秀山祭九月大歌舞伎-夜の部 | 花の他には松ばかり

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歌舞伎のことなどなどのひとりごと

 

今月は昼の部だけと思っていたが、夜の部に行くことができた。

今回は娘と一緒。

 

松寿操り三番叟

幸四郎さん、ちょっとお疲れ?という気もしたが、

やはり今この演目をやらせたら幸四郎の右に出るもの無しと私は思っている。

後見の吉乃丞が、手慣れた感じが出ていて心地よかった。

 

俊寛
すごいものを観た、観ることができた。

昔はこの演目は『足摺岬』と呼ばれていた気がするのだが、

俊寛だけ都には戻れないと聞いた俊寛の嘆きもがき、そして足摺りして苦しむ姿は、

肝が深く深くあるので、人は究極このように足摺りするのかと、ここで涙が出た。

 

最後の岩の上の吉右衛門の俊寛の目が、人間の魂の上の上を超えて、

違う領域に達した目で、私なんぞが泣いては申し訳ない気がするほどだった。

ただただ、これを目に焼き付けておきたい!と思って観ていた。

 

菊之助も、なんだか良い具合に肩の力が抜けて、

今の「菊之助の道」を歩いているような風情で、頼もしくさえ思えた。

錦之助も、こういう品のある役は本当にピッタリで、邪魔にならない良い芝居をするから好きだ。

 

瀬尾の又五郎は、声も通りうまいのだが、

私が観た日は、やたらと笑いが起こり、憎々しさがあまり出ていなかった。

瀬尾は俊寛が殺したとき、観ているこちらが「ざまあみろ!」と思わせるほどがいい。

 

雀右衛門の千鳥は、都とは縁のない海女の素朴さ初々しさがあってよかったが、

一人嘆き悲しむ場面が・・・ もたない。

 

とにかく・・・

私が今まで観た「俊寛」の中で、いや、こんなすごい「俊寛」を観られたことに感謝!

 

 

新作歌舞伎舞踊 幽玄


去年の鼓童の公演でやったものを手直した演目だそうだ。

(筋書を見たのは家に戻ってからなので、何も知らず観てしまった)

 

これはもう見る側の好みの問題だとは思う。

私は辛かった。

ずーーーっと大音量の太鼓や鳴り物の音を聴かされ続けているのは苦痛だった。

グレオリゴ聖歌隊のようなハモった唄も、美しいというより邪魔だった。

 

能仕立ての「羽衣」も、若手たちの「石橋」での毛ぶりも、

音がうるさすぎて、まったく目立たなくなってしまった。

 

あまりの太鼓の連打続きで、観ている途中で具合が悪くなって頓服を飲んだ。

歌舞伎を観ている途中で、こんな状態になったのは初めてだ。(苦笑)

 

和太鼓に、鼓童にもっと光を当ててあげたいと思ってのこの演目なのかもしれない・・・

と、頭ではわかるが、感覚が拒否した。

 

唯一、白拍子花子が鐘を見上げている後ろ姿(この瞬間は音はなかった)は、

「この人は後ろに目がついているのではないか? 自分の立ち姿とこの光景を、

 どのような形で立てば美しいか見えているのではないか?」

と思うほど美しかった。

 

最後の場面も、いろいろと入り乱れ過ぎて、カオス。

 

玉三郎という稀有な役者には、音はいらない。

「羽衣」にしろ「道成寺」にしろ、無音で踊っても音色が聞こえてきそうになると思う。

 

そして、思った。

無音というのは、ひとつの「音色」なのだなと。

そしてそれはとても重要な音色で、それあってこそ他の音が活きるのだなと。

 

絶対美的感覚を持っている玉三郎氏の頭の中は「美」なるものが詰まっていると思う。

けれど、それをそのまま板の上に乗せても、絶対美になるとは限らない。

余計なものをそぎ落としそぎ落とし、最低限度ギリギリのシンプルな中でこそ、

玉三郎氏の美は生きるのではないかと思った。

 

これはあくまで私の素直な反応というだけの話だが。