴子さんでした。題名の通りに、今だからこそ西口のような語りと歌声が求められているのではないかという、もっともな問題提起でした。中川さん伊東さんは、私には初めての人たちでしたが、おもに中川さんが語り歌い、伊東さんがシンセサイザーを駆使して、盛り上がる場面を作り出していました。
 それだけでも十分に迫力のあるステージでしたが、私には中川さんが話の中で概略を紹介された「福田村事件」のことが強い印象で残り、帰宅してからインターネットでわかる範囲ですが、可能な限りの深追いをしてみました。時は1923(大正12年)で、9月1日に関東大震災があった直後の混乱時です。「朝鮮人が井戸に毒を入れている」などの根拠のない流言飛語が広がり、ラジオや新聞が機能しなくなっている中で、各地に「自警団」などが組織されました。そして無実の「よそ者」を捕らえては詰問や拘束を行い、話し言葉が変だという理由で、地方からの行商団が迫害を受けるなどの不祥事が多発したのでした。中でも千葉県の福田村(現在は野田市の一部)では、香川県から来ていた15名の薬売りの一団が興奮した自警団に取り囲まれ、通報を受けた警察官が到着する前に、妊婦や2歳3歳4歳の幼児を含む9人が、めった打ちで殺害されるという惨劇を引き起こしたのでした。
 この事件では、積極的に犯行を行った数名が逮捕起訴されて懲役刑を科せられましたが、間もなく大正天皇の崩御で国葬となり、全員が恩赦を受けたということです。




佐藤愛子の「思い出の屑籠」を読んだ

 詩人サトウハチロー氏の妹(異母)に当る佐藤愛子の新著を読んでみた。百歳にして著書を出すということ自体が稀有のことと思われて、期待して買ってみた。が、読んでみての第一の印象は、やや外れというべきか、題名の通りの「屑籠」だなあ、ということだった。ちなみに検索してみたら、私はこのブログで「90歳、何がめでたい」(2018年1月4日)、「気がつけば、終着駅」(2019年7月18日)、「冥界からの電話」(2021年1月11日)と、3回にわたってこの人の著書を記事にしているのだった。
 サトウハチローさんとは、生家の「野ばら社」時代から往来があって、本郷の自宅にも出入りしたことがある。ただし当時は愛子さんの存在さえも、全く知らなかった。ハチローさんは、大声で話す豪快な人で、機嫌のよいときの笑い声が魅力だった。ただし事務上の行き違いがあったりすると、怒り方にも抑制がないから怖い人でもあったと思う。
 その人の妹である愛子さんが、百歳にして新刊を出したというのだから、それ自体が偉大なことだとは思う。でもその内容が、他愛もない幼児からの思い出に終始したのでは、私としてはどうしても不満が残るのだ。物書きを業とする人が、百歳を迎えるまで現役を迎えたのなら、それなりの社会的な責任と言ってしまったら過酷だが、一世紀の体験を凝縮した何者かを後の世に残すことが出来ないものだろうか。というのは、いま90代に入った私も、100歳になったときに、最後の一冊を書き上げたいと思っているからだ。
 私が生まれた年に、大陸では日本が主導して「満州国」という国が中国の東北部に作られた。それで私の父は、「国よりも大きい『建世』にした」と語ってくれたことがある。世をつくるとは、どういうことなのだろう。私の余命は、あと何年あるかを私は知らない。だが私は何らかのかかわりを持ちながらこの世を生きて行く。それは私が生きる限りは終らない。
  

「国営ひたち海浜公園」へ行ってきました

 昨日は長女の発案で、茨城県の「ひちたなか市」にある「国営ひたち海浜公園」へ行ってきました。常磐線の勝田駅から直通のシャトルバスが通っており、列車も東京(品川・上野)から「ときわ」という特急が、水戸まで無停車で行くので、天気も上々の快適な旅でした。
 あと学問でネット検索したのですが、一度の訪問で味わい尽くせるような規模ではありません。コスモスが花盛りの丘の上から、遥かに太平洋の水平線を見渡すこともできたのですが、海沿いの細長い公園かという事前のイメージとは、全く違っていました。
 家族連れに喜ばれそうな大きな観覧車が立っていたり、貸し自転車で走れる専用コースがあるなど、遊園地的な要素の部分もあるようでしたが、敷地全体がとにかく大きいのです。私もトータルで2時間ぐらいは歩いていましたから、「8キロぐらいは歩いたよ」と、長女に少し褒められました。
 また来てみたいと思える場所が、また一つ増えたというのは、90歳の「オージージー(大爺々・つまり曽孫から見て曾祖父)」には、とても良いことです。来年の春に、あの大観覧車に、ぜひ乗ってみたいと思いました。きっと海(太平洋)がよく見えることでしょう。

間庭小枝さんの第24回「椰子の実コンサート」

 一昨日は、間庭小枝さんの「椰子の実コンサート」を聞きに、所沢の「市民文化センター・ミューズ」のキューブホール(下車駅は「航空公園」)へ行ってきました。椰子の実コンサートは第24回ですが、過去記事を調べたら、ご縁が出来てから、私はもう10年近くも続けて通っているのでした。
 ご住所の所沢を拠点として、インターネットも活用しながら、驚くほど活発な音楽活動を展開しておられるのに気がついたのは、ネット上に私の作詞した「この世にただひとり」の歌が紹介されているのを知ってからだと思います。所沢の住宅団地の一角にある教室・スタジオを訪問してみて、その仕事ぶりの広がりの大きさに驚いた記憶があります。たしか自分のブログに、「竜宮城にいたような一日だった」と書いた覚えがあります。私の仕事に「作詞家」というジャンルを作って頂いた、恩人だと思っています。
 航空公園の駅が、また好きなのです。日本の航空産業発祥の地ということで、駅前には戦後最初の国産旅客機「YS‐11」の実機が展示されていて、間近に見ることができます。この飛行機には、私も一度だけですが、大島へ行くときに乗ったことがあります。
 ところで肝心のコンサートですが、「美しい日本の歌」という副題がついていて、ほとんどを日本人作曲家の歌で構成していました。歌唱にマイクは使いません。歌手はナマ声でホールを満たすのです。この人は、このようにして生涯を満たすのだな、と思いました。
 私は今年で90歳になりました。もう現役の世代でないことは、自分でも知っています。家庭的には、たまに訪ねて来る二歳になった曽孫(ひまご)と遊ぶのを楽しみにしています。ただし娘が二人ですから志村の姓が後に伝わることはありません。墓所も持たないことにしました。
 椰子の実コンサートの最後には、いつも全員で「椰子の実」を合唱して終ります。

 思いやる 八重の汐々
 いずれの日にか 国に帰らん


  

ニッポン号の世界一周飛行

 前後の脈絡は何もないのだが、「ニッポン号の世界一周飛行」を思い出した。昭和14年に、日本の飛行機が世界一周飛行を成功させて、かなり話題になったのだった。私が6歳のときのことだから、子供心にすごいなと思ったのと、そのときに流行した「ニッポン号の歌」のメロデイーと、歌詞の一部分を今でも覚えている。
 調べてみたら、使われたのは海軍の九六式陸上攻撃機を改造した機体で、毎日新聞がスポンサーとなって海軍から払い下げを受け、すべての武装を外して主翼内にまで燃料タンクを増設し、それを許可した担当者は、まだ中将だった山本五十六だったということだ。
 飛行したコースは、東回りに世界の五大陸を北米、南米、アフリカ、ヨーロッパ、アジアと巡回した。その途中の9月1日には、ヨーロッパで第二次世界大戦が始まって多少の影響を受けるのだが、ニッポン号は55日間で世界を一巡し、現地の日本人たちをも喜ばせて帰国した。その後は日米関係も急速に悪化して、翌々昭和16年の開戦に至るのだから、絶妙に幸運なタイミングでの快挙だったことになる。
 今回検索したら、このときの歌が出てきたので、書き出してみた。

  世界一周大飛行の歌

国を埋めた日の丸の
歓呼の中に羽ばたいて
我がニッポンはまっしぐら
六万キロの空を飛ぶ 空を飛ぶ

広い海原雲の上
越えつつ巡る五大州
我がニツポンは逞しい
翼で強く抱くのだ 抱くのだ

荒(すさ)ぶ吹雪と熱風の
大洋二つ飛び越えて
我がニッポンの行く彼方
大空晴れて虹を呼ぶ 虹を呼ぶ

遠く故国を幾千里
異境に暮らす同胞も
我がニッポンを仰ぎ見て
君が代高く歌うのだ 歌うのだ

銀の翼に陽(ひ)を受けて
世界を結ぶこの使命
我がニッポンは高らかに
勝鬨あげて帰るのだ 帰るのだ

注・保存されていたニッポン号の機体は、戦後にアメリカ占領軍によって破壊されたとのこと。
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プロフィール
志村 建世
著者
1933年東京生れ
履歴:
学習院大学英文科卒、元NHKテレビディレクター、野ばら社編集長
現在:
窓際の会社役員、作詞家、映像作家、エッセイスト

過去の記事は、カテゴリー別、月別の各アーカイブか、上方にある記事検索からご覧ください。2005年11月から始まっています。なお、フェイスブック、ツイッターにも実名で参加しています。
e-mail:
shimura(アットマーク)cream.plala.or.jp
著作などの紹介
昭和からの遺言 少国民たちの戦争 あなたの孫が幸せであるために おじいちゃんの書き置き
「少国民たちの戦争」は日本図書館協会選定図書に選ばれました。
詳細はこちらをご覧ください
→著作などの紹介と販売について
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