花の他には松ばかり

花の他には松ばかり

歌舞伎のことなどなどのひとりごと

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八月に歌舞伎座公演ができることになったそうだ。

とても喜ばしいことだ。

 

ただ、このご時世なので、いろいろと制約がある。

 

・歌舞伎座における新型コロナウイルス感染拡大防止および感染予防対策について

 

 

観劇後にロビーで話ができないのは、

舞台の感動を一緒に行った人と分かち合えないという淋しさはある。

それがまた観劇の楽しみでもあるから。

 

けれど、これもまた開演するため、観客たちの安全確保のために熟考した結果であろう。

 

私が最も驚いたのは、「大向こう禁止」。

私は、大向こうは芝居の大切な要素のひとつだと思っている。

大向こうのない歌舞伎の舞台は・・・ まるで鳴り物禁止のようだとすら思った。

 

けれど、これもまたこのご時世。

仕方のないことだと納得するしかない。

 

少しずつ少しずつ、歌舞伎が元の姿に戻りますように。

 

 

私は、今回の大騒動前から健康上の都合で歌舞伎を観られずにいた。

 

相次ぐ各劇場での公演中止。

いたしかたないとしても、役者さんや舞台に係わる方々の思いは私などには

わからぬほどの忸怩たる思いや不安、悲しみに満ちているのかもしれない。

 

まずは役者さんやスタッフさんたちの健康を願う。

 

このような状態が続き、経済は以前と同じとはいかなくなるであろう。

そういうとき、いちばん後回しにされるのが「芸術」だ。

日々生きていくだけでもどうなるかわからないときに、そんな余裕なんかない!と。

 

けれどもまた、そういうときだからこそ、ひととき夢の世界にいざない、

現実の辛さを、まさにひとときだとしても忘れさせてくれて、

フゥゥゥッとパンパンになっていた心の空気抜きをしてくれるのは「芸術」だと思う。

 

『人はパンのみにて生きるにあらず』

これは大学時代に接した聖書の言葉だが、

「なくても生きていける」とおもわれがちなものが実は生きる光になったり、

心の休憩になったりする、それがあるからこそ現実の厳しさに向き合えたり。

 

私なんぞ「日本の人口」の数に埋もれているような小さな存在であるが、

日本の最高の伝統芸能の歌舞伎の光が絶やされることのないように、

歌舞伎に係わっている人たちが、食うために仕方なく離れざるをえない状況にならぬよう、

上の人たちには考えて欲しい。

 

文化芸術が豊かである国の人たちはしあわせだと思うもの。

お金持ちのためのものではなく、庶民のために!

 

私は待っている、いつかまた歌舞伎が「あたりまえ」のように上演される日々を。

 

きっと来るよね、そんな日々が。

 

今月は昼の部だけと思っていたが、夜の部に行くことができた。

今回は娘と一緒。

 

松寿操り三番叟

幸四郎さん、ちょっとお疲れ?という気もしたが、

やはり今この演目をやらせたら幸四郎の右に出るもの無しと私は思っている。

後見の吉乃丞が、手慣れた感じが出ていて心地よかった。

 

俊寛
すごいものを観た、観ることができた。

昔はこの演目は『足摺岬』と呼ばれていた気がするのだが、

俊寛だけ都には戻れないと聞いた俊寛の嘆きもがき、そして足摺りして苦しむ姿は、

肝が深く深くあるので、人は究極このように足摺りするのかと、ここで涙が出た。

 

最後の岩の上の吉右衛門の俊寛の目が、人間の魂の上の上を超えて、

違う領域に達した目で、私なんぞが泣いては申し訳ない気がするほどだった。

ただただ、これを目に焼き付けておきたい!と思って観ていた。

 

菊之助も、なんだか良い具合に肩の力が抜けて、

今の「菊之助の道」を歩いているような風情で、頼もしくさえ思えた。

錦之助も、こういう品のある役は本当にピッタリで、邪魔にならない良い芝居をするから好きだ。

 

瀬尾の又五郎は、声も通りうまいのだが、

私が観た日は、やたらと笑いが起こり、憎々しさがあまり出ていなかった。

瀬尾は俊寛が殺したとき、観ているこちらが「ざまあみろ!」と思わせるほどがいい。

 

雀右衛門の千鳥は、都とは縁のない海女の素朴さ初々しさがあってよかったが、

一人嘆き悲しむ場面が・・・ もたない。

 

とにかく・・・

私が今まで観た「俊寛」の中で、いや、こんなすごい「俊寛」を観られたことに感謝!

 

 

新作歌舞伎舞踊 幽玄


去年の鼓童の公演でやったものを手直した演目だそうだ。

(筋書を見たのは家に戻ってからなので、何も知らず観てしまった)

 

これはもう見る側の好みの問題だとは思う。

私は辛かった。

ずーーーっと大音量の太鼓や鳴り物の音を聴かされ続けているのは苦痛だった。

グレオリゴ聖歌隊のようなハモった唄も、美しいというより邪魔だった。

 

能仕立ての「羽衣」も、若手たちの「石橋」での毛ぶりも、

音がうるさすぎて、まったく目立たなくなってしまった。

 

あまりの太鼓の連打続きで、観ている途中で具合が悪くなって頓服を飲んだ。

歌舞伎を観ている途中で、こんな状態になったのは初めてだ。(苦笑)

 

和太鼓に、鼓童にもっと光を当ててあげたいと思ってのこの演目なのかもしれない・・・

と、頭ではわかるが、感覚が拒否した。

 

唯一、白拍子花子が鐘を見上げている後ろ姿(この瞬間は音はなかった)は、

「この人は後ろに目がついているのではないか? 自分の立ち姿とこの光景を、

 どのような形で立てば美しいか見えているのではないか?」

と思うほど美しかった。

 

最後の場面も、いろいろと入り乱れ過ぎて、カオス。

 

玉三郎という稀有な役者には、音はいらない。

「羽衣」にしろ「道成寺」にしろ、無音で踊っても音色が聞こえてきそうになると思う。

 

そして、思った。

無音というのは、ひとつの「音色」なのだなと。

そしてそれはとても重要な音色で、それあってこそ他の音が活きるのだなと。

 

絶対美的感覚を持っている玉三郎氏の頭の中は「美」なるものが詰まっていると思う。

けれど、それをそのまま板の上に乗せても、絶対美になるとは限らない。

余計なものをそぎ落としそぎ落とし、最低限度ギリギリのシンプルな中でこそ、

玉三郎氏の美は生きるのではないかと思った。

 

これはあくまで私の素直な反応というだけの話だが。

 

 

 

久しぶりに歌舞伎座に行った・・・というか、歌舞伎を観るのは久しぶりだ。

 

秀山祭九月大歌舞伎

 

『河内山』が目的だったのだが、『金閣寺』の児太郎がとてもよかった。

雪姫は何度か見たが、私の中では児太郎の雪姫がいちばんになった。

台詞の中身がちゃんと伝わってくるし、女の中にある強さが気持ちよかった。

 

福助さんが復活!

御簾が上がったとき、観客の心がひとつになった気がした。

「おかえりなさい!」「待ってました!」という喜びと、また舞台に立っている感動。

しばらく鳴り止まなかった拍手。

わかりますよね、福助さん! 私たち、待ってたんですよ、本気で!

 

 

 

花道の桜のはなびら。

そっと一枚持って行った若い女性の心が可愛かった。

 

大膳の松緑が花道のところに立ったとき、顔にうっすらと二代目松緑丈の面影が見えて、

私は泣いてしまった。(私が一生惚れている役者なんだもの)

現・松緑も、彼の「松緑」をどんどん形にしていっている。

それが嬉しい。

 

 

『鬼揃紅葉狩』

私は三代の幸四郎を観ることになったわけだが、

現・幸四郎は『金閣寺』の狩野之介直信のような二枚目もできるし、

若武者もできるし、女形も美しい。(弁慶までやっちゃうし)

骨太だったおじいさま、女形より二枚目として「染さま」時代を創ったおとうさま。

お二方とはまた違う幸四郎というのがおもしろくて私は好きだ。

 

平維茂役の錦之助数年前、国立劇場の歌舞伎鑑賞教室でこの役をやった。

(更科姫のちの鬼女は扇雀さん)

そのとき、こういう役を歌舞伎座でもやって欲しいなあと思っていた。

だから嬉しかったし、やはりとても合う。

 

 

 

「河内山弁当」なるものが売っていた。

 

 

ひじきとあぶらげは入っているけれど(笑)品があって美味しかった。

 

『河内山』は・・・

上州屋質見世の場で、番頭に追いかけられて飛び出して来る丁稚からのやり取りが、

私には河内山より幡随長兵衛に見えてしまった。

本来は小悪党の茶坊主。

そうは見えないところまで吉右衛門さんの器が大きくなってしまったのかもしれない。

それとも初日だからなのか? わからないけど。

 

私が生まれて初めて観た『河内山』は二代目松緑丈。

「江戸っ子だ、気が短けえ」がアドリブに聞こえたほど江戸っ子の人だった。

家の芸ではないが、今の菊五郎がやったらどうなるのかな?と、ふと思った。

 

ずっと体調が悪く、あちこちの病院を行ったり来たりの日々。

歌舞伎に行けないと、つい避けてしまう歌舞伎関連の記事やBlog。

 

今日は行ける日でよかった。(ドタキャンしなくてはいけない状態のときもあるので)

 

 

 

 

これは私の独り言だ。

 

体調がよろしくないこともあるが、しばらく歌舞伎を観ていない。

体調のことだけではなく、「これは絶対に観たい!」と思うものがなくなってきた。

 

私はシロウトにしては演劇を観てきた方だと思う。

ジャンルもいろいろだ。

アメリカの大学の中では三本の指に入るという演劇科に留学もした。

それでも思った。

 

歌舞伎は世界一の演劇だ!

 

しかし、この数年の歌舞伎は、やたらと新作新作という空気が充満している気がする。

全面否定するつもりはないが、私にとってそれらは「歌舞伎役者たちかが演ずる演劇」であって、

歌舞伎とは思えないのだ。

「歌舞伎役者がやればそれは歌舞伎」ではないと思っている。

 

別ジャンルの中に飛び込んでいって、何かを学ぶということはいいと思う。

あの二代目松緑丈も『オセロー』をやった。

ただ・・・

私は生で観たが、正直、松緑丈がオセローをやる意味がわからなかった。

当時魚屋宗五郎をやらせたら右に出る者はいないと言われた人が、

オセローを演じる姿は、歌舞伎の中にいるほど輝いてはいなかった。

 

中川右介氏が書いたコラムを読んだ。

勘三郎なきコクーン歌舞伎 役者も脚本もいいが熱狂消えた

(私は特に中川氏のファンというわけではない)

 

この中で書いてあった一節。

 

歌舞伎座は團菊祭。

新しいものは何もないのだが、その「偉大なるマンネリ」の象徴である、

夜の部の尾上菊五郎の弁天小僧菊之助が、すごい。

何度も見た芝居が、何の破綻もなく、淡々と進んでいくことがこんなにも心地よいとは。

名人芸とはこのことかと思った。

私にとっては、これこそが歌舞伎を観る醍醐味なのだ。

 

お芝居は、100人の観客のうち、99人は楽しめなくても、1人だけが心から楽しんだとしたら、

私はそれでそのお芝居は成功だと思っている。

いろいろなお芝居の形があっていいと思うし、それがまた楽しいことでもある。

 

けれど、歌舞伎には愚直なほどに古典を守り、今生きている役者たちに、

大昔からある役に息吹を吹き込んで欲しい。

それを観たい。

 

お芝居には「いい」「悪い」はないと思う。

好きか嫌いかだけだ。

私は歌舞伎は古典が好き、それだけ。