利己主義について その三 | ひだまり 日常生活

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前回私は利己的な考えが無意識の領域で広がっていると述べました。その要因は便利さだけではありません。利己的でなければやっていけない厳しい世の中であることも事実です。そして心は意識と無意識の両面で、事あるごとに葛藤しているように思います。対抗しているのは良心でしょうか、道徳心でしょうか、それとも儒学的精神でしょうか。

「人間の価値は彼がどれだけ完全に公的な役割を果し得るかということで決まるという儒学の世界観で育った漱石は、単に私的な、孤独な衝動にすぎないエゴイズムを容認できなかった。」

『夏目漱石』江藤淳 p.268


公費留学していた漱石だからこのように捉えられる、そう言ってしまえばそれまでですが、「どれだけ完全に公的な役割を果し得るか」という儒学の世界観は現在はどうなっているのでしょう。人びとの役に立ちたいと思う気持ちはあっても、公的な役割を果すことで人間の価値が決まるというそこまでの考えは私の中にはありません。それはいつ頃まで私たちの中の共通認識として存在していて、いつ頃から衰退していったのでしょう。それはもう呼び戻すことが出来ない過去になってしまったのでしょうか。

漱石が来るべき未来の人びとに先んじてエゴイズムと葛藤していたとすれば、私たちはその葛藤の続きをしているはずです。言い換えれば、私たちは漱石の苦しみを背負っているはずです。けれども私たちは「単に私的な、孤独な衝動にすぎないエゴイズムを容認」している、それどころか此処彼処で、「単に私的な、孤独な衝動にすぎないエゴイズム」の衝突が火花を散らしているのが現在の状況ではないかと思います。