現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

宮城道雄 壮絶な半生

2020-01-28 21:35:00 | 筝尺八演奏家

宮城道雄のエッセイ「私の若い頃」より

 

九歳の年の六月一日に、兵庫の中島検校の許へ弟子入りをした。
師匠はきびしく、「盲人は記憶力が肝腎である、一度習ったことを忘れたら、二度とは教えてやらない」と常に言われた。
私が三味線の「青柳」と言う曲を忘れた時、ひどく叱られて、曲を思い出す迄は、御飯も食べさせない、家へも帰らせないと、留めおきをくった。不思議なことに、お腹がすいてくると頭がさえて、忘れたのもつい想い出すのである。
 また寒稽古といって、寒中に戸障子を明け放して、寒い方へ向って百篇とか、千篇とか繰返して弾く。そして手が冷たくなると、手を水をつけてまた弾きだす。しまいには指から血が出るようなこともあった。
 師匠がきびしかったおかげで、私は十三歳の年に、師匠の免状を許された。しかし私としては、これから本当の勉強をしたかったのであるが、もともと家が裕福でない上に、父が事業に失敗して朝鮮へ渡って行ったが、また運悪く賊に襲われて、重傷を受けた。私は、已むを得ず十四の年に朝鮮へ行くことになった。

仁川へ行って見ると、父の身体がまだはっきりしないので、結局私の細腕で箏の師匠をして、一家を支えなければならなくなった。

(中略)

人は一心にやっておれば、また恵まれる時も来るもので、私は大正六年に機会を得て、宿望の東京へやっと出て来たが、東京へ来てからも、またいろいろの方面で困った。
 それが少し楽になりかけた頃に、東京の大震災に会った。その後少しよくなったと思うと、今度は戦災で家や、楽器や、その他とりかえしのつかない物も焼けてしまい、また一から出直すことになったが、私の人生は芸の旅で、命ある限り修業である。
 

9歳で入門、4年で師範。箏で一家を支えねばならなかったという。

ところで、宮城道雄の家族についての記述はほとんどない。母親は道雄が幼い時に生き別れ、祖母に育てられた。「家族が多くて、養うのが大変だった」というが、兄弟姉妹は、その後どうなったのか、全くわからない。



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