「Tora5rouのブログ」総集編(熊本3) | Tora5rouのブログ

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Tora5rouの備忘録として日々の出来事をまとめ、地域・旅・園芸・料理… の情報を発信いたします。 記事中の太字の部分は関連情報をリンクしてますのでクリックしてご覧下さい。

総集編の続きです。 詳しい記事はリンクサイトをクリックしてご覧下さい。 諸事情により売りを検討していたトラ五郎小屋のある土地はイトーピア湖畔別荘地と関係深い(株)白橋工務店さんに売却依頼しました。

 

 

 

2011西九州の旅(天草)L


前回の「Tora5rouのブログ」総集編(長崎2)の続きです。旅の3日目は天草・下島の下田温泉のホテルを8:20出発しました。下島は574.01km2、日本の島の大きさ順だと淡路島と屋久島の中間で東京都区部から江戸川区を除いた大きさがあります。島の西海岸を走る国道389号線は「サンセットライン」の愛称で呼ばれ、水平線に沈む美しい夕陽を各所で望むことができるそうです。8:40 国道を南下し、国指定天然記念物の妙見浦に到着しました。あいにく朝から小雨で雲が低くたなびいていました。「象さんが歩いてる」と言われる海食洞を車窓から見ました。天草灘の風波が造り出した妙見岩と呼ばれている奇岩です。晴天の日の夕日の光景はさぞ素晴らしいだろうと思われました。一番下の写真はハンディカム使用で実際より明るく撮れました。

 

 

 

9:05 大江天主堂に到着、幸い雨はやんでいました。1892年、布教のため来日したフランス人神父ルドビゴ・F・ガルニエは、「パアテルさん」(神父さんの意味)と親しみを込めて呼ばれ、この大江で農民と共に貧苦をともにしながら布教活動を続けました。そして私財を投じて白亜の大江天主堂を1933年に建造しました。長崎出身の鉄川与助(長崎の浦上天主堂を設計)によって設計されたロマネスク建築で、赤い絨毯を敷き詰めた高い天井構造となっていました。1907年 北原白秋、与謝野鉄幹、木下杢太郎、平野万里、吉井勇の5人は天草西海岸を歩き、ガルニエ神父を訪問しました。この時の紀行文は『五足の靴』としてまとめられました。ガルニエ神父は25歳で来日し、82歳で亡くなるまで布教活動に努め、ついに祖国には帰らず、天草に骨を埋めました。吉井勇が晩年、当時を回想して歌を詠んだ歌碑が天主堂前にありました。
  白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿
  ともにゆきし友みなあらず我一人老いてまた踏む天草の島
帰りに駐車場近くの売店でガバジュースをいただきましたがすぐ側に見えた天草ロザリオ館は時間がなく、見学できませんでした。

 

 

 

10:40 下島から天草瀬戸大橋を渡り、上島の松島展望所に到着しました。眼下に「天草富士」や「松島富士」と呼ばれている高杢島(標高139m)、その手前に樋合島、そして永浦島が見え、4号橋がこの上を通っていました。上島、前島、池島、永浦島、大矢野島を経て熊本県宇土半島の三角まで5つの橋を総称して天草五橋と呼び、1966年9月24日に開通、天草で真珠の養殖が盛んなことから天草パールラインと名付けられました。
10:58 五号橋(松島橋:178m)を渡り前島にある天草パールセンターに到着、天草四郎の像が建ち、背後に天草五橋で最長の4号橋が見渡せました。四郎の父、益田甚兵衛好次は天草の大矢野島の出身とされていますが四郎の出生については諸説あり、謎のベールが幾重にも重ねられています。「天草大矢野の益田四郎時貞と申すもの年16歳…、稽古なしに書を読み、…天より鳩を招き、手の上にて蚕を生ませ…切支丹の経文を…他にも不思議なことをいろいろとすると聞く」という記録があるそうです。1637年 藩主の圧政に苦しむ農民・漁民は天草四郎時貞を、天の使い・救世主に祭りあげ、キリスト教の普及に努め、圧政に苦しむ人々の団結をはかって一揆を起こしたと言われています。一揆勢は天草では唐津・寺沢藩の軍勢を破り、海を渡り藩の倉庫を襲い武器弾薬や食糧を奪い、原城に籠もる島原の一揆勢と合流、1637年12月、幕府は5万余りの軍勢で原城に猛烈な攻撃を加えました。1638年2月28日 幕府軍は12万4千人もの大軍を送りこみ、3万7千余人の一揆軍(戦える男は約1/3、残りは女や子供の非戦闘員)に対し総攻撃をかけ、多大の損害を受けながら漸く鎮圧しました。そしてこの事件に懲りた徳川幕府は、翌年から鎖国を開始しました。この天草四郎像がある地からも「天草富士」のある高杢島と佐世保の九十九島にもあった真珠養殖用筏が見えました。パールセンター2階のレストランで昼食をいただきました。パールセンター周辺には水上に浮かぶ「わくわく海中水族館」や何故か海上自衛隊のPS-1航空機が置いてあるのが見え天草四郎の像の近くには与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑もありました。
 天草の 島のあひだの夕焼けに 舟もその身も 染みて人釣る (寛)
 天草の 松島ここに浮かぶなり 西海のいろ むらさきにして (晶子)
昼食・休憩後は4号橋(前島橋:520m)、3号橋(中の橋:361m)、2号橋(大矢野橋:249m)を渡り、大矢野島土産品店に寄りました。こちらには駐車場奥に、ふっくらとした天草四郎の像が建っていました。
連続トラス構造の1号橋(天門橋:502m)を渡り九州本土の宇城市へ、少し走りさらに橋を渡り、戸駆島の若宮海水浴場に行きました。階段状に石が敷き詰められ、近くに洋蘭の栽培施設もある由、再び九州本土に戻り、13:20 宇城市三角西港に到着しました。三角西港は明治政府の国内統一、殖産振興の政策に基づいて建設され2008年 近代化産業遺跡群として世界遺産暫定リスト入りしたそうです。1951年7月22日 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が立ち寄った2階建ての白い洋館・浦島屋は資料展示と喫茶店になっていました。また長身でいろいろエピソードの多い富岡敬明の像がありました。彼は15年間熊本県知事を務め、三角西港を作る為に尽力しました。三角西港を後にし途中から九州自動車道に入り福岡空港へ向かいこの日もたいした雨に降られることなく西九州の旅を終了しました。

 

 

ブログの廃止とトラ五郎小屋の売却につて

現在投稿している「Tora5rouのブログ」は私をとりまく諸般の事情により、現在投稿中の総集編終了をもちまして、幕を閉じたいと思います。 そしてテレビドラマ「北の国から」に登場する五郎さんの石小屋に魅了され、情熱を傾けて建設した、トラ五郎小屋のある伊豆の土地も手放すことを決意しこの度(株)白橋工務店さんのHPに売却記事をUPしました。 その他詳細は「toragorou88の生活 」をご覧下さい。