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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

法輪寺 ~會津八一歌碑~

2019-02-24 19:00:58 | 文学をたどる
 法隆寺から北へ2キロほど行ったところに法輪寺がある。法隆寺から法輪寺への道は、途中中宮寺宮の墓地などがあるが、田園風景が続く、その中に岡の緑をバックに法輪寺の三重塔が見えてくる。
 斑鳩の良さは、どこかかならずっていいほど、法隆寺、法輪寺、法起寺の三塔のうちどれかが見えるところにあるのかもしれないなどと思いながら、歩いていく。

 

 法輪寺は、三井寺ともいうが、創建は飛鳥時代にさかのぼる。聖徳太子(厩戸皇子)の子、山背大兄王が太子の病気平癒を祈願して建立したと伝えられる。事実、発掘調査で、飛鳥時代のものであろうとされる寺院の伽藍が見つかっている。
 法輪寺の三重塔は、飛鳥様式の建造物であり、国宝に指定されていたが、昭和19年落雷により焼失してしまった。避雷針はと思ったが、どうも戦争時に金属供出で取り外されてたらしい。なんともお粗末な話である。

 

 その後、作家の幸田文さんらの尽力により、昭和50年に再建された。実は、小学校の遠足で法輪寺は来たことがあり、その時は、すでに三重塔が再建されていた記憶がある。たぶん、再建されて間がない時期だったのだろう。その頃からするとだいぶ周りの風景と馴染んできたような感じがする。

 

 法輪寺には、飛鳥時代のものといわれる木造の薬師如来坐像や虚空蔵菩薩立像や貞観時代の木造の十一面観音立像など寺宝があり、これらは現在収蔵庫の中に保管され、見学することができる。薬師如来坐像などは、いかにも法隆寺などにある止利様式の仏像と似通った顔立ちなど造りをしている。
 そして、會津八一の歌碑は、この収蔵庫の右手の方、境内の隅の方に會津八一の歌碑が置かれている。

 

 歌碑には、プレートが光ってよく見えないが、「くわんおん の しろき ひたひ に ようらく の かげ うごかして かぜ わたる みゆ」と刻まれている。ただ、「自註鹿鳴集」では、「奈良博物館にて」という題がつけられている。はてと思って、註を見ると、「この歌は、法輪寺講堂の本尊十一面観音を詠みたるもの」とある。草稿の整理の際誤ってここに配列したようだ。

 

 歌の意味は、観音像の白い額に宝冠より瓔珞が影を落としているが、その影が動いて、風が渡るのが見えるという感じだろうか。瓔珞とは、仏像などに取り付けられている装身具である。法輪寺の十一面観音立像は、約4mにも及ぶ大きさの仏像である。よくそんな風景が見れたなあと思う。

 

 法輪寺の仏像は、どうしても飛鳥時代の仏像に目が行ってしまい、残念ながら、あんまり十一面観音像のことは覚えていない。ついでに、「自註鹿鳴集」には、もう一首、法輪寺にてという題で詠まれた歌がある。

 「みとらし の はちす に のこる あせいろ の みどり な ふき そ こがらし の かぜ」というもので、同じ十一面観音像をもとにしたものである。はちすは十一面観音が手にする蓮華、蓮華にあせたような緑色が残っているのだろうか、木枯らしの風で吹き消してしまわないようにという内容か?
 
 歌碑に刻まれている歌よりは、ちょっと難しい気がする。

 

 法輪寺には、来る人も法隆寺ほどの観光客もなく、ひっそりとしている。このような佇まいが今の僕には好ましい気がする。

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