築城時期は諸説ありますが、高桑城の城主である高桑氏が、1221年の承久の乱の際、朝廷側の武将として参戦している記録があることから、鎌倉時代初期の1200年頃と考えられます。
河手城から南西に8kmほど先の境川に面し、周囲400mの土塁に囲まれた平城で、その北西に居館があったと云われています。
その後、高桑氏は代々土岐氏に仕え、この高桑城は土岐氏の川手城の支城の役割を担っていました。しかし、 1494年、土岐氏の跡継ぎ騒動で起きた船田の乱により落城。
後に再建されたものの、 1527年、斎藤道三に内通していた留守居役をしていた武山氏に高桑城を乗っ取られ、高桑氏は越前国へ逃亡。
1530年、今度は道三が土岐氏を追放し、美濃国の支配を完了し、高桑城は正式に武山氏の居城となりました。
1567年、織田信長の命を受けた息子の信忠が攻め、高桑城は落城し、廃城となりました。とはいえ、信忠はまだこの時10歳のため実質的には織田家の家臣団が指揮していたと思われます。
現在は河川敷となっており、遺構は確認できませんでした。城石の一部は、城跡近くにある慈恩寺の観音堂の石垣に使われているそうです。 敷地内には織田勢に攻められ、この地で自刃した武山氏一党の16名を供養する無念塔がありました。
【近隣の高校】
岐阜県立羽島北高等学校
通称、羽北(はしきた・はきた)。
もともとは羽島郡柳津町の全日制普通科単位制、公立高校でしたが、2006年に岐阜市と柳津町が合併したことにより所在地を岐阜市に置くこととなりました。
生徒は部活動所属が必須となっていて、運動部では、フェンシング部が全国レベルの強豪校でオリンピック選手も輩出しています。
文化部では吹奏楽部が週7日の練習と朝練をこなし、大会・コンクールなどで成績を残している他、写真部もコンクールで生徒が表彰されているそうです。