新高山登レ1208「5」 | 風神 あ~る・ベルンハルトJrの「夜更けのラプソディ」
─源田 実─

戦艦からの対空砲火を避けて雷撃をするためには、目標までの距離千メートルから魚雷を落とさなければならない。

高度100メートルで飛ぶ飛行機から落とされた魚雷は、着水後60メートルは沈む。
その沈んだときの衝撃で機械が作動し、魚雷に付いたスクリューが回りだして海面近くにまで浮上する。

そののちは深度6メートルを保って敵艦に向かって進む。雷撃には水深が必要なのだ。

しかし、真珠湾は浅い湾で水深は12メートルしかなかった。魚雷は必ず海底に突き刺さる。



「前田(幕僚前田孝成)に訊いてみたが技術的に不可能だということだ。まあ仔細は伏せてだが。真珠湾は浅いからな……お前はどうだ」

大西が鹿屋司令部に呼び出した源田は、手紙から顔を上げて答えた。

「雷撃は専門ではないから分かりかねるが……研究さえすれば困難であっても不可能とまでは言えないだろう。
たとえやれなくても致命傷を与えることを考えるべきでしょうな。空母に絞れば急降下爆撃で十分だろうし……問題はいかに接近できるかにあるでしょう」

「練ってみてはくれんか」
「やってみましょう」源田は頷いた。
「すまんができるだけ早く」源田は再び頷いた。

作戦計画案を源田は2週間ほどで仕上げた。 源田によれば素案の素案程度のものであったという。それに大西が手を加え、3月初旬ごろ山本に提出された。

源田実は終戦後、自衛隊で初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した航空自衛隊の育ての親である。政治家としては参議院議員を4期24年務め、赤十字飛行隊の初代飛行隊長を務めた。

1941年(昭和16年)4月10日、南雲忠一を司令長官、草鹿龍之介を参謀長とする第一航空艦隊が編成され、源田は甲航空参謀に任命された。

その源田の希望により、統率力、戦術眼ともに優れた源田の同期生である淵田美津雄中佐が空中指揮官に抜擢された。オアフ島上空で「トラトラトラ」の発信を命じた人物である。

日本の海軍航空隊は、真珠湾と地形の似た鹿児島の錦江湾で休みなく魚雷の投下訓練を続けた。もちろん訓練だけでなく、魚雷そのものも改良し、約3カ月で実践で使用可能な状態にした。

その命中率の高さは驚異的で海軍航空隊の練度の高さと日本の技術力は世界を圧していた。
1941年12月8日の真珠湾攻撃で、第一波の九七式艦上攻撃機40機は、その戦術を使用して15発以上の魚雷を命中させた。


九一式航空魚雷改2 1941年11月真珠湾攻撃直前、空母赤城の飛行甲板上

だが、大西少将はのちに真珠湾攻撃に反対するようになる。1941年(昭和16年)10月に、第一航空艦隊参謀長・草鹿龍之介少将とともに大西少将は連合艦隊旗艦・戦艦陸奥を訪れ、山本司令長官に真珠湾攻撃を中止するように進言した。

大西少将の真珠湾攻撃反対論の趣旨は次の様なものだった。

米本土に等しいハワイに対し奇襲攻撃を加え、米国民を怒られば彼らは最後まで戦う決意をするであろう。
日本は絶対に米国に勝つことはできない。米国民はこれまた絶対に戦争をやめない。だからハワイを奇襲攻撃すれば妥協の余地は全く失われる。最後のとことんまで戦争をすれば日本は無条件降伏することになる。だからハワイ奇襲は絶対にしてはいけない。

これは言われるまでもないことであった。戦うとなれば最も効果的なやり方でなければ勝機を逸する。戦いに勝つために軍人は存在するのだから。


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