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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

京都の伝説を歩く【12】 子安の塔

2020-08-06 23:38:38 | 文学をたどる

 久しぶりに京都の伝説について書いてみる。写真とネタが見つかればブログに挙げていっているという感じです。

 今回は、京都は東山、清水寺の奥にある泰産寺子安の塔を取り上げてみたい。

 

 清水寺の仁王門から入って、著名な国宝の本堂、奥の院、音羽の滝を通って、南へ谷を一つ越えたところに朱色の三重塔がある。これが、泰産寺子安の塔である。長い間、ずっと清水寺の一部だと思っていたのだが、最近になってとある本で、別のお寺であることを知った。

 

 実は、このお寺、もともとは、この場所ではなく、清水寺の仁王門の手前の空間にあったのだが、明治になり、この場から現在の場所に移転したらしい。この泰産寺、縁起では、奈良時代、光明皇后が阿部内親王(のちの孝謙・称徳天皇)を出産する前に、病にかかった時、伊勢神宮に祈ったところ、夢枕に観音様が現れ、無事出産ができた。その後重ねて神託があり、観音様を安置し。三重塔を建立し、泰産寺としたと伝える。

 そうすると、清水寺の創建は、宝亀9(778)年と伝えられるので、清水寺よりも古いということになる。

 子安の塔には、このような話がある。

 二条天皇のころ、蓮華王院に老尼が住んでいて、夢で閻魔王から子どもを授けるというお告げを受ける。その後、「胴一つにして、頭二つ、手四つ足四つ」の男女の子を産んだ。子どもが生まれると、閻魔王から授けられた壺から美酒が湧き出て、それを元に老尼は、酒屋として財をなす、しかし、世に災いが重なり、時の博士の占いで、それは異常の二児の誕生に基づくとされ、勅命によって三条河原で斬首されようとするところに清水の観音によって救出された。結末としては、この二児は、清水の結びの神の本地愛染明王と子安堂の本地地蔵の化身であったというものである。

 

 不思議な物語であるが、清水寺の周辺がかつて貧困や救済を求める人々が集まっていた場であったこととつながりがあるような気がする。

 ちなみに、現在の子安の塔は、江戸時代、寛永年間に建立されたものである。(現在は、重要文化財に指定されている。)その頃から安産祈願の場として信仰を集めていた。そういえば、僕も長女が出産する時は、ここに来た記憶がある。(もう20数年前のことである。)それから、清水寺に繋がる三年坂(産寧坂)は、泰産寺と繋がるから産寧坂というらしい。

 

 この子安の塔のある場所から、清水寺をながめると仁王門、三重塔、本堂などの堂舎が並んでいる様子が一望に見える。なかなか壮観である。


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