『富野保塁』
所属 下関要塞
着工 明治21年2月
竣工 明治22年2月
備砲 12cm加濃砲 1砲座2門×4砲座 計8門
任務 中条、黒原、足原、小倉の各方面の射撃及び、田向山砲台、笹尾山砲台の側面防備。
明治末期廃止
田向山砲台の西南約1.5km、標高約90ⅿの稜線突角に築かれた側防堡塁。
首線方向は第一砲座がSW80度~第二砲座が70度~第三砲座60度~第四砲座50度と各砲座で10度の変化がつけられていて射撃範囲を広げていたとされてます。
老人ホーム望玄荘や公園整備時に遺構の多くは取り壊されたと思われる。
公園の下の茂みに掩蔽部がひっそりと残るだけとなっています。
老人ホーム望玄荘付近から足立公園展望広場~公園駐車場にかけて砲座や砲側庫、観測所があったはずですが・・・老人ホーム玄関より道を挟んだ駐車スペースに、砲側庫(多分最右翼側砲座の砲側庫)が1つ残ってます。
入口前面はレンガ造りだったと思うのですが、全面ブロックで塞がれてます。
砲側庫の左手より、プチ藪に立ち入るw
少し進むと右手に・・・
掩蔽部横より上部に続く階段・・・現在は公園となってますが、右翼側観測所や指揮所があったのかも。
階段のある石積を回り込むと、掩蔽部があります。
コの字型に配置されていて、直線状に5連(多分内部奥で通路で繋がっている)、その左右に折れ込む形で1連ずつの異形7連ですね。
不覚にも、広角レンズを用意してなかったので全体が写せてませんw
あまり見かけない造りの通気口。
角部・・・
水抜き・・・
反対側(掩蔽部を正面に見て左側)より・・・
左側折れ込み部。
左側折れ込み部の掩蔽部なんですが・・・左右折れ込み部に1連ずつ。と先に書きましたが、左側の掩蔽部は造りが違います。
一見、1連のようですが、入口左右の小さな小窓がありませんし・・・左側に小さな入口があった感じですし、小さな入口が付けられてる左側の煉瓦スペースが不自然に広いのが分かりますよね。この小さな入口奥に通路が伸びていて通路奥で左にも部屋が設けられていたと思います。上部の確認ができてませんが、揚弾井が造られてた?のかもです。
なので・・・実は8連なのかも知れません。
掩蔽部を後に・・・左手に回り込むと階段(上は公園になってるので何もないです)
少し荒れてますが、そこより左手に進みます。
右手に土塁上に上がる階段・・・
井戸等があったと思われるスペース。
石積が残るだけとなってます。
こんな感じですかね。
~おしまい~
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