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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

飛鳥の万葉歌碑⑤ ~県立万葉文化館庭園 その2~

2020-07-06 22:25:50 | 文学をたどる

 県立万葉文化館の庭園の一番奥まったところに設置されている歌碑である。そのすぐそばには飛鳥池工房遺跡の復元した柱などが立っている。

 飛鳥池工房遺跡について、少し触れると同遺跡は、県立万葉文化館の建設に伴い。飛鳥池の埋め立て工事による事前調査で遺跡の存在が確認され、1997から2000年度にかけて発掘調査が行われた結果、工房群が展開する南群と官衙風の建物が配置された北地区の2つの遺跡が検出された。

 

 歌碑がある場所の目の前広がっているのは、北地区である。その北地区には、方形の掘立柱塀で区画された内部に二基の板敷井戸、石垣方形池と導・排水路、掘立柱建物群が存在している。

 

 さて、万葉歌碑に話を戻そう。この歌は、遠く九州の地で歌われた歌に呼応して作られたものである。あんまり、万葉文化館のある場所とは全く関係のないものである。

 

 歌碑には、「君を待つ 松浦の浦の 娘子らは 常世の国の 天娘子かも」とあり、この歌もの前にある大伴旅人の「松浦川に遊ぶ」と題して詠まれた和歌11首に呼応して作られたものである。

 この松浦川に遊ぶ歌とは、男性が松浦で仙女のような美しい娘らと出会い歌を詠み交わすということを詠んだものです。中国の小説「遊仙窟」の影響を受けていると言われている。

 

 このことをわかったうえで読むと、あなたを待つという松浦の浦の娘たちは、常世の国の漁夫の娘ではないでしょうかという意味で、旅人らが松浦川で遊んだ娘たちは、常世の国の漁夫の娘ではないのかということを言わんとしているのだと思う。

 

 この歌については、大伴旅人へ吉田連宣が送った書簡に添えられた歌であるという。ちなみに作者の吉田宣は、奈良時代の人物でもともと僧侶だったのを医療に学ぶということで僧侶から還俗して、吉宣と名乗っている。後に吉田姓に改称している。たぶん、白村江の戦いで敗れた百済の人々が日本に流れ着き、その一部が吉宣の先祖となったのだろう

 そして調べてみると面白いことに、令和という元号の出典となった梅花の宴についても、このことについての書簡を旅人の所に贈っている。

 この万葉文化館を訪れたのは、今年の2月。まだ自粛前である。梅の花(桜?)が咲いていた。どうも、遠い筑紫の歌なので何となく感情移入しにくいような気がする。

 しかし、何でまた筑紫の方の歌が選ばれたのであろう?


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