ドナウ川の白い雲

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石蹴りの…読売俳壇・歌壇から

2020年09月21日 | 随想…俳句と短歌

   今年の春から夏、そして初秋にかけて、讀賣新聞の「読売俳壇・歌壇」に掲載された俳句、短歌の中から、私が心を動かされたいくつかの作品を紹介したいと思います。

 いつものとおりですが、ここで取り上げた句や歌は、作品に対する私の評価の結果ではありません。評価どころか、私は句も歌も作れません。ただ、「読売俳壇・歌壇」の掲載される月曜日・朝刊を楽しみにしている一人です。

 作品に即して書いた文章も、鑑賞するに当たってちょっと調べたこと、心に浮かんだ共感などを思いつくままに書いたものです。

 作者の方々に非礼があれば、おわびいたします。

           ★   ★   ★

〇 美しき 人の手にある 椿かな (羽生市/岡村実) 

 シンプルな一句です。どんな人だろう?? どんな場面かな?? … などと考えても、具体的なことは何も表現されていません。

 でも、美しいイメージです。日本人なら誰でも共感できる様式美の一つでしょうか。

   「これは、和服姿の女性ですね。椿に洋装は似合わない」。

 「あんこ椿?? 」。「いや、武家でしょう。『五弁の椿』の岩下志麻とか」。「古いねえ。『散り椿』の黒木華」。

 「この句の作者は現代人だよ」。「でも、この句には、時代を超えた普遍性がある」。

 「それはそうと、この句がピントを当てているのは椿ですね。女性の方は背景です」。「いや、いや。あくまで椿を手にした、控えめな美しい人だよ」。

 以上、独り言でした。

        ★

〇 石蹴りの 石の寂しさ 花ふぶき (蓮田市/千葉玄能さん)

 宇多喜代子評) 「子どもの遊びだけでなく、歩いていて無意識にまたは無聊発散に石を蹴ることがある。花吹雪の中でふと感じる哀愁」。

 初め、「石の寂しさ」という言葉が印象に残りました。

 しばらくして、「寂しさ 花ふぶき」かもしれないと。

 やはり、「花ふぶき」のイメージは華やかで強い。

 作者の意図はわかりませんが、私としては、春の愁い、春愁、青春の孤独感・淋しさ。そういう句と理解することにしましょう。

 「石を蹴る」という動作にも、若さと孤独感を感じます。年を取るとわかりますが、中高齢者は石を蹴ったりしません。

 

 「きみの瞳はつぶらにて きみの心は知りがたし」(佐藤春夫)  

 「きみがさやけき 目の色も / きみくれないの くちびるも / きみがみどりの 黒髪も / またいつか見ん この別れ」(島崎藤村)

 青春の句ですね。

       ★

〇 初蝶や 生は幻 死は現(ウツツ) (千葉市/椿良松さん)

 正木ゆう子評) 「生死は安易には詠めないテーマだが、死生観さえ変わりそうな今、こんな句の生まれるのは自然だろう。『幻』とは、いっときの夢という意味合いか。『初蝶』が明るい。

 「蝶」を歳時記で引くと、「 …… 単に蝶といえば春季になる。他の季節に現れる蝶はそれぞれ季節を示して区別する。…… 春は小型で優美な白蝶・黄蝶が多く、晩春から夏のうちは大きい揚羽蝶(夏)が目につく。初蝶は春になって初めて見る蝶で、春の訪れを早くも知らせてくれる」とある。

 春の訪れを知らせる生まれたばかりの小型の蝶が、ひらひらと花から花へ舞う。意外に俊敏なその動きを目で追いながら、その生もいっときのはかないものに過ぎないと感じている。

 正木ゆう子氏は「死生観さえ変わりそうな今」と仰っているが、私はこの句について、コロナ禍の「今」という風に限定しなくても良いように思います。

 人は死んでしまえば、その状態は永遠に続く。死の長さを思うとき、生はいっときの幻のようなもの。死こそ常態。

 しかし、その死は永遠なのだろうか??

 その人のことを覚えている人が誰もいなくなったとき、人はこの地上に生きていたことさえ忘れられ、無となってしまう。

 その意味で、死もまた、そう長いものではないのかもしれない。

 だから、せめて、ささやかではあっても、父母の法要をすることを子の務めとする。

 そして、やがて自分にも死が訪れる。

 その死の先にあるのは、ただこの国の美しい風土だけ。

 それでよい。

       ★

〇 花筏 堰を越えれば 組み直し(総社市/風早貞夫さん)

 川のほとりの幾本かの満開の桜が、花吹雪となって風に舞う。水の上に散り敷いた無数の花びらは、あちらこちらでたゆたいながらも、連れ立って流れていく。

 そういう日本の春の鄙(ヒナ)の風景。高梁川でしょうか。その上流の支流でしょうか。

      ★

〇 セリヌンティウス 吾にはおらず 桜桃忌 (川越市/横山由紀子さん)

 冒頭の「セリヌンティウス」で、えっ?? 何のこと?? と一瞬、腰が引けました。

 季語は「桜桃忌」で、季節は夏。

 桜桃はサクランボのこと。6月ごろ、紅い実をつける。

 太宰治の忌日は6月19日だそうです。それで、彼の短編小説の題名を踏まえて、その日を「桜桃忌」と名付け、毎年法要が行われるそうです。ファンが多いのですね。

 小澤實評) 「セリヌンティウスは太宰治の小説『走れメロス』に登場するメロスの親友。メロスは彼の命を守るために走った。そんな友人が自分にはいないことを太宰治の忌日に嘆く」。

 「吾にはおらず」…… 。本当にそうです。

 自分の生きてきた歳月のありようを顧み、もっと別の生き方があったのではないかと悔悟の気もちもわいてきます。

 或いはまた、人間とは誰しも、本来、そのような存在なのかもしれないと思い、人間存在の深淵をのぞいたような感慨もわいてきます。

 わずか17文字に、人生が表象されています。

       ★

〇 本棚を しばし見て去る 揚羽かな (所沢市/岡部泉さん) 

 「揚羽」は、「初蝶や」の句のところで歳時記から引用しましたように、夏の季語です。

 外は緑滴るような夏の午後。あでやかな揚羽が部屋の中に侵入してきて、ひとしきり本棚の辺りを飛んで、また去っていきました。

 あれは幻影だったのか。夏の午睡の夢だったのか。妖艶の趣も。

       ★

〇 掌(テ)の中に 蝉鳴かせつつ 児の帰る (久喜市/深沢ふさ江さん)

 日焼けした少年の物おじしない様子が、その小さな手とともに目に浮かぶようです。

       ★ 

〇 太陽系に 河川敷貸す 天の川 (八王子市/徳永松雄さん)

 気宇壮大な句です。その中に、俳味もあって面白い。

 私たちは、天の川の端っこ近くの太陽系、その中の小さな地球に生きています。

 「銀河」や「銀漢」ではなく、「天の川」というと、ロマンチックな感じもあります。秋の季語です。

      ★ 

〇 目礼を して立ち去りぬ 今朝の秋 (青梅市/青柳富也さん) 

 どう解釈したらよいのでしょうか?? 読者にまかされていると考え、素直に、表現どおりに、擬人法として受け取ることにします。

 日中、残暑まだ厳しいのですが、早朝にふと秋気を感じ取った。

 「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども …」よりも、きりっとしていて、俳句らしい。

   ★   ★   ★

〇 ようやくに 成田へ向かう 機影見て なにか嬉しき 梅雨晴れの空 (山武市/川島隆さん) 

 緊急事態宣言が出たのが4月7日。それより大分前から自粛・巣ごもりの生活が始まり、宣言が解除されたのは5月25日でした。

 解除されても、第2波も予想され、心はなかなか晴れやかにはなりません。

 自由とは、そういうことか…。自分の強い気もちがあればどこへでも、旅立とうと思えば行けること。

 まだまだ、関空から旅立つことはできません。

 唐突ですが、唐突に自分の意志で旅立てぬことになった、巣ごもりの香港人のこれからの憂愁を思います。

 台湾は、台湾人にとっての「核心的利益」。中国には必要のない領土。すでに中国史上最大の版図となった中国に、これ以上一坪なりとも領土・領海を譲る必要はありません。

        ★

〇 北へ行く 座席のやうに 静かなる 診察待ちの 椅子に座りぬ (岐阜市/後藤進さん)

 栗本京子評) 「通常なら込み合う病院の待合室。コロナ禍で診察をひかえる人が増えたためにひっそりとしている。『北へ行く座席のやうに』に歌謡曲の世界を思わせる風情が漂う」。

 「北へ帰る人の群れは誰も無口で … 」。

     (竜飛崎)

 カラオケで、気持ちよく演歌を歌いたいですね。

 いや、巣ごもりを終わりにしたい。

 

 

 

 


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