すっかり書き忘れていた、2016年の岩手旅行の続き。

 

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平泉の駅から黙々と自転車のペダルを漕ぎ続け、約30分かけて、ようやく辿り着いた目的地。

 


 

 

 

 

 

平安時代、この土地を支配する蝦夷を討伐した「征夷大将軍」坂上田村麻呂が、その戦勝を神仏に感謝して、毘沙門堂を建てた場所です。

その毘沙門堂というのが、こちら。

 

 

高さ30メートル以上もある岩壁の下に嵌め込まれているかのように、赤いお堂が建っています。

 

 


京の都の帝から蝦夷の征伐を命じられた田村麻呂は、未知の土地に住む全く分からない相手との戦いに臨むにあたって、京都の清水寺で戦勝祈願を行いました。

そして、見事に蝦夷征伐を成功させると、感謝の意味を込めて、清水寺の舞台に似せた毘沙門堂を、この場所に建てたそうです。

 

 

 

残念ながら、平安時代から現代までの間には何度か火災などで焼失・損壊を繰り返していて、その度に建て替えられてきました。
現在の毘沙門堂は、昭和に起きた火災の後、再建されたものです。

 

 


こんな岩盤の真横を階段で通っていくと、ちょっとした探検気分になりますね。

 

 

 

毘沙門堂の内部は一切の撮影禁止の為、出入りする階段の写真しか残せず・・・。

坂上田村麻呂が建立した時には、堂の内部に108体の毘沙門天の像を祀りました。

確かに、現在でも多くの像が祀られていましたが、108体もあったかどうかは数えていないので不明です(笑)。

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平安時代後期、奥州(東北地方)で「前九年の役」、「後三年の役」という二つの戦乱が起きました。

この二つの戦乱に関しては、以前、福島県の勿来にある「源義家の騎馬像」の事を書いた時に説明したので、今回は割愛させて頂きます。

「前九年の役」と「後三年の役」に勝ち抜き、奥州での権力を握った藤原氏によって、平泉の町は栄えていき、数百年後の現代に世界遺産へと指定される程の豊かな文化と宗教の街へと発展していく事になります。

二つの戦乱が鎮まった後、この達谷窟を訪れた源義家は、戦乱で失われた兵士達の命を敵・味方問わずに弔いたいと思い、そそり立つ岩壁に仏像を彫り込む事にしました。

 

 

 

 

馬に乗ったまま、岩壁の方を向いて弓を構えた義家。

そして、放たれた矢によって岩壁に彫り込まれたと伝わっているのが、

 


「岩面大佛」と名付けられた、この仏像。

磨崖仏(崖面・岩壁に彫られた仏像)としては、日本で最も北にあるものです。

 




アップにしてみると、その大きさが伝わりにくくなるのですが、顔の長さが3メートル半以上もあって、これが彫り込まれている高さは地上から16メートルも上です。

こんなものを、放った矢だけで削って掘り込んだなんて…。


私が純真無垢な子供だったら、素直に信じられるんですけど(笑)。

別の説では、弓弭(弓の両端にある弦を掛ける場所)を使って彫ったという話もありますが、それはそれで、あの高さまでどうやって上ったのか、というツッコミどころが・・・。

最初は全身像が彫り込まれていたものの、明治時代の地震によって胸から下が崩れ落ち、現在の顔だけが残っているそうです。

まあ、義家公の話については伝説という事で真偽の程は不明ですが、実際に誰が彫り込んだのかも、まだ分かっていないそうです。

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その後、ちょっと急ぎ足で周囲を見学。
 

 

 

毘沙門堂の前にある池のほとりに建てられた「辨天堂」。

 

 

江戸時代に建てられ、何度かの修築を経ながら、現在も1日に3回鐘を鳴らして時を知らせている「鐘楼」。

 


坂上田村麻呂が蝦夷征伐を終えた翌年の西暦802年、寺院として創建された時に建てられた
金堂(講堂)

残念ながら、西暦1490年に火災で焼失してしまいましたが、平成になってから再建。
宮大工の技を受け継いでいく為に、昔ながらの工法にこだわって作られたそうです。

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達谷窟を後にした私は、気合を入れ直し、再び自転車のペダルを漕ぎ始めました。

来た道は、当然ながら、同じ距離を戻らなければなりません。

またしても、30分近くかけて、平泉の駅へ・・・。