神奈川を代表する温泉地の一つ、湯河原。
 
 
古くから多くの文豪や有名人に愛されてきた名湯です。
 
image
 
image
 
その発祥には様々な説がありますが、その一つとして有名なのが「タヌキが発見した」説。
 
 
昔々、傷を負ったタヌキが迷い込み、温泉で身体を癒したという説。
 
その為、温泉地のあちらこちらに、タヌキのキャラクターが出迎えてくれます。
 
 
しかし、ここを訪れた理由は、このタヌキ達ではなく…
 
湯河原駅前に立っている、こちらの銅像を観に来ました。
 
 
鎌倉幕府の立役者の一人である土肥実平と、その妻の像です。
 
 
平安時代から鎌倉時代にかけて、この地の有力豪族だった土肥氏。
その屋敷は、ちょうど湯河原駅の辺りにあったそうです。
 
平安時代末期、打倒平家を掲げた源頼朝が伊豆で挙兵すると、自分の武士団を率いて合流。
源氏軍の中心人物として、頼朝と、その弟である義経や範頼をサポートし続けました。
 
 
1180年、挙兵した源氏軍は、平氏の代理として伊豆を統治していた山木兼隆の居館を襲撃し、兼隆を討ち取ります。
 
しかし、周囲の豪族からの協力が足りず、数的不利に陥った源氏軍は、すぐに迎撃してきた平家軍との「石橋山の戦い」で敗戦。
 
何とか生き残った源頼朝の主従は、土肥(現在の湯河原)の山中へと逃げ込みます。
 
 
自分の領地で身を隠す主・頼朝を、己の命を懸けても守り抜く事を誓った土肥実平。
 
また、その妻も、庶民の姿に変装して、山中に身を隠す頼朝達に食料を届けたり、様々な情報伝達の役割を果たしたそうです。
 
その働きが「武士の妻としての鑑」として称賛され、こうして夫婦揃って銅像となる事となりました。
 
 
真鶴(現在の神奈川県真鶴町)まで逃げ延びた頼朝と実平達は、海を渡って安房国(現在の千葉県)へ。
 
そこで三浦氏、千葉氏といった有力豪族の協力を得た源氏軍は、鎌倉を本拠地として関東を制圧。
 
都から遠征してきた平家軍を「富士川の戦い」に打ち破り、一気に平家打倒へと突き進んでいく事になります。
 
 
頼朝からの厚い信頼を得た土肥実平は、源義経、源範頼による西国遠征に参加。
 
「屋島の戦い」、「壇ノ浦の戦い」といった源平の合戦で活躍し、源氏軍の勝利に貢献します。
 
平氏が滅亡した後、備前・備中・備後(現在の広島・岡山あたり)の守護に任じられ、これを統治。
 
この土肥実平の子孫が、戦国時代、中国地方で有力大名だった小早川氏になります。