頭木弘樹の「絶望名言」。
頭木さんは大学3年の時に難病の潰瘍性大腸炎を発症し13年間闘病生活を送っているという。
その著書『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社・新潮社で文庫化)が静かなブームになっているという。
「琴の宮城道雄」について
「宮城道雄のエッセイから」
7、8歳の頃までは、少しは見えていたが、9歳の時、診て貰った眼のお医者様が、「この子の眼はもうどうしても癒らない。今後もよい医者とか薬とかいわれても決して迷ってはならない」と言われて、私はもう胸が一ぱいになった。今日こそは眼が治ると思って楽しんでいたのに。
その九歳の年の六月一日に、兵庫の中島検校の許へお弟子入りをした。
箏を習いはじめると、昨日よりは、今日、今日よりは明日と言うように、何か希望がわいて、眼のことなど忘れて心が明るくなって来た。
その九歳の年の六月一日に、兵庫の中島検校の許へお弟子入りをした。
箏を習いはじめると、昨日よりは、今日、今日よりは明日と言うように、何か希望がわいて、眼のことなど忘れて心が明るくなって来た。
頭木弘樹さんの話
この時の医者の宣告は、絶望的で残酷。普通なら「今は治せないが、将来医術も進んで、治るようになるかもしれない」と希望をもたせるものだが、「絶対治らない。あれこれ迷うな」と宣告された。
これで、宮城道雄は 小学校に上がることをあきらめて、箏で身を立てる決心をした。
その後父親は 朝鮮で行商をしていたが、暴漢に襲われて不自由な躰となり、宮城道雄は9歳で家計を助けなければならなかった。
「絶望と希望は 不思議なめぐりあわせ」と。
宮城道雄は、目が見えないからこそ、音に敏感になった。
目の見える人は、仕事を選ぶに自由だが、自由だとあれこれ迷う。私は不自由だから迷わずにすんだ。
琴一筋で、世界に知られる「宮城道雄」となった。
しかしそこで、頭木さんは「宮城道雄は、有名になったからいい。
ほとんどの人が、希望を抱いても、努力しても、なれない。
なれない人もいるのだ。
その “なれない人たち” にも絶望名言は勇気と希望を与えてくれる」と。
たしかに、パラリンピックに出れる人はほんのごく一部の人。それでも多くの
人に勇気と希望を与えてくれた。